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ストライモンのメビウスが暴走したが、原因が分かった [その他]

スタジオで練習をしていたのだが、ギター・エフェクターのストライモンのメビウスが暴走し、MIDIでコントロールができなくなった。スイッチが勝手についたり、つかなかったりするのだ。どうもギターの音信号が入ると、消えたりする。消えるとエフェクターの音も途切れ途切れになったりして、これはもう全然、使えないじゃないかと他のMOD系のエフェクターを買わなくてはいけないかなと思った。
 しかし、家に戻り、同様の問題を抱えている人もいるのでは、とグーグルで検索したら出てきた。どうもメビウス、なかなか使い勝手が悪いようだ。さて、しかし、グーグルでいろいろと調べていると、どうも「パラメーター」の「エクスパンション」の設定がONになっていると、情報が入ると、いろいろと誤作動をするらしいことも分かった。ということで、チェックしてみると、私のものも「エクスパンション」の設定がONになっていた。これをOFFに変えたら、正常に動作するようになった。
 ごく少数の人にしか関心がないようなブログの内容だが、逆にこのような情報で助かる人もいるかと思い、アップさせていただく。

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下手なギタリストを他山の石として、下手から脱する方法論を考察する [その他]

最近、セッションに参加する機会が増えています。セッションとは、演奏する曲を決めて一発合わせでその場に居合わせた人が合奏するということです。私はギターで参加します。セッションに参加してはいますが、ギター、それほど上手くないのでいつも反省仕切りです。さて、そういう自分がこういうことを書くのも何なのですが、たまにとても下手なギタリストが参加します。曲の構成は覚えているのですが、演奏が下手なのです。そのようなギタリストがいると他山の石として、何が下手なのかを考察したりします。
 まず、この下手なギタリストが初心者ならそれほど問題は深刻ではありません。初心者からいきなり上手く演奏できる人は、よほどの天才でなければ存在しないからです。初心者が足りないのは練習ですから、練習すればいいのです。しかし、この下手なギタリストがもうベテランだったりすると問題は深刻です。いつまでたっても上達しないからです。私も似たようなものですから他人事ではありません。しっかりと分析をしないとと思わされます。
 さて、そもそもどうして下手と聞こえるのか。弦楽器であるギターでは、音を外すと下手に聞こえます。ギターはチョーキングといって自分の耳で音を探り、その音を出すという奏法がありますが、ここで音を外すと下手に聞こえます。あと、運指を失敗するとまた音を外して、これも下手に聞こえます。セッションで一緒になった下手な人はこの音を外すという過ちを多くしていました。これは、どうすれば直せるのか。それは、演奏をやはり録音、録画して演奏後に観ることかな、と思います。そして、音を外している自分と直面し、それを次回の演奏時には修正できるようにすることです。私もこの日のセッションでの自分の演奏は録画してチェックしましたが、自分ではなんか弾けているみたいに思っていたけど、音を外しているところを見つけてしまいました。急いで、音を直していますが、多いに格好悪いです。こういう過ちに直面し、直すということは重要なことかと思います。
 あと、この下手な人は、手に力が凄く入っていました。右手も左手もです。おそらく緊張していたのかもしれません。私も本番で緊張して、変なビブラートになってしまうことがあります。ただ、力を入れると本当、ちゃんとしたプレイはとても見込めませんので、何しろリラックスするように心がけるのが重要だな、ということを改めて思いました。
 そして何より音作りが下手でした。いや、これは私も本当、修行中なので人のことをとやかくいう資格はないのですが、コーラスやリバーブなどのMOD系のエフェクターをかける時には本当に気をつけないといけません。音作りはどうすれば改善されるか、分からないですが、とにかく自分の演奏を聴き直して、何が間違っていたのかを修正する。この反復作業を繰り返すしかないかと思います。私は最近では、ストライモンのイリジウムを通して、そのままアンプはリターンに差し込むということで、なるべくアンプの影響を受けないようにして音作りをしていますが、それでも、まだなかなか思い通りの音が出せません。ただ、これは自分の音はあまり美しくない、という自覚をしていないと、面倒臭くなってしまい、改善しないまま放っておいてしまうかもしれません。私も10年ぐらい前はそうでした。
下手から脱する最短経路は、客観的な意見を聞くことです。どこが自分の演奏が不味いのか。これは、下手な人はそもそも分からないので上手な人の意見を謙虚に聞くことかと思います。もちろん、中にはよく分かってないけど批判する人もいたりするので、全員の言うことを謙虚に聞く必要はないかと思いますが、自分がこの人の演奏は上手い、と思う人の意見は姿勢を正して聞くことが重要なのかなと思います。とはいえ、大人になるとなかなかこういう意見を言ってくれる人も少ないので、自分と話をしたがる人がいないかな、と思ったら自分の下手な演奏が遠ざけているのかも、と思って演奏技術を向上させるモチベーションにするといいかと思います。下手のまま、人生が終焉を迎えたら本当に悔しいと思うんですよね。ちょっとでも上手になる余地があったらしっかりと精進するべきだな、と思いました。

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のび太は変態だ [その他]

お子さんがいる家族とドライブをする。自動車内ではDVDのドラえもんが流れていたので一緒にみる。さて、幾つかのエピソードがあるのだが、テーマは皆、のび太がいかに静香ちゃんをモノにするのかで一貫している。のび太はもうやる気がないダメ男という設定ではあるが、静香ちゃんへの欲情的な感情は凄まじいものがある。というか、変態だ。ど根性ガエルのひろしに似ているが、ひろしは確か中学生だったからな。小学生で、あそこまで強烈に女の子に執着するのは異常だ。というか、あそこまで一つのことに執着できるのであれば全然、やる気がないダメ男ではない。とはいえ、ドラえもんを使って卑劣な手段を使ってでも静香ちゃんをモノにしようとするのは、ドン引きである。ちゅうか、もっと静香ちゃんという可愛い子ではなくて、何か、他に生きる目的をつくれよな。このDVDを見て、私は二人の娘の父親であるが、絶対のび太には娘をやりたくないなとつくづく思った。というか、最初のエピソードでドラえもんがのび太の将来を見せて、その時にジャイ子がお嫁さんになっていて、のび太は絶望するのだが、ジャイ子だってのび太が旦那というのは酷すぎる。というか、ジャイ子の方が実は静香ちゃんよりのび太の嫁さんには合っていると思う。というのものび太は静香ちゃんと結婚したら、それで目的を達成して、その後は生きる屍というか、それから人生と向き合うことになると思うのだが、そもそもダメ男であることを考えると、もう生きる目的を失うと思うからだ。というか、ジャイ子の扱い、酷すぎだろう。静香ちゃんだって幸せになる権利はある。そして、ジャイ子にだって幸せになる権利がある。ドラえもんはジャイ子にも必要なんじゃないか。世の中はのび太のために回っている訳ではない。という感想を抱いた。

タグ:のび太
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中沢新一の眞子さん騒動に関する記事 [その他]

眞子さまが結婚会見をしたことで、多くのマスコミが掌を返したようにお祝いムードを演出しようとしている。こういう迎合的な姿勢は鼻白むばかりだが、私の問題意識を哲学者の中沢新一が見事に私より述べられているので、下記に引用させてもらう。10月23・30日号の『週間現代』に掲載された(p.79)。



昭和天皇がつくりあげた、このポストヒューマンな象徴天皇の像は、平成と令和の両天皇によって、それぞれの流儀でなぞらえられ、維持されてきた。中心部に空虚がすえられているこの構造は、日本人の精神構造ともみごとにフィットしているため、国民はごく自然に、皇室を敬愛することができた。

ところがその敬愛の情が、いま大きく揺らぎ始めているのを、私たちは感じている。ポストヒューマンな象徴天皇の像に、月並みで頭の悪い人間中心主義(ヒューマニズム)が侵入して、国民と皇室が共同でつくりあげてきた、象徴天皇制というひどく頭のいいせっかくのミトロジー作品を、台無しにしてしまおうとしているからである。

「個人の自由な意思」などは、世界を統べている理性の前では、まことにちっぽけなものにすぎないというのが、象徴天皇の考えを上から支えている、根本思想である。ましてやその「個人の意思」を言い張ったお方が、間違った相手をつかんでしまったと気がつけば、天皇制を下から支えている国民が、ネットに盛大に落首を上げるのは当然の行為で、それを誹謗中傷などと批判することのほうがむしろ恥ずかしい。

以上

 さすが賢い人は分かりやすい文章を書く。まさに本質を突いていると思われる。

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小室圭と眞子様の結婚反対の行進デモを考える [その他]

