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桐島聡について、ちょっと考える [その他]

連続企業爆破事件で指名手配中であった桐島聡が入院先の病院で正体を明かした後、亡くなった。なぜ、桐島聡は、逃げおおせたのか。朝日新聞のデジタル版に、公安部への取材を元にした記事が掲載された。
https://digital.asahi.com/articles/ASS2V41Q8S27UTIL02C.html?pn=11&unlock=1#continuehere
 
桐島聡が最後に自分の正体を明かしたことで、公安部幹部の1人は「そのまま静かに死んでしまえばよかったのを、最後に名乗ったのは自己顕示欲だ。言いたいことがあるなら逃げ隠れせずに主張すればよかった」と言った。この発言には、強い違和感を覚えた。まず。最後に名乗ったのは、自己顕示欲ではなくて、それまでずっと嘘をつき通してきたことに対して後悔のようなものがあったからだろう。確かに多くの被害者を出した事件の犯人であるから、名乗れば捕まってしまう。捕まることには抵抗があったが、もう死ぬということが明らかになった時、嘘をつく必要もなくなったので名乗り出たのであろう。嘘をつき通さなくてはいけない人生を送ったことへの悔悟がなければ名乗り出ないと思われる。自己顕示欲で名乗るというケースもあるかもしれないが、それは、被害者や社会にざまあみろ、と言いたいような場合である。地味な社会生活をずっと送っていた桐島聡は、そのような気持ちはなかったと思われるのだ。むしろ、そのような過去を持たず市井の人として平凡な幸せを送りたかったと悔やんでいたような気がする。じゃなきゃ、バーに行って音楽とかを楽しんだりしないであろう。

そして「言いたいことがあるなら逃げ隠れせずに主張すればよかった」というのも、外した発言であると思う。まず、主張したいようなことは一分もないと思う。言いたいことがあるとしたら、謝罪であろう。とはいえ、これは単独犯ではなく組織での犯行である。自分がリーダーという訳ではない。何か言っても被害家族はもちろん、社会にも言いたいことは通じないであろう。もちろん、公安部幹部に伝わることがないのは、このような意見を公安部幹部が言っていることからも明らかである。謝罪をして一生、牢屋で過ごすよりかは、自分の些細な幸せを守りたかった。それは卑怯な行動かもしれないが、なかなか彼が自白するのは難しいような気がする。まあ、このように考えるのは私が卑怯なところがあるからかもしれないな、と思ったりもするが、正月の日航機との事故を起こした海上自衛隊のパイロットだって、本当のことを言えてないと思うので、こういうことはなかなか難しいことのような気がするのだ。

このようなことを書くと被害者や被害家族のことをまったく考えていない卑劣感のように思う読者もいるかもしれないが、私の父親は桐島聡が爆弾を仕掛けた三菱重工のサラリーマンであった。ということで、爆破事件が起きた時、私は小学生だったが非常に記憶に残っている。父親はその時、本社勤務ではなかったが、本社勤務であったら自分は父無し子になってしまったかもしれない、と犯人を憎く思ったことを記憶している。そのように、多少は自分とも関係があった事件であるのだが、それでも公安部幹部の意見はまったく、人の心理を分かってない発言だと思う。

このように桐島聡を多少、性善説的にみてしまうのは、彼が私の前任校の明治学院大学の学生だったこともあるかとも思う。彼からは、いかにも明治学院大学出身といった印象を受けるのだ。音楽が好きで、平気で夜中にギターを持って歌ってしまうことや、地元のバーで盛り上がって周りからも好かれたりするところなど、明治学院大学の出身者っぽい。そして、変な社会正義とかに感化されて、大した問題意識もなく社会から逸脱したようなことをしてしまう。私もゼミ生が飲み会の後で、目黒駅の周辺で暴れて捕まって、留置所に入れられたことがある。他のゼミ生から連絡を受けて親とかに私から連絡したことがある。そういえば、彼も歌が好きで、ギター持って歌っていたな。なんか、桐島聡の新聞記事などを読んでいたら、何人か、明治学院大学の学生を思い出してちょっと懐かしい気分になったことも、彼を心底、憎めない理由かもしれない。

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松本人志事件についてちょっと考えてみる [その他]

日本の状況に疎いのだが、どうも松本人志が大変なことになっているようだ。私はネットでの情報をもとに考えているので、的外れなことも多く書いてしまいそうだが、要は、昨年12月に松本人志の昔の破廉恥な行動が週刊文春に書かれ、それを事実無根とする松本側が名誉毀損の裁判に注力するために、芸能活動を一時、中止するというような流れである、と理解している。その破廉恥行為とは、松本の後輩芸人達が、松本の機嫌を取るために、松本の性行為の対象となる女性を集めて「献上して」いた、という報道のようだ(いや、文春の記事もしっかりと読んでいないのに書いてしまい申し訳ない)。

私は最近、ジョージ・ハリソンの元妻であり、その後、エリック・クラプトンの妻になったパティ・ボイド(稀代の名曲「レイラ」のモデルですね)に興味を持ち、彼女の自伝も読み始めたりしているのだが(まだ、完読していない)、1960年代のロック・スターの女性遊びというか節操の無さはとんでもないものがある。ジョージの浮気に心痛んだパティがエリックに助けを求めたら、エリックの方が遥かに破廉恥というか無節操だった、という下りは読んでいて心が痛む。

日本のお笑い芸人も1960年代のロックスター的人気稼業だと思う。女性ファンの追っかけもいる。そのように考えれば、松本人志の行動は、社会的な常識からは逸脱しても、まあ、そういうことが趣味なんだろうな、ぐらいで片付けられる話かなとも思ったりする。趣味としては悪いけれど。

ただ、ここで問題となるのは、複数の女性が被害者意識を抱いていることだ。そして、それを週刊文春に告白するぐらい、松本人志を許せないと思っていることだ。このような被害者意識を複数の女性陣が有しているということは問題だ。もちろん、何人かの女性は松本人志とそういう関係になって喜んでいたものがいたであろう。しかし、何人かの女性は問題がなかったとしても、数名の女性は極めて不快な思いをし、傷ついているのである。ある告発女性は「これまでどれだけの女性が同じ思いをしてきたかを想像するだけで吐き気がします」と述べていたが、その芸能界での圧倒的な権力の威をもって、そして断りにくい環境づくりをして、本人の嫌がる行為を犯し、そして、そのことを訴えられたら、それを「事実無根」と居座るのは間違っている。そして、何より、居座る行動は松本人志らしくない。そもそも変態的な性癖で笑いを取っていたようなところもあるので、相手を不快にさせたことで、しっかりと事実確認をした後で謝罪をすればいいのだし、金銭での責任も取ればいいのである。それをすることで、告発者が多く出てきたりしても、それはそれで自業自得である。「素人女性にもてないんで、思わず芸能界の力を使ってしまうような卑劣なことをしてしまい、本当に申し訳ない。しっかりと謝罪したい。しかし、そんなに自分が気持ち悪いと思われていたとはショック」などとフォローをすればまだ、松本人志らしかった。自分以外が似たような状況になったら、松本人志は結構、秀逸なコメントをすると思うのである。もてないことのコンプレックスが今回の事件の背景にあったのではと私は考察するが、まあ、こういうことをしちゃうからもてないんだよね。それは、まるで「真面目で美しく、自分を相手にしなかった」女性への復讐行為のようにも私には映る。

少なくともホテルで飲み会をしたのは、ラインで「とうとう出たね」と得意に発言した時点で、自分でも認めてしまったのだし、そういうのが趣味であるというのは、私のようなお笑いファンでなくても分かっているような常識かと思う。したがって、そういう不愉快な思いをした女性達には、文春とかマスコミに告発しないで、別途、個人的に訴えるのであれば誠実に対応する、みたいなアナウンスをすればいいと思う。本来的にはプライベートな事項であるのに、ここまで公になってしまったのは可哀想ではあるが、まあ、そういう対応をせざるを得ない状況に持っていってしまったのは本人の責任であろう。身から出た錆、ということで白旗あげればいいのに、「事実無根」と主張すると、社会から抹殺されるような事態になる可能性が高い。それは、そのような破廉恥なことをしてしまった松本ではなく、嘘つきの松本になってしまうからだ。嘘つきの松本というイメージがつくられたら、そのダメージは拭いがたくなるであろう。松本人志には本当にその覚悟があるのか。

