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日本大学アメフト部廃部に関して思うこと [教育論]

日本大学アメフト部が廃部になった。1940年に創部で「甲子園ボウル」で21度も優勝している強豪で名門である。このアメフト部の組織的な問題が表面化したのは2018年の関西学院大との定期戦で、日大の守備選手が相手のクォーターバックに悪質なタックルをして負傷させた時、そういう指示を監督(かコーチ?)がしたことが発覚したからだ。これは、大学の教員や事務員が学生に、道行く人を襲え、というようなものだ。
 これは、もう社会的にも非難を受けるような事件であったかと思う。しかし、それは悪質なタックルを守備選手に指示した監督(かコーチ?)が、アメフト界から追放され、そして大学からも解雇され、そして大学が社会に謝罪して、アメフト部を再生させてくれ、と頭を下げて、ある程度の罰(数試合の出場停止等)を受けることで、再起を図る、というような後処理がされていたのではないかと記憶している(いや、間違っているかもしれないが)。
 今回は一部員の大麻保持事件である。これはアメフト部にも問題があるかもしれないが、むしろ個人の問題であろう。この部員を退部(大麻事件であるから退学もすることになるだろう)させ、その監督責任者として監督がしっかりと状況を説明し、それを受けて大学は監督に責任があれば、それを処分するようなこともあるだろうが、そうでない場合もあるだろう。そして、アメフト部に改善するような余地がなければ廃部、という選択肢もあるだろうが、一部員の大麻事件を改善できないというようなことは想像できない。いや、アメフト部の寮で監督を始めとして大麻を栽培していて、それをアメフト部のOBとかのネットワークとかで売りさばいていたりしたら、まあ廃部ということも致し方ないかもしれないが、一部員の大麻保持で、クラブを廃部というのは、日本大学は大学のクラブを何と思っているのだろうか。
 いや、私は私立大学の教員をしているが、あまり体育会とかは好きではない。まあ、狭い了見なのだが、大学は勉強するところでスポーツをするところじゃないんじゃないか、と思っているところがあるからだ。ただ、最近はスポーツの教育的効果とかも高いな(いや、日大のタックル事件などがあると、むしろ低いというか、受けない方がいいとは思うが)と思ったりするので、それなりの意義はあるかな、と考えるようになっている。そして、体育会のネットワークとかは、社会に出た後、貴重な財産となるだろう。まあ、それなりに私立大学の体育会の意味もあるかな、と思うようになったりしているので、体育会に力を入れている大学にとっても、そのクラブのOBにとっても、そしてそのクラブ部員にとっても、さらにはそのようなクラブに入りたくて日々、頑張っている高校生にも、今回の廃部という判断は大きな裏切りであり、その判断には相当の覚悟がなくてはいけない、と思うのである。
 まあ、一方でいかにも林真理子的な判断だとは思う。相手の立場とかをあまり考えないで、自分の本音をどんどん書いていたら、そのスタイルが受けて、あれよあれよという間に一流作家の仲間入りをしてしまった。彼女の魅力はローン・ウルフ的なところであったかと思うが、そういうキャラは大学の理事長のように、いろいろな内部の関係者の立場を汲んで、調整をし、世間から大学をむしろ身を挺して守るようなことが求められる仕事には全く向いていない。彼女は日大の理事長としての、世間からの彼女のイメージを最優先するから、こういう日大の歴史にとっては汚点となるような判断も平気でやれるのであろう。というか、日大はリスク・マネジメント部があるだろう。私は林真理子を理事長に据えたという大学の判断はまったくリスク・マネジメントの能力に欠けていることの証左だと思うのである。よく、ここまで頓珍漢な人事を行えたものだ。
 いや、話が逸れたが、それにしても部員の大麻事件だけで廃部って、流石にちょっと、外部(例えば文科省)が強制的にするならまだ分かるが、内部での判断って、唐突というか酷すぎるのではないだろうか。
 というか、これが理由で廃部にするのであれば、アメリカの大学のアメフト部はそれこそ、ほとんど全てのチームが廃部になるね。悪質なタックル事件の指示を監督かコーチがした件の方がよほど大学としては問題であると思う。しかし、これも監督、コーチを一新すれば立ち直れたであろうから廃部にするような事件ではなかったとは思う。

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子供の潰し方(無用なプレッシャーを与える) [教育論]

子供を育てるのは難しい。まあ、勝手に育つ、というのはあるかもしれないが、それなりに親の役割というものもあるだろう。親の役割の一つとしては、子供が育つためにいい環境を提供する、というものが挙げられる。例えば、小学校でいじめられるような環境にあったりした場合は、せっせと転校するなどして、子供が安心して暮らしたりするようにすることは重要な役割だと思われる。進学校だったり、有名校だったりに通っていて、子供がいじめられたり、いじけていたりしているのに、敢えて通わせ続けたりするのは愚の骨頂である。親の見栄のようなものを子供で満たそうとするのは厳に慎まないといけないと思う。
 まあ、そのような場合を除けば、そんなに親は頑張らなくてもいいかと思うが、もう一つ、無用なプレッシャーを与える、ということも避けた方がいいし、慎むべきことだと思う。極めて私事で恐縮だが、私の次女は弁護士に向いている性格をしていると思っている。実際、私自身ももめ事があったりすると次女に相談するが、私の妻などは就職相談までして、実際の志望書までも次女に書いてもらったりしている(そして、通ったりしている)。これは、次女が高校生ぐらいの時からそうだ。私も高校一年生の時ぐらいから、「お前は弁護士をやると、結構、顧客から感謝されて、いいと思うよ」みたいなことを言ったりしていたのだが、音楽をやりたい、ということで芸大に行ってしまった。まあ、それはそれで本人の判断でいいのだが、その話を高校時代の友人(といってももう還暦でお孫さんもいる)にしたら、「弁護士の試験はとても大変だから、相当、勉強させないと駄目よ」と言われた。いや、試験は大変かもしれないが、本人が弁護士になりたいと思わなければ、そんなことを言っても全く無駄だし、私が次女に言うようなことではない。しかし、おそらく彼女は子供にそういうことを言って育ててきたんだろうな、と思った。そして、そういう無用なプレッシャーを与える、ことはほとんど子供にとって百害あって一利なし、ということに気づいていないのだろうな(おばあちゃんになってまでも)と思ったりもした。
 私自身を振り返っても似たような経験がある。私は小学校に入る前ぐらいからバイオリンをやっていた。小学校5年生ぐらいの時は、結構な高級ホテルのロビーで四重奏とかを演奏したり、子供オーケストラのコンサート・マスターを務めていたりして、それなりにやれていた。しかし、母親の無用なプレッシャーに潰された。一つは、「ヴィブラートはとても難しいから、しっかりと練習をしてやらないと悪い癖ができる」というのと、もう一つは小学校6年生ぐらいの時に買ってもらったヴァイオリンが「100万円ぐらいする高価なヴァイオリンなので、死に物狂いでもうやらないとね」というものであった。素直だった小学生の私は、ヴィブラート恐怖症になってしまい、苦手意識が根付いてしまった。そして、母親の100万円という、今から思えば真っ赤な嘘(おそらく30万円ぐらいであったと思われる。ちなみに母親は病的な嘘つきであることがその後、判明するが、当時はまったく信じていた)によって、その100万円のプレッシャーに押しつぶされて、結局、中学に入ってしっかりとヴァイオリンに取り組むことを放棄してしまった。今から思うと、本当に勿体ないことをした。
 まあ、このような体験を振り返っても、子供に無用なプレッシャーを与えることはほとんどマイナスだと思う。子供は生来、ポジティブに生きようとする生き物である。それは、生きること自体、本来は楽しいことであるからだ。それを無用なプレッシャーを親が与えることで可能性をむしろ削ぐ。場合によっては潰してしまう。
 私の知り合いの弁護士は、皆、弁護士になろう、と自分が思ったからなっている人ばかりである。親が仕事として向いていると思って、勉強しろ!と言っても、そういうのは中学受験でも効果がない。親の役割としては、むしろそのようなプレッシャーを与えないようにすることこそが重要なのではないだろうか。ただ、プレッシャーを与えるのが好きな人はいるんだよね。そういう人は、親切心で言っていたりするので、なかなか質が悪い。流石に、私はそういうことを言われてもほとんど無視をするようになれたが、結構、若い時はそのような意見がマイナスに作用したことがあっても、プラスに作用したことはまずない。まあ、これは多少、私の性格も関係したかもしれないが。

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若者はクリエイティブな仕事なら喜んでやると考えるのは大間違いだ、と思う [教育論]

知り合いに一部上場の経営顧問をしている人がいる。彼は、若者がなかなか仕事にコミットできないのはクリエイティブな仕事をさせてないからだ、と考えて、なるべくクリエイティブな仕事をさせるようにしなくてはいけない、と対策を練っている。
 私はそれを聞いて違和感を覚えた。というのも、私が日々、接している偏差値50前後の学生(いわゆる大学卒の平均ということですかね)のほとんどはクリエイティブな仕事をさせようとすると、それを忌諱するからだ。むしろ、頭を考えずに機械的に作業をこなす、ノン・クリエイティブな仕事をやりたがる。答えを見出すといったクリエイティブな仕事に必要とされるような状況に置かれることを、むしろ強烈に拒絶する。そして、すぐChatGPTに答えを求める。つまり、クリエイティブな仕事こそ、コンピューターに依存し、自分達はただ、何も考えないで単純作業の方が好む傾向があるからだ。
 もちろん、中にはそのようなクリエイティブな仕事の方に楽しみを見出す学生もいないではないが、それはほぼ私の場合、1割ぐらいだと思う。うちの学生は公務員志望が多いが、それもクリエイティブな仕事ではなく、ルーチンで処理できるからだと考えているからだと思われる時がある。要するに付加価値を出さなくても、上の言うことを聞いていけば給料がもらえる仕事と思っているからだという節がある。すべて指示待ちという学生こそ、公務員志望が多い。いやいや、公務員も随分となめられたもんだ。よく考えると、試験勉強というのは結構、クリエイティブでなくてもできるから、そのような学生が公務員志望になることはよく分かる。
 現在、学生達に地元のB級グルメでも考えたら、というクリエイティブな課題を出したのだが、いやあ、全然、オリジナルでクリエイティブなアイデアは出てきませんよ。そもそも、地元のどういう資源を活かしらいいかのアイデアが出てこない。「先生、教えてください」・・・ですぐ答えを求めてくる。そして、ちょっと焼きそばにでもするか、と試作会をしたら、そもそも料理がまったくできない。いや、下宿していた女の子一人が包丁をまともに使えたが、他の学生はもう怪我をいつするのか、とハラハラしてしまいましたよ。火で炒める時、腰が引けている女の子とかがいたからな。
 ということで、クリエイティブな前に野菜を炒められる、包丁を使えるといった基礎的な技術をマスターすることが先ということが分かったのだが、何もこれはB級グルメのメニュー開発に限った話で閉じる話ではない。楽器が弾けなければろくなメロディは出てこない。絵の具が使えなければいい絵は描けない。オリジナルな仕事をするというのであれば、それなりの技術をマスターすることが必要で、そういう技術がクリエイティビティを育むのである。そこをスキップしら、クリエイティブになれる訳はなく、当然、クリエイティブな仕事をできないというか、したがる訳がない。そのような人が仕事にやり甲斐を持つ訳はない。仕事にやり甲斐を持つのは、自分の技術が活きる時だからだ。仕事の内容ではない。

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言うことを聞かない大学生(パート2) [教育論]