小室さんと眞子様の結婚反対の行進デモが行われている。そして、それに対して「呪わずに祝おうよ」とか「眞子様可愛そうだよ。もう祝ってあげようよ」などと、本当、この異常事態(異常事態というのはデモのことではなく、眞子様の結婚のことである)に対して無自覚で呑気な声がSNSなどであげられているようだ。この結婚の異常事態を考えれば行進デモの一つでもしたくなるのは、日本という国家のことを多少でも考え、天皇制のことを将来的にも維持したいと意識する人達であれば当然のことであるし、愛国的な行為であるとさえ思われる。
 現行の天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である。象徴天皇は世界でも類がない制度であり、それを具体化させるうえで昭和天皇、平成天皇は大変な努力をなされてきた。天皇制度は第二次世界大戦で消滅される危機にあった。それを国民を統べる象徴として残すという選択をGHQはしたのである。そして、象徴を意味あるものにするのは、それが象徴であると信じる国民があって初めて成立するものである。戦後のお二人の天皇、そして現在の令和天皇も、その象徴という具象なき観念をいかに国民に共有させるかで立派にその役割を果たしてきた。
 そして、その象徴性は「神」であった天皇家という日本の歴史をある程度、現代にも継承させることによって、それが纏っていた神格性、カリスマで強化してきたといってもよい。それに加えて、昭和天皇、平成天皇の献身的な姿勢、国民への慈愛(個人的には特に平成天皇と美智子妃殿下)の深さが、国民の天皇家への親愛を育んできたといえよう。国際法では「戦争責任」があるとされる天皇が、象徴として日本人の心を統べるようになるには相当の年月と説得が必要であった。ちなみに、そのために美智子妃殿下が果たした役割は相当大きなものがあったと考えられる。
 このように象徴天皇というのは、常にそのシンボル性を維持させていかなくてはならない難しい制度である。そして、そのシンボル性は、個を超越した国家、そして国民への献身との引き換えに得られるものであり、その信頼ゆえに我々国民は天皇という象徴に敬意と思慕の情を持つのである。それは、「一個人の感情」などを超越したところで初めて成立し得るものであるのだ。いや、個人の感情は人間だから持つのは当然だとしても、その感情よりも「国」という観念への献身というものを優先させることで、象徴としての天皇制は維持される。
 そうはいっても、「結婚すれば一般国民になるのであるから自由にさせてもいいのでは」という意見を持つかもしれないが、それは国民が受容できる範疇である相手でなければ、天皇制の信頼は失墜する。失礼ながら、小室家に嫁ぐというのは、一般的な家庭の親であっても相当悩むであろう。横浜中華街の老舗中華料理店の令嬢は、小室圭との結婚を許されなかったそうだが、それは一般的なごく常識的な家庭の判断であると思われる。父親と父親方の両親が自殺をしていること、父親の友人から多額のお金を借りていて返却していないこと(を先方から訴えられていること)、母親がアルバイト先の学芸大学のマッターホルンというケーキ屋を捻挫をしただけで訴えていること、など、ちょっとあげただけでも嫁がせたくないなと思う理由は数多とでてくる。姪っ子の結婚相手であったら多くの人が反対するであろう。
 そして、この件に対しての国民の落胆は、天皇制の象徴性を瓦解させているのだ。私も眞子様が誰と結婚しようとどうでもいいのだが、抵抗するのは、これまで昭和天皇、平成天皇が努力に努力を重ねて築き上げてきた天皇制の象徴がズタズタにされているからである。それは、眞子様の問題ではなく、象徴天皇という制度への信頼度を失墜させていることへの問題なのである。
 眞子様の結婚問題は、象徴天皇制という制度の崩壊、少なくとも大きく弱体化させることにつながり、私はそういう意味で、もう小室圭は日本史に名を残した(200年後の日本史の入試勉強では暗記しなくてはいけない人物となっていると確信している)といえるし、現代のラスプーチンであることは間違いない。
 したがって、結婚反対でデモしている人達は、眞子様の結婚を反対しているだけでなく、この結婚がもたらす天皇制への存亡の危機、そして国家という共同幻想にまで及ぶかもしれない危機を自覚していなくても有していると思われるのである。
 また、本当に驚くのは宮内庁のダメさ加減ぶりである。そもそも、こういう事態にさせないために宮内庁は存在しているのに、まったく仕事をしないどころか、眞子様を擁護するような対応さえしている。眞子様こそが、象徴天皇制をぶっつぶそうとしてる急先鋒で、実は宮内庁の最大の敵が眞子様であることさえ理解できていないのはダメすぎだ。天皇制がなくなれば宮内庁もいらなくなるということが分からないのか。国民に代わって、この天皇という象徴性を維持するために奮闘努力しなくてはいけないのに、まったく自分の仕事の役割をも分かっていない。というか、紀宮様の時にはしっかりと事前に銀行から都庁へと転職させたりして、紀宮様だけでなく黒田様もお守りしていたのに、今の宮内庁は目を覆う悲惨さだ。というか、本当、税金返してくれ。
 眞子様には自由に結婚させてあげるべきだ、という意見があるが、象徴としての天皇家の眞子様は国民の多くが祝福して、納得してもらうような結婚相手を選ぶ責任が生まれた時からある。それは、その「象徴性」を強化しなくても、貶めない相手を選ぶべきで、おそらく、それが唯一、我々の税金を使って暮らしてきたことへの恩返しに近い(それに比べれば他の公務などはまったく取るに足らない雑用だ)。いや、国民は相当、寛容であると思う。その国民がデモをしてまで反対する相手を選んだというのは、天皇家としてはまさに失格であり、そのような状況に眞子様を追い込んだ宮内庁は、一昔前だったら切腹ものの失態だなと思ったりもする。
 ある弁護士が、ネットニュースで「自分の意思で選んだ人と結婚することは、極めて重要な人権である。結婚・恋愛は、人生の幸せに直結する、最も重要な選択だ。それを否定しようという社会の空気は、まるで時計の針を封建時代に戻したかのようである」と記していたが、天皇家を一般人と同じ土俵に上げて論じている、ある意味、大変天皇家に対して失礼な考えを持っているかなと思うが、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である天皇家は一般人とはまったく異なる重要性を有している。このような意見を主張すると、実は天皇家の存在意義が問われてくる。もちろん、天皇家でなければ、眞子様が誰と結婚しても世間がとやかく言う必要はない。しかし、それは国民の象徴である天皇家の結婚である。国民が納得しない結婚を強行するのは、国民への裏切り行為であるし、それに反対運動する気持ちはよく分かる。「封建時代」云々ではなく、天皇制を象徴としても掲げているというのはそういうことなのだ。つまり、「封建時代」以前からも存在している天皇という象徴を現代でも引き継いできているのであり、そりゃ「封建時代どころか封建時代以前からあるお家の話ですよ」と捉えるべきものなのだ。何も分かっていないのはこの弁護士だ。
 とはいえ、私は別に天皇制がなくなっても、ちょっと残念だけど受け入れられる。ただ、平成天皇、美智子妃殿下の日本という国への強い思いを考えると、それは少し悔しい。私のような一国民でさえ、このような気持ちを天皇制に抱いているのに、そのかけらさえ眞子様は持っていないように振る舞っている現状は、天皇という象徴に大きな汚点を残している。その汚点がこれ以上、広がらないようにしっかりと事後処理をしないと、本当、天皇家は滅びるかもしれない。

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ギター遍歴 [その他]

新しいギターを購入した。K’zギターさんでカスタムメイドでつくってもらったギターである。このギターで何本目になるのか。自分の記憶の整理も兼ねて、ここでまとめてみたい(読んでいただいてもつまらない記事かと思います。その点、申し訳ない)。

まず最初に購入したのはYamahaのセミアコであった。お茶の水の下倉楽器だ。その頃はイーグルスやドゥービー・ブラザースが好きで、パトリック・シモンズに影響されたのでセミアコを購入した気がする。高校一年の時だと思う。そして、隣のクラスの小沢君の中古のグレコのレスポールも購入した。確か1万円だったと思う。これを購入して、いや、このレスポールというのはいいギターだなと気づき、アリアプロの新品のレスポールをその後購入する。そして、グレコのレスポールは同じクラスの中井さんに1万円で売った。アリアプロは結構、気に入っていたと思う。大学時代も弾いていたと思われるが、おそらく大学に入って、フェルナンデスのテレキャスを購入する時に売ったような気がする。大学のバンドではリードを他のギタリストに任せて、自分はボーカルでサイドギターを弾くようになったので、気分がテレキャスになったのだ。大学時代はずっとこのフェルナンデスのテレキャスを中心に弾いていた。

さて社会人になって、時間はないけどお金はあるようになったので、トレモロ式のアームが欲しいなと思ってValley Artsのギターを買ったのだが、これはほとんど弾かずにいた。これは、トレモロの管理が当時は面倒くさすぎてやってられないな、と思ったからだ。そして、バンドを新たにつくったこともあり、シェクターのテレキャスターを思い切って買う。これは、それまでとは違って27万円と破格に高い値段のギターでなかなか思い切ったことをした。そして、このギターは今でも私のコレクションとして残っている。その後、バンドが内紛で解散し、私も結婚してアメリカに行くことになり、ここでほとんどのギターを泣く泣く処分することになる。ヤマハのセミアコ、フェルナンデスのテレキャス、ヴァリー・アーツのストラトはこの時、すべて売ってしまう。

さて、結婚してバンド活動もまったくしなくなって、ギターもほとんど弾かなくなっていた私はシェクターのテレキャスしか持っていないという状況を長らく続けるが、その後、会社を辞めて大学の教員になり、しばらく経ってゼミ生が「先生、楽器やれるならバンドしましょうよ」と言ったので、シェクターを物置から取り出してまた演奏するようになる。その後、癌が見つかって手術をしたのだが、退院したのを祝って、思い切ってポール・リード・スミスのカスタム24を渋谷の石橋楽器で購入する。これは、それほど考えなくて買ったのだが、結果的には大正解で、今でも本当、いいギターを買ったと嬉しく思っている。その後、オヴェーションの中古のアコギを10万円でお茶の水の黒沢楽器でも買ったりしたが、これは大失敗だった。オヴェーションという名前に騙された。

その後、シアトルの中古楽器屋を訪れて、その雰囲気にめちゃくちゃ弾かれて、ギブソンの中古のセミアコを13万円で購入する。335より小ぶりの奴だ。結構、いい音が出ていたのだが、3弦がやたらチューニングが狂う。リペアに出したのだが、ぜんぜん、直らなかったのでこれは売ってしまう。どんなにいい音が出ても、音程が合わないギターはきつい。このとき、オヴェーションのこともあったので、やっぱ中古はダメだなとつくづく思う。というか、ギターの目利きができる人はともかく、私のように出来ない人には中古はくずをつかまされるだけだ。オヴェーションも酷かったので、代わりに高峯のアコギを買った。これはなかなかいいギターであったので、オヴェーションを売りに出したが、価格がまったくつかないくずギターという評価だった。

そうこうしているうち、ジェネシスのトリビュート・バンドを組むことになり、これはレスポールでしょう、ということでアリアプロ以来のレスポールを購入する。ギブソンの大量生産のレスポールだ。お茶の水の黒沢楽器に行って大量のレスポールから選んだのだが、結構、サステインを気にしていたこともあって重いギターを買った。実際、このギター、本当に重いです。

また、大学を京都に移したこともあって、京都での練習用ということで、これまで一台も購入してなかったストラトをゲットする。フェンダー・ジャパンで確か8万円ぐらいであったと思う。

そして、今日のK ‘s ギターである。実際、逗子の工房に行き、いろいろとカスタムメイドで注文したのが4月なので、ほぼ半年かかったことになる。ダブルカッタウェイ、24フレット、細めのグリップ、そして32の音づくりができる脅威のピックアップ・システム。値段も高いが、これは怖ろしく素晴らしいギターを手に入れることができた。もう今日は至福感でいっぱいだ。

この素晴らしいギターよりハイグレードなギターを購入することは今後ないだろうが、まだ私のギター遍歴は続くと思われる。しかし、まあ改めていろいろなギターと人生を共にしてきたなと思ったりした今日である。

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左から、シェクターのテレキャス、タカミネのアコギ、prsのカスタム24、K's Guitarのカスタム、ギブソンのレスポール
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伊藤詩織さんの事件を考える [その他]

ジャーナリストの伊藤詩織さんが元TBS記者の山口氏から性行為を強要されたことで訴え、刑事事件では政権に極めて近い関係にある山口氏(奥さんがアッキーと同級生)を検察は嫌疑不十分として起訴を取り下げる。しかし、それで諦めなかった伊藤さんは民事裁判で訴え、2019年12月に東京地裁で開かれた民事裁判で勝訴した。ちなみに山口氏は控訴している。
 この事件の事実は、どうであったのかは私にはよく分からない。伊藤さんの訴えを聞いた高輪警察署の人達が調べた結果、山口氏は極めてクロであったという報道からすれば、また、訴えることのリスクを敢えておかしてまで伊藤さんが正義を求めたということを鑑みれば、まあ山口氏はクロなんだろうなとは思う。しかし、まあ、そこは正直、私にはよく分からない。とはいえ、山口氏の弁明する場に伊藤さんが気丈にも同席して彼を見据えていたことを考えると、まあクロであろう。潔く謝罪して、罪の責任を取ってもらえればと思うが、彼の失うものの大きさを考えると、まあジタバタするのも分からないでもない。そして、そう思いつつ、100%山口氏がクロだろうとは判断できない自分もいる。世の中、何が真実かはなかなか分からないからだ。
 さて、伊藤さんが本日、Twitterに投稿されたイラストなどが名誉毀損に当たるとして、漫画家のはすみとしこらに損害賠償を求め、東京地裁に提訴した。このイラストは、まさに伊藤さんそっくりの女性を侮辱する内容のもので、本人ではなく私が見ても非常に不愉快を感じるものである。はすみ氏は伊藤さんではない、と主張しているが、誰がどう見ても伊藤さんそのものである。というか、はすみ氏は画力があるのだ。彼女の底が抜けたように意地が悪い意図は明らかであり、こういう人の傷に辛子を塗りたがるような行為は、犯罪であることは100%明白であり、厳しく処分してもらいたい。もちろん、彼女は「言論の自由」などと主張するだろうが、シリア難民への極めて無礼なイラストとともに、その行為は「言論の自由」をむしろ危機にもたらすような裏切り行為であると思う。
 山口氏の行為は密室なので、私は、100%確信はもてないが、はすみとしこ氏の行為はまさに白日のもとに晒された、というかツィッターで拡散されていて明々白々の事実である。そして、それは犯罪的ではなく、犯罪そのものである。こういう行為を野放しにしておくことこそ、「言論の自由」への挑戦である。「言論の自由」とは、嘘をつく自由でもないし、根拠なく人を貶められる自由ではない筈だ。