タグ:松本人志
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麻生太郎の上川陽子の容姿発言を考える [その他]

麻生太郎が1月28日の講演会で、上川陽子外務大臣に対して「俺たちから見てても、このおばさんやるねえと思った」「そんなに美しい方とは言わんけれども」と語ったことが問題となっている。基本、麻生太郎ご本人は上川大臣を褒めている。しかし、その見方が上から視線である、それも男性が女性を見下す、といった考えを反映させていてけしからん、ということになっている。確かにその通りに捉えられる。ただ、麻生太郎は基本、すべての人間を下に見下している。女性だけでない。そして、人生、ずっとそのような価値観で生きてきた。むしろ、問題なのはこのような品性下劣な人をずっと投票してきた人達ではないのか。森喜朗もそうだ。ずっと、破廉恥な人生を送ってきているのだ。何も昨日、今日に始まったことではない。
 しかし、そのような人達も選挙で当選されなければ、特に責め立てられることもない。どんな失言をしても選挙で当選したり、また政治家を引退してもそれまでの取り巻きが神輿を担いだりしているから、いつまでも問題が火を消さないのである。
 私は麻生太郎の「そんなに美しい方とは言わんけれども」と発言した時に会場は沸いたと思うのである。麻生太郎もサービス精神もあって言ったりしたところもあると思う。いや、個人的には麻生も森も蛇蝎の如く、嫌いではあるが、あのような政治家がいい気になっているのは、周りがいい気にさせてきて、喜んで図に乗せてきたからだ。トランプ大統領ほどは酷くはないが、似たような構図だ。

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羽田空港事故を考察する [その他]

羽田空港事故の背景が見えてきた。特に通信記録が決定的である。これによると、JALに責任はなく、管制塔にも責任はなく、ひとえに責任を負うべきなのは海上保安機の機長、そして、もしかしたら副機長に多少の責任があるかもしれない、という状況であると思われる。管制塔が待機線で停止してください、という指示を受け取ったのは副機長である。ここで副機長がそれを機長に正確に伝えなかったのか、ここで機長が誤解をして受け取ったのか。ここは議論が分かれるが、もし機長もそれを聞いたのであれば、機長と副機長の二人とも誤解をして受け止めたということになる。間違えて機長が滑走路に進入したのであれば、副機長はここで慌てて止めさせることもできたかと思う。衝突までに40秒という結構、長い時間が経っている。副機長は亡くなってしまったので、彼の証言は聞けないが、機長が「侵入許可をもらった」というのは嘘か、大きな誤解をしたかのどちらかである。
 今回、海上保安機は能登地震の被災者に物資を送るために、非常に気が急いていたのかもしれない。しかし、そのために冷静さを失ったのだとしても、それで5名の同僚を亡くしてしまった責任は相当、重いのではないだろうか。その後、「侵入許可をもらった」と言い張っているのは、その罪に対峙できないからであろう。確かに、私でももう同じような事態になってしまったら、その事実から目を背けたくなるし、現実を否定したくなると思う。ただ、これは交差点で信号無視をして衝突した事故と同等である。信号が赤だったのに青だったと主張しても、その主張は厳然たる証拠の前には受け入れられない。
 まったくもって正月から気が重くなる事件ではあるが、それでも、日本航空の乗客乗員が全員、無事に脱出できたのは本当によかった。機長は日本航空の乗員の冷静さを見習うべきである。とはいえ、この機長には将来はあるのか。ちょっとしたコミュニケーション・ミスを発端とした事件だが、相当重い十字架を背負ってしまったものだ。私が海上保安機に同乗していた故人の家族であったら、ちょっと許せないと思う。おそらく裁判で訴えるであろう。

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プレゼント(贈答品)についての一考察 [その他]

プレゼントを学生達からもらった。有り難いことではある。バッグとマフラーとマグカップである。学生達がお金を出し合って買ってくれたらしい。しかし、さて、このプレゼントは3つとも私の趣味ではまったくなかった。とはいえ、こういうのは気持ちが大切だよな、ということで使おうと思ったが、なかなかできない。まず、マフラーは恐ろしく抵抗がある。私が持っているマフラーはポール・スミスのド派手なポール・スミスのレインボー・カラーがしたようなものである。学生がくれたものは、ちりめんの雅的な桃色のもので、それなりに上品だが、どちらかというと渋く枯れたおじいさんがすれば似合うかもしれないが、私のようなZZトップが好きなバンド爺には、アイデンティティ否定のように似合わないし、「贈ってくれるという気持ちが何より大切」と思っても羽織ることができない。バッグも同じように、好々爺には似合うかもしれないが、私には似合わないが、バッグは機能面でそれなりに使えるので、これは機会があれば使いたいと思ったりしている。問題はマグカップである。これも機能面で使えばいいや、と思い、有り難く使おうと思っていた。まったく私の趣味ではないデザインで、むしろ嫌いなデザインであるのだが清水焼だし、高価な品だ。学生の思いをしっかりと受け止めなくては、と思っていたのだが、日々、使っているうちに腹が立ってきた。いや、心が狭いといわれればそのままだが、私のデザイン的価値観とバッティングし過ぎるのである。もう、破壊したいぐらいの衝動にも襲われる。ということで、我慢せずに使うのを止めることにした。
 さて、このような経験から学生には悪いな、とは思うが、そのように思わせるプレゼントはしてはいけないな、とも思う。それは、プレゼントをあげる人に甘えすぎている。ちなみに、これらのプレゼントは、趣味は悪くない。人によっては有り難がられるであろう。しかし、私はポール・スミスもそうだが、還暦を過ぎて、ヴィヴィアン・ウエストウッドで洋服を買うような趣味をしているのだ。ZZトップや椎名林檎が好きなのだ。ちりめんの桃色のマフラーして、ZZトップのコンサートに行く奴はいないだろう。まあ風貌が地味だから、そういう判断をしたのかもしれないが、風貌だけで判断するほどの浅い付き合いでもないだろう。基本、プレゼントは、このように人のアイデンティティと衝突を起こすような洋服や食器、CDや本などはあげない方が無難であろう。いや、よほど自信があればいいけど、それはリスクを負うという覚悟を持ってしてもらいたい。このように書いて、大学時代の彼女が「絶対、買ってあげたいと思っていた」と私にくれたセーターが、まったく悲しいほど私の趣味に合わないので残念な思いをしたことを思い出した。このセーターはブランド品ということもあり、なかなか捨てられなかったのだが、着たことはほとんどなかった。ただ、この彼女は私にはもったいないような女性であったが、もし結婚したら、その点では趣味の衝突があって問題が起きただろうと思ったりもする。
 一方で、前任校の学生達はなぜか私のツボに嵌まるプレゼントをしてくれる。結構、アイデンティティと衝突しそうなアイテムのもの、例えば帽子やキーホルダーであったりするが私の趣味に絶妙に合っていて、大切に愛用させてもらっている。要するに自分の価値観を押しつけたりしないで、相手をしっかりと観察して、もらった相手の気持ちを鑑みてプレゼントを選ぶということが何より重要だということでないだろうか。自分がよければ、そして趣味が客観的によければ相手が喜ぶ訳ではないことは、肝に銘じなくてはならないと自戒を込めて思う。おそらく、本人はそういう自覚はないだろうが、自分が気に入ったものを相手にプレゼントすれば喜ぶ、という考えは相当、傲慢なのではないかなと思うのである。

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九州大学の学生の父親刺殺事件を考える [その他]