もう5年ぐらい前であるが、大学生が言うことを聞かないことをこのブログで書いたことがある(https://urban-diary.blog.ss-blog.jp/2019-08-06)。最近では、もう敢えて、もう日常的になったので、ここで書くような気持ちにもならなかったのだが、昨日、大学生を連れて羽田空港で通関するときのことである。今、Visit Japan というアプリがあって、通関手続きを事前にすることができる。しかし、実際、通関する時にはこのアプリを空港にあるスキャンの機械で読み込まなくてはならず、そのために長蛇の列ができていた。そこで、従来のように用紙に情報を書き込ませて、通関手続きをするようにと、用紙を配付して指示した。用紙での手続きもそこそこ並んでいたが、それでも比較的早く通関手続きは済んだ。そこで、通関の出口で学生を待っていたら3名ほどがなかなか出てこない。どうしたのか、と思ったら、私の指示に従わず、Visit Japan のアプリをスキャンする機械に並んで通関手続きをしようとしたらしい。まあ、私の判断が間違っていると思ったのかもしれないが、なんでそれでも言うことを聞けないのであろうか。5分は彼女らの身勝手で無駄になった。私の指示に従っておいて遅れたら、私の責任だから従っていればいいのである。というか、私の指示が間違っても、結果的に他の学生を待つことになるので、どっちにしろ指示に従わないメリットは、私の判断がまずいということを証明する意外の何の意味もない。しかも、判断は結果的に正しかったし。私の指示に従わなくて遅れたら、どう責任を取るのか。というのも、この5分のロスで伊丹空港への接続便に乗るのがギリギリになってしまったからである。乗れたからいいものも、乗れなかったらどうするんだろう。
 本当、この子達を採用した会社、組織は将来、心配だ。

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人々に感謝されてお金を払ってもらう仕事はいい仕事じゃないか、という考察 [教育論]

私が働く大学のそばに半端なく美味しいうどん屋さんがあります。土日のお昼は長蛇の列ができる人気店です。先日、それほどお客さんがいない平日の夜に伺い、そこのご主人と仕事のお話をしました。先日、このブログにも書かせてもらった学生の仕事観(https://urban-diary.blog.ss-blog.jp/2023-01-11)についていろいろと考えるところがあったので、このような人気のうどん店を営むご主人の考えも聞きたいと思ったからです。

「ご主人は、やっぱりうどん屋が天職だと思われます」(私)
「天職だと思いますねえ。うどん、大好きですし」(ご主人)
「ある意味、趣味的なものを仕事にされていると捉えてもいいですかね」(私)
「そうですね。他にそんなに趣味がないんで、うどんが一番の趣味ですかね」(ご主人)
「ここのうどんを食べてお金を払うとき、ほとんどのお客さんは、有り難うという気持ちを込めてお金を払うと思うんですよね。これって仕事としては理想的かと思うのですが」(私)
「そう言ってもらえると素直に嬉しいですね」(ご主人)

この会話で改めて思ったのですが、人はお金を払う時、いやいや仕方ないから払う時と、喜んで払う時があります。前者は駐車違反の罰金とか、電気代とか(使っているけど)、家賃とか(住んでいるけど)ではないでしょうか。喜んでお金を払うことって、あんまりないですよね。通常、物を買う時はよほど欲しいものが手に入る時以外は、仕方ないなと思って払っていると思うのです。

しかし、お金には自分の気持ちを入れ込むことができます。お年玉とかはそうでしょう。感謝の気持ちを示したい時に、お金を渡すというのは、嫌らしいようにも思われがちですが、結構便利なものかと思います。私はギターの先生に渡すお金は、感謝の気持ちが込められていると思います。そして、ここのうどんの代金は、本当、こういう美味しいうどんをつくってくれる技量と情熱を持っていただいて有り難う、という気持ちが込められています。

さて、このように人々に感謝されるような仕事はとてもいい仕事じゃないか、と思います。そして、その仕事が自分の情熱を持てるもの、だとさらにいいです。そして、仕事が、そのような情熱を持てるもののスキルを向上させるものであるとさらにいいでしょう。仕事の経験が、仕事のプロフェッショナル性を高めるようなことです。本来はそういう情熱を持てるものに学生時代は力を入れるべきだと思います。つまらない仕事をしないために。よく、「つぶしが利くから」といって進学する学部を決める学生がいますが、そういう奴に限って60歳ぐらいになると「つぶしが効かなく」なっているように見えます。「つぶし」より情熱の方がずっと大事ですから。

うどん屋のご主人、とても魅力的ですが、それは情熱を持って仕事に打ち込めているからだと思います。件の学生は、ちょっとした情熱を持っているところが勿体ないと思います。なぜなら、生活をするために仕事に追われると、その趣味(この学生の場合はギター)を楽しむ時間もどんどんと削られ、そのうちその情熱もなくなってしまうから。私も趣味を復活できたのはサラリーマンを辞めて、大学教員になってからですから。

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大学生の抱える問題は「本気を出せない」ということだ [教育論]

3年生のゼミ生と話をする。このゼミの代は屋台カフェで珈琲を販売しているのだが、売り上げが全然伸びず、ほとんど赤字である。このゼミ生はギターを弾き、ギターに関しての知識が豊富で私もいろいろと教わっている。その彼との会話:

「就職先、ギターやエフェクターと関係あるところも考えるといいと思うけど」(私)
「いやあ、趣味は仕事にしない方がいいと思っています」(学生)
「とはいえ、仕事はつまんないよ。君の珈琲の販売の様子をみても、君が営業に向いているとは全然、思えないけど」(私)
「そうですかね」(学生)
「珈琲みたいな売りやすいものでも、売れないし、売る情熱をもてないのに、君が就活しているIT企業のサービスとかを売れるのかな」(私)
「そうですかね」(学生)
「というか、サラリーマンが向いてないのは自分では分からないのかな」(私)
「いや、分からないですね」(学生)
「そうか。それじゃあ、本気を出せばできると思っているわけだね」(私)
「そうですね」(学生)
「じゃあ、屋台カフェでは本気を出してないんだ」(私)
「そうですね」(学生)
「どうして本気が出せないんだろうねえ」(私)

ここで、私はこれ以上、話は続けなかったが、ポイントは「本気を出せない」のが、このゼミ生を始めとした多くのゼミ生の課題なのだ。いつかは本気を出せる、と思っているが、そう思っているうちに、じじいになって一生を終えていく。「本気を出せない」のだけど、自分は「本気を出せばできる」と思っているから、「向いてない」と言われても全然、納得しないし、馬耳東風であるのだ。「本気を出す」ことは結構、大変だ。私もなかなか本気を出せない。ただ、「本気を出さない」ことは本当、後悔をもたらす。本気を出せば納得できるけど、本気を出さないと納得できないからだ。とはいえ、大学までに本気を出すことができなければ、その後、本気を出すことはなかなか難しいと思う。というか、本気を出せる環境を獲得することさえ難しいからだ。本気はその場で出そうと思っても出せる訳ではない。本気を出せる環境を獲得する・・・それこそが就職をするうえでのポイントだと思うのだけどなあ。珈琲売りでさえ、本気が出せないのに、サラリーマンの仕事で本気が出せるというのはなかなか想像できない。サラリーマンの仕事で本気が出せるのであれば、珈琲売りで本気を出すことなどは簡単だと思えるからだ。

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ゼミの学生との話からTOEICの勉強の無駄さ加減を改めて認識する [教育論]

大学3年生のゼミの学生と面談する。ゼミで参加しようとするコンペの作業をあまりしたくない、というから「どうして?」と尋ねると、就活のために簿記の資格試験とTOEICの試験勉強をしたいと言う。「ほう、TOIECは何点なの?」と聞くと、現在は500点ぐらいだけど、最低660点ぐらい取りたいという。それを聞いて、流石に脱力して、「そんな理由でコンペの作業をしたくないならしなくてもいいけど、簿記の資格はともかくとして、TOEICの勉強は無駄だからやらないほうがいいんじゃない」とアドバイスをしておいた。というのは、TOEICは最低でも900点はなくては英語で仕事にならない。それ以下であれば、もう英語で仕事をするとかいうのは諦めておいた方がいいと強く思う。まあ、そういう私も985点で満点ではないので、そんなに強気では言えないのだが、逆にいえば985点でも対等に仕事ができるかというとそんなことはない。英語は厳しいのだよ。
 この学生は100メートル走でいえば、現在は15.5秒ぐらいなので、頑張って14.8秒ぐらいで走りたいと言っているようなものだ。14.8秒で走っても、陸上の短距離走にはとてもじゃないが出場できない。自分的にはちょっと頑張ったと思えるかもしれないが、それは悪いけどただの自己満足である。15.5秒が14.8秒になっても誰も気づかないし、それで自慢をすることもできない。というか、自慢をしても痛いだけだ。彼のTOEICの点もまさにそうである。まあ、コンペに参加しない正当っぽい理由を彼なりに考えただけなのだろうが。
 しかし、なんでコンペに参加するのが嫌なのだろう。私はサラリーマンの仕事をしていた時、コンペの仕事が一番、ワクワクしたし、楽しかった。やり甲斐を感じましたよ。したがって、そういう機会をなるべく学生にも提供しようと考えているのだが、学生にとってはただの負担になっているようだ。コンペも楽しくなかったら、ほとんどの仕事はつまらないだろうな、とちょっと同情する。
彼以外の学生も、公務員試験に集中したいのでコンペにも出ないし、ゼミも辞めると言ってきた。まあ、この学生もあきれ果てたので好きにすればといって引き留めもしなかったが、公務員になるためには、一点でも多く取れるように試験勉強をするというのが果たして正しい方法論なのであろうか。このコンペは市役所が出したものなので、公務員になるうえではいろいろと学ぶことが多いと思うし、おそらく私であったら、このコンペに頑張ることが公務員になることに繋がる最短距離であると捉えたであろう。だって、公務員試験って市役所レベルだと面接も結構、あるんでしょう?そもそも、試験が苦手だから龍谷大学にいるのだ。まあ、だから苦手な試験を克服したいというのがあるのかもしれないけど、もっと試験以外の経験を広げた方がいいかと思うのだけど、違うのだろうか。
公務員はいい仕事だとは思う。しかし、難しいのは、それは制度や法律を遵守させるための仕事であるので、自分の考えを退けても、上の言うことをしっかりと守り、遂行させていくことができなくてはいけないことだ。ゼミというコミュニティの方針に背いて、公務員試験を優先するという考え自体、そもそも公務員に向いていないことに気づいた方がいいと思う。じゃないと、公務員になっても幸せになれないと思う。
公務員になりたい学生にどうして?と尋ねると、「安定しているから」と異口同音で答える。しかし、本当に安定しているのだろうか。私は東京大学の土木工学科というところを卒業しているので、同期は公務員が多いが、私の年齢で多くはもう肩を叩かれて役所を出されている。そして、大学の先生の3年ぐらいのポストをもらったりしているが、皆、定着できないで、ふたたび1年か2年ごとの天下り人生を歩んでいる。まあ、仕事からあぶれないという点では安定しているのかもしれないが、悪いけど全然、羨ましいとも思わない。おそらく重要なことは、情熱を仕事や人生にもてることで、そのような仕事や人生をしっかりと見つけることが、大学生がもっとも考えなくてはいけないことなのではないだろうか。まあ、自分も大学生の時にはそういうことを考えなかったので、結構、その後、痛い目に遭ったのだが、だからこそ、同じ轍を踏ませたくはないのだが、通じないんだな、これがなかなか。

タグ:公務員
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医者になるために東大の理IIIを目指すのは愚かである [教育論]

医者というのは素晴らしい仕事だと思う。受験生が医者になることを目指すことは、応援したい気分になる。さて、しかし医学部に入るのはなかなか難しい。なぜなら、入りやすい私立(いや、難しい私立もありますが)は、授業料がべらぼうに高いからだ。家がよほど裕福でなければ公立の医学部に行くしかない。とはいえ、努力をすればどうにかなるぐらいの難しさだと思う。ただ、東大の理IIIは別格の難しさだ。これは、よほど受験勉強が得意でないと入れないと思う。