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国民3%を無作為抽出したアイスランドのコロナウィルス調査結果からみえるもの [その他]

コロナウィルスの検査をまったくしない日本と対照的な国がある。アイスランドだ。アイスランドは全国民の3%にあたる無作為抽出したサンプルにコロナウィルスのテストを実施した。これは日本の人口に換算すると400万人に相当する。おそらく世界最高水準のコロナウィルスの統計検査が実施できている国だ。
 もちろん、アイスランドの人口は36万人ちょっとで、サンプル数も1万人なので絶対数的には少ないが、統計的分析をするには十分である。
さて、その結果であるが、陽性として判定された人のほぼ半数がコロナウィルスの症状をまったく見せていなかったということである。つまり、コロナウィルスの感染は、無症状の人を通じて広がっている可能性が極めて高いということが考察されるような結果が現れたのである。
より詳しい情報を知りたい人は、次のHPを参照のこと。上記は、このHPの内容から掻い摘まんで記している。
https://english.alarabiya.net/en/features/2020/03/25/Coronavirus-Iceland-s-mass-testing-finds-half-of-carriers-show-no-symptoms?fbclid=IwAR0Na0yYKGaEmm8ssHjG4G_0HoSh9lrrT2KC0JYTcZuWuTMIWM5otdVLwhU#.XoJT0jAfEXc.facebook

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明けましておめでとうございます [その他]

明けましておめでとうございます。最近、ブログの更新をしていなくて申し訳ございません。コンピューターを新しくしたことで、ネットの設定に手間取ってしまっていました。正月休みでようやく、ここらへんを整理できた次第です。

さて、2020年は東京オリンピック、そしてアメリカの大統領選があります。東京オリンピックは、これからの日本の衰退の契機となる可能性が大ですし、アメリカの大統領選は、その結果によっては大きく民主主義が瓦解していく可能性を秘めています。どちらにしろ、大変な時代を迎えるような気配が空気を覆っているように感じるのは私だけでしょうか。などと思ったら、年が明けたら、いきなりトランプはイランの司令官を殺害するし、北朝鮮はICBM実験を示唆しています。

このような状況下、国は頼りになりません。個人で生き延びる術を考えないとならない時代に突入したと考えた方がいいでしょう。日本は移民に対して、いろいろと制約を課していますが、実態としては、日本から他国に移民をしなくてはいけないような状況になりつつあることを自覚しないといけないかと思います。しかし、他国に移民をするには何しろ教育レベルを高めることが必要です。そうでないと、日本を出ることもできませんから。

なぜ、そこまで悲観的になるのか。それは、日本という国が抱えている借金の大きさからです。消費税を8%から10%に上げるのもその借金の大きさからすれば仕方ないと言えるかもしれませんが、安倍政権は増えた税収入をまたもやばらまきに使っています。福祉に使うのではなかったのか。ほとんど詐欺的なことを行っているのに、それでも安倍政権を選んだのは国民ですからね。そういう国民の国は滅びることになるかもしれない。それはとても個人的には辛いことですが、私の寿命が尽きる前に、日本は悲惨な状況、第二次世界大戦の敗戦と同じようなひどい事態になり得るかなと思ったりもしています。

新年の挨拶で、まったくおめでたくないことを書いてしまい恐縮ですが、大学教員、そして研究者のはしくれとしては、せめて迫り来る危機に対して、いたずらに危機感を煽るのではなく、冷静に客観的な情報を発信する責任があるかなと思ったりします。私の二人の子供は、日本を出ることになると思いますが、私は日本という国を愛しているので心中する覚悟ではおります。引き続き、よろしくお願いします。
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今週の標語「モチベーションがないとやる気が起きない」 [その他]

ううむ、これはうちのゼミ生の発言なのだけど、結構、衝撃的でしたね。とはいえ、モチベーションの意味には「やる気」も含まれるので、これはただ「やる気がないとやる気が起きない」と当たり前のことを言っているだけに過ぎないので衝撃を受けるようなことでも本来は無い筈です。「アペタイトがないので食べたくない」と言うようなものですね。英語を日本語で言い換えているだけです。それじゃあ、なぜ私が衝撃を受けたのでしょうか。それは、おそらく「やる気」というのはもう少しセルフ・コントロールというかセルフ・プロデュースしなくてはいけないからじゃないか、と思うからです。だって、会社員が「やる気がないから仕事をしません」って言えませんよね。私が所属しているバンドで「やる気がないから練習しなかった」って言ったらクビですよ。私はクビになりたくないので、まず練習しますけど、仮に練習しなくても「やる気がなかったから」とは拷問されても言わないなあ。だって、これって白状した時点で負けじゃないですか。というか、そもそも「やる気」がないことに時間を費やすほど残りの人生、長くないからねえ。
 つまり、モチベーションを上から与えてもらえる、などということはない筈なのに、そのようなことを期待していうこの学生に愕然とした訳です。自分がやる気が出してくれるモチベーションを待っていてもいつまでもそんなものは幻想だから得られないし、結果、そんな他力本願のやる気など滅多に出てこない。いや、出てくることもあるかもしれないですけど、そんな、天からお金が舞ってくるようなことを期待しないで自分でもっと積極的に生きなくっちゃ。って、これを誰が学生に気づかせるかと言ったらやはり指導教員の私でしょうか。あまりの衝撃に突っ込むタイミングを逸してしまいました。

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趣味が「音楽鑑賞」ということはあるのだろうか [その他]

新しいゼミ生を採用した。14名を採用したのだが、初顔合わせのミーティングを行った。そこで自己紹介をしてもらったのだが、そこで趣味を聞いたら、女子学生の多くが「音楽鑑賞」と回答したのである。そこで、ちょっと違和感を抱いたのだが、果たして「音楽鑑賞」というのは趣味なのだろうか。例えば、私も自動車を運転する時は、まず「音楽鑑賞」しているし、CDはおそらく500枚は持っている。それでも「音楽鑑賞」というのが、趣味とは思わない。No Music No Lifeというコピーがあるが、音楽鑑賞というのは人生のビタミンのようなものではないのか。これは、趣味は暇つぶしということなのだろうか。気になって辞書を調べてみたら「専門としてではなく、楽しむこと」と書いている。同じようなことは「映画鑑賞」とも言える。というのは、映画を観るというのは、結構、普通のことである。それほど特別なことではない。他には何もしていないのだろうか。

ちなみに、私は同じ質問を聞かれると、バンド活動を挙げるであろう。その次は、百名山を目指しているのでハイキングになるだろうし、スキーも好きなので趣味の範疇に入るであろう。素人の横好きかもしれないが、写真撮影もするし、料理もする。あと、最近は鉄道模型に手を出している。カメラとか鉄道模型は、どちらかというと無駄金遣いの類いに含まれるのかもしれないが、それでも音楽鑑賞よりは、ずっと趣味に近いような気がする。逆に言えば、音楽鑑賞というのは、趣味がないと言っているのであろうか。いろいろと気になったのでここに記させてもらった。もちろん、オーディオ機器に拘りを持って、クラシック音楽とかジャズ音楽とかを聴いたりするような「音楽鑑賞」を趣味にしている人もなかにはいるかもしれないが、どうなんだろう。

などと考えていながら、20代後半のイラストレーターの女性と飲みに行ったのだが、彼女はベック(BECK)の大ファンで来日すると、京都から東京までコンサートに行くらしい。このレベルになると、これは「音楽鑑賞」でも趣味の領域に入るかもしれない。私もそういう意味では椎名林檎の音楽鑑賞に関しては、趣味の域に近い。これは、おそらく音楽鑑賞をただ受動的にするのではなく、批判的に評価するだけの知識と情熱をもっているということではないのだろうか。そのレベルに達して、はじめて「音楽鑑賞」が趣味になると思ったりする。すなわち、その対象をより知りたいと思う「情熱」があって、またなおかつ周囲もそれなりに認めてくれるだけの「知識」や「技術」があって初めて趣味になるのではないか、と思ったりした。

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労働組合は自由加入であるべきだ [その他]

4月から新しい職場で働くことになった。龍谷大学政策学部である。さて、いろいろとオリエンテーションなどがあったのだが、そのうちの一つに組合の説明があった。私の前々職である三菱総合研究所にも、前職の明治学院大学にも組合はあった。前々職では若かったこともあり、プロフェッショナルなのだから職場が嫌なら辞めればいいじゃないか、という気概で仕事をしていたので組合というのが職種的にもまったく納得できなかった。しかし、強制加入であったので無理矢理入れさせられた。前職の明治学院大学も強制加入であり、いやいや入って、ろくに組合活動をせずに、転職できるように研究活動と教育活動に力を入れていた。置換え可能でない人的資源であれば、組合に頼らずに生きていけるのだ、というある意味、傲慢不遜な考えを持っていたので、組合的な活動に意味を見出さなかったのである。
 さて、そのような非組合的な考えを持っているので、龍谷大学は強制加入でないこともあり、組合に入るつもりはなかった。しかし、説明を聞いていたらなかなかいいのである。組合の成果などがしっかりと説明されたパンフレットなども配布されたのだが、組合頑張っているじゃないか、というのがオリエンテーションの説明とともに伝わってくる。このような組合なら入っていいな、と思いつつ、前々職と前職との違いは何があるのかと考え、それは強制加入ではないからだということに気づいた。強制加入は組合として仕事をしてもしなくても、組合費は入ってくる。むしろ、仕事をするだけ大変だ。仕事をするモチベーションがないため、御用組合的になり、会社の経営陣や大学の執行部などにもなめられる。一方、強制加入ではないと必然、組合の仕事をしないと誰も入らないし、どんどんと辞めていく。組合としての仕事の成果を上げるというのが、その組織を維持するためにも不可欠なのだ。そういうことで、強制加入の組合は辞めたい、辞めたいと思っていた私が、強制でないと入ろうとしている。組織の運営のあり方を考えるうえでは有効な知見を与えてくれるような経験をした。
 
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どんなに面白い話をしても眠る者はいる [その他]