九州大学の学生の父親刺殺事件の裁判での判決がおりた。懲役24年。事件が起きたのは今年(2023年)の9月である。被告人は小学校の時から、成績が悪いと暴力を受けていた。そして、暴力を受けながらも勉強を重ね、高校は県でトップの公立高校、そして大学は九州大学に合格した。暴力をこれだけ長期間、受けていたにもかかわらず超一流大学に合格した。さぞかし、父親も息子の合格を喜んだであろう。ところが、父親の暴力は九州大学に合格した後も続いたのである。被告人は公判で「心が、もうどうしょうもない状態で壊れそうになった」と述べたが、そりゃそうだろう。九州大学に合格するための暴力かと思えばある程度耐えられるが、合格した後も暴力を振るわれるというのは耐えがたい。これは、父親は息子の成長のために暴力を振るっていたのではなく、もう暴力をとりあえず振るいたいから振るっていたということだろうか。息子は建築士になりたいと思っていたのだが、「なれるわけないだろう」と否定していたそうだ。いやいや、九州大学に入ったなら、普通、建築士ぐらいなれます。この息子への否定は一体全体、何なのだろう。
 父親はスマホの待ち受け写真は息子のものにしていたらしいので、愛情がないという訳ではない。しかし、その愛情が極めて歪んだものとして表出されていた。父親は高卒で、自身の学歴を「九大を退学した」などと周囲に偽るほど劣等感を抱いていたそうだ。そのような劣等感を息子に持たせたくないということで暴力を通じての躾(?)をしていたのだが、逆に息子が九大に合格したので、今度は息子への劣等感が九大の合格後に暴力という形で爆発したのかもしれない。建築士に「なれるわけないだろう」との発言は、息子への劣等感が背景にあると考えると理解できる。
 基本、人を「学齢や名声、高い社会的地位」などの尺度で評価する価値観に父親はずっと囚われてしまっていたのであろう。父親はその尺度では負け組であった。その負け組に息子はさせないと思い、躾(?)をし、無事、勝ち組側に行けた息子の成長に喜ぶのかと思ったら、今度は、息子に強烈な劣等感を覚えてしまったのだろうか。
 私が通っていた高校は進学校であり、そのような価値観を持っている同窓生が多かった。というか、還暦を過ぎてもそういう価値観から逃れられなかったりする。同窓生が最近、亡くなったのだが、彼の葬列者数を自分達の知り合いの葬儀と比較して、その優劣(?)をSNSで話して盛り上がっている様子をみて、私は心底、ゾッとした。人生はそんな葬列者の数とか、学歴とか、社会的地位で良し悪しを決められるほど単純ではない。もっと奥が深い。だから、音楽とか小説とか映画などの芸術が必要なのだ(ちなみに、前述した高校の同窓生はその音楽もショパン・コンクールの順位とかで解釈したがる)。というか、この世に生まれ落ちた奇跡を、限られた時間の中で、思う存分、満喫するようにして生きればいいのだ。この父親も、自分は経済的な条件等から厳しかったのかもしれないが、子供たちにそのような機会を与えることはできた。しかし、九州大学に合格した後も暴力を振るうというのは、一体全体、この父親は息子にどうなって欲しかったのか。おそらく、九州大学に合格した時点で彼自身も子育ての目標を失ってしまったのかもしれない。建築士はいい仕事だと思う。その機会を提供することができれば、親としては立派な仕事をしたと言えるだろう。そもそも、子に恵まれてない人も多くいる。子供に恵まれただけでも、この父親は自分の人生を肯定できなかったのであろうか。あと、そもそも暴力はよくない。暴力で人をコントロールしようとする、という時点で「学齢や名声、高い社会的地位」以前に親としては失格である、ということは、この悲惨な事件から改めて社会としても共有できることができればな、と考える。

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名刺の意義をちょっと考える [その他]

イエテボリ市の市役所を訪れる。名刺交換をしようとして、名刺を渡したのだが、イエテボリ市役所ではもう、名刺をつくっていないそうだ。我々の取材に応じた市役所の職員は、名刺を交換する慣習が好きだったので、それは残念に感じているそうだが、市役所での発注は極めて厳しくなっているようだ。
名刺は、その管理はちょっと面倒かもしれないが便利である。そこには、連絡を後日、するための情報が記されている。インターネットで情報は随分と伝わりやすくはなっているが、名刺のやり取りすることは、実際、自分が会ったことの記録にもなる。それは記憶装置としての役割も担っている。
名刺に関しては、企業で共有するようなシステムがつくられていたりするが、そうすると記憶装置としての役割が失われる。名刺が人々との出会いの記録である、ということの価値が理解されていない人が開発したシステムなのであろう。
話は横に逸れてしまったが、イエテボリ市の職人とのやり取りで名刺の意義をちょっと考えたりしたので、ここに記させてもらう。

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広末涼子の不倫報道の多さは異様だ [その他]

広末涼子の不倫報道がマスコミを騒がせている。もう、まるで鬼の首を取ったようなバッシングである。しかし、不倫は犯罪ではない。それは、社会的モラルに反するかもしれないし、家族(特に配偶者)にとっては衝撃的な裏切り行為かもしれないが、それは家族の問題であるし、それを外部の者が「とんでもない」と論じるようなものではないと思う。
 いろいろと広末涼子を非難している芸能人達も、そんなに立派な清廉潔白な生活をしているのだろうか。私の学生時代の知り合いや、会社時代の同僚とかでも、そういういわゆる不貞話は男女を問わず少なくない。それが発覚して離婚に至る場合もあるし、そうでない場合もある。みんな、そんなに聖人君子として生きている訳ではないと思う。
 それであるにも関わらず、今回の広末涼子のバッシングは尋常ではない。広末涼子は非常に面白い芸能人だと思う。まず、周りに合わせるのではなく、自分の感情とかに非常に正直である。決して受験勉強とかができる訳ではないのに(土佐女子を受験して落ちているそうだ)、早稲田とかに入ろうとするのは、自己肯定感が強いからであろう。恋愛も自己肯定感を満足させてくれる。ただ、大学受験も恋愛もそうだが、成就した後は、それほどは楽しくない。したがって、退学するし、恋愛も長続きしない。ただ、その何かを得ようとするプロセス時の自己肯定感に支えられるドライブのようなものに惹かれるタイプなのではないかと思う。それはあまり長期的には建設的ではないかもしれないが、刹那的な幸福感を積み重ねる生き方をしている人は、特に芸能人には数多くいる。広末涼子もそういうタイプなのではないか、と思う。
 もう一つの広末涼子の特徴は、グローバルな大美人であるということだ。22歳でフランス映画「Wasabi」でジャン・レノと共演した、という実績は凄いものがある。世界的に通用する器である。このような美貌の女性が好色であったら、それは人類史的にみてもやりたい放題なことをしてきている。ちょっと前のヨーロッパだったら、広末を求める男性陣がしょっちゅう決闘をしていたような玉なのである。実際、今回の浮気相手も広末涼子に言い寄られて舞い上がっていた、と週刊誌に書かれていたが、その気持ちは分かる。
 広末涼子は一般人ではなく、芸能人であるし、凄まじいほどの美貌の持ち主である。それを一般人の価値観で当て嵌めて、けしからんとか言うのは間違っていると思う。いや、自分の妹や娘だったりしたら、それは間違っている、と言うだろう。しかし、芸能人であるのだから、一般人とは違っていろいろと正直に生きていけばいいと思うのである。それに苦しむのは家族ぐらいなのだから。まあ、家族には同情するが、広末涼子の家族を私は知らないし。あと、浮気相手のシェフこそ、けじめをつけるべきだと思う。広末涼子がすべての元凶のような報道のされ方にも違和感を覚える。
 何か、広末涼子の異様なバッシングには裏があるな。周防社長の恨みがまだ長引いているのか。どちらにしろ、この裏が匂うところが、今回の件の嫌な感じのするところであり、また、こういう「溺れる犬を棒で叩く」的な日本社会の陰湿さには虫酸が走る。
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ユーチューブでのコマーシャルで転職ものがやたら目に付くのが気になる [その他]

私はユーチューブをよく視聴するのだが、そこで気づいたのはユーチューブでのコマーシャルで転職ものがやたら多いということである。私の視聴傾向を分析して、流しているのかもしれないが、私は転職する意図は現時点ではゼロなので、結構、このようなコマーシャルが他でも流されているのではと推察する。DudaとかGeeklyとかレベテックとかである。

 Dudaのコマーシャルは、自分の現状の仕事が不満であるという若者にフォーカスをし、転職で違う世界が広がることを暗示させる。まあ、比較的、正攻法的なコマーシャルである。気になるのは、転職はしたいのだろうけど、自分のリソースが何であるかを自覚してないので履歴書が書けないのを支援したり、自分が何に転職をしたいのかさえ分からず、それを教えてもらうようなコンサルタント・サービスを提供したりするような内容のものも放映されていることである。Geeklyのコマーシャルだ。しかし、それなどまだ、ましだ。レバテックのコマーシャルでは、コマーシャルに出演している賀来賢人が何をしたいのか「決められません!」と断言している。