さて、なぜこのような話をするかというと、東京大学の大学入学共通テストを受験する高校生を切りつけた東海高校の高校生が、逮捕後に「医者になるために東大を目指して勉強していたが、成績が一年前からふるわなくなり自信をなくした」と供述したからである。もう賢明な読者ならすぐ私の言いたいことが分かるかと思うが、この高校生は「医者になるために東大を目指し」ていたのだが、それは大間違いであるということを指摘したいのである。医者になるために東大を目指すというのは、お嫁さんが欲しいから永野芽郁にプロポーズするようなものである。いや、比喩が間違いか。お寿司を食べたいから、銀座のすきやばし次郎に行こうとするようなもの、と言ったらより適切か。いや、お寿司はやはりそこらへんの町中の寿司屋の寿司とすきやばし次郎の寿司とは違うが(などと言って食べたことがないので違いは知らないですが)、東大卒の医者と浜松医科大の医者とでは、医者としての違いはないから、その点は異なる。何しろ、この「医者になるために東大を目指す」というのは間違っていると思う。自らハードル上げすぎだ。というか、よい医者になる条件として、受験勉強ができることは関係ない。東大理IIIに入るには、英語とかもめちゃクチャできなくちゃならないが、いい医者になるために英語は必要ない。

私の高校の同級生で東大理IIIに行ったものがいる。彼は受験勉強は得意だが、医者に向いているとはまったく思わない。絶対、彼には診てもらいたくないと思う。いや、無人島に漂流して、医者が彼しかいなければ診てもらうかもしれないが。この彼とは高校一年の時、生物の実験が一緒だったのだが、なんと蚕を触ることにびびっていた。いや、実は私もびびっていたが、こんな彼が手術をしっかりとやれるとは思えない。あと、ついでに言えば、彼が幸せな人生を送っているとはあまり思わないなあ。お金は確かにあるかもしれないけど、羨ましくもない。ということで、東海高校の高校生は成績が振るわないで自信をなくした、と嘆いて人に刃を向けるような愚かなことをしたが、一番、自信をなくすべきは、医者になろうと思って、東大に行かなくちゃいけない、というアホな思考回路を持っていたことに対してである。その論理の欠如は、悪いけど賢くなさすぎだ。なぜ、東海高校に入れたのか・・・そちらの方が不思議である。

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悠仁様の筑波大学付属高校進学は、賢い選択とはいえない [教育論]

悠仁様が筑波大学付属高校の進学を希望しているらしい。そして、その先は東京大学への進学を考えているらしい。(出典:下記)。
https://news.yahoo.co.jp/articles/bba3e7f60dac414d5d9b0f329ff3ee7812943e18?page=2

私は筑波大学付属高校の卒業生である。そして、東京大学の卒業生でもある(大学院は違う)。高校は受験で区立の中学から進学した。東大へは浪人した後、合格しているので、そういう意味で受験エリートではまったくない。そのような経験を踏まえると、この判断はとても賢い選択とはいえない。というのは、筑波大学付属高校は進学校ではあるかもしれないが受験校ではないからだ。

つまり、筑波大学付属高校に入れば大学受験がどうにかなるわけではまったくなく、しっかりと受験指導もする私立高校に通った方がはるかにいいということが言いたいからだ。つまり、東大を目指すのであれば、筑波大学付属高校に進学するのは多いに間違っている。

それは、大きく二つ理由がある。
1) 一つは、高校では受験を意識しない授業がほとんどなので(今でもそうだと思う)、受験をするうえでは、特別に頭がいい(その後、東京大学の数学科や物理学科の教授になるような天才的な賢さ)もの以外は塾に行かないと受験で合格するのは無理だからだ。私は、自分が勝手に「頭がいい」と思って一切、塾にも行かず、受験勉強もしなかったら、まったくどこにも箸にも棒にもかからない成績だったことが3年生の11月頃にわかり、現役時は受験もしなかった(正確にはセンター入試だけは受けて、小論文試験だけの大学を受けてはいる)。ただ、一年勉強すればどうにかなるだろうと思ったら、失敗して、早稲田大学の数学科に入り、仮面浪人して東大に入ったというとんでもない遠回りをしたものである。さて、なぜそんな自分の恥をここでさらすのかというと、筑波大学付属高校に行っても大学受験的にはほとんどプラスにならないことを知ってもらいたいからだ。私がまさにその例である。
2)二つ目は、学生が進学校ではあるが極めて多様であるということだ。筑波大学付属高校は小学校や中学校からも進学する。中学校から進学した学生たちは比較的真面目に勉強もするが、小学校から入ってきた学生たちは成績がよくなく、自分たちのアイデンティティ探しに一所懸命だったり、ぐれていたりする。そして、往々にして高校から進学してきた受験勝ち組の足を引っ張るようなことをする。これは、小さい頃から、小学校受験、内部進学などで細かい競争を強いられてきたからであろう。実際、筑波大学付属小学校から東大に進学したのは、私の学年では2人だけであった。これは、例えばちょっと賢い区立小学校と比べても低い割合だったりする。このように筑波大学付属高校はよくも悪しくも、多様な人材がいるので、受験勉強ができる子たちばかりが集まっている学校ではない。このような高校で、受験勉強をしっかりとやるのは要領の良さと強い意志が求められる。私は、これが不足していたので、受験的には、というか高校時代の過ごし方に失敗をした。

もちろん、筑波大学付属高校が全面的に悪いとは言わない。最近、高校時代の同窓生と会ったりするが、結構面白い奴らが多い。社会的な一般尺度で人生を評価するものもいたりするが、結構、思慮深く、しゃべっていて楽しかったりもする。ただ、よく考えたら、今、気があって話すのはほとんど高校受験組だ。あと、私を含めて大学の先生になるものが多いが、これは受験勉強ではなく、いろいろとテーマを深く考えさせるような講義の影響を受けたことが大きかったのではないかと思われる。

興味深いのは、筑波大学付属小学校出身者は、筑波大学付属を受験させたがるものが多いということだ。驚きである。いや、何が驚きかというと、自分たちの学校生活を肯定的に捉えられているということに、である。私は、娘が二人いて、二人とも中学受験をしたが、筑波大学付属中学校はまったく選択肢にもはいらなかった。というのは、性格的に向いていないからだ。まあ、私の娘であるから、両方とも潰されていたと思う。ただ、結果、長女は豊島岡、次女は渋谷学園渋谷高校という進学校に行き、私とは違って現役で国立大学に進学することができた。筑波大学付属に行ったら、まず違う道を歩んでいたかと思う。

私のような庶民出身でもやられてしまうのだから、悠仁様は心配だ。というか、東大進学という目的であれば、まったく有効ではないし、人格形成的にも相当、歪むのじゃあないだろうか。そうそう、結構、自殺する子も多い。私のクラスではなかったが、同学年の女の子が自殺する前に一人で、バスケットコートで遊んでいる光景は今でも記憶に残っている。すごい寂しいオーラを放っていたから思わず見つめてしまったのだ。その後、自殺した話を聞いて妙に納得したことを覚えている。あの光景が娘に受験させなかった大きな理由の一つだ。

そして、何より心配なのは、極めて記号的な価値観で「筑波大学付属高校」とか「東京大学」とかを持ち出すような秋篠宮の庶民性である。いや、私よりもはるかに庶民的で俗っぽいと思う。勉強が必要なのは悠仁様ではなくてご両親なんじゃないかとさえ思ってしまう。

そうそう、同じ文脈で東京大学に行くのも無駄である。東京大学とは官僚を育てるところであって天皇が必要な学問を教えるところではない。というか、天皇が庶民と同じことを学んでどうする。イギリスの貴族は大学なんて行かない。大学は庶民のものであり、王家や貴族に仕えるための学問や技術を修めるところだから。何か、眞子さんの件に次いで、本当、迷走している感が凄まじい。まあ、大学のことはまたこのブログで書く機会があるかもしれない。

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「命をかけろ」と安易に言う人への違和感 [教育論]

最近、同年代の人からあることで「命を賭けろ」と言われた。いや、あることとは、バンドで合奏する時に、最初の音をしっかりと合わせて弾け、ということなので、そのこと自体は重要かなと思ってはいるが、「命を賭けろ」と言われるほどのことではないとは思う。絶対、賭けないもんね、と強く思う。随分、人の「命」を安っぽく思っているな、と反発したい気持ちもあるが、まあ、そもそもこういうことを言う人は、他人を見下しているので、同じ土俵で議論をするのも馬鹿らしいので放っておいた。
 それはさておき、このような発言を同僚の大学教員が学生に言ったことが発覚した。「私は命をかけているんだから、君達もかけなさい」みたいな文脈での発言だったらしい。いやいや、これも随分と危ない発言である。まず、自分が命を賭けているからと言って、他人に強要するのは論理的ではない。これは、「私は泥棒しているんだから、君達も泥棒しなさい」ということに近い。「私はうんこを食べるんだから、君達も食べなさい」と言い換えると、その理不尽さが理解できるであろう。
 それはさておき、この「命を賭ける」という発想は危険極まりない。それは、切腹文化の延長線上にあるし、特攻隊にも通じる愚かさである。自分が勝手にやっているのであれば構わないが、それを他人に強要するのは犯罪に近いと思うし、明らかなるパワー・ハラスメントだ。そもそも、そういう人は自分が「命を賭ける」といっても、それが上手くいかない時には切腹はしない。にも関わらず、他人にはそれを強要する二枚舌なので本当、気をつけないといけない。
 ということで、「命を賭けろ」発言をした時点で、その発言者はろくでもない二枚舌でまったく信頼できない輩であることが判明できる。絶対に、そういうことを言われても、嫌だもんねえ、と突き放し、なるべく距離を置くことが賢明だ。この発言をした先生も、失敗したけど、まだのうのうと生きている。そして、反省もせず、自分は被害者だみたいな顔で歩いている。私がそのようなことを言われた学生であったら、ちょっと殺意を覚えるかとも思う。
 ちなみに、私に「命を賭けろ」と言った人も教育者である。自分も教育者であるから他山の石として、しっかりと同じ過ちをしないように胆に銘じておきたい。

タグ:命を賭けろ
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海外留学の代わりにオンライン留学を検討する学生は・・・増えない [教育論]

大学の教員をしていると、頓珍漢な大学運営に驚くことが多い。しかし、これは自分が奉職している大学だけではなく、他の大学も似たり寄ったりである。それでも、7月29日の朝日新聞の記事で紹介されたことには驚いた。

群馬県立女子大は「海外留学・海外ボランティア・海外フィールドワークを希望する学生は多いが、実際に行ける学生は激減し、海外留学の代わりにオンライン留学を検討する学生が増える可能性もある」。

これだけを読めば、何を驚いたのかと思われるかもしれない。解説させてもらう。海外留学に行くために日本の大学に行くという選択肢はある。いきなり、海外の大学を外国人の立場で受験して合格するのは至難の業なので、日本の大学に入って海外の協定校などで行って、留学もどきの体験をすることは決して悪くはないと思う。しかし、ここでオンライン留学ということになると、ちょっと話は変わってくる。オンラインでの留学をするのであれば、そもそも日本の大学に入る必要はなくなる。なんで、わざわざオンラインで海外の大学の講義を受講するのに、日本の大学に授業料を払わないといけないのか。ちょっと頭が働く保護者、そして学生だったら気づくだろう。いや、それはオンラインのアクセス権がないから、とか反論するかもしれないが、海外の大学だって馬鹿じゃないので、直接、若者達にアプローチにするようになるだろうし、オンラインのアクセス権を日本の大学が確保するのは、相当の交渉が必要となるだろう(私は以前務めていた大学で、留学の部署であった国際センター長を務めていたのでここらへんの交渉が簡単ではないことはよく知っている)。
 何を言いたいかというと、群馬県立女子大の朝日新聞に取材をした人は、オンライン留学を検討する学生は、もはや群馬県立女子大に授業料を払うインセンティブが実はない、ということをあまり理解してないと思われるのだが、そのようなお人好しの学生はそれほど多くないということだ。海外の大学によるオンライン留学が普及したら、日本の大学に授業料払ってまで、オンライン留学をしたい学生は減りますよ。
 と書いていて、そんなことはないな、と言うことにも気づいた。オンライン留学をしてまで英語での勉強をやりたい、という学生はいないわけではないだろうが、おそらく極めて少数で、それだけ勉強熱心だったら、大変失礼ながら群馬県立女子大には行っていないからだ。海外フィールドワークや海外ボランティアといった身体的な海外体験を求めている学生はいても、オンライン留学までして海外の大学の勉強をしたい学生はゼロとはいないが、ほとんどいないであろう。いや、関係者が不愉快な思いをしたら申し訳ないが、ほぼ同じかちょっと上ぐらいの偏差値の私の現在勤務している大学も前任校においても、そういう学生は皆無である。
 最初の考察とはずれたが、それでもこの朝日新聞での記事での発言はおかしい。それは、「オンライン留学を検討する学生が増える可能性もある」ということがないからだ。