建築家堀部安嗣氏の講演を聞く。大学教授もしているだけあって、話はとても面白く、しかも内容も深く、私は大変感銘を受けた。これはお金を払っても聞く価値のある貴重な話であるな、と感心した。さて、しかし、私の隣に座っていた比較的若い青年は眠っていた。この講演を聴講するのは無料ではない。本人が支払っている訳ではなく、会社や役所が払っているのかもしれないが、それにしても勿体ないな、と他人事ながら思ったりする。
 さて、これは専門家を対象とした講演会であった。私は、実は講演者の一人であったので、おそらく聴講者の中では唯一、専門家ではないのだが、それでも大変興味深く聞けたぐらいであったから、専門家であれば、その話の価値はどれほどのものだろう、と推察したりした。しかし、それでも眠れてしまう。この現象は私にとってはとても興味深いものである。ということで、なぜ、この若者は眠ってしまうのか、ちょっと考察してみた。というのも、私の大学の講義でも、私が眠らせないために面白いと思われる話を、面白く話しても眠ってしまう学生がいるからだ。これを私は自分の魅力の無さが原因なのではないか、と自己嫌悪に陥っていたが、今日の堀部さんのような話でも寝てしまうのであれば、もはやそれは講演者に責任があるとは思えないからである。
 さて、それではなぜ眠れてしまうのか。まず、それは、学生もそうだが、この聴講者にまったくの知的好奇心がないからであろう。そうでなければ、既にその話を何度も聞いたことがあり、もう聞き慣れているということもあるかもしれないが、この講演が有料であることを考えると、それはないであろう。したがって、圧倒的に関心がないのであろう。これは、まさに馬耳東風という状態である。専門性のプロ意識がないということで、おそらく建築の仕事をするのには向いていないのでないだろうか。
 もう一つは、やはり「眠る」という欲望というのは、とてつもなく抗し難いということなのではないだろうか。これは、国会での国会議員の多くが居眠りしているのを見ても、そう思ったりする。国民を代表して、国会で将来の国の方針を議論しているという重責を担っていても、「眠り」に負けしてしまう。これは、国会議員が無責任とか無自覚という訳ではなく、「眠り」というのはそれだけ抗しがたい欲望なのであろう。
 そのように考えると、講義で寝てしまう学生も別に、私に失礼なことをしていると自覚しつつも、敢えてその欲望に負けてしまう、ということもあり得るのではないだろうか。というのを堀部さんの大変面白い話に感銘を覚えつつも、隣の若者が寝ている状況から考察したりした。

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些細なことだけど悔しいこと [その他]

 私は新幹線の車内でよくラップトップで仕事をする。新横浜もしくは品川から新大阪まで往復することが多いが、その時、コンピューターの電源が途中で切れるのが嫌なので窓側の席であるA席かE席に座るようにしている。なぜなら、コンセントのプラグがついているからだ。
 ただ、この両席は最も人気が高いので先に予約で埋まる。もちろんB席やD席でも、ちょっとお願いすれば大抵の場合、使わせてくれるが、それらの席に座っている人が携帯電話などを充電しているとお手上げである。ということで、これらの席が空いている列車に乗るために1本や2本遅らせる場合が多い。
 さて、しかし、このプラグがない旧式の列車が走っていると、せっかく乗る列車を遅らせてもまったく無駄となる。今日もまたそのようなミスをしてしまった。そして、まだ大井川を通過した時点なのに、既にバッテリーが心細くなってきている。些細なことではあるが、私が悔しいというかついていないと思う日常生活の中の一例である。

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ヨドバシカメラで高価な電化製品を買うという習慣を見直すといいかもしれない [その他]

 一眼レフのレンズ、そして出来ればカメラ本体も購入したいと考えていた。さて、しかし、写真撮影をする仕事がなければ意味もない。ということで、仕事の継続が決まるのを待っていたのだが、無事、今年度も仕事が取れたので早速、購入しに行った。
 昨日、ヨドバシカメラに行った。ほとんど買うつもりであった。買おうとしたのは、Canon のEF16-35 F2.8Lである。値段は29万円であった。実際の売値はと尋ねると、「同じである」と回答したので、「随分と高いね」と返したら、「ちょっと待って下さい」と言って「ネットで調べたら25万円なので、25万円が売値です」と言い直した。どうも信頼できないなあ。
 次にカメラを見た。私は今EOS7Dを持っているが、ISOが6400しかない。長女に買ってあげたEOSのKissだってISOは12800まである。これが大きなネックだったので、新たに購入したいとは前から考えていた。狙っていたのは、比較的出たばかりのEOS 5D Mark IVである。これが幾らか尋ねると39万円。うわっ、高い。「実際は幾らで売っているんですか」と別の店員に尋ねると、「値札通りです」とのこと。しかし、この人はソニーの販売員だった。「ソニーの人だからそうだよね」と皮肉を言って何も買わずに出た。レンズの件から、値札通りとは到底思えないからだ。ただ、店を出る前に値段はしっかりとメモをしておいた。
 新宿のヨドバシカメラなので、すぐそばにマップ・カメラがある。マップ・カメラに行ったが20:30が閉店でもう閉まっていた。そこで翌日、中野のフジヤカメラに行くことに決めた。この店は1938年に創立された老舗のお店である。
 午前中に訪れたのだが、平日なのに結構、人はいた。まずはレンズを買おうとする。Canon のEF16-35 F2.8LはIIが出たばかりなのに、既にバージョン変更したIIIが出ている。値段は16万円と22万円。お店の人は無愛想だったが、「IIIの方がいいです」と確信的に言う。それで、私はレンズを買うことを即決した。そして、持参していたEOS7Dにマウントすると、どうも広角じゃあない。そこで、初めて自分のカメラがaps-cであることに気づく。間抜けな話かもしれないが、実際、使っていると別に不自由はしなかったからだ。ただし、せっかく広角のいいレンズを購入するのに、これでは宝の持ち腐れである。ということで、なんだかなあ、と思う。カメラの本体も購入したいが、昨日のヨドバシカメラの値段では予算オーバーも甚だしい。
 私が、いやあ「このカメラだと宝の持ち腐れになっちゃうなあ」とぼやくと、店員の人は私がカメラを買う意図が密かにあるということを見抜いたように、「Eos 5D Mark IIIが今、新商品のMark IVが出たのでお買い得ですよ」と言う。私が幾らぐらいですかと尋ねると25万円。これは安い。私が今、使っているカメラは2009年に買っていたので、ほとんど寿命に近い。今のカメラを買った時は、前所有していた一眼レフのシャッター回数の限界が来たからである。そのカメラは7年間使用したので、今のカメラもそろそろシャッター回数的に寿命が来ている筈である。
 ちょっと私がその意見に食い付いて、「Mark IIIはでもMarkIVに比べるといろいろと劣るでしょう」と言うと、店員は「いやいや、MarkIVが出たことでむしろMark IIIは再評価されているぐらいです。特にMovie機能などを使わない人は今でもMark IIIの方がいいくらいじゃないですか」と言う。気になる欠点は「重いところ」ぐらいであるとまで言う。ここで私は落ちた。そもそも値段が安いのに、自分のニーズには遙かに合っている。今のカメラの一番、不満なところはIOSだが、その上限が6400からいきなり25600まで伸びる。相当、思い切った出費ではあるが、どうせなら一緒に買った方がいいだろう、ということで中野まで来たこともあり買ってしまった。
 持っていたカメラを下取りでは幾らになりそうですか、と尋ねると、いろいろと見てくれた後、これだけボロいと売らない方がいいですよ、と言われてしまいました。そういう意味でも、どうせカメラも買わなくてはいけない時期に来ていたということか。また、セカンドとして持っていた方が、山登りとかに持って行けるのでいいかもしれない。
 ということでカメラとレンズを購入したのだが、私はつくづく、ヨドバシカメラの接客態度というかサービスに大いなる不満を覚えた。確かに、ヨドバシカメラは安い(とはいえ、フジヤカメラの方がポイント換算を考えても安かった)。ただ、カメラやレンズを売ろうという誠実な姿勢を伺うことはできなかった。ここで、誠実な姿勢というのは、顧客の立場、顧客のニーズを「忖度」して、自分の商品知識の中から最適だと思われるものの情報を提供するという姿勢である。それは、コンシアージ的な機能であるかと思われる。店員は売っている商品のコノセールであるべきだ。消費者側がその商品知識に造詣が深く、店員は取りあえず売ればいいという小売り形態は多くある。例えば、コンビニエンス・ストアやマクドナルドであったりする。しかし、圧倒的に店側が商品知識を持っているものも少なくない。一般的には自動車やステレオ、大型家電などの買回品がそうだったりするが、日本酒やワイン、高級寿司などもそうであろう。そして、高級一眼レフカメラやレンズなども、まさにそうである。確かに、ヨドバシカメラ(ビッグカメラなどもそうである)は、圧倒的な仕入れ力で価格を下げ、売価も安くしたが、自分は本当に何が買いたいか、その商品をカタログで調べていても自信はない。そういう点で、今回のレンズ、カメラともにヨドバシカメラはまったく私が必要な情報を提供してくれることはなかった。こちらが尋ねてでもある。一方で、フジヤカメラは適切な情報を提供してくれたことで、レンズかカメラのどちらかだけを購入しようと思っていた私に両方とも売ることに成功し、そして私も大変満足しているのだ。私は結構、ヨドバシカメラで買うことが多いと思うが(カメラ本体はともかく、レンズなどはそうである)、今後は、ヨドバシカメラで高価な電化製品を買うという習慣を見直すべきであると今回の経験から思わせられた。

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ポケモンGOをしない人が、しない人に取材をして、へんな分析をすることは止めてもらいたい [その他]



12月12日からポケモンGOのポケモンが追加されることになった。ちょうど、その前日に私はポケモンをコンプリートさせた(海外バージョンのガルーラとケンタウロスはゲットしていない。バリヤードはゲットしている)。ちょっと、このように告白すると恥ずかしい。いい大人がポケモンGOをしていることを恥じている自分がいるからだ。さて、そのようなポケモンGOであるが、「若者がポケモンGOから離れた理由」(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161216-00000002-zdn_m-sci)などと、したり顔で分析している人達が多いことが気になっている。ポケモンGOをしていない若者に取材をして、ポケモンGOをしていない人が、なぜポケモンGOをしないのかを聞いても、その理由が分かる訳がないだろう。私はホヤが好きでないが、「ホヤを食べない」人達がなぜ「ホヤを食べないのか」を、本人もホヤを食べない人が取材をして分析を試みても、ホヤをマーケティングする戦略が見えないことと同じである。ホヤを食べる人達はとても多くいて、それらの人をマーケットとして、ホヤ産業は十分に成立している。別に、我々のような「食べない人達」が食べなくてもどうでもいいのである。このエッセイは、「新ポケモンの追加でさらなる盛り上がりを見せるポケモンGOですが、若者たちをどこまで取り込んでいけるのでしょうか」と締めているが、私からすれば、今の状態でも十分にポケモンGOをする人が多すぎて、盛り上がっていて、ちょっと困っているぐらいである。これ以上、増えると逆に一人当たりの効用は減るので、そこまで儲けなくてもいいだろう、という気分である。さて、それでは、なぜ私のように未だポケモンGOをする人がいるのに、飽きている人もいるのか。ポケモンGOをしている私が解説したいと思う。