 まず、履歴書に自分の特技が書けないということは、自分自身の商品価値も分からないことなので転職をしようなどと考える前に、今の仕事をしっかりとするべきであろう。自分自身の商品価値も自覚できない社員は雇用側も早く辞めてもらいたいだろうが、自分が分からなければ転職できない。というか、そもそも今の仕事があるだけで感謝するべきであろう。転職を考えるなど十年早いわ、と思う。

 もう一つの、どこの転職先がいいかも「決められません!」というような人も、そんな決められなければ今の仕事をやっていればいいのだ。というか、転職コンサルタントもこんな腑抜け達を企業に紹介しているのがばれたら仕事を失うことが分からないのだろうか。

 さて、しかし、どうしてここまで駄目駄目な社員が輩出しているのか。それは社会人になるまでに、大学時代を含めて学生が甘やかされ過ぎていることが一つの要因ではないだろうか。大学生はあたかも就職をしたら、人生もう安泰のような気持ちで就職活動をしている。就活活動に差し障りがありそうだとゼミもすぐ辞めるし、就職説明会があると定期試験までもパスする。いやはや本末転倒だ。本当は大学時代までに自分が何をやりたいのか、何をやれるのかを突き詰めるべきなのだ。そもそも勉強するというのは自分を知る、自分を変える、自分を高めるためにすることだ。そのために4年間、社会が提供し、また家族が支えているのだ。小手先の就職試験をクリアするためにだけあくせくしているから、就職した後、途方に暮れて、上記のような転職コンサルタントの餌食になるのだ。そもそも転職すれば解決するような問題ではないのに、浅薄だから、そのように思ってしまう。あたかももてないのは人間性の問題なのに、はげだからもてないと思わせるカツラ会社のコマーシャルの餌食になると同じようなものだ。
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最近、鉄道の車内で携帯にイアホンを付けずに音を流す人達がいることが気になっている [その他]

最近、鉄道の車内で携帯にイアホンを付けずに音を流す人達がいることが気になっている。確かに退屈な車内移動では、携帯でユーチューブや動画を観たくなる気持ちは分からないでもない。しかし、イアホンを持っていなければ我慢すべきであろう。というか、そういう音を出すことが周りに不快をもたらすことが分からないだろうか。そういう輩は、往々にして20歳前後の若者である。男女の差は特にないような気がする。けしからんなあ、と思いつつ、周りは黙認しているので、私も我慢をしていることが多い。
 さて、そのようにけしからんなあ、と思っていた中、新幹線の車内で小さい子供をあやすために母親が携帯のユーチューブを、音を出した状態で聞かせているのに遭遇した。確かに小さい子供にイヤホンをつけさせるのは辛いだろうが、それでもさすがこれは不味いだろう。まだ、子供の泣き声の方が我慢はできるというものだ。しかし、これも誰も文句を言わなかったので、私もイヤホンをつけてユーチューブを観ることで我慢した。
 気になるのは、このような公共的な空間で傍若無人に振る舞う人が増えていることだ。いわゆるマナーを理解しない、そういう理解しない人と思われても平気、という考えを持っている人が増えているのだ。実は、こういうことには日本人は意外としっかりとしていて、アメリカ人の方がマナー違反をする人が多い。私はアメリカ人に対してだと、英語で思考をして、英語でつくられる私のキャラ(性格は言語が形づくる)は結構、攻撃的なので、文句を言ったりするのだが、文句を言うと、言い返す奴とかが結構いて、本当、アメリカ人はお行儀悪いな、と思う。それに比較すると、日本人はずっとましだと思っていたが、最近、日本人のアメリカ人化が進んでいる気がする。ついでにドイツ人と比較すると、ドイツ人はまず絶対、文句を言う。そういう点での正義感のようなものが強い。ドイツ人もいい面と悪い面とがあり、遠慮とかがないのはちょっと下品ではあるかもしれないが、そういう側面が原発をしっかりと廃棄するメンタリティの根源にあるのかなと思う。そういうことを考えると、公共空間で傍若無人に携帯の音を流すようなことは止めさせなくてはいけないな、と思ったりする。ただ、君子危うきに近寄らず、みたいな考えに日本語で思考する脳味噌だと囚われちゃうんだな。

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年末に母親をグループホームに入所させて、いろいろと考える [その他]

あけましておめでとうございます。皆様はどのように2023年をお迎えしたでしょうか。さて、私はなかなか難しい気持ちで今年を迎えています。年末に認知症で一人暮らしをしていた母親をグループホームに入所させました。それまでもケアマネジャーからは、一人暮らしは難しいと言われていたのですが、「グループホームのような所に入れるなら自殺してやる」などと抵抗していたので、まあ、行けるところまで行こうか、と思っていました。
 さて、しかし、そうは言っても徘徊もしくは大便のお漏らしをしたら、これは入れるしかないかな、と思っていました。母親はプライドが高く、一人で、自宅で最後まで住みたいと考えていましたが、この大便のお漏らしが始まりました。それに加えて、めまいを訴えていたので精密検査に同行したら、糖尿病が相当、進んでいることが発覚しました。糖尿病と認知症の相性は最悪です。食事療法がほとんどできません。それに加えて、母親は欲望が抑制できないタイプで、アイスクリームをひたすら食べまくります。常に冷凍庫にはアイスクリームが幾つも保管されており、それが高頻度で買い加えられています。これは、もう糖尿病がどんどん進み、そのうち失明する確率も高いような状況であると判断したのと、ちょうどグループホーム選びの最優先の条件であった、行きつけの病院の診断が受けられるというホームが12月に開業したので、もう急いで応募し、面接を経て、入所させました。
 母親は「いつでも家に帰られるのか」と聞くので、「お医者さんの許可が得られたら家に帰ることはできる」と伝えて入ってもらいました。さて、当日は比較的スムーズに入所できたのですが、翌日、荷物を持っていくと、「家に連れて帰れ」と言ってきました。そして、「こんな思いをしてまで長生きしたいとは思わない」と主張します。しかし、私が「糖尿病を悪化させないためにも、ここで生活しないと失明するよ」と言うと、長生きはしなくてもいいと思っても、失明はしたくないと思ってくれて、とりあえず引き下がってくれました。
 とはいえ、これまで傍若無人で我が儘放題暮らしていた母親には、非常に厳しい環境だなと思い、なかなか重い気持ちにさせられます。病状の悪化のスピードは遅れるでしょうが、元のような一人暮らしは大便のお漏らしなどを考えると無理だと考えるからです。あと、非情に聞こえるかもしれませんが、母親のために振り回されるのはゴメンだと思う自分もいます。仕事面でも人生で最後の局面において、そして、相当、母親に人生を振り回されてきた身としては、グループホームの存在は本当に有り難いです。
 ただ、そうはいっても現代版の「楢山節考」ではあるかなと思いますし、車で母親をグループホームに連れて行った私は、楢山節考で母親を背負った息子のような気持ちです。ただ、母親は「楢山節考」の母親とはまったく違い、今でも、自分の利益だけ、欲望の実現だけを考えた行動を取っていますが。まあ、中学時代から何か私が気に食わないことをすると、「あんたを堕胎しようと思って随分と悩んだけど、堕胎しておけばよかった」と本心から言える母親ですから。ちなみに、私を孕んだのは結婚したあとです。
 などと書きつつ、グループホームに入所されている他の人たちは、結構、それなりに楽しそうに残された日々を穏やかに過ごしているように見えます。もちろん、個人差はありますが、母親のように面白くなさそうにしている人は一人ぐらいのように見受けられます。死や老いに対して最後まで抵抗したいという気持ちは分からない訳ではありません。しかし、その気持ちを持っても身体が機能しなくなったら、それは難しいでしょう。死や老いを受け入れることは難しいかもしれませんが、それを受け入れることで安らかな一生を終えることができるのではないでしょうか。人間、いつかは死ぬ訳ですから。「楢山節考」の母親のような気持ちを持てとは言いませんが、母親が家族に迷惑をかける権利があるとは思えません。朝の3時に電話をかけまくるようなことをされたりすると本当、困る訳です。
 しかし、こういうことを年初から考えているので、なかなか気が重い新年を迎えています。
 