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次女が東京芸術大学音楽学部に合格した [教育論]

次女が東京芸術大学の音楽学部に合格した、との連絡を受けた。彼女の合格は結構、父親としては感慨深い。6年前に、彼女の中学受験期の顛末をこのブログに書かせてもらった。私のブログの中でも最も読まれた記事である。大変、興味深いことに、大学受験に際しても似たようなことが起きたのと、東京芸術大学の音楽学部の受験は極めてユニークで、周囲に我々のように芸大関係者がいないと、相当その対策は難しいので、ここで若干、その経緯を披露させてもらいたい。
 次女が音楽の道に進みたいと言ってきたのは、高校一年の中頃。理系か文系かを選択することを検討しなくてはならない時期、将来、何になりたいかを考えたら音楽の道に進みたいと言う。次女はそれなりにピアノも上手かったりしたが、演奏家になれるほどの力量は親としてはあまり感じられなかった。絶対音感もないし、例えば作曲に関して才能がある訳ではない。そういう才能では、私の前任校の卒業生である宇宙団の望月などとは比較にもならない。
 私の親戚で音楽家になったものはいない。あと、私はしがない大学教員なので、私立の音大に行かせるような余裕はまったくない。加えて、私の周りには私立の音大卒が比較的いるが、その学費に見合うようなプロフェッショナルな人生をその後、歩んでいるかというと、そういう例は決して多くない。そこで、次女には国立の東京芸術大学を志望する覚悟があれば、その道に進みなさいと伝えた。
 さて、次女もさすがに演奏家になって、その後、しっかりと食べていけるほどの腕があるかということでは自信がなかったらしく、楽理科に進学することを考えた。東京芸術大学の音楽学部を受験するうえでは相当の対策をしなければいけない、というのはイメージでは分かっていたが、それじゃあどうすればいいのか、というと全く検討もつかない。とりあえず、次女のピアノの先生に相談すると、都内にあるM芸大・音大予備校がいいのではないかと勧めてくれた。他にまったくアテもないので、早速、そこに行き、いわゆるスタンダードの授業を受けることにした。楽理科には、英語・国語といったいわゆる入試的な試験科目以外にも、ソルフェージュ、楽典、新曲視唱、リズム課題、和声、さらに副科実技(次女の場合はピアノ)といった実技試験科目がある。加えて小論文と面接。さらにセンター試験では、英語・国語・「地理歴史,公民,数学,理科のうち1教科」を受けなくてはいけない。次女は得点では不利になるかもしれないが、その後の勉強では不可欠となる「世界史」を選ぶことにした。
 次女の通っていた高校は二年から理系・文系に分かれるのだが、次女は入試科目から文系のクラスに行くこととした。まあ、それにしても、この理系・文系という分類は本当、本質的には無意味でくだらないなと思うが、そのことに関しては、ここでは述べない。
 さて、芸大・音大予備校に通っているし、他にも何の対策をしていいかも分からないので、そちらはそのまま次女に任せていた。一方、副科のピアノはさすがに芸大用の対策をしなければいけないので、こちらはピアノの先生にお願いして紹介をしてもらった。
 そして高校三年の7月に事件は起きた。次女が通っている芸大・音大予備校の講師に妻が呼び出されて話を聞くと「とても次女の能力だと東京芸大の楽理科には受からないから進路を変えろ」と言われる。一年半、高い授業料を払っているのにも関わらず、そんなことをいまさら言うのは、あまりにも無責任だろう、と思ったが、そういう根拠は何なのか、ということを妻に聞いた。そうすると、極めて合格するうえで重要な位置づけを持つ「小論文」が全然、書けないので駄目だということらしい。私はそこで急いで、楽理科の過去問を見た。そして、そのあまりの難しさに驚いた。この小論文に答えられるようになるには、音楽評論関係の文献を相当、読みこなせていないと無理だ。それは、単に自分の意見を述べるのではなく、しっかりとした包括的な音楽と、それと社会や他の芸術などとの関連性などの知識を問うようなものばかりだからだ。それは、普通の小論文の試験などとはまったく次元が違うものであった。
 慌てた私は、次女に予備校では、どのような小論文の指導をされているのか、と尋ねると、「いろいろと書かされてはいる」と答える。それで、どんな本を読まされているのか、と聞くと1冊ぐらいしか読まされていないとのこと。一年以上通っていて一冊だけ。私は愕然とした。なぜなら、この小論文試験に解答するには膨大な読書量が必要であるし、それ以外、解答できる手段はないのに、そういう指導を予備校がほとんどしていないからだ。そういうことをしてなければ、そのような問題に解答できる訳がない。それは文章力のテストではなく、知識のテストであるからだ。こんなのは、過去問をみたら10秒で気づく。なぜ、そのような対策をしていないのだ!これは、とんでもないところに通わせてしまったと思うのと同時に、このままでは絶対、合格できないことは明らかだったので、翌日には「進路」ではなく「予備校」を変えた、というよりかは辞めることにした。
 小論文であったら、私が策定した戦略の方がまだ合格率は高くなる。楽理科に通るのに必要な本を急いで調べて、購入をした。これらを一週間一冊のペースで読み、読書ノートをつけるということをやるといいと伝えた。ただ予備校を辞めるとソルフェージュとかの対策に困るので、ネットで東京芸術大学の音楽学部の指導をしてくれる個人講師を探して、そこに行かせてもらうことにした。
 さて、この個人講師はとても指導力があり、また次女のこともいろいろと気に掛けてくれた。そして、小論文の対策に関しても心配してくれて、芸大の楽理科への受験指導では、右に並ぶものがいないと言われる先生がいるので、そこに通うことを勧めてくれた。ただ、この講師もその先生の名前は知っていても連絡先は知らないので、自分の学生(この講師の方も芸大の先生であった)に調べてもらったのだ。ちなみに、この先生の連絡先はネットなどでも公開されていない。
 そして、この先生のところを訪れたのが10月。通常はよほどのことがなければ指導してくれず、また、10月という受験まで4ヶ月ぐらいしかない中では、まず受け入れてくれないようなのだが、紹介してくれた先生がどうも高名らしく、そのおかげで入れてもらうことができた。これは、結果的に次女が楽理科に合格するうえでは絶対的に必要な条件であったかと思われる。
 この先生のもと、小論文や英語の問題の対策を一生懸命やってきたことが功を奏したのか。この先生も「もしかしたら私が指導したなかで最短での合格かもしれない」というようなギリギリの状況ではあったが、無事合格することができた。ちなみに、この先生の教室からは6人が二次試験を受験したが5人が合格するという驚異の合格率であった。
 東京芸術大学の楽理科は何しろ、小論文の試験がユニークでとびきり難しい。こんな難しい大学入試が存在するのか、と思うぐらいの難しさである。そして、そのためには音楽関係の広範なる知識を有することが必要不可欠であろう。さらには、自分の論理を構築するロジカル・シンキングがしっかりしていることだ。次女は中学ぐらいから漫画の『美味しんぼ』を愛読していたが、この本はロジカル・シンキングを鍛えるのには極めて有効だったのではないか、と合格できた今、思ったりしている。
 読者の中には、もしかしたらお子さんが東京芸術大学音楽学部の楽理科を受験しようと考えていらっしゃる方もいるかもしれない。いろいろとそちら方面の知り合いがいる方がいればいいが、そうでないと我々のように暗中模索で対策を考えると思われる。そこで、そこらへんの音大予備校とかに藁にもすがる思いで通わせるのではないだろうか。しかし、そのような予備校に通ってもまず入れないと思う。次女は、むしろ予備校が「諦めろ」と言ってくれたので、目が覚めて辞めたので、無事合格できたのだが、そのまま通わせていたらと思うと、本当にゾッとする。ある意味、出来があまりよくなかったことが功を奏した。予備校が何をもって「芸大は無理だ」と言ったのかは今でもよく分からないが、そう言ってくれたことは次女の人生を変えるような福音であった。あと、もう一つは、通常、なかなか受講を認めてくれない先生達が、次女を受け入れてくれたのは、彼女に何か伸ばさせてあげたい、指導をしたいと思わせる点があったことは付け加えておきたい。その意思が将来への扉を開かせたことは、我々が支援することを決めたことを含めて、このような朗報を受けることになった大きな理由である。
 東京芸術大学の音楽学部の楽理科を目指す方に少しでも参考になればと思い、ちょっと記させてもらった。

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アメリカの大学の学費について [教育論]

アトランタにあるジョージア工科大学の先生にジェントリフィケーションに関して、取材をした。そこで、話が横にそれて大学の学費について話をした。というか、あちらから質問があったのでいろいろとやり取りをしたのだ。
 ジョージア工科大学は公立大学(州立大学)なので相当、安いのだが、それでも州内の出身の学生は一年で17000ドル(おおよそ200万円ぐらい)で、州外だと34000ドルとなる。これが例えばアイヴィー・リーグのプリンストン大学だと60000ドル(おおよそ700万円弱)ぐらいになる。4年間通ったら240000ドル、つまり2700万円ぐらいだ。とても私の稼ぎでは払えない。
 25年前、私はカリフォルニア大学バークレイ校の大学院に通っていたが、その時は一年間で120万円であった。留学生だったので最も高い授業料を支払っていたかと思うが、その程度である。ちなみに、ジョージア工科大学の先生はプリンストン大学に通っていたそうだが、その当時は9000ドル(90万円ぐらいか。当時は1ドル=100円ぐらいだったので)だったそうだ。
 日本の国立大学は年間52万円、私立大学はおよそ100万円ぐらいであることを考えると、アメリカはちょっとあり得ないぐらい高くなっている。ちなみに、私の長女はデンマークの大学院に通っているが、授業料は170万円だ。デンマーク人だとむしろ生活費として月6万円支給(年間で72万円)されるので、これは随分と差があるが致し方ない。とはいえ、アメリカの大学院に行くよりかはずっとましかなと思う。
 日本の大学の授業料が高いという批判もあるが、私の日本人の友人などは、授業料を高くしてもしっかりと教育してくれればいい、と言うものもいる。私は自分が奉職する龍谷大学政策学部は、お世辞抜きに、アメリカのどんな大学よりも教育サービスがいい(というか、良すぎて教員が疲弊しているという問題はあるが)と思うので、値段を上げたいぐらいだなと思ったりもするが、肝心の受験生にその良さが伝わっていないので、まず、そこから取り組みたいと思ったりもする。授業料が高ければ、教育サービスが優れている訳ではないのが、大学だからだ。

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コービー・ブライアントの悲報に接して思うこと(3) [教育論]