まず、ポケモンGOというゲームの本質を理解していない人が多いことが挙げられる。別に本質を理解したとしても、それに興味を持たなければどうでもいいことであるが、それを知る前に飽きてしまう人が多い。多くの途中で飽きた人達は、このゲームはポケモンをゲットすることが目的であると考えている。それも一つの側面であるが、このゲームはポケモン・ジムにて、バトルをしながら陣取り合戦をすることこそが、もう一つの目的であり、これはなかなか楽しいゲームであると私は捉えている。そして、バトルをするためには、ゲットしたポケモンを強化させなくてはならない。この育てる、という側面もこのゲームを楽しくさせている点だ。どのポケモンを鍛え、ジムに参戦させるのか。タイプごとに、戦略ごとに、いろいろと考えなくてはならない。ポケモン・ジムで参戦をして勝てばコインがもらえる。コインによって、孵化器などのグッズを購入することができる。孵化器はポケモンの卵を孵化させるのに必要な道具で、いくらあっても困らない。お金を払っても買うことができるが、流石にそれはちょっともったいないので、私は毎日、海外にいても10コイン(最低の単位が10コインから)はゲットするように努めている。このコインのインセンティブがあることは、プレイする人達の大きなインセンティブになっていると思う。このバトルのシステムは非常によく考えられており、つくづく、このゲームは洗練されていると思う(タイプごとに弱点と強みがあるところとか)。私は、駅から家に帰る際に、2つ、状況に応じては3つほどジムを訪れ、バトルをしてから帰宅をしている。バトルをしている姿は、ちょっと人に見せられなくて、その点は相当、このゲームの弱点ではあると思うが、喫茶店でやれたりもするところがあるので、それは助かっている(ゲームをしているのではなく、メイルを打っているように見えるからである)。
 ポケモンGOをポケモン・ゲットと捉えている人が飽きてしまうのはもったいないと思うが、このゲットするという行為自体にも、なかなか楽しい工夫が為されており、もう少し真剣にやれば楽しみが分かると思うのである。レア・ポケモンのポケモンの巣に訪れて取るのは、あたかもカブトムシがわんさかといる森に行って、それらを取る時のような興奮を覚える。そして、そのために知らない公共空間(たいてい公園などの公共空間がポケモンの巣に設定されている)を訪れるのも悪くない。こんないい公園が東京にはあったのか、などを知る機会を提供してもらって感謝をする時もあるぐらいだ。
 私の場合は、子供達はあまり興味を持っていないが、家内もはまっているので、なかなか夫婦のコミュニケーション・ツールとしてはプラスになっている。もちろん、そういうのがまったく不要なおしどり夫婦であれば、いらないのであろうが、ちょっと夫婦仲が怪しい場合は、ポケモンGOはプラスしかもたらさないであろう。
 私の子供は一人が大学生で、ポケモンGOは家族で最初に手を出したのだが、一番早く飽きた。それは、ポケモンGOというゲームに問題があるというよりかは、その奥深さを追求するような意欲、好奇心が欠けているからである。そんな、好奇心のない若者に媚びて、合わせていたら、ゲーム自体の楽しさを損なう。というか、バトルをしているとつくづく感じるのは、皆、やり過ぎ。香港とかに来て、おっ!ここはポケモンのレベルが低いな、と喜んだのだが、バトルでやっつけても瞬時でまたバトルを仕掛けられてしまう。レベルが低いが、ポケモン・バトルの参加度は東京を上回るのではないだろうか。ポケモンGOに嵌まっている人達は、既に世界中に十分いるし、私としてはちょっとコインを稼ぐためには、皆があまりにもポケモン・バトルをやり過ぎるわ、と自分のことを棚に上げて思ったりしているぐらいだ。現状のポケモン・ジムの数からすると、参加者は飽和数に近いのではないだろうか(いや、さらに参加者が増えればジムを増やすだけでしょうが)。ということで、本当、ポケモンGOをしない人が、しない人に取材をして、へんな分析をすることは止めてもらいたい。というか、したり顔は格好が悪い。

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セビージャにてバリヤードをゲット。スペインのポケモンGO事情。 [その他]

 スペインに来ている。実は、私はたしなむ程度にポケモンGOをしている。スペインに来たので、仕事のついでにポケモンGOのスペイン事情もちょっとチェックをした。まず、ポケモン・ストップなどの数はマドリッドの都心には多くあるが、郊外とかには少ないという印象を受ける。スペインでも都市偏重という傾向がみられる。また、ポケモン・ジムに関してだが、日本よりは弱い印象があるが、圧倒的な差があるとは言えない。カイリューの3000ポイントクラスがいたりもする。
 あと、スペインだと日本とは頻繁に出てくるポケモンが違う気がする。といってもマドリッドとセビージャだけでしかやっていないので、スペインと括るのは問題があるが、サンドとガーディ、アーボが多く出てくる。それとニャース。ここらへんは、やはり乾燥している気候だからだろうか。また、リザードも出てきたりして、なんとなく火ポケモンと砂ポケモンが多くでる気がする。逆にまだまったく遭遇していないのは、コイキング、ヤドン、キャタピー、ビードル、ふしぎだね、なぞのくさ、トサキントなどである。これらは、「近くにいるポケモン」でも出てこない。草系、水系があまり出ないという印象だ。
 ポケモンGOには地域限定ポケモンがあり、ヨーロッパはバリヤードである。マドリッドの郊外のホテルでも「近くにいるポケモン」にシルエットが出たが、夜であったこともありホテルの外(ホテル内では出てこなかった)までゲットしにいくのは諦めたが、その後、マドリッドからセビージャに移動して、水を買うためにセビージャのホテルを出て、歩いていたら「近くにいるポケモン」に再び出現したので、これは是非ともゲットしなくてはと思い、計画的に歩くことで(消えた場所(A点)で折り返し、逆の方向に歩いて再び消えたところ(B点)をみつけ、ABの垂直二等分線上を歩く)みつけてゲットした。思わず、「やった」と声が出てしまった。
 プログラミングをされたものを分析するのは虚しいところはあるが、地域によってポケモンをどのように分散させて出現しようとさせているのか、その考えは企業秘密なのだろうが、知りたいところである。明らかに風土を反映させるように意図されているような印象を受ける。

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武蔵野大学の長谷川秀夫教授の無責任発言について、多少考える [その他]

武蔵野大学の長谷川秀夫教授がインターネットサイトのニュースサイトに「残業100時間で過労死は情けない」と投稿したことで、ネット上で炎上、大学がその処分を検討するような事態になってしまった。電通の女子社員の過労自殺ニュースが配信された時間帯に投稿したことで、彼女のことに言及してはいないが、亡くなった人への配慮がなく無神経な発言であったことの誹りは免れないであろう。

ただ、「残業100時間で過労死は情けない」という発言を擁護する気は毛頭ないが、私のように50代を越えた人間からすると、特にバブル期においては、残業100時間は珍しくはなかった。流石に4月に自殺された原子力規制委員会の審査対応をしていた関西電力の課長職の四十代男性の残業200時間は、当時でも異常な数字ではあったが、100時間というのは私もよくクリアしていた数字である。「過労死は情けない」という発言は情があまりにも無いと思うが、残業100時間というのを「たいしたことないじゃないか」と思うのは、1990年前後にサラリーマンをしていた人たち、特に私のような法人サービス産業、に従事していた人が共有する感覚なのではないか、と思う。

これは、しかし、おそらく若い人たちからすると論外であることだろうし、なかなか共感することは難しいであろう。私も、結果的にやってはいたが、徹夜明けのオフィスで貧血になって倒れたりしたり、基本、プライベートな生活はほとんどなかったりで、仕事はやり遂げたかもしれないが、ほとんど何もプラスにはなっていない。したがって、100時間残業をやってはいたが、それが大したことがないと感じてしまうのは、私の問題でもあろう。

ただ、私が残業していたのは、会社や上司のせいではなく、コンサルタントという業務の特性からであった。顧客が納得できなかったら、残業をしてでも完成度をあげなくてはならない。それは理不尽なところもあるし、私はちょっと直情的なところがあるので、顧客に文句を言ったりもしたが、それでも情報や知恵で、お金をいただくというのはとても大変なことなのである。そして、電通も業態的には私が働いていたシンクタンクと似たようなところがある。私はよく後輩に、「なんで顧客が君のアウトプットにこれだけのお金を払うと思うの。その価値をつくるための工夫や努力をしないと」と言っていた。それは、私が自分自身を自戒するために自問していたことでもある。さらにいえば、顧客がアウトプットに満足してくれた時には、私は大いに嬉しい気分と達成感が得られた。まあ、それが高残業のインセンティブに当時はなっていたのは確かであり、おそらく今では許されないアプローチなのかもしれないが、プロとしての自覚がそのようにさせていたというのはあったと思う。そのことを私は個人的には、それほど肯定したくはないが、組織全体ではそういう厳しさを共有して乗り越えようといった体育会的な雰囲気があり、それはある意味では居心地が悪くはなかった。もちろん、そのような雰囲気が苦手(特に女性)な人たちがいたことをあまり配慮していない、という排他的な雰囲気も合わせて有しており、決して褒められたものではないが、そういうのに肯定的な日本の組織文化のようなものを有している企業は、当時は少なくなかったと思われる。

その物言いは情がなさ過ぎるのは確かであるし、おそらく長谷川教授は後悔もしていると思うのだが、ちょっとバブル期にサラリーマンをしていた私は、彼がそう迂闊にも口走ってしまった背景は理解できるのだ。そして、そのような経験がない大学一筋で過ごされた学長に処分を検討されてしまうのは、正直、同情を禁じ得ない。いや、発言に対して責められることには同情の余地はないが、処分されることには同情をするということです。

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ポケモンGOはバスに乗りながらやるのがちょうどよい [その他]

 私も嗜み程度に、ポケモンGOをしている。モンスターボールを投げるのが下手だったり、電池を猛烈に消耗したりするので、それほど嵌ってはいない。ただ、このゲームは都市をフィールドとしているので、いろいろと発見があったりして興味深い。
 まず、気づいたことは当たり前であるが、東京の歩行環境の悪さである。ポケモンGOを歩道でも歩きながらするのは相当、危険である。私の家内は実は、ポケモンGOに相当、没頭しているが、彼女は自転車に乗りながらもやっている。とても危険で止めさせたいのだが、どうもポケモンGOの魅力には打ち勝てないようだ。私の家内のような危険人物もいるので、またそうでなくても歩行環境はよくないので、実質的にポケモンGOを歩きながら出来るのは、河川を暗渠化させてつくられた緑道ぐらいではないだろうか。ちなみに、このような緑道はポケモンが多く出る(コイキングやコダック等水ポケモン系)ので一石二鳥である。ただ、このような例外的な事例を除くと、なかなか歩いてもポケモンには出会えない。身の危険を賭してまで、歩いてやるだけの価値があるのか。ちょっと疑問である。
 それじゃあ、自転車や自動車に乗りながらやればいいじゃないか、と思うかもしれないが、これは家内がやっている手前、あまり強くは言えないが、ほとんど犯罪に近いと思う。特に自動車をやりながらするような輩は厳しく取り締まるべきだ。実際、取り締まられているそうだが、当然である。
 幸い、東京は公共交通機関が充実している。自分が運転しなくても、歩くより遙かに速いスピードでポケモン探しができる。ただ、電車だとちょっとスピードが速すぎる。GPSのスピードがついていきにくいし、ポケモンやポケモンストップを発見してもあっという間に消え去ってしまう。また、地下鉄はなかなかポケモンが出てきにくい。
 それに比べてバスはちょうどよいスピードで動く。集中していないと逃したりもするが、それがそれほど惜しくないほど次から次へと出てくる。これは、バス路線によっても事情は違うのかもしれないが、私が通勤で使っている目黒通りは、よく出てくる。バスに乗っていても飽きない。
 また、ポケモンストップは、ランドマークに設定されている。したがって、普段、バスで移動していて気づかなかったような神社やお寺、ちょっと面白そうな店などがあることを知ることができる。沿線のちょっとした地理の勉強にもなる。暇な時に訪れてもいいかな、と思ったりもしたりする。東京のバス会社は、お客があまり乗らないシーズンや時間帯は、ポケモンGOとタイアップすることを考えるといいと思う。マクドナルドに寄るよりか、ずっと楽しくポケモンGOを遊べると思われる。
 東京のバス路線ごとに、どんなポケモンが出てくるか、などを解説する本などがあってもいいと思う。歩くのも危険、自転車、自動車は論外、鉄道はスピードが速すぎ。バスこそがポケモンGOを遊ぶのに最も適した移動手段であり、私は、ちょっとこれに気づいてからバスに積極的に乗るようになっている。今日も、蒲田駅から羽田空港までバスで初めて移動したのだが(それまでは京急羽田線を使う場合が多かった)、イーブイをゲットできた。イーブイはそれほど珍しいポケモンであったが、私的には初めてだったのでちょっと嬉しい。