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ストライモンのメビウスが暴走したが、原因が分かった [その他]

スタジオで練習をしていたのだが、ギター・エフェクターのストライモンのメビウスが暴走し、MIDIでコントロールができなくなった。スイッチが勝手についたり、つかなかったりするのだ。どうもギターの音信号が入ると、消えたりする。消えるとエフェクターの音も途切れ途切れになったりして、これはもう全然、使えないじゃないかと他のMOD系のエフェクターを買わなくてはいけないかなと思った。
 しかし、家に戻り、同様の問題を抱えている人もいるのでは、とグーグルで検索したら出てきた。どうもメビウス、なかなか使い勝手が悪いようだ。さて、しかし、グーグルでいろいろと調べていると、どうも「パラメーター」の「エクスパンション」の設定がONになっていると、情報が入ると、いろいろと誤作動をするらしいことも分かった。ということで、チェックしてみると、私のものも「エクスパンション」の設定がONになっていた。これをOFFに変えたら、正常に動作するようになった。
 ごく少数の人にしか関心がないようなブログの内容だが、逆にこのような情報で助かる人もいるかと思い、アップさせていただく。

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下手なギタリストを他山の石として、下手から脱する方法論を考察する [その他]

最近、セッションに参加する機会が増えています。セッションとは、演奏する曲を決めて一発合わせでその場に居合わせた人が合奏するということです。私はギターで参加します。セッションに参加してはいますが、ギター、それほど上手くないのでいつも反省仕切りです。さて、そういう自分がこういうことを書くのも何なのですが、たまにとても下手なギタリストが参加します。曲の構成は覚えているのですが、演奏が下手なのです。そのようなギタリストがいると他山の石として、何が下手なのかを考察したりします。
 まず、この下手なギタリストが初心者ならそれほど問題は深刻ではありません。初心者からいきなり上手く演奏できる人は、よほどの天才でなければ存在しないからです。初心者が足りないのは練習ですから、練習すればいいのです。しかし、この下手なギタリストがもうベテランだったりすると問題は深刻です。いつまでたっても上達しないからです。私も似たようなものですから他人事ではありません。しっかりと分析をしないとと思わされます。
 さて、そもそもどうして下手と聞こえるのか。弦楽器であるギターでは、音を外すと下手に聞こえます。ギターはチョーキングといって自分の耳で音を探り、その音を出すという奏法がありますが、ここで音を外すと下手に聞こえます。あと、運指を失敗するとまた音を外して、これも下手に聞こえます。セッションで一緒になった下手な人はこの音を外すという過ちを多くしていました。これは、どうすれば直せるのか。それは、演奏をやはり録音、録画して演奏後に観ることかな、と思います。そして、音を外している自分と直面し、それを次回の演奏時には修正できるようにすることです。私もこの日のセッションでの自分の演奏は録画してチェックしましたが、自分ではなんか弾けているみたいに思っていたけど、音を外しているところを見つけてしまいました。急いで、音を直していますが、多いに格好悪いです。こういう過ちに直面し、直すということは重要なことかと思います。
 あと、この下手な人は、手に力が凄く入っていました。右手も左手もです。おそらく緊張していたのかもしれません。私も本番で緊張して、変なビブラートになってしまうことがあります。ただ、力を入れると本当、ちゃんとしたプレイはとても見込めませんので、何しろリラックスするように心がけるのが重要だな、ということを改めて思いました。
 そして何より音作りが下手でした。いや、これは私も本当、修行中なので人のことをとやかくいう資格はないのですが、コーラスやリバーブなどのMOD系のエフェクターをかける時には本当に気をつけないといけません。音作りはどうすれば改善されるか、分からないですが、とにかく自分の演奏を聴き直して、何が間違っていたのかを修正する。この反復作業を繰り返すしかないかと思います。私は最近では、ストライモンのイリジウムを通して、そのままアンプはリターンに差し込むということで、なるべくアンプの影響を受けないようにして音作りをしていますが、それでも、まだなかなか思い通りの音が出せません。ただ、これは自分の音はあまり美しくない、という自覚をしていないと、面倒臭くなってしまい、改善しないまま放っておいてしまうかもしれません。私も10年ぐらい前はそうでした。
下手から脱する最短経路は、客観的な意見を聞くことです。どこが自分の演奏が不味いのか。これは、下手な人はそもそも分からないので上手な人の意見を謙虚に聞くことかと思います。もちろん、中にはよく分かってないけど批判する人もいたりするので、全員の言うことを謙虚に聞く必要はないかと思いますが、自分がこの人の演奏は上手い、と思う人の意見は姿勢を正して聞くことが重要なのかなと思います。とはいえ、大人になるとなかなかこういう意見を言ってくれる人も少ないので、自分と話をしたがる人がいないかな、と思ったら自分の下手な演奏が遠ざけているのかも、と思って演奏技術を向上させるモチベーションにするといいかと思います。下手のまま、人生が終焉を迎えたら本当に悔しいと思うんですよね。ちょっとでも上手になる余地があったらしっかりと精進するべきだな、と思いました。

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のび太は変態だ [その他]

お子さんがいる家族とドライブをする。自動車内ではDVDのドラえもんが流れていたので一緒にみる。さて、幾つかのエピソードがあるのだが、テーマは皆、のび太がいかに静香ちゃんをモノにするのかで一貫している。のび太はもうやる気がないダメ男という設定ではあるが、静香ちゃんへの欲情的な感情は凄まじいものがある。というか、変態だ。ど根性ガエルのひろしに似ているが、ひろしは確か中学生だったからな。小学生で、あそこまで強烈に女の子に執着するのは異常だ。というか、あそこまで一つのことに執着できるのであれば全然、やる気がないダメ男ではない。とはいえ、ドラえもんを使って卑劣な手段を使ってでも静香ちゃんをモノにしようとするのは、ドン引きである。ちゅうか、もっと静香ちゃんという可愛い子ではなくて、何か、他に生きる目的をつくれよな。このDVDを見て、私は二人の娘の父親であるが、絶対のび太には娘をやりたくないなとつくづく思った。というか、最初のエピソードでドラえもんがのび太の将来を見せて、その時にジャイ子がお嫁さんになっていて、のび太は絶望するのだが、ジャイ子だってのび太が旦那というのは酷すぎる。というか、ジャイ子の方が実は静香ちゃんよりのび太の嫁さんには合っていると思う。というのものび太は静香ちゃんと結婚したら、それで目的を達成して、その後は生きる屍というか、それから人生と向き合うことになると思うのだが、そもそもダメ男であることを考えると、もう生きる目的を失うと思うからだ。というか、ジャイ子の扱い、酷すぎだろう。静香ちゃんだって幸せになる権利はある。そして、ジャイ子にだって幸せになる権利がある。ドラえもんはジャイ子にも必要なんじゃないか。世の中はのび太のために回っている訳ではない。という感想を抱いた。

タグ:のび太
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中沢新一の眞子さん騒動に関する記事 [その他]

眞子さまが結婚会見をしたことで、多くのマスコミが掌を返したようにお祝いムードを演出しようとしている。こういう迎合的な姿勢は鼻白むばかりだが、私の問題意識を哲学者の中沢新一が見事に私より述べられているので、下記に引用させてもらう。10月23・30日号の『週間現代』に掲載された(p.79)。



昭和天皇がつくりあげた、このポストヒューマンな象徴天皇の像は、平成と令和の両天皇によって、それぞれの流儀でなぞらえられ、維持されてきた。中心部に空虚がすえられているこの構造は、日本人の精神構造ともみごとにフィットしているため、国民はごく自然に、皇室を敬愛することができた。

ところがその敬愛の情が、いま大きく揺らぎ始めているのを、私たちは感じている。ポストヒューマンな象徴天皇の像に、月並みで頭の悪い人間中心主義(ヒューマニズム)が侵入して、国民と皇室が共同でつくりあげてきた、象徴天皇制というひどく頭のいいせっかくのミトロジー作品を、台無しにしてしまおうとしているからである。

「個人の自由な意思」などは、世界を統べている理性の前では、まことにちっぽけなものにすぎないというのが、象徴天皇の考えを上から支えている、根本思想である。ましてやその「個人の意思」を言い張ったお方が、間違った相手をつかんでしまったと気がつけば、天皇制を下から支えている国民が、ネットに盛大に落首を上げるのは当然の行為で、それを誹謗中傷などと批判することのほうがむしろ恥ずかしい。