コービー・ブライアントの突然の訃報から4日ほど経ち、NBAの関係者を始め多くの人がその追悼を述べている。高校生のコービーを発掘して、レイカーズに入れたジェリー・ウエストを始め、マジック・ジョンソン、シャキール・オニール、レブロン・ジェームズといったレイカーズ関係者、ポール・ピアース、ドック・リバース、グレッグ・パパヴィッチといったライバル達、トレイ・ヤング、チャールス・バークレイ等である。
 これらの人達の言葉を聞いて分かったのは、コービー・ブライアントはイチローと非常に共通したところが多いな、ということだ。若い時からプロの世界に入り、周りからは生意気だと思われ、しかし、実際のアウトプットを出し続けることで認められる。練習の鬼で、バスケ中心の生活を送る。そして、引退した後、ブライアントもイチローも子供達のコーチに力を入れる。
 コービー・ブライアントはどうも一日4時間しか睡眠を取らなかったそうである。しかも、2時間睡眠を2セット。目的を設定すると、その達成に向けてがむしゃらに努力する。体質を改善してまでも努力をする。それは、ちょっとクレイジーと傍からは見えるかもしれないが、その姿は眩しい。「働き方改革」という旗印のもと、やりたい仕事の時間を削られるような状況下では、なかなかコービーのような人間は出てきにくいだろう。仕事はパッションであることが望ましい。人はパッションを持ったら、その限られた一生という時間の中で悔いなく、そのパッションのために時間を使いたいと思う筈だ。「働き方改革」ということより、「働く」ことをパッション(情熱)にするような生き方改革をすることが重要であろう、とパッションを持たず、しかし文句を言う若者に日々、接している私は思ったりする。コービー・ブライアントのような生き方をするべきである。それは、後悔しない生き方であるし、失敗しても自己責任として受け入れられる生き方でもある。そして、世の中に必要なことは「働き方改革」ではなく、コービー・ブライアントのような頑張る人の足を引っ張るのではなく、その可能性を切り開けるように支える社会システムであろう。頑張れない人には厳しいかもしれないが、頑張る人をしっかりと支援する。そんな世の中こそが、結局、若者にとっても生きがいを感じられるのではないだろうか。



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コービー・ブライアントの悲報に接して思うこと(2) [教育論]

今、アメリカにいる。そして、アメリカでコービー・ブライアントの訃報に接した。そういうこともあり、アメリカのメディアはブライアントの偉大さをいろいろな側面から報じている。そのような報道の中で、私の心を打ったのは、彼の「目的を実現させるためには、周囲のサポートは必要であるが、何より重要なのは、そのために自分が出来うる限りコミットメントすることだ」という、人生に対する姿勢である。「(自転車の)ペダルを一生懸命踏まなくてはならない」という言葉で彼はその姿勢を表現していた。
 高校卒業をして、すぐNBAの厳しい世界に飛び込んだブライアントは、頂点を目指すために人々の想像を絶するような努力を積み重ねる。ブライアントの知り合いがテレビで彼についてコメントする時、彼が成し遂げた成果というよりかは、彼の努力する姿勢を賞賛していた。そして、ブライアントはなぜ、そのように若い時代に自分の才能を信じて努力できるのかと聞かれた時、「自分は若いとき、多くの同世代の人間が理解していなかったことを自覚していた。それは、ある目的を達成しようとする時、周りからいろいろなプレッシャーを受け、自分が信用できなくなり、ポテンシャルを持っているにも関わらず、自ら潰してしまうことを回避しなくてはいけないということだ。ただ、努力をせずに成功できると思ってはならない。死に物狂いで頑張らなくては目的を達成することはできない」と回答する(https://www.youtube.com/watch?v=nbvmTyxpFSA)。そして、それを若者にしっかりと伝えなくてはいけない、とも言う。
 私は仕事柄、多くの若者と接する。驚くのは、多くの若者が本当に努力を嫌うというか、回避しようとすることだ。いや、全員ではないが、そういう若者が多い。勉強とかも頑張れない。要領よく単位を稼ぎ、とりあえず卒業しようと考える若者のなんと多いことか。名古屋の大学では、期末テストのレポートの〆切りが間に合わなかったので「単位を上げない」と言った教員が学生に刺される事件もあった。単位は自分が努力をして取得するものであろう。
 そこで甘やかしても学生のためには全然ならない。もちろん、才能を活かすような環境をつくってあげることは必要であろう。しかし、その才能を高みに上げるのは本人以外の何者でもない。
 受験の時期である。私も受験には失敗しているので、偉そうなことは言えないが、この受験の壁を前にして、是非とも怯むのではなく、自分の力を伸ばしてくれるチャンスぐらいに捉えてもらえればと思う。そのようなチャンスを指定校推薦とか、エスカレーター式の学校に行くことで回避するのは、得をしているようで実は損をしているのではないか。
 私の次女も高三で大学受験である。国立大学一校に絞って受験をする。それは、その大学が唯一無二であるからだが、例え失敗しても、その努力は後の人生において活きると思うのである。コービー・ブライアントは、娘の才能を活かすために第二の人生を賭けていた。実際、ジニの才能が特別なものであることはYouTubeの動画を観ると分かる。親によって子供の育ち方も異なる。私はブライアントの足下にも及ばないが、ブライアントの人生への姿勢を参考にして、次女の才能が開花できるようにサポートしたいと思っている。
 私と私の娘の最も大きな違いは親であると私は思っている。


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最近の若者は王子様・王女様気質である [教育論]

大学の教員を生業としている。そのため、多くの若者と日々、接しているのだが、最近、これらの若者が、いろいろと言うことを聞けなくなっている。
 先日、大腸の内視鏡検査を大学病院でやった。検査前に、腸管清浄剤を2時間で2リットル飲まなくてはならないのだが、20人いた被験者のうち、一人、若者だけが半分も飲まないでいた。大腸が綺麗な状態でなく内視鏡検査をやることはほとんど無駄なのに、彼は飲めないんだろうなあ。確かに、腸管清浄剤を2リットル飲むのは拷問のようなものだが、検査をするうえでは避けられないことだ。私が検査を終わった後も、この若者は未だ検査室に入っていなかった。これぐらい飲めよな、と心の中でこの若者を罵る自分に気づく。
 さて、それを観察している私は、しかし、これは結構、見慣れている光景である。私の大学の学生達も全員ではないが、言うことが聞けない。アルバイトの学生とかも、私の指示を聞かないで自分勝手の行動に出る。おそらく、私の方より彼の方が上手くやれると思っているのであろう。結局、4人のアルバイト学生のうち、彼の仕事を私がすることになる。なぜなら、彼の担当分だけ仕事が終わらないからである。
 この学生とは違うが、ゼミでヒアリングに行く時、会計係のゼミ生にヒアリング先へのお土産の購入を3日前にお願いしたら、「そんな急にお願いされても対応できかねます」とメイルで回答してきた。これは、流石に心底、驚いた。それ以上、早くお願いしたら忘れるだろうと思って、3日前という絶妙のタイミングと判断した時点でお願いしたら、どうも学生には遅すぎたようだ。というか、お土産なんて飛行場か新幹線駅で出発前、5分で買えるだろう。3日前で遅すぎるというのは、どれほどスケジュールがタイトなんだ、と思わずにはいられない。まあ、これは、実質的には「(王女様である)私にそんな依頼をするな」ということが言いたいだけなのかもしれないが、それにしても、こんな学生を連れてじゃあ、ヒアリング一つ行くこともできない。
 他にも気づくのは、何しろ偏食が多いことだ。トマト、ネギ、半熟卵、抹茶などに加え、ソーセージが食べられない学生もいる。ソーセージにはさすがに驚きましたね。これらの学生は文章をしっかりと書け、と指導しても、同じように主述がばらばらの文章を書きまくる。私の指導が聞けないほど嫌なら受けなければいいのに、なんか受け続けるのである。正直、苦痛である。
 これらの学生をみていて分かったのは、彼ら・彼女らの気分は王子様、王女様なのだなということだ。自分が世界の中心で、大学教員を含めて、周りの者はしもべのようなものと捉えているのだ。これは、学生を消費者として大切にしようというコンシューマーにプライオリティを置いた大学の経営戦略がもたらした副作用であると思われる。その結果、彼ら・彼女らの機嫌を取っているとしもべとして認識される危険性が極めて高まる。さて、しかし、彼ら・彼女らも数年で社会に出なくてはならない。王子様、王女様がいきなり王様の加護から離れて、自分の足で立たなくてはならなくなる。それを考えると、本当、心配になるが、ここで心配するとまた変な誤解をされるので、なかなかその対応が難しいところである。
 ということを腸管清浄剤を飲むのを拒絶し続けている学生(と思しき若者)を見ながら思ったりした。ちなみに、この学生への対応のために私が検査後に帰り支度をしている時、看護士は保護者へ連絡をしていた。まあ、病院も困るよな。というか、そもそも内視鏡検査をするのは、本人が生き延びるためであろう。生き延びたいなら飲めよな、と思うのと同時に、生き延びたくないのかもな、と思ったりもするし、そうでなくても、ソーセージやネギを食べられなければ、腸管清浄剤を飲める訳はないなとも思ったりもする。
 日本の将来は暗い。

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中国の大学とのワークショップに参画して、その即興的講義手法は音楽でいえばジャズみたいなものだなとの印象を受ける [教育論]

中国の四川大学で、台湾国立大学、北京大学、そして私が奉職する龍谷大学政策学部の学生達とで成都近郊の村の将来を構想するワークショップに参画している。最初の二日間は四川大学で、それから現地で1週間近く滞在し、そのまとめを再び四川大学に戻り実践するというワークショップである。途中からアメリカのワシントン大学の学生も参加するようだ。
 さて、このワークショップは四川大学が旅費や滞在費(食費を除く)をスポンサーする破格の条件なので、我々としても大変有り難いプログラムなのだが、何しろ、ロジスティックスや内容が直前まで決まらない。決まっていても直前で変更されたりするので、計画がほぼ無効なのである。私も到着した翌日の歓迎会の席で、「あんた、明日の講義をやってよ」と言われて当惑したが、これは逃げられないと思って睡眠時間を削って資料を作成して、翌日、講義を行った。
 このような状況変化は集合時間や講義内容にも及ぶ。この変化に、中国の学生はえっ!と思いつつもしょうが無いと対応する。しかし、私の連れてきた学生達はなかなか対応できない。それはそうだろう。日本の大学では最近では文科省の指導で、シラバス等で半年以上も前から計画を組まされている。私のように政策学部で教えていると、講義内容と関係する時事的なテーマがあるとそれを紹介するために時間を割きたくなるが、そのような余裕も与えられない。これはフィールドスタディでも言えることだが、相手がいるのに半年も前から予定を確約させることは不可能だ。インドネシアとかでも直前に講師が替わり、話す内容が変わったりすることがあったが、これは日本の大学のシラバス制度のもとではご法度である。いきおい、そういう講義をしない方がいいということになるが、そういう覚悟を文科省はしているのだろうか。一方でアクティブ・ラーニングとかが重要であるとか言っているので、本当に論理的に破綻している。
 いわば、日本の文科省が押し付けている大学の講義は、クラシック音楽をオーケストラが演奏するように、しっかりと皆が楽譜通り(シラバス通り)に演奏することを講義で強制しているようなものだ。しかし、政策学部のように生きた内容を教えていたりする科目内容や、フィールドスタディといった現地を相手にする講義、特にこのフィールドが外国であったりする場合は、ジャズの即興のように、相手方が予期せぬ演奏をしたら、それに応えてこちらも演奏しなくてはならない。コード譜ぐらいはあるが、何をやってくるか分からないジャズ演奏が我々にも求められるのだ。
 そして、そういう緊張感の中で学生も対応しなくてはならない。オーケストラの演奏ばかり上手くなっても、現実は計画通りに進むことはまずなく、ジャズ演奏のような即興能力が求められる。私が、今の学生をみていてつくづく思うのは、そういう変化に対応できない柔軟性の無さと、そういう状況変化を厭う姿勢である。これは、まさに学生から「生きる知から」を削いでいると思う。シラバスで確約したことしか学びたくないといった消費者意識は、結果的に学生の損失になっていることに気づいた方がいいと、四川大学のワークショップに参加していて強く思う。

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学生に不足しているのは世界を知り、自分を語るためのボキャブラリーである。 [教育論]