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過度のストレスによる自分の身体の変調を客観的に分析してみる [その他]

 人生初めてくらいの緊張によるストレスを感じている。このような状況に置かれると、身体が変調を来す。なぜ、ストレスを感じて身体が変調を来すのかはちょっと興味深いのでここに記させてもらう。ストレスの原因はちょっと書きたくないし、おそらく書けないので書かない。
 まず、動悸がする。そして、動悸が続く。寝るときは動悸でなかなか寝付けない。朝、起きても動悸が続いていたので、もしかしたら寝ている間、ずっと動悸が続いていたのかもしれない。私はあまり動悸をしないタイプなので、ちょっと心配になる。これがより激しくなったらパニックになるのかもしれないが、現時点では、それほど酷くはなっていない。
 あと圧倒的に眠れない。しかし、眠い。眠いのに眠れない。これは辛い。したがって、いつも眠い状態が続く。たまにちょっとの時間、眠れたりするがまた起きてしまう。あと、睡眠もそうなのだが、1つのことを続けてできなくなる。集中力が著しく減衰するのだ。今、機内でこれを書いているのだが、すぐ他のことに気が行ってしまい、この文章を書き続けるのも難儀となって、しょっちゅう中断する。しかし、中断しても何か他のことをする訳でもなく、休むだけである。
 加えて、頭がボーッとする。そして、なんか頭に霧がかかった状況が続く。これは以前、サラリーマンをしている時にも似たような状況を体験したことがあるが、久し振りだ。当時も何か身体がおかしい訳ではなく、ストレスによる体調の異変ということだったのだな、ということを知る。逆にいえば、こういう状況になっても身体に何か問題がある訳ではない。ストレスをなくせば、症状も改善するであろう。
 さらに、頭がボーッとしているのと関係があるのかもしれないが、手が常にしびれているような状況にもなる。手に力が入らないのだ。
 また、身体が冷える。おそらく低血圧になっているのではないだろうか。頭がボーッというのは高血圧なのかもしれないが、ちょっと身体が冷えて、常に寒い。これはもしかしたら、食事を摂らなくなっているからかもしれない。何しろ食欲は本当に出ない。私は小さいが結構、大食いの部類だが、その私が本当に食べなくなっている。食欲はないが、無理矢理食べているという状況だ。しかし、それでもホットケーキ1枚、サンドイッチ一切れぐらいが限界だ。
 サラリーマンで超多忙だった時、ストレスから身体に変調がみられたが、それはどこか身体が悪いからだろうと心配であった。しかし、現在の身体の変調はストレスが明らかに要因なので、逆に安心だ。まあ、そのストレスが除去されるまでは、しばらくこの状況が続くだろうが、そのうち消えるであろう。まあ、などと余裕をこいているが、この状態が2週間ぐらいは続いたら検査をしてもらわないと不味いかもしれない。今はまだ3日ぐらいしか経っていないので様子見だ。などと書きつつ、ヨーロッパに向かっているのだが。大丈夫なのだろうか、私?


タグ:ストレス
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元会社を訪れ、いろいろと考えさせられた [その他]

 13年前に在籍した会社に、もう10年ぶりぐらいで訪れる。委託研究を主な仕事とする民間のシンクタンクである。一緒に仕事をした後輩なども50歳を越えている。多くが既に研究業務の一線から退き、営業や企画などの仕事をしている。しかし、彼らは極めて研究者として優秀であった。というか、むしろ研究は優秀であったが営業が苦手であったがゆえに、成績が今ひとつで出世できなかったというところがあったかとも思う。私より研究者として優秀であったと私が思っている人材が、得意な研究ではなく営業をしている(営業に関しては実は私の方が優秀であったとは思う)というのは、なんかしっくりこない、というかもったいないことをしているな、と思う。
 一方で、彼らの優秀な研究能力に劣等感を持っているといってもよい私は、大学で勝手な研究をやらせてもらっている。文科省の研究費も二件ももらい、税金でも研究させてもらっているという贅沢を享受している。本も出せているし、自主製作ではあるがCDも出すことができた。お金にはいつも困っているし、常に渇いているが、それでも、この会社に残って送っていたかもしれない人生と比べると、ずっと有意義であるとは思う。
 さて、しかし、ここで私が言いたいことは、会社を辞めて正解だということを自慢したい訳ではなく、私は将来を先読みしたから、今の状況を獲得できた、ということだ。将来を読む、というのは私が専門とする都市計画をつくるうえでの極めて重要な要件であるが、自分の置かれた状況が今後、どうなるか、ということを予測することは重要であろう。私が在籍した会社では、私が尊敬する先輩達が冷や飯を食わされ、私があまり尊敬しないような人が出世をしていた。私の仕事のやり方では、そう遠くない将来に冷や飯を食わされることは予測できた。というか、私が出世することはあり得ないとも思った。いや、出世しなくても、好きな研究を続けられればよい。研究をする機会をも奪われる可能性がある、という状況が私を転職へと向かわせたのである。そして、その判断の基準は、「この会社で働いていて、今日、死んだとしても悔やまずにいられるか」というものである。私は、絶対悔やむであろうと思い、転職をし、転職をしたことには露一つも後悔していない。
 それを、私の周辺にいた私が一目を置いていた同僚達の現状を改めて知り、確認させられた。
 既存の環境をぶちこわし、新たな環境に置かれることは大きなリスクを伴う。しかし、変化を拒み、現状に固執することも大きなリスクを伴う。
 私の父親は、私の転職に大きな難色を示して反対したが、もう大人の私は完璧に無視した。父親が間違っていたと確信を持っていたからである。ただし、多くの人の場合は、私のように親の言うことを無視するのにも抵抗があるかもしれない。しかし、父親の人生を肯定的に捉えられるのなら別だが、そのように捉えられないのであれば聞く必要はないと思う。
 そして、現在の私が考えている将来は、残りの人生が決して長くはない、ということだ。人は必ず死ぬ。このことを肝に銘じて、残りの与えられた時間を有意義に過ごさなくてはいけないな、と強く考えている。本当はもっと若い時からこのような意識を持てればよかったのだが、結局、いつかはどうにかなるだろう、と高をくくってしまった。後悔先に立たず、とはよく言われるが、死ぬ瞬間になるべく後悔を少なくしたいものであると思う。
 ということを久々に訪れた元会社が改めて気づかせてくれた。会社での時間は無駄とまではいかないがもったいなかった。それがもったいなかったということを自覚し、同じことを繰り返さないということが、現在の私にとって重要なことである。

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アップル・コンピューターがまた迷走している。今度は救世主は見当たらない。 [その他]

最近は随分とアップル・コンピューターを利用している人が増えた。しかも、結構、誇らしげにアップル・コンピューターを使っている。アメリカはもちろんだが日本でもそうだ。私の若いドイツ人の友人も頑なにアップルを拒んでいたが、最近では使うようになっている。文句は言っているが、時代の趨勢には適わないようだ。信じられないことに、アップルがむしろマジョリティになっている、デファクト・スタンダードになりつつあるのだ。一昔前からは想像もできない、驚愕の事実だ。

私は1990年からのアップル・ユーザーである。当時は普通のPCの2倍もするアップルを会社の部署に導入するのに随分と課長と交渉した。当時は、一台100万円もしたので、相当、高い。しかし、どうにか2台ほど導入することに成功した。今でこそPCもウィンドウであるが、当時はそのような操作ができるのはマックだけ。画像処理のしやすさ、当時は統計ソフトSPSSが使えるなどマックは素晴らしいコンピューターであると感動したものだ。それ以来、私は一貫してマックを使っているのである。

さて、しかしマック・ユーザーはその後、まさに異教徒のような迫害との戦いを強いられることになる。基本的にはPCがウィンドウを開発した時点ぐらいから、その優越性が大きく後退していき、それまでマック教徒であった人々の多くが宗旨替えをするようになった。会社でも、マック・ユーザーであった後輩達がむしろ、マックの使い勝手の悪さを喧伝していき、まさにマック・ユーザーからすれば裏切り者以外の何ものでもない行動をしたのである。

私は一度、ウィンドウのマシンを会社から支給してもらったのだが、使い勝手があまりにも悪いのでマックに戻った。さて、しかしマックのOSはおそろしく安定せず、しょっちゅうフリーズをした。マック・ユーザーは何しろ、このフリーズとの悪戦苦闘であり、特に私のようにDTPのソフトを用いるものにとっては、このフリーズは耐え難いものであった。OS9になった時には、比較的、安定はするようになったが、それでもマックといえばフリーズ、というもうイタリア製のスポーツカーに乗っているような覚悟がマック・ユーザーには必要とされたのである。

会社でもマック・ユーザーははた迷惑な存在であるとみなされるようになり、私はマックが使える部署を探して転々とすることになるのだが、そのように移っていった部署でも私のグループしかマックを使わなくなっていた。それは、もう冷たい視線にさらされた。異教徒そのものの扱いを受けたわけである。会社でもそうだが、仕事関係は厳しかった。ファイルを共有し始めるようになったら、何か問題があるとマックだからと言われて、それは受注産業的には厳しいものがあった。また、学会でも、ある先生から「僕はマックをこの世からなくす活動をしている」と直接、言われてショックを受けたことがある。何よりショックだったのはSPSSがマックで使えなくなったことである。SPSSを使うことができたのがマックの大きなメリットだったのに使えなくなったことには大いにショックを受け、当時、SPSSに電話をして抗議をしたぐらいである(その後、マックでも使えるようになる)。

もう本当にマックに拘っている私は何だろうな、と流石に心を折れ欠けていたときにマックOS10が出されることになる。アップルから追求されたスティーブ・ジョブスが復帰し、iMACなど斬新な商品を既に出すようになっていたが、大きな決定打はこのOS10である。このOS10は、それまでフリーズしまくっていたマックがほぼフリーズ・フリーになり、使いやすさは格段に向上した。2001年頃のことである。それ以降は、マックで仕事をすることにはコンピューター的にはウィンドウズに比べても何の遜色もなくなった。大きな違いはゲームとかレジャー系のソフトがないことぐらいである。ウィンドウズで遊べるゲームはあっても、マックはほとんどない。しかし、それを除けば、マックがウィンドウに劣る点はほぼなくなったな、というのが私の率直な感想であった。