以上

 さすが賢い人は分かりやすい文章を書く。まさに本質を突いていると思われる。

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小室圭と眞子様の結婚反対の行進デモを考える [その他]

小室さんと眞子様の結婚反対の行進デモが行われている。そして、それに対して「呪わずに祝おうよ」とか「眞子様可愛そうだよ。もう祝ってあげようよ」などと、本当、この異常事態(異常事態というのはデモのことではなく、眞子様の結婚のことである)に対して無自覚で呑気な声がSNSなどであげられているようだ。この結婚の異常事態を考えれば行進デモの一つでもしたくなるのは、日本という国家のことを多少でも考え、天皇制のことを将来的にも維持したいと意識する人達であれば当然のことであるし、愛国的な行為であるとさえ思われる。
 現行の天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である。象徴天皇は世界でも類がない制度であり、それを具体化させるうえで昭和天皇、平成天皇は大変な努力をなされてきた。天皇制度は第二次世界大戦で消滅される危機にあった。それを国民を統べる象徴として残すという選択をGHQはしたのである。そして、象徴を意味あるものにするのは、それが象徴であると信じる国民があって初めて成立するものである。戦後のお二人の天皇、そして現在の令和天皇も、その象徴という具象なき観念をいかに国民に共有させるかで立派にその役割を果たしてきた。
 そして、その象徴性は「神」であった天皇家という日本の歴史をある程度、現代にも継承させることによって、それが纏っていた神格性、カリスマで強化してきたといってもよい。それに加えて、昭和天皇、平成天皇の献身的な姿勢、国民への慈愛(個人的には特に平成天皇と美智子妃殿下)の深さが、国民の天皇家への親愛を育んできたといえよう。国際法では「戦争責任」があるとされる天皇が、象徴として日本人の心を統べるようになるには相当の年月と説得が必要であった。ちなみに、そのために美智子妃殿下が果たした役割は相当大きなものがあったと考えられる。
 このように象徴天皇というのは、常にそのシンボル性を維持させていかなくてはならない難しい制度である。そして、そのシンボル性は、個を超越した国家、そして国民への献身との引き換えに得られるものであり、その信頼ゆえに我々国民は天皇という象徴に敬意と思慕の情を持つのである。それは、「一個人の感情」などを超越したところで初めて成立し得るものであるのだ。いや、個人の感情は人間だから持つのは当然だとしても、その感情よりも「国」という観念への献身というものを優先させることで、象徴としての天皇制は維持される。
 そうはいっても、「結婚すれば一般国民になるのであるから自由にさせてもいいのでは」という意見を持つかもしれないが、それは国民が受容できる範疇である相手でなければ、天皇制の信頼は失墜する。失礼ながら、小室家に嫁ぐというのは、一般的な家庭の親であっても相当悩むであろう。横浜中華街の老舗中華料理店の令嬢は、小室圭との結婚を許されなかったそうだが、それは一般的なごく常識的な家庭の判断であると思われる。父親と父親方の両親が自殺をしていること、父親の友人から多額のお金を借りていて返却していないこと(を先方から訴えられていること)、母親がアルバイト先の学芸大学のマッターホルンというケーキ屋を捻挫をしただけで訴えていること、など、ちょっとあげただけでも嫁がせたくないなと思う理由は数多とでてくる。姪っ子の結婚相手であったら多くの人が反対するであろう。
 そして、この件に対しての国民の落胆は、天皇制の象徴性を瓦解させているのだ。私も眞子様が誰と結婚しようとどうでもいいのだが、抵抗するのは、これまで昭和天皇、平成天皇が努力に努力を重ねて築き上げてきた天皇制の象徴がズタズタにされているからである。それは、眞子様の問題ではなく、象徴天皇という制度への信頼度を失墜させていることへの問題なのである。
 眞子様の結婚問題は、象徴天皇制という制度の崩壊、少なくとも大きく弱体化させることにつながり、私はそういう意味で、もう小室圭は日本史に名を残した(200年後の日本史の入試勉強では暗記しなくてはいけない人物となっていると確信している)といえるし、現代のラスプーチンであることは間違いない。
 したがって、結婚反対でデモしている人達は、眞子様の結婚を反対しているだけでなく、この結婚がもたらす天皇制への存亡の危機、そして国家という共同幻想にまで及ぶかもしれない危機を自覚していなくても有していると思われるのである。
 また、本当に驚くのは宮内庁のダメさ加減ぶりである。そもそも、こういう事態にさせないために宮内庁は存在しているのに、まったく仕事をしないどころか、眞子様を擁護するような対応さえしている。眞子様こそが、象徴天皇制をぶっつぶそうとしてる急先鋒で、実は宮内庁の最大の敵が眞子様であることさえ理解できていないのはダメすぎだ。天皇制がなくなれば宮内庁もいらなくなるということが分からないのか。国民に代わって、この天皇という象徴性を維持するために奮闘努力しなくてはいけないのに、まったく自分の仕事の役割をも分かっていない。というか、紀宮様の時にはしっかりと事前に銀行から都庁へと転職させたりして、紀宮様だけでなく黒田様もお守りしていたのに、今の宮内庁は目を覆う悲惨さだ。というか、本当、税金返してくれ。
 眞子様には自由に結婚させてあげるべきだ、という意見があるが、象徴としての天皇家の眞子様は国民の多くが祝福して、納得してもらうような結婚相手を選ぶ責任が生まれた時からある。それは、その「象徴性」を強化しなくても、貶めない相手を選ぶべきで、おそらく、それが唯一、我々の税金を使って暮らしてきたことへの恩返しに近い(それに比べれば他の公務などはまったく取るに足らない雑用だ)。いや、国民は相当、寛容であると思う。その国民がデモをしてまで反対する相手を選んだというのは、天皇家としてはまさに失格であり、そのような状況に眞子様を追い込んだ宮内庁は、一昔前だったら切腹ものの失態だなと思ったりもする。
 ある弁護士が、ネットニュースで「自分の意思で選んだ人と結婚することは、極めて重要な人権である。結婚・恋愛は、人生の幸せに直結する、最も重要な選択だ。それを否定しようという社会の空気は、まるで時計の針を封建時代に戻したかのようである」と記していたが、天皇家を一般人と同じ土俵に上げて論じている、ある意味、大変天皇家に対して失礼な考えを持っているかなと思うが、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である天皇家は一般人とはまったく異なる重要性を有している。このような意見を主張すると、実は天皇家の存在意義が問われてくる。もちろん、天皇家でなければ、眞子様が誰と結婚しても世間がとやかく言う必要はない。しかし、それは国民の象徴である天皇家の結婚である。国民が納得しない結婚を強行するのは、国民への裏切り行為であるし、それに反対運動する気持ちはよく分かる。「封建時代」云々ではなく、天皇制を象徴としても掲げているというのはそういうことなのだ。つまり、「封建時代」以前からも存在している天皇という象徴を現代でも引き継いできているのであり、そりゃ「封建時代どころか封建時代以前からあるお家の話ですよ」と捉えるべきものなのだ。何も分かっていないのはこの弁護士だ。
 とはいえ、私は別に天皇制がなくなっても、ちょっと残念だけど受け入れられる。ただ、平成天皇、美智子妃殿下の日本という国への強い思いを考えると、それは少し悔しい。私のような一国民でさえ、このような気持ちを天皇制に抱いているのに、そのかけらさえ眞子様は持っていないように振る舞っている現状は、天皇という象徴に大きな汚点を残している。その汚点がこれ以上、広がらないようにしっかりと事後処理をしないと、本当、天皇家は滅びるかもしれない。

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ギター遍歴 [その他]

新しいギターを購入した。K’zギターさんでカスタムメイドでつくってもらったギターである。このギターで何本目になるのか。自分の記憶の整理も兼ねて、ここでまとめてみたい(読んでいただいてもつまらない記事かと思います。その点、申し訳ない)。