大学の教員をして16年経つ。最近、大学を移った。これは、それまで自分の専門外である経済学科で教えていたのだが、残りの時間は自分の専門分野(都市計画、都市政策)で学生を教育指導、研究指導をしたいと考えたからである。それは、ともかく、大学、そして学部を移っても直面しているのは、学生の好奇心の無さである。前任校の経済学科は、経済学科の先生を育成するためのカリキュラムで指導をしていたりしたので、そりゃ学生も大学の講義とかに関心持つのは難しいよな、と思っていたのだが、現在の政策学科は、学生の好奇心を喚起させるような工夫を凝らしているのに、それほど学生が関心を示さない。というか、私は今、ラーメンをテーマにしているのだが、それはゼミ生がラーメンは好きだと言ったからだ。ちなみに私は好きではない。それなのに、ゼミの研究課題であっても、そして自分達が好きだといってもラーメンに対して、関心を示さないし、とりあえず食べに行きなさいと言っても食べに行かない。驚きの好奇心の無さである。私は、学生への手前、最近、ラーメンばかり食べるようになったのだが、それによって一つ分かったことは、ラーメンをあちこちで食べていたら、なんとなくラーメンが理解できるようになったことだ。少なくともラーメン批評などを読むと、前よりかは理解できるようになっている。
 さて、これは私がラーメンのボキャブラリーを多少は獲得したからだと思われるのだ。ラーメンを表現するためには、例えば「豚骨醤油」、「家系」、「大勝軒」、「鶏白湯」、「一乗寺」、「喜多方」、「とみた」、「二郎系」などのボキャブラリーが使われるが、これらの意味とそれが示す内容を知っていないと、そもそもラーメンのことが語れない。そして、こられのボキャブラリーを知るためには、それらを知っている人に聞いたり、本や映像を観たり、さらには食べていないと分からない。「二郎系」はその店で食べて始めて、その凄さというか異様さを知ることができると思う。「一乗寺」のラーメンがいかにどろどろかは、「極鶏」に行きラーメンを食べて初めて分かるというのがあると思う。
 以前、伏見区役所の職員が、伏見区のブランディングというテーマで大学に来て話をしてくれた。そこで、私のゼミ生が「伏見のラーメンはどうですか」という質問をしたら、この職員は「大黒ラーメンが有名ですね。私は食べたことがないけど」と回答したのである。ある意味、正直かもしれないが、伏見区のブランディングをする仕事を京都市民から税金を徴収してやるのであれば、少なくとも有名どころのラーメンぐらい食べておけよな、と私は強く思った。というのは、そもそもブランディングという概念は言葉でつくられる。その言葉がしっかりと理解できないと、町のブランディングができる訳がない。ちなみに、ここでいう言葉とは「大黒ラーメン」であり、それには、大黒ラーメンの麺の太さ、スープの種類や味わい、そのお店の雰囲気、料金、お客さんなどの情報が含まれたものとなる。この職員は、ちなみに「伏見は何と言っても日本酒です」というので、私は思わず「失礼ですが、日本酒を飲まれますか?」と質問したら「いや、私はワイン派です」と答えたのでほとんどキレそうになった。というのも、そもそも私はこんなに日本酒という素晴らしいお酒がある国に住みながら、ワインという輸入酒が美味しいと感じる舌の鈍感さや、ワインの日本酒に比するコスパの悪さを考えるとその経済感覚をそもそも疑うものであるが、伏見でブランディングをしていてろくに日本酒を知らないのに、平気で「伏見は日本酒です」と言ってしまう不誠実さに呆れたからである。この職員は日本酒というボキャブラリーが圧倒的に不足していたので、彼の話す言葉はほとんど意味をなさないし、聞くにも値しない。英語の語彙がほとんどない人の英語を聞いているようなものである。ちなみに、日本酒をちょっとでも嗜むものであれば、伏見こそ日本酒のブランドを駄目にしている張本人であることぐらいは、理解できる筈である。
 話がちょっと横に逸れてしまったが、この伏見区の職員のような学生が最近、本当に増えてきたと思う。学生は別に職員と違って、それで給料をもらっていないので社会に迷惑はかけてはいない。しかし、このボキャブラリーがないことで、思考力や理解力を大きく減じてしまっているし、表現力もなく、その結果、コミュニケーション力もない。まあ、これは昔もとりあえず「可愛い」、「やばい」、「むかつく」というある対象に向けられた条件反射的な感情の言葉だけで会話をしていたと指摘されていたりもしたので、今だけの問題ではないと言われるかもしれないが、今は、そもそもある対象に向けられる関心も失われているかもしれないなと思う時もある。何も、このボキャブラリーが大学の講義で学ぶようなものじゃなくても全然、構わないのだ。そして、それは言語でなくても構わない。ダンスでの表現力や、楽器、絵や写真といったものでもいい。百聞は一見にしかずではないが、うまく言語で表現できなくても構わない。ただ、当然であるが、楽器で表現するためのボキャブラリーを獲得することも大変だ。ギターであれば、ボキャブラリーはコードになるのかもしれないが、それを増やさないと豊かな表現をすることは覚束ない。スリー・コードだけでは勢いは感じられるが、細かいニュアンスはとても伝えられないであろう。もちろん、ボキャブラリーだけではなく、ペンタトニック、ドミナント・スケールといった文法も覚えなくてはならないが、それもボキャブラリーが獲得できてからこそであろう。
 私はここ数年、英語教育に関心を持つようになっているのだが、それは日本の英語教育だと、まったく英語ができるようにならないこと、にいらだたしさを覚えているからだ。そして、これはまだ仮説ではあり、一度、大学の講義で実験したこともあるのだが、英語を日本人が出来ないのは、圧倒的に語彙不足が原因なのではないかと考えている。語彙が少ないので、そもそも表現することができないのだ。そして、最近、うちのゼミ生をみていて、この語彙が少ないのは何も英語ではなくて、日本語もそうであるということに気づいたのだ。そして、語彙を増やそうともしていない。ラーメンが好きであるといっているのに、ラーメンを理解するための語彙を全然、増やそうとしない。
 これは、ここ10年間ぐらいでの学生をめぐる大きな変化かもしれない。昔であれば、例えば鉄道に関しては、鉄道オタクがいて、鉄道に関する圧倒的なボキャブラリーを有していた。そういう学生は、アルバイトも鉄道会社の駅員をしたりして、車輌やダイヤ、駅弁などに関しても豊富な情報(語彙)を持っていた。同様のことはカメラとか、ギターとか、AV女優とかでもいた。もちろん、現在でもそのような学生がいない訳ではない。例えば、前任校の卒業生でほとんどのプロ・ミュージシャンとして活躍している「宇宙団」の望月美保は、日本のロック・ミュージシャンに関しては相当、詳しく、私は随分と彼女から教わることが多かった。しかし、だからこそ彼女は第一線で活躍できているとも言える。ボキャブラリーを有しているからだ。
 人は「言語」で思考する。ボキャブラリーが多ければ多いほど、より豊かな思考を展開することができる。すなわち、ボキャブラリーと思考力とは高い相関関係がある。また、それによって表現力も増すので、コミュニケーションも円滑にすることが可能となる。そして、ここで「言語」と表記したが、それは何も言葉でなくてもいいのだ。「エリック・クラプトンのような泣きのギター」、「伏見桃山のひかりのようなつけ麺」、「ゴッホのひまわりの絵のような色彩」、「『アニー・ホール』のウディ・アレンのような失恋」、「奈良萬のような豊穣さ」、「ガウディのグエル公園のような色彩」・・・。このようなボキャブラリーを持つことで、世の中を広く理解し、それは世の中で生きていく自分をも知ることになる。そのことで、自分の人生も豊かになり、魅力的な人になっていけると思うのだ。
 このボキャブラリーが、なんか今の学生には本当に欠けていると思う。お金がないといって安居酒屋で飲み、ファストフード店で食事を済まし、恋愛もコンビニエント感覚でやり過ごし、就職に関しても、何がやりたいかとかではなく、大学のポジショニングだけでとりあえずどっかの企業に潜り込もうとする。他人の人生のことをとやかく言う資格はないが、このボキャブラリーの多寡によって、豊かな生を送れるかの社会格差が生じるような気がするのである。せっかくの人生、そしてボキャブラリーを増やす機会があるのに、それに力が入れられないのは由々しき事態であると思う。
 

 

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オランダでは学歴が高い女性ほど寿命が長い!? [教育論]

アムステルダムの福祉政策を学ぶために、アムステルダム市役所にての保健省に訪れる。いろいろと興味深い話を聞くことができたが、印象に残った話は、オランダのデータでは、学歴が高い女性ほど寿命が長いということであった。中学が最高学歴の女性の平均寿命は80歳であるのに対して、大学以上が最高学歴の女性の平均寿命は86歳。これは、若いうちから仕事をさせられたりしたことが要因であったり、移民の人達がこのグループに多く入るということが要因なのかもしれないが、極めて興味深いデータである。これは男女の差ではないが、学歴と肥満との相関関係をみると、やはり低学歴の方が肥満の人が多いという傾向が見られる。このデータは、大学のマーケティング的には使えるかもしれない。
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日大のリスク管理のなさは、日大アメフト部ではなくて、教育組織としての日大の妥当性を疑わせる [教育論]

5月6日にあったアメリカンフットボールの日本大学と関西学院大学との定期戦で、日大の選手がプレー後に悪質なタックルをして関学のクォーターバックの選手を負傷させた問題は、日大にとって最悪の状態へと、内田監督そして日大のリスク管理のなさから突入している。日大は危機管理学部という学部があるそうだが、もはや皮肉というよりかは冗談で笑い飛ばすしかないような状況である。

分岐点は19日にあったかと思う。この日、内田監督は負傷した選手や保護者に遅まきながら謝罪し、その後、「日大の監督を辞任する」との会見を行った。会見では、「全て私の責任」といいつつ、反則をした日大の選手に「反則を指示していない」と言い放った。その前から、アメフト関係者が「あのようなタックルをすることは指示なくしてはまずしない」、「もし、あのようなタックルを指示なくしたら厳しく叱咤され、試合に出られなくなる」と指摘していたことから、「反則を指示していない」と言ったことで、内田監督は「全て私の責任」といいつつ、本質的に自分が教育者として監督して守るべき日大の選手にすべての責任を押しつけたのである。この対応は不味かった。

これによって、信頼していた監督に裏切られた日大の宮川選手が22日、単独で会見にのぞみ「反則行為の指示があった」と述べた。このようなことを一学生に言わせるまで追い込む日本大学という教育組織は、もうここでまともに機能していないと思わせるのだが、それを受けて23日、再び日大本部で内田監督と井上コーチが会見に臨む。そこで、そのような指示を否定した。この対応は本当に不味い。宮川選手に会見をさせてしまった時点でもうチェックメイトされているのだ。基本、宮川選手に会見をさせないよう誠意を示す対応を事前にしなくてはならなかっただろうに、19日の会見での誠意のなさが、宮川選手を表舞台に出させてしまった。もう、ここで堪忍して、日大も内田監督ではなく、理事長が出てきて収拾を図るような対応をしなくてはならなかったのに、また、ここで内田監督が会見をして、火に油を注いでしまった。

宮川選手は日本を代表する選手であった。彼が辞めることを受けて、内田監督は「こんなにも(アメリカンフットボールを)嫌いになってしまうのか」と会見で述べたが、彼が嫌いになったのはアメリカンフットボールではなくて、日大のアメリカンフットボール、内田監督のアメリカンフットボールである。この発言を知り、私は、まだ内田監督はこの一件がこれほどまでも世間の耳目を集めている本質を理解していないような感想を抱いた。

そして、私を含む知り合いの大学関係者も、もはや日大のアメリカンフットボール部ではなくて、日大という教育組織へ不信の目を向けている。というか、自らの学生を自己保身のために切り捨てることを、これだけ世間が注目されている中でよくやるな、ともう呆れかえるしかない。親としては、そのような大学には子供を預けたくないし、同じ教育関係者としては許せない気落ちを抱かせる。良心をもって教育や大学校務、研究などに勤しんでいる日大の教職員には同情するが、そのような良心も吹っ飛んでしまうようなとんでもない状況に日大はおかれていると思うし、そういう危機意識をもって対応しないと日大のブランドは地に落ちると思う。