とういことで、チーターが、ピューマ、ジャガー、パンサー、タイガー、レパード、スノー・レパード、ライオン、マウンテン・ライオンと猫系の猛獣の名称がついていたOSが、突如10.9でマーベリックスと馬に変わった。私はそもそもダラス・マーベリックスが嫌いなので(ゴールデンステート・ウォリアーズのファンなので)なんか嫌な予感がしたが、実際、使い勝手が恐ろしく悪く、マーベリックスがプリ・インストールされているマックブック・プロを所有しているが、現在でもメインで使っているのは、マウンテン・ライオンのOSで動いているマックブック・プロである。マーベリックスは本当、出来が悪いな、と噴飯やるかたない気分でいたら、ヨセミテという遂に動物ではなくて鉱物のような名称のOSになってしまった。ちなみに、私は以前、コンピューターにヨセミテ、セコイア、グランド・キャニオン、ザイオン、グレイシャーなどアメリカの国立公園の名称をつけていたことがあったので(現在は世界の大都市にしている)、その気分は分からなくもないが、早く動くOSとしての名称としてはどうなのだろう、と思っていたらどうも評判が悪い。私はマーベリックスには本当、不満なのでヨセミテをインストールしようと考えていたのだが、どうもネットの評判からだと、ヨセミテはマーベリックスよりも悪いようなのだ。何なんだ。

スティーブ・ジョブスが亡くなった時点で、マッキントッシュには暗雲が垂れ込めていたが、予想通り、どんどんと悪くなっていく。アップルは金儲けを考え始めると失敗をするのだ。新しい社会ビジョンを提示しよう、新しい仕事の仕方、新しい生活の仕方を創造しようと考えてこそ、結果的にうまくいく会社である。情報を占有していた人達から解放したのはインターネットというシステムである。コンピューターは技術を人々が共有し合ったことで発展してきた。それなのにアップルは今、ビッグ・ブラザーのような立ち振る舞いをしている。自分達が壊そうとしたものに、自分が成り代わろうとしているのである。スティーブ・ジョブスには良くも悪くも、そのような考えがなかった。

頻繁に無駄なバージョン・アップを繰り返し、そのたびに消費者から金を搾り取り、それで状況がよくなればいいが、むしろ悪くなっている。こんなビジネスを誰が支えると思っているのだろうか。成功は失敗の要因である。アップルが以前と同じ轍を踏んでいる現状は嘆かわしいが、前回とは違って、もうスティーブ・ジョブスが復帰して救ってくれることはない。本当、どうにかしてもらいたい、と個人的な事情から強く願う。

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今どきの大学生の夢は「結婚して家庭をつくること」? [その他]

 ひょんなことから、私の演習を受けている学生に「人生の夢って何?」と尋ねた。すると、「味の素スタジアムに近い家に引っ越したい」(FC東京のファンらしい)、「とりあえず自分の親のように平和な家族をつくりたい」、「家族をつくって土曜日は子供のサッカー教室で教えたい」、「結婚して家族をつくりたい」といったような回答ばかりが返ってきた。一人だけ、「銀行を買収できるぐらいお金が欲しい」というのがあった。この彼だけ、ちょっと見込みはあるかもしれない。私は大学の教員を12年以上やっているので、昔だったら「お前等、おかしいだろ」と一喝していただろうけど、最近ではにこにこ聞いている。そうすると、学生が「先生の夢は?」と聞いていたので、
・ NBAのチームのオーナー。できればゴールデンステート・ウォリアーズ
と答えた。しかし、ちょっと考えていたら、もっといろいろと出てきた。
・ 椎名林檎と二人で世界一周旅行
・ 椎名林檎のコンサートのバックでギター演奏
・ これまでの人生で作曲した曲のCD製作。できれば椎名林檎に歌って欲しい
・ くるりのメンツとジャム・セッション
・ クリチバのジャイメ・レルネルの「都市の鍼治療」の映画製作
・ クリチバの中村ひとしさんの伝記の映画製作
・ ライブ・カフェ(兼スタジオ)の経営
・ 100名山踏破
・ 下北沢本の執筆、出版
・ ペネロペ・クルーズかヘザー・グラムと黒川温泉への3泊デート
・ ポール・マッカートニーと銀座の次郎に寿司を食べに行く
・ すごくエコな自宅を設計して建設
・ 東京の都市計画をオースマンばりのトップダウンで描いて実践する(自分はブラジリアやコルビジェの「シティ・フォア・トゥマロー」を批判しているのにね)
・ 首都高速道路の山手線の内側はすべて壊す
・ グランドテトン山登頂
・ 日本中の原発を即、廃炉
ううむ、随分と実は欲張りですね。しかし、もう少し、考えたらさらに出てくるでしょう。これらの夢はほとんど荒唐無稽のものもあれば、まあ、少しは実現できるかもな、と図々しく思っているものもある。少なくとも、ビジョンを持っているので、持っていないよりかは実現に近いだろう(いや、距離は相当ありますよね。そもそも、椎名林檎なんて、コーヒーを一緒に飲む機会を持っただけでコーヒーをこぼしそうだ)。どうも、30代後半の私は、「死ぬまでに一冊、本を出す。それが夢だ」と家内に言っていたそうだ。39歳でどうにか本を出した私は、その後、岩波書店のものも含めて単著で6冊出した。今年の夏には、共著ではあるがRoutledgeから、念願の英文での本も出す。幸運であったこともあるが、夢を持っていなければ、チャンスを掴むこともできない。
 若くして大成した人達は、将来のビジョンというか青写真を若い時点でしっかりと持っている。私は大学受験も失敗した、というかあまり若い時には勉強もしなかったこともあるが、それでも、漠然とはしていたが、もう少し自分の将来ビジョンを持っていた。もちろん、会社に入ったら、あまりにも自分のイメージとずれがあったり、企業派遣の留学にも一度は落とされたり、大学時代の彼女とは自分の我が儘というか、彼女への有り難みをあまり理解しなかった傲慢さ故に別れて、その後、理念なき彷徨をして大いに疲弊したりする。それでいても、曖昧模糊としてはいたが将来を考えようとしていた。まず、確実にそのうち死ぬ、ということは強く意識していたと思う。この世に生きているということが、信じられない奇跡であり、生かさせてもらっているというこの幸運を最大限に活かすべきである。そういう気持ちは、疲れていたり鬱の時は忘れてしまったりするが、本当、人類とか社会とかに還元するような何かをしたりするといいと思う。自分が生きてきた証のようなものを、形でなくてもいいけど残せるように、生きている間は頑張ればいいのにと思う。その証的なものが「夢」なんじゃないだろうか(椎名林檎と世界旅行、というのは、極めて消費的な夢ではありますが)。
 そのために若い時は頑張ればいいのに、とそれほど頑張らなかった自分は思ったりするのだが、そもそも「家庭をつくるのが夢」だからな。いや、「暖かい家庭をつくる」ということは、全然簡単ではないと思うし、それなりに立派なことだとは思うが、夢として位置づけることではないよね。それは、「会社で働く」とか、「立派な社会人」となるということに近い。しかも、自分が頑張っても相手が頑張らないとうまくいかないし、そういう点では自分でコントロールができないので、夢としても相当、他力依存で質は悪い。ちなみに、私は比較的、普通の家庭を築けているかもしれませんが、それは控えめにみても8割は家内のお陰です。しっかりと私が稼いでいるという点では、私も貢献しているかもしれませんが、それぐらいでしょう。その成果はほとんど家内のもので、私はそういう意味ではラッキーかもしれません。しかし、この普通の家庭が、私の夢?という感覚は、まったくもって共有できない。それは、とりあえず給料をもらえる仕事をしている、ということと同じじゃないのか。
 というか、「家庭をつくるのが夢」な人達が、大学で勉強することって何だろう。家政学科のような気分で経済学科に来ているのだろうか。私じゃなくて家内の講義を聞くべきだろう。しかし、家内が講義で話せるような内容などあるのだろうか。
・ 子供を愛しなさい
・ 旦那は自由にしなさい。しかし、行き過ぎたら身体を張って怒りなさい
・ 自分のものにお金を使うのは我慢しなさい 
 私は、家内は凄いな、と感心はするが、自分で同じことが出来るとは思えない。少なくとも多くの学生は、私のゼミでさえ最後まで付き合えないのに、そんな根性で「いい家庭」が持てるわけないじゃないかと思う。暖かい家庭を築く、というのは相手に我慢、妥協を積み重ねていくことである、ということを、まったくもって暖かくない家庭で育った自分は痛切に思うのである。
 というか、話が逸れてしまったが、おそらく「夢」というのは、その人の人生を次のステージに上げるための重要なエンジンであるのではないだろうか。その「夢」があまりにも小市民的であるということは、エンジン自体も非常にぼろいというかちんけなものであるということだ。そして、そのようなビジョンしか持てない人は、言い方は厳しいが魅力もないし、会社に入った後、大変なんじゃないかなと心配である。

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世田谷文学館に岡崎京子展に行く [その他]

 天才漫画家である岡崎京子の展示会があるので世田谷文学館まで行く。芦花公園が最寄り駅である。歩いて5分ぐらいだ。世田谷文学館に来るのは初めてであったが、さて、入館料は800円。文学館の展示にしては高いなとの印象を受けたが、内容は相当、充実していた。岡崎京子の作品を体系的に理解できるような展示がなされているのはもちろんのこと、彼女の人格までもが浮き彫りになるような展示に、キューレターの岡崎に対する深い理解、シンパシーを感じることができ、私もわくわくとさせてくれるような内容であった。
 ちなみに平日であるにも関わらず展示は大盛況。多くは若い女性であるが、高齢の女性もいた。男性はほとんどいなく、いたとしてもデートに付き合わされたという感じであった。ちょっと中年男性一人というシチュエーションは浮いたが、そこはおやじ。周りの目を気にせず、自分の好奇心が赴くままに展示を楽しんだ。
 ちなみに、私は岡崎京子と同年生まれで、しかも彼女の生まれ育った下北沢を研究しているので、この展示会をみるのはマストであった。そして、その予想通り、私の大きな期待に応えてくれた展示であった。3月31日までなので、関心のある方はお早めに。
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週刊SPA!を久し振りに読んだら、その面白さに嬉しくなった [その他]