まず最初に購入したのはYamahaのセミアコであった。お茶の水の下倉楽器だ。その頃はイーグルスやドゥービー・ブラザースが好きで、パトリック・シモンズに影響されたのでセミアコを購入した気がする。高校一年の時だと思う。そして、隣のクラスの小沢君の中古のグレコのレスポールも購入した。確か1万円だったと思う。これを購入して、いや、このレスポールというのはいいギターだなと気づき、アリアプロの新品のレスポールをその後購入する。そして、グレコのレスポールは同じクラスの中井さんに1万円で売った。アリアプロは結構、気に入っていたと思う。大学時代も弾いていたと思われるが、おそらく大学に入って、フェルナンデスのテレキャスを購入する時に売ったような気がする。大学のバンドではリードを他のギタリストに任せて、自分はボーカルでサイドギターを弾くようになったので、気分がテレキャスになったのだ。大学時代はずっとこのフェルナンデスのテレキャスを中心に弾いていた。

さて社会人になって、時間はないけどお金はあるようになったので、トレモロ式のアームが欲しいなと思ってValley Artsのギターを買ったのだが、これはほとんど弾かずにいた。これは、トレモロの管理が当時は面倒くさすぎてやってられないな、と思ったからだ。そして、バンドを新たにつくったこともあり、シェクターのテレキャスターを思い切って買う。これは、それまでとは違って27万円と破格に高い値段のギターでなかなか思い切ったことをした。そして、このギターは今でも私のコレクションとして残っている。その後、バンドが内紛で解散し、私も結婚してアメリカに行くことになり、ここでほとんどのギターを泣く泣く処分することになる。ヤマハのセミアコ、フェルナンデスのテレキャス、ヴァリー・アーツのストラトはこの時、すべて売ってしまう。

さて、結婚してバンド活動もまったくしなくなって、ギターもほとんど弾かなくなっていた私はシェクターのテレキャスしか持っていないという状況を長らく続けるが、その後、会社を辞めて大学の教員になり、しばらく経ってゼミ生が「先生、楽器やれるならバンドしましょうよ」と言ったので、シェクターを物置から取り出してまた演奏するようになる。その後、癌が見つかって手術をしたのだが、退院したのを祝って、思い切ってポール・リード・スミスのカスタム24を渋谷の石橋楽器で購入する。これは、それほど考えなくて買ったのだが、結果的には大正解で、今でも本当、いいギターを買ったと嬉しく思っている。その後、オヴェーションの中古のアコギを10万円でお茶の水の黒沢楽器でも買ったりしたが、これは大失敗だった。オヴェーションという名前に騙された。

その後、シアトルの中古楽器屋を訪れて、その雰囲気にめちゃくちゃ弾かれて、ギブソンの中古のセミアコを13万円で購入する。335より小ぶりの奴だ。結構、いい音が出ていたのだが、3弦がやたらチューニングが狂う。リペアに出したのだが、ぜんぜん、直らなかったのでこれは売ってしまう。どんなにいい音が出ても、音程が合わないギターはきつい。このとき、オヴェーションのこともあったので、やっぱ中古はダメだなとつくづく思う。というか、ギターの目利きができる人はともかく、私のように出来ない人には中古はくずをつかまされるだけだ。オヴェーションも酷かったので、代わりに高峯のアコギを買った。これはなかなかいいギターであったので、オヴェーションを売りに出したが、価格がまったくつかないくずギターという評価だった。

そうこうしているうち、ジェネシスのトリビュート・バンドを組むことになり、これはレスポールでしょう、ということでアリアプロ以来のレスポールを購入する。ギブソンの大量生産のレスポールだ。お茶の水の黒沢楽器に行って大量のレスポールから選んだのだが、結構、サステインを気にしていたこともあって重いギターを買った。実際、このギター、本当に重いです。

また、大学を京都に移したこともあって、京都での練習用ということで、これまで一台も購入してなかったストラトをゲットする。フェンダー・ジャパンで確か8万円ぐらいであったと思う。

そして、今日のK ‘s ギターである。実際、逗子の工房に行き、いろいろとカスタムメイドで注文したのが4月なので、ほぼ半年かかったことになる。ダブルカッタウェイ、24フレット、細めのグリップ、そして32の音づくりができる脅威のピックアップ・システム。値段も高いが、これは怖ろしく素晴らしいギターを手に入れることができた。もう今日は至福感でいっぱいだ。

この素晴らしいギターよりハイグレードなギターを購入することは今後ないだろうが、まだ私のギター遍歴は続くと思われる。しかし、まあ改めていろいろなギターと人生を共にしてきたなと思ったりした今日である。

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左から、シェクターのテレキャス、タカミネのアコギ、prsのカスタム24、K's Guitarのカスタム、ギブソンのレスポール
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伊藤詩織さんの事件を考える [その他]

ジャーナリストの伊藤詩織さんが元TBS記者の山口氏から性行為を強要されたことで訴え、刑事事件では政権に極めて近い関係にある山口氏(奥さんがアッキーと同級生)を検察は嫌疑不十分として起訴を取り下げる。しかし、それで諦めなかった伊藤さんは民事裁判で訴え、2019年12月に東京地裁で開かれた民事裁判で勝訴した。ちなみに山口氏は控訴している。
 この事件の事実は、どうであったのかは私にはよく分からない。伊藤さんの訴えを聞いた高輪警察署の人達が調べた結果、山口氏は極めてクロであったという報道からすれば、また、訴えることのリスクを敢えておかしてまで伊藤さんが正義を求めたということを鑑みれば、まあ山口氏はクロなんだろうなとは思う。しかし、まあ、そこは正直、私にはよく分からない。とはいえ、山口氏の弁明する場に伊藤さんが気丈にも同席して彼を見据えていたことを考えると、まあクロであろう。潔く謝罪して、罪の責任を取ってもらえればと思うが、彼の失うものの大きさを考えると、まあジタバタするのも分からないでもない。そして、そう思いつつ、100%山口氏がクロだろうとは判断できない自分もいる。世の中、何が真実かはなかなか分からないからだ。
 さて、伊藤さんが本日、Twitterに投稿されたイラストなどが名誉毀損に当たるとして、漫画家のはすみとしこらに損害賠償を求め、東京地裁に提訴した。このイラストは、まさに伊藤さんそっくりの女性を侮辱する内容のもので、本人ではなく私が見ても非常に不愉快を感じるものである。はすみ氏は伊藤さんではない、と主張しているが、誰がどう見ても伊藤さんそのものである。というか、はすみ氏は画力があるのだ。彼女の底が抜けたように意地が悪い意図は明らかであり、こういう人の傷に辛子を塗りたがるような行為は、犯罪であることは100%明白であり、厳しく処分してもらいたい。もちろん、彼女は「言論の自由」などと主張するだろうが、シリア難民への極めて無礼なイラストとともに、その行為は「言論の自由」をむしろ危機にもたらすような裏切り行為であると思う。
 山口氏の行為は密室なので、私は、100%確信はもてないが、はすみとしこ氏の行為はまさに白日のもとに晒された、というかツィッターで拡散されていて明々白々の事実である。そして、それは犯罪的ではなく、犯罪そのものである。こういう行為を野放しにしておくことこそ、「言論の自由」への挑戦である。「言論の自由」とは、嘘をつく自由でもないし、根拠なく人を貶められる自由ではない筈だ。

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国民3%を無作為抽出したアイスランドのコロナウィルス調査結果からみえるもの [その他]

コロナウィルスの検査をまったくしない日本と対照的な国がある。アイスランドだ。アイスランドは全国民の3%にあたる無作為抽出したサンプルにコロナウィルスのテストを実施した。これは日本の人口に換算すると400万人に相当する。おそらく世界最高水準のコロナウィルスの統計検査が実施できている国だ。
 もちろん、アイスランドの人口は36万人ちょっとで、サンプル数も1万人なので絶対数的には少ないが、統計的分析をするには十分である。
さて、その結果であるが、陽性として判定された人のほぼ半数がコロナウィルスの症状をまったく見せていなかったということである。つまり、コロナウィルスの感染は、無症状の人を通じて広がっている可能性が極めて高いということが考察されるような結果が現れたのである。
より詳しい情報を知りたい人は、次のHPを参照のこと。上記は、このHPの内容から掻い摘まんで記している。
https://english.alarabiya.net/en/features/2020/03/25/Coronavirus-Iceland-s-mass-testing-finds-half-of-carriers-show-no-symptoms?fbclid=IwAR0Na0yYKGaEmm8ssHjG4G_0HoSh9lrrT2KC0JYTcZuWuTMIWM5otdVLwhU#.XoJT0jAfEXc.facebook