23日の会見で司会をした職員が会見を打ち切ろうとしたところ、報道陣が「あなたの発言で日大のブランドが落ちますよ!」と言われると、それに対し、「ブランドは落ちません」とクールに言い返したそうだが、もう日大のブランドは失墜している。というか、ブランドというレベルではなくて、果たして教育組織なのか、と問われるぐらいの失言を23日にはしてしまったのではないか、と私は思っている。

いろいろと不愉快な思いも多いが、私も教育者の端くれとして、「他山の石以て玉を攻むべし」と気持ちを新たに、自らの大学教員としての仕事に励もうと思う。今日は、新たなゼミ生の選考日である。14人定員のところ23人ほどが応募してくれた。しっかりと、うちのゼミを選んだことを後悔させないように指導すると同時に、彼ら、彼女らを守らなくてはいけないなとも思う。

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71歳でドイツ語を始められた方のお話にちょっと感動する [教育論]

実は上智大学の社会人講座で「ドイツ語」の講義を受講しています。これまで飲みの誘いを何回か受けていたのですが、ずっと断っていました。しかし、流石に何回も断るのも申し訳ない気分になったので昨日、忘年会に参加しました。講師の先生も出席されていましたが、1人を除くと皆、先生よりも年輩、というか最高齢は83歳です。彼は71歳でドイツ語を習い始め、もう1人の方も65歳で始められたそうです。私は実は45歳から初めて、なんて無駄なことをしているのだ、と自分に呆れるところがない訳ではありませんでしたが、全然、若いじゃん、ということに気づきました。

83歳の方はヤクザの世界にも足を突っ込んだことがあったそうですが、現在はドイツ語検定の2級にチャレンジしています。そして、「勉強をすることが楽しいことを知ったのが嬉しい」と言います。ちょっと感動しました。こういうことを若かった自分に言い聞かせたいと思うし、学生にも伝えたいと思うのですが、なかなかうまくいきません。しかし、勉強する動物は人間だけですし、また、勉強することは大学以外にも多く存在しますが、勉強をすることを存在目的にしている機関は大学ですよね。そう思うと、大学って貴重です。ただ、私が学生の時はそういうこと、全然、気づかなかったですし、勉強つまんなかったですが。
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大学の進学先を理系・文系の入試試験の点数の取りやすさで決める愚 [教育論]

 長女が大学院に合格した。中学も大学も第一志望に落ちたので、心配していたが、本人は落ちたら院浪する気持ちだったので、返って落ち着いて受験できたようだ。まあ、長女の弱点は必要以上に緊張して、本場で実力を発揮できないということなので、ある程度、吹っ切れて受験できたのが功を奏したようである。
 さて、それにしても思い出すのは、彼女が高校時代の進路相談で担任から「理系は無理だから文系にしなさい」と指導されたことである。私は理系の大学だって偏差値が70から30まで幅広くあるのだから、別に偏差値が低いところにいけばいいと反論して、この担任のアドバイスには耳をまったく傾けなかった。というか、大学に行く目的とは、将来に歩むべき道の基礎的土台を築くことであって、偏差値が高いところに取りあえず行くということでは決してない。長女に文系に進ませて、何をさせようと当時の担任は考えていたのであろうか。いや、長女が営業をできるような社交的なキャラであったり、歴史に強い関心を持っていたり、文学オタクであったりすれば、文系に行くということを進めるというのは理に適っているであろう。しかし、長女はまったく無愛想で、たまに放つギャグは滑りまくり、また小説とかは読まない訳ではないが、没頭して読んだり、文章を書いたりするのが好きなタイプでは決してない。一方で、色彩のセンスがよかったり、鉄道オタクだったりはした。私はそもそも理系と文系といった、まったく日本特有のガラパゴス的な分類は、血液型で人の性格を判断することと同じような愚であると思っている(私が奉職する経済学科が必要とする素養は数学である。なぜ、数学科が理系で経済学科が文系なのかはまったく理解に苦しむ)ので、理系だ、文系だ、といった分類軸で将来進むべき道を決めるという習慣は、日本教育の大きな欠陥ではないかとさえ思っている。しかも、この理系と文系というのは、単に入試でどちらの方で相対的に高得点が取れるか、というような将来の人生設計に比べれば、はるかに矮小な理由で決められているのである。高校時代こそ、将来のビジョンをしっかりと考えるいい機会であるにも関わらず、目先の大学受験のことだけで進路を選ぶことの愚を、高校の先生がむしろ学生に指導しなくてはならないのに、逆の状況が跋扈しているのは間違っている。
 私は、このようなシステム自体に反対であるが、自分自身はまことにもって微力なので、そのシステムを変えるようなことはできない。しかし、自分の子供をその弊害から守るぐらいのことはできる。
 長女は某国立大学の建築学科の大学院に進むことになる。ブラック業界の建築の世界で生きていくことになるのであろうが、手に職をつければ気が利かずに営業ができないような女の子でも、文学を深く鑑賞するような感受性がなくても、無愛想で接客とかに向いてなくても、どうにか生きてはいけると思うのである。ということで、親としては取りあえずは一安心した次第であるし、間違っても文系に進学させなくてよかったと改めて思うのである。

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スキーが私に教えてくれたこと [教育論]

 私の父親と母親は山形県蔵王のスキー場で出会いました。まあ、いわゆるスキー場ナンパのようなものだったと思います。そういうことなので、私は幼い時からスキーによく連れて行かされました。父親は日曜の昼頃に、今から苗場に行けばナイターを滑れるかもしれない、というようなスキー馬鹿でした。基本的には自分が滑れればよくて、家族はしょうがなく連れて行くというような位置づけでしたので、小さい頃、私はあまりスキーが好きではなかったです。当時は、靴は痛いし、寒いし、リフトは高くて怖いし、まあ修行のような感じで嫌でした。そういうことで、行く回数は多くても上手くならずに、中学時代ぐらいには父親に「教えてくれ」と懇願しましたが、彼は「ついてこい」としか言わず、結局、上手く滑れないまま大学生になりました。父親は私が滑れないような斜面を颯爽と滑っていき、私はただ雪の中を転げ落ちることを続けていたからです。
 大学に入って、初めてちょっとスキーを教わりました。そして、大きなパラレル・ターンで滑ることができるようになったのですが、その時、生まれて初めて「スキーは楽しい」と思ったのです。スキーは上手に滑れるようになると、急に世界が広がることをこの時、知りました。それから、ちょっと一生懸命、スキーが上手くなれるように努力するようにしました。そして、上手くなれば、それだけスキーはより上位の楽しさを私に提供してくれました。私は52歳ですが、今でも上手くなれるんじゃないか、まだ体験していない楽しさをスキーは提供してくれるのではないか、と思っています。これはスキーの凄い魅力だと思います。昨日もスキーに行き、インストラクターの方に新しい滑り方を教わりました。その滑り方は、丸太の上に乗っかっているように板を動かす、という説明の滑り方でしたが、これまでの私の滑り方の考えとは違い、そのようにすると、今までと全く違うスキーの滑りを体験することができました。これは、カービング・スキーによって初めてできるようになった滑り方らしいのですが、何しろ感動しました。
 スキーというのは、このように努力をすると、より視座が高くなるような楽しさを提供してくれます。逆に下手だとあまり楽しくない。上手くなればなるほど、世界観が広がる。努力が報われるスポーツだと思います。
 そして、実はこれはスキーだけに言えることではないと思います。英語などの外国語もまさにそうです。英語や外国語は出来るようになればなるほど、世界観が大きく広がります。楽器などもそうだと思います。そして、多くの勉強も実はそうだと思います。それは、自分の世界観を大きく変えて、その人の人生を大きく豊かなものにさせてくれるものです。そういうことを非常に分かりやすく私に伝えてくれたのがスキーで、だから私はスキーが今でも大好きなのです。

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(菅平高原スキー場)
タグ:スキー
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教員の仕事は、コンピューターに代替されないのであろうか? [教育論]

 今日(2016年2月14日)の東京新聞の社説に、コンピューターが進展することで、日本の労働人口の49%の職種が10〜20年後にロボットやAIによって置き換わることが可能だという野村総合研究所の研究結果が紹介された。アンドリュー・マカフィーとエリック・ブリニョルフソンの『機械との競争』に書かれていたような内容であるが、この手の話で興味深いのは、どのような仕事が置き換わるのか、ということである。私も大学の教員の端くれなので、学生達がどのような仕事に就くかということが気になるので、こういう記事は興味深い。
 まず、この野村総研の研究結果では、対象とした601職種のうち、代替可能性が高いのは、一般事務員、医療事務員、行政事務員、経理事務員などのいわゆるホワイトカラーの仕事であるとしている。私はこのようなホワイトカラーにも専門的な能力や創造力が必要なのじゃないか、とは思うが、多くのこのような事務員達が創造性を発揮せずにロボットのように仕事をしているし、またこれらの人達の管理者がロボットのように仕事をすることを期待するので、そういう観点からは代替可能という指摘はそれほど間違っていないかもしれないと思う。
 また給食調理人、自動車組立工、測量士、タクシー運転手などもそうらしい。ふうむ、タクシー運転手などは随分とひどい人もいたりするから、むしろコンピューターでもいいかもしれないが、そうしたら、そもそもタクシーという乗り物の形や移動の仕方も変わるような気がする。
 そして、代替が難しいのは医師、教員、芸術家、ネイルアーティスト、バーテンダー、ツアーコンダクター、ソムリエらしい。本当かなあ。ツアーコンダクターなんて、もう十分、インターネット程度のAIで代替されている気がするけど。ソムリエは意外とそうかもしれない。しかし、これも個人の好みなどをしっかりと読み取ろうとするコミュニケーション能力が前提にあるので、いい加減なソムリエはいらないかもしれない。そして教員も怪しい。教員も個々の生徒の特性などを見抜いて、的確な指導や教育ができればAIの代替は難しいかもしれないが、一方的に自らの価値観やシステムを押しつけるだけであれば、いつでもコンピューターに代替可能である。


機械との競争

機械との競争

  • 作者: エリック・ブリニョルフソン
  • 出版社/メーカー: 日経BP社
  • 発売日: 2013/02/07
  • メディア: 単行本



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コミュニケーションが得意という若者ほど、コミュニケーション下手という面白い現象 [教育論]

 ゼミの選考をしている。私のゼミは、まちづくりがテーマなので、多くの社会人の方と接する。イベントや商品企画などを商店街の人と一緒にやらせてもらったりもする。したがって、コミュニケーション能力は、とても重要であり、ゼミの選考では、コミュニケーション能力を有することを採用の条件としている。
 そういうこともあり、選考の面接で話をしていると、私はコミュニケーションが得意です、と主張する学生が数名いる。それはいいのだが、そういう学生ほどコミュニケーションが苦手な場合が多い。おそらく、私との面接で言うことを予め考えてきたのであろう。
 しかし、よくよく考えてみると、コミュニケーションが得意と言った時点で、コミュニケーションが得意でない、とも捉えられなくもない。コミュニケーションが得意かどうかは、ちょっと話をしていれば、敢えて言葉にしなくても伝わるからである。敢えて言わなくてはいけないのは、コミュニケーションが苦手であるということの裏返しであろう。
 むしろ、コミュニケーションが得意な人は、あまり冗舌でもなく、こちらの言うことをしっかりと理解して、ちゃんとキャッチボールが出来るような学生である。そして、美醜に関わらず、しっかりと前を見て話をすることができ、相手に好印象を与えることができる。
 ということに、ゼミ生を選考していて気づいた。

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ゆとり教育世代は、最もゆとりがない社会人人生を送る世代になるであろう [教育論]