 サラリーマン時代、週刊SPA!を愛読していました。大学に転職して、取材の依頼が来たときは随分と喜んだものです。さて、キオスクが開業している時間帯に久し振りに地下鉄に乗ったので、思わず「40歳までにやっておくべきこと」の見出し特集につられて、これまた久し振りにSPA!を購入したらめちゃくちゃ面白い。思わず、打ち合わせ先の駅を降り損ねるぐらいでした。まあ、私はもう50歳を過ぎているから、参考には全くなりませんが、それなりに同世代が、40歳前後の人達に対して発するメッセージは含蓄深い。自分が経験して、初めて分かることって多いから。そうそう、私は39歳で転職しましたね。これは、まったくの正解でした。個人的には「やっておくべきこと」ナンバーワンかもしれない。
 私の転職は父親が強く諫めましたが、父親のいうことを無視して本当によかった。というか、ここで諫めるかね、と私は父親の馬鹿さ加減に呆れていましたので、まったく参考にもしませんでした。保守的に生きることが悪いとは思いませんが、チャレンジしないで面白くない日々を、ちょっとしたサラリーマン的な日常を維持するためにする価値があるのでしょうか。父親は今はとうに亡くなっていますが、当時のことを思い出すと、今でも腹が立ちます。チャレンジすることで、新しい自分が発見できますし、自分の可能性が初めて開かれます。もちろん、そのチャレンジに失敗する人もたくさんいるでしょう。しかし、チャレンジしない人は、きっと死ぬ時になって本当に悔やむと思う。チャレンジした人は、ついていないと思うかもしれないが、チャレンジしたことを悔やむことはないと思う。
 人生一度きりですから、悔いがなく生きたいところです。ところで、SPA!の特集に話を戻すと、やっておいて正解だったは「子供つくる」「家族とのコミュニケーション」「マイホームを購入する」「子育てに積極的に関わる」・・・って、家庭がらみばかりではないか。逆に、やらなくて後悔したことは「習慣的に運動する」「長期的なマネープランをきちんと立てる」「貯金する」「キャリアプランをしっかり立てる」「英語の勉強」「日頃からよく歩く」・・・。まあ、これらはしてないと後悔するのでしょうが、しても正解だったとは思われないことだと思う。
 まあ、久し振りに人生を振り返る機会を与えてもらった。SPA!的な世界からちょっと離れて生活しているが、ちょっとこういうサラリーマン人生のエレジーも懐かしい。戻りたくはないけど。
 
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オヤジ達の若者への勝手な幻想 [その他]

 私はゼミ生を、いろいろとNPOや地元の商店会などと協働してプロジェクトをさせている。そうすると、おじさん達は結構、刺激を受けて、反応する。その反応は大きく3つぐらいのタイプに分類できると思われる。いろいろと教えてやろうとお節介をするタイプと、自分の偉さを分かってくれるかもしれないと思ってお説教するタイプと、若者から何か斬新なアイデアが得られるかもしれないと期待するタイプだ。
 一番目の「いろいろと教えてやろうとお節介をするタイプ」は比較的、若者にとっては無害である。いや、本当は何も教えるような知恵も知見もないような元大学教授などが教えようとするのは、有害だなと思う時もあるが、まあ、このタイプは馬耳東風攻撃をすることができるから大丈夫である。中には、本当にいいことをいってくれる人もいるので、若者の方でうまく取捨選択すればいい。まあ、この取捨選択が難しいので、結果、若者は全部、暖簾に腕押しのように受け流してしまう場合が多いのだが。
 二番目のお説教タイプは、悪いけど、若者にはまったくもって有害だ。というか、どうして、そんなおじさんというかおじいさんのご託に若者が貴重な時間を割いてまで付き合わなくていけないのか。私だったら、まったくもって嫌だね。しかも、このおじさんはさんざん自慢話とお説教をしたあげく、ゼミ生が自主出版をした雑誌を買うことを拒んだりする。いや、悪いけど話を聞いてあげた礼として買うべきでしょう。
 三番目は、若者に過剰な期待をしてくれるおじさん達で、ある意味で有り難いのだが、問題は若者は斬新なアイデアを持っていたりしないことだ。若いとクリエイティブだと思ってくれているらしいが、若くてクリエイティブな人は確かにいるが、それはごく少数だ。黒人だからバスケがみな、上手いわけではないのと同様に、クリエイティブな若い奴もいれば、そうでない奴もいる。そして、バブルで適当にいい加減な仕事をした経験のある世代の方がクリエイティブな人の割合が高い。私は、ほとんど滅多に私よりクリエイティブな学生に出会ったことがない。私のクリエイティブさに学生をついてこさせるのに苦労しているくらいだ。面白いぐらい、杓子定規なことしか言わないからね!少ない在庫から、一生懸命引きだしてくるのが関の山で、自分で新たに考えようともしない。
 というように考えると、本当、おじさんと若者の相性は悪いなと思わずにはいられない。

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成田空港がどんどんと不便になって、羽田空港がメインゲートになる日も近い [その他]

成田空港がどんどんと不便になっていく。羽田空港が国際空港として、どんどんと便利になっていくのとまさに対照的である。特に第二ターミナルの不便さは顕著だ。これまで、第二ターミナルの2階には、三菱東京UFJ銀行と郵便局があった。これら二つともなくなって、今では千葉銀行しかない。ATMも小銭は受け付けない。なんか、だんだん国際空港の風格がなくなって、地方空港のような感じになっているような気がする。第一ターミナルはまだましだが、なぜか入っている店舗が飛行機に乗る客ではなく、成田空港に遊びに来る人を想定したようなテナント・ミックスになってしまっている。例えば、コンセントのプラグを売るような電気店がなくなったりしているのだ。何か、とても外しているような気がする。というか、羽田空港を国際空港としての格をもたせるために、あえて成田空港をみすぼらしく駄目にしているようにさえ思える。

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きゃりーぱみゅぱみゅを断るのに盗撮して、塩対応とかツィートしたファンは猛省すべきだろう [その他]

きゃりーぱみゅぱみゅが許可なく写真を撮るファンに対してツィッターで苦言を呈した。この盗撮ファンは「渋谷できゃりーを声をかけたのに塩対応(素っ気ない態度)だった」という内容のつぶやきまでした。これは酷い。きゃりーぱみゅぱみゅは、「こういう人には塩対応だよ。写真も断ったのにさ」とツィートしたが、当たり前だ。嫌がるのに写真を撮影して、にこやかに対応できる訳がないだろう。

盗撮されるというのは本当に不快だ。私もたまに学生に盗撮される。旅行で、私がアホ面を晒して寝ているところや、ちょっと油断をしているところなどだ。たいてい、女の子である。中年オヤジがちょっと、面白いのであろう。その年取っただらしなさとか、もう枯れている緊張感の無さとかが、いい笑いのネタとして使えるのだろう。ブルドッグなどの不細工犬のような可愛さとかと通じるものがあるのかもしれないが、撮られた方は本当に不愉快だ。ましてや、タレントのようにイメージで商売しているものにとっては、そのイメージを他人に管理されるのはたまらないであろう。しかも、あらかじめ断っているのに、何を考えているのだろうか。

というか、盗撮とかは、本当に人を馬鹿にしている行為だと思う。本人を被写体として意識せずに、風景の一部で撮ってしまうのならともかく、その本人を撮影することを意識した盗撮は卑怯であると思う。
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「学生と遊んでばかりいないで、もっとまともな事をしないと駄目だろう」という発言で私は奮起してきた [その他]

 私の大学での同級生が昔、私に言った言葉。「学生と遊んでばかりいないで、もっとまともな事をしないと駄目だろう」。私は39歳で大学に転職したのだが、その前の社会人としての仕事が「まともな事」だとはとても思えない。それは、具体的には国民からむしり取った税金をいかに中央政府が使い切るか、ということを支援するような調査報告書をつくるような仕事であった。だから、その会社を辞めて大学の教員になったことはまったくもって後悔していない。学生の面倒をみた方が、国家公務員の面倒をみるよりまだ「まともだな」と思ったし、建設的であるとも思ったからである。実際、会社人の12年よりも、大学教員の12年の方がずっと有意義であるし、仕事は楽しかった。それが「まともな事」かと堂々と言うようなことはしていないが、すくなくとも会社人の仕事は顧客を含めて、ほとんど感謝されていないが、大学教員は一握りかもしれないが私の仕事を感謝してくれた人達が存在する。
 とはいえ、大学の教員になって12年経つ。たまに学生の面倒をみていると辛くなる時がある。学生は裏切るのが得意だ。私の周辺の教員はほとんど学生を信じていないし、半数以上が敵視している。私もたまにそのようなアプローチを取った方が、いろいろな面で効用が高く、精神安定上もいいのかもしれないと思ったりする時もある。とはいえ、そういう時は、この同級生が言った極めて屈辱的で、人を馬鹿にした言葉を思い出して、ここで屈したら駄目だと思って踏みとどまるようにしている。
 広い心で、裏切ったり姑息な行動に走る学生を受け入れる度量が欲しい。まあ、そういうことも私へのチャレンジだと思って、踏ん張ろう。私が伝記を書かせてもらった中村ひとしさんはまさにそういう人であった。そうそう、私はこの12年間で、学生達からも相当、学ばせてもらっている。それによって、狭かった視野も広がったし、人間の幅も豊かになったと思っている。私自身、内面を拡げることができた。確かに社会に還元していないと言われればそうだが、別に会社人をしていた時に、どの程度、社会に還元していたかは甚だ疑問だ。少なくとも、会社員時代の12年間には本は1冊しか出せなかった(しかも、ゴーストライター)が、大学の12年間では12冊は出している。これらの本のうちの数冊は、学生と遊んでいるから書けたものである。
 ということで、確かに「まともな仕事」ではないかもしれないし、たまに、本当、自分が馬鹿を見ているなと思う時もあったりもするが、世の中、そういう馬鹿も必要かと思って、踏ん張るしかないな。
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ゼミ生が辞めるといった理由に関して、ちょっと考える [その他]

 ゼミ生が辞めると言ってきた。理由を聞くと、「意味が見いだせないから」だそうだ。それじゃあ、生きる「意味」は何なのか教えてくれ、と言ったら学生は答えられなかった。当たり前だ。「意味」が何かが分からないから、我々は勉強するのだ。そのプロセスの「意味が見いだせない」というので放棄するのは、根源的に間違っている。まあ、おそらく他に理由があるのだろう。私が嫌いとか、私と離れたい、とか。そういうことは理由として言えないのだろうが、私としては、「意味が見いだせない」というより、まだそちらの方が、納得がいく。この学生は、人間的には私が苦手なタイプではあったが、意味が見いだせない中でも活動をしていることで見えてくることはたくさんある。霧で視野がぼやけていても、歩いて行けば目的地に着く場合もあるのだ。最近の若者は、インターネットなどが普及したことで、簡単に答えが得られたり、簡単に納得できたりするようなことでないと取り組むことができないものが増えている。そういう意味で、辞めたことは残念である。
 私の趣味は楽器演奏とスキーである。どちらも、うまく演奏したり、上手に滑られたりするようになるためには、日々の鍛錬と練習を積み重ねることが求められる。一朝一夕では出来ない。努力をしている時は、なんかつまらないと思ったり、こんなことで上手くなるのかと疑問に感じたりもするが、そこで辞めると決して上達することはない。私は楽器演奏もスキーも、今ひとつであり、この年齢になっても足掻いているのだが、それでも途中で辞めていたら、今ほども出来なかったことは確かである。最近、出した本も、ほぼ書き上げてから出版に漕ぎ着けるのに5年もかかった。ただ、その展望が見えにくいからといって途中で放棄したら何もならない。
 私はこの学生が、もう少し、ゼミにいることで見えてくるものもあるのではないかと思ったのだが、辞めてしまったら、何も見えない。まあ、ゼミや私を全否定して自分を正当化するというのは、一つの方法論であるかもしれないが、本来は対立的構図ではなく、ゼミは自分を取り巻く環境、社会であるという認識をもってくれればよかったと思う。
 この学生はゼミを辞めてすっきりしたのかな。まあ、すっきりして前向きに生きていけるのであれば、それでもいいが、そうでなければ残念である。人生の大半、そうそう納得して生きていけるものではないからだ。
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