 大学の教員をしている。今の大学生はゆとり世代である。長女が大学生である。長女もゆとり世代である。さて、ゆとり世代は、本来的に社会で生きていくための基礎的な学力などが相当、疎かである。大学の講義をするのも本当に難しい。というのは、ある程度、勉強をすると物事や人間の面白さ、奥深さが分かるのだが、それがないといかにも表層的で浅薄なものの見方しかできないからだ。人が歴史を勉強するのは、そういうものをみる透徹力を鍛えることが大きな理由の1つかと思われるが、そのような鍛錬が今の大学生(少なくとも私が奉職している大学)にはされていない。その結果、ものの本質が理解できないので卒論などが書けない。というか、そもそも書く気もしなくなる。口はちょっと達者であったりするが、実行力というか、何かを成し遂げる能力は極めて前の世代に比べると劣っている。
 私のゼミはこれまで人気ゼミであったが、いきなり人気がなくなった。これは、私がゼミの応募に際して厳しい課題を課していたので、それを敬遠したからだ。昨年、人気だったゼミの先生がやはり課題を出したら、50人くらいから9人にまで応募数が激減した。私も昨年に懲りたので、今年は課題を撤廃したら、いきなりまた増えた。とりあえず何が勉強したいというものもないので、易きに流れるのである。彼らが社会に出て行ったら、これまで日本を動かしていたシステムも回らなくなるのではないか、と本当、心配である。
 とはいえ、彼らは彼らで犠牲者でもある。ある学生が「僕が英語ができないのは英語教育のせいです」と言ったのには呆れ返ったが、彼らは彼らでそういう被害者意識をも持っている。まあ、私のようにほとんど独学の人間からすれば、英語ができないのを英語教育のせいにするのはちゃんちゃらおかしいが、そのような思考力しかないのも、ゆとり教育故かもしれない。
 私の場合は長女もゆとり教育なので大変なのだが、国立大学の理系なので、とりあえず勉強ばかりしているので、このゆとりをどうにか大学、そして大学院で補う「ゆとり」を与えられているが、私立文系の学生達は、これまでも「ゆとり」で大学も「ゆとり」なので、まったく社会に出るうえで貯金もつくれていないので大変な事態になるのではないか、と本当心配である。せめてネットワークでもしっかりとつくってから卒業してもらえればと思うが、ここらへんのヒューマン・ネットワークのつくりかたも上手くないような気がする。
 ゆとり世代は、どうも人間関係を損得だけで捉える傾向があるように思えてしょうがないのだが、これは私の思い過ごしであろうか。今年はゼミ生の結婚式に5回ほど出席した。10年から8年前に卒業した学生達だ。しかし、10年後に私は結婚式には出ないような気がする。そのような関係性を学生が築こうともしないからだ。
 いやはや、こういうことでは、社会に出たら、本当に「ゆとり」のない人生を送ることになるであろう。いや、それとも日本という国を機能させていたシステムも動かせずに、国ごと沈没するか。ゆとり教育の弊害は、とてつもなく大きなものがあるような気がしてしょうがない。
 まあ、なんでも「ゆとり教育」のせいにするのは間違っているかもしれないが、このジェネレーションに特徴があるのだけは確かであろう。そして、彼らがゆとりない社会人を送ることになるのは、本来、鍛えておかなくてはいけない胆力や知識を習得させなかった「ゆとり教育」に問題があると思われるのだ。

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学生が人の言うことを聞かなくなったのは、人から聞かなくてもスマホで情報を得られるからだろう [教育論]

 学生を引率してブラジルに来ている。そこで強く感じたのは、学生が人の話を聞かないことである。私の言うことはもちろんだが、ブラジルの人が学生のために時間をわざわざ取ってくれても、話を聞いてない。聞いているふりをするぐらいしっかりとした学生は稀で、大抵、講師が話をしていてもふらふらと移動してしまったりする。しかし、じゃあ、関心がないのかというとそうでもなく、質問などはしたりする。つまり、コミュニケーションの主体があくまでも自分でないと、しっかりとコミュニケーションができないようになっているようなのだ。
 そして、私が気づいたのは、圧倒的にスマホ依存であるということだ。どこの空港についても、まずスマホにアクセスできるかをチェックする。レストランに入っても、スマホがアクセスできるかをチェック。WiFi Free とでも書いてあるようなものなら、ポルトガル語もしゃべれないのに一生懸命、コミュニケーションをしようと努力して、ウエイターにパスワードを直接、打ってもらったりする。そして、ゲストがいても、平気で皆、レストランの料理がくるまで、ずっとスマホを観ている。皆、というか正確には6人中5人である。
 そもそも、自分が知りたいことはほとんどスマホを検索すれば教えてくれる。スマホが教えてくれないことには、興味を持たないので、どうでもいいことになる。そして私が観察している学生は、それでもブラジルに行ってみようというぐらいの知的好奇心と積極性は有しているのだ。残りの学生はもっと深刻な問題を抱えているということだ。これは、相当、大変な事態になっているなと思う。大袈裟ではなく、大学存亡の危機だと思う。
 私はゼミで大学の地元のゆるキャラを作成し、それをいかに普及させ、知名度を向上させるかということを学生に主体的に考えさせて活動させている。これは、受動的に勉強しても学ぶことが少ないので、能動的に勉強させた方がいいからだと考えたからだ。このようなことを抽象的に説明すると、学生は比較的肯定的に捉えるのだが、実際にゆるキャラが存在したりすると、ほとんどが敬遠する。私のゼミは、去年までは人気ゼミで倍率も2倍以上は常に確保できていたが、今年は大幅な定員割れである。
 主体的に考えるということ自体、学生はもう嫌なようである。というか、学生の発表を聞かないで寝ている先生とかのゼミが楽でいい、と本気で考えている学生も少なくない。まあ、スマホで何でも知りたい情報が入るし、そもそも大学で教えようとしている情報でスマホになくて学生の関心を持つようなものもないので、学生からしたら楽であればあるほどいいのだ。まさか、スマホが大学のライバルになるとは思わなかった。まあ、でもほとんどの大学の先生よりスマホの方が使い勝手がいいし、親切だからな。
 また、そうはいっても、スマホにない情報を自ら知ろうと頑張ったり、もっと主体的に勉強したいという学生もいたりするだろう、と思う人がいるかもしれないが、現状では、そのような積極的な学生のほとんどは、私が奉職する明学より上の大学に行ってしまっているのだ。もちろん、まだそのような学生が一部、明学にいるかもしれないが、その割合は大きく減ってしまっている。
 これは大変なことになってしまった。そして、このような学生を受け入れる企業や組織も大変なことになるだろう。まあ、このような事態は、別に日本人の学生だけでなく、他国でもみられると思う。実際、最近、私の講義を受ける留学生もコミュニケーション下手が以前より増えていると思う。スマホというかインターネット依存症が増えている。なんか、地殻変動ともいうべき、大変な状況が進行しており、大学という存在もその意義が大きく問われているような気がする。

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アメリカの大学の授業料が高すぎる件について [教育論]

 私は奉職する大学で留学生用の講義を受け持っている。この講義では試験の代わりに、研究発表を履修学生には課している。政策の国際比較調査である。その発表の一つに日米の大学生活の違いというものがあった。フィラデルフィア出身のアメリカ人の学生による発表である。さて、この発表で驚いたのは、アメリカでは、大学の一年の平均授業料が$30,000であるということだ。これは、現在のレートでは330万円ぐらいに相当する。4年間では1320万円である。
 さらにアイビーリーグのエリート校であるペンシルベニア大学の場合、学部で$64200である(家から通うと$53000)。年間700万円弱ということか。これは恐ろしく高い。4年間だと2800万円。これだけ投資する価値が大学の4年間に果たしてあるのか。アメリカの場合、多くの学生は奨学金をもらって通うことになる。しかし、その結果、大学卒業時にいきなり1000万円以上、アイビーリーグのエリート校だと3000万円近くの借金を負うことになる。本当にこれだけの価値が大学にあるのだろうか。私はとても疑問に思うし、アメリカが提唱する新経済主義が、このような事態をもたらすのであれば、とても賛同することはできない。


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宝塚「ブスの25箇条」 [教育論]

 宝塚音楽学校の舞台裏には「ブスの25箇条」といわれる言葉が貼られているそうだ。なかなか秀逸なので、ここに共有したい。これは男女を問わず、重要なことかと思う。ところで、人間の生存戦略は社会性である。この25箇条に社会性のなさをブスの条件として挙げているのが多いことが興味深い。

1.  笑顔がない
2. お礼を言わない
3. おいしいと言わない
4. 精気がない
5. 自信がない
6. グチをこぼす
7. 希望や信念がない
8. いつも周囲が悪いと思っている
9. 自分がブスであることを知らない
10. 声が小さくいじけている
11. 何でもないことにキズつく
12. 他人にシットする
13. 目が輝いていない
14. いつも口がへの字の形をしている
15. 責任転嫁がうまい
16. 他人をうらむ
17. 悲観的に物事を考える
18. 問題意識を持っていない
19. 他人につくさない
20. 他人を信じない
21. 人生においても仕事においても意欲がない
22. 謙虚さがなくゴウマンである
23. 人のアドバイスや忠告を受け入れない
24. 自分が最も正しいと信じている
25. 存在自体が周囲を暗くする

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総務省から出向した某国立大学の教員の評判が悪い [教育論]

某国立大学で、実践的なコミュニティ・デザインを展開している学科がある。その学科に総務省の国家公務員が客員教授として出向してきた。文科省にはCOC事業というものがある。これは、「地(知)の拠点整備事業」と呼ばれており、「大学等が自治体を中心に地域社会と連携し、全学的に地域を志向した教育・研究・社会貢献を進める大学等を支援することで、課題解決に資する様々な人材や情報・技術が集まる、地域コミュニティの中核的存在としての大学の機能強化を図ることを目的」(文科省のホームページ)としている。この大学もCOC事業の予算を取ろうと考えた。

この国立大学も、このCOC事業の予算を取るために有利となると考えたのか、総務省が何かを企画していたのか、その細部はまったく知らないが、何しろこの国家公務員が客員教授として赴任してきたのである。そこには、おそらく大学の教員というのは能無しなので、国家公務員の方が、仕事が出来るだろうという認識が、霞ヶ関には100%あったであろう。それを広くこの大学だけでなく、世の中にも知らしめて、その後の文科省の大学改革の後押しをしようというような姑息な考えがあったのではないかと思われる。そして、大学の事務側にも、国家公務員のような事務能力の優れた人材がくれば、予算は取りやすいだろうという計算もあったかと思われる。

さて、それでは、この公務員教員がどのような成果を出したか。これが、学生によれば大変、出来が悪かったそうだ。というか、この学科はどうも教育をしっかりとしている先生が多いようなのだが、唯一、学生サイドから駄目出しを出されたのがこの教員であった。もちろん、学生はこの教員が霞ヶ関の役人で客員教授という位置づけであることは知っていない。純粋に大学教員としてなっていないという見方をされていた(私の取材に基づく)。どうして駄目なのか、と尋ねると、学生をコミュニティ・デザインなどの地域の会合に参加させるときに「先着順でどこかの高級ケーキをあげる」といったインセンティブを与えるそうなのだ。「そんなケーキごときでは、学生も忙しいのにやる気が起きないし、逆に馬鹿にされているような気がする」。至極もっともだ。まあ、霞ヶ関の公務員なんて、本当にこんなレベルなんだろうな、とは思う。まったく学生や人の動かし方が分かっていない。日頃、莫大な国家予算を動かしており、その予算に群がる業者や地方自治体がペコペコしているので、自分が偉いと思ってしまうのであろう。予算という飴がなくなると、ケーキか。いや、このケーキも国家予算で購入しているのかもしれないが、どちらにしろ、そういう金権主義的な体質を持っていることが改めて確認できた。こういう人達が大学改革をしようとしているのだから、大学がよくなる訳がない。学生もそうだが、人はそうそうお金ごときで動かない。 

大学は学生を教育する場であり、そして研究をする場である。この二つに長じているのは、国家公務員ではなく大学教員である。まあ、私の大学は酷い教員が多くて唖然とすることが多いが、それにしても、この二つのどちらかにおいては国家公務員よりは優れている。何せ、一応、それでお金をもらってきているからだ。プロだからな。国家公務員の非常な思い上がりをこの一件は、改めて知ることになった。こういう人達が、大学を改革しようとしているのであるから、学生にとってよい大学になる筈がない。残念なことが、最近、本当に多いが、これも大いに残念なことの一つである。

タグ:大学改革
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