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明けましておめでとうございます [その他]

明けましておめでとうございます。最近、ブログの更新をしていなくて申し訳ございません。コンピューターを新しくしたことで、ネットの設定に手間取ってしまっていました。正月休みでようやく、ここらへんを整理できた次第です。

さて、2020年は東京オリンピック、そしてアメリカの大統領選があります。東京オリンピックは、これからの日本の衰退の契機となる可能性が大ですし、アメリカの大統領選は、その結果によっては大きく民主主義が瓦解していく可能性を秘めています。どちらにしろ、大変な時代を迎えるような気配が空気を覆っているように感じるのは私だけでしょうか。などと思ったら、年が明けたら、いきなりトランプはイランの司令官を殺害するし、北朝鮮はICBM実験を示唆しています。

このような状況下、国は頼りになりません。個人で生き延びる術を考えないとならない時代に突入したと考えた方がいいでしょう。日本は移民に対して、いろいろと制約を課していますが、実態としては、日本から他国に移民をしなくてはいけないような状況になりつつあることを自覚しないといけないかと思います。しかし、他国に移民をするには何しろ教育レベルを高めることが必要です。そうでないと、日本を出ることもできませんから。

なぜ、そこまで悲観的になるのか。それは、日本という国が抱えている借金の大きさからです。消費税を8%から10%に上げるのもその借金の大きさからすれば仕方ないと言えるかもしれませんが、安倍政権は増えた税収入をまたもやばらまきに使っています。福祉に使うのではなかったのか。ほとんど詐欺的なことを行っているのに、それでも安倍政権を選んだのは国民ですからね。そういう国民の国は滅びることになるかもしれない。それはとても個人的には辛いことですが、私の寿命が尽きる前に、日本は悲惨な状況、第二次世界大戦の敗戦と同じようなひどい事態になり得るかなと思ったりもしています。

新年の挨拶で、まったくおめでたくないことを書いてしまい恐縮ですが、大学教員、そして研究者のはしくれとしては、せめて迫り来る危機に対して、いたずらに危機感を煽るのではなく、冷静に客観的な情報を発信する責任があるかなと思ったりします。私の二人の子供は、日本を出ることになると思いますが、私は日本という国を愛しているので心中する覚悟ではおります。引き続き、よろしくお願いします。
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今週の標語「モチベーションがないとやる気が起きない」 [その他]

ううむ、これはうちのゼミ生の発言なのだけど、結構、衝撃的でしたね。とはいえ、モチベーションの意味には「やる気」も含まれるので、これはただ「やる気がないとやる気が起きない」と当たり前のことを言っているだけに過ぎないので衝撃を受けるようなことでも本来は無い筈です。「アペタイトがないので食べたくない」と言うようなものですね。英語を日本語で言い換えているだけです。それじゃあ、なぜ私が衝撃を受けたのでしょうか。それは、おそらく「やる気」というのはもう少しセルフ・コントロールというかセルフ・プロデュースしなくてはいけないからじゃないか、と思うからです。だって、会社員が「やる気がないから仕事をしません」って言えませんよね。私が所属しているバンドで「やる気がないから練習しなかった」って言ったらクビですよ。私はクビになりたくないので、まず練習しますけど、仮に練習しなくても「やる気がなかったから」とは拷問されても言わないなあ。だって、これって白状した時点で負けじゃないですか。というか、そもそも「やる気」がないことに時間を費やすほど残りの人生、長くないからねえ。
 つまり、モチベーションを上から与えてもらえる、などということはない筈なのに、そのようなことを期待していうこの学生に愕然とした訳です。自分がやる気が出してくれるモチベーションを待っていてもいつまでもそんなものは幻想だから得られないし、結果、そんな他力本願のやる気など滅多に出てこない。いや、出てくることもあるかもしれないですけど、そんな、天からお金が舞ってくるようなことを期待しないで自分でもっと積極的に生きなくっちゃ。って、これを誰が学生に気づかせるかと言ったらやはり指導教員の私でしょうか。あまりの衝撃に突っ込むタイミングを逸してしまいました。

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趣味が「音楽鑑賞」ということはあるのだろうか [その他]

新しいゼミ生を採用した。14名を採用したのだが、初顔合わせのミーティングを行った。そこで自己紹介をしてもらったのだが、そこで趣味を聞いたら、女子学生の多くが「音楽鑑賞」と回答したのである。そこで、ちょっと違和感を抱いたのだが、果たして「音楽鑑賞」というのは趣味なのだろうか。例えば、私も自動車を運転する時は、まず「音楽鑑賞」しているし、CDはおそらく500枚は持っている。それでも「音楽鑑賞」というのが、趣味とは思わない。No Music No Lifeというコピーがあるが、音楽鑑賞というのは人生のビタミンのようなものではないのか。これは、趣味は暇つぶしということなのだろうか。気になって辞書を調べてみたら「専門としてではなく、楽しむこと」と書いている。同じようなことは「映画鑑賞」とも言える。というのは、映画を観るというのは、結構、普通のことである。それほど特別なことではない。他には何もしていないのだろうか。

ちなみに、私は同じ質問を聞かれると、バンド活動を挙げるであろう。その次は、百名山を目指しているのでハイキングになるだろうし、スキーも好きなので趣味の範疇に入るであろう。素人の横好きかもしれないが、写真撮影もするし、料理もする。あと、最近は鉄道模型に手を出している。カメラとか鉄道模型は、どちらかというと無駄金遣いの類いに含まれるのかもしれないが、それでも音楽鑑賞よりは、ずっと趣味に近いような気がする。逆に言えば、音楽鑑賞というのは、趣味がないと言っているのであろうか。いろいろと気になったのでここに記させてもらった。もちろん、オーディオ機器に拘りを持って、クラシック音楽とかジャズ音楽とかを聴いたりするような「音楽鑑賞」を趣味にしている人もなかにはいるかもしれないが、どうなんだろう。

などと考えていながら、20代後半のイラストレーターの女性と飲みに行ったのだが、彼女はベック(BECK)の大ファンで来日すると、京都から東京までコンサートに行くらしい。このレベルになると、これは「音楽鑑賞」でも趣味の領域に入るかもしれない。私もそういう意味では椎名林檎の音楽鑑賞に関しては、趣味の域に近い。これは、おそらく音楽鑑賞をただ受動的にするのではなく、批判的に評価するだけの知識と情熱をもっているということではないのだろうか。そのレベルに達して、はじめて「音楽鑑賞」が趣味になると思ったりする。すなわち、その対象をより知りたいと思う「情熱」があって、またなおかつ周囲もそれなりに認めてくれるだけの「知識」や「技術」があって初めて趣味になるのではないか、と思ったりした。

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労働組合は自由加入であるべきだ [その他]

4月から新しい職場で働くことになった。龍谷大学政策学部である。さて、いろいろとオリエンテーションなどがあったのだが、そのうちの一つに組合の説明があった。私の前々職である三菱総合研究所にも、前職の明治学院大学にも組合はあった。前々職では若かったこともあり、プロフェッショナルなのだから職場が嫌なら辞めればいいじゃないか、という気概で仕事をしていたので組合というのが職種的にもまったく納得できなかった。しかし、強制加入であったので無理矢理入れさせられた。前職の明治学院大学も強制加入であり、いやいや入って、ろくに組合活動をせずに、転職できるように研究活動と教育活動に力を入れていた。置換え可能でない人的資源であれば、組合に頼らずに生きていけるのだ、というある意味、傲慢不遜な考えを持っていたので、組合的な活動に意味を見出さなかったのである。
 さて、そのような非組合的な考えを持っているので、龍谷大学は強制加入でないこともあり、組合に入るつもりはなかった。しかし、説明を聞いていたらなかなかいいのである。組合の成果などがしっかりと説明されたパンフレットなども配布されたのだが、組合頑張っているじゃないか、というのがオリエンテーションの説明とともに伝わってくる。このような組合なら入っていいな、と思いつつ、前々職と前職との違いは何があるのかと考え、それは強制加入ではないからだということに気づいた。強制加入は組合として仕事をしてもしなくても、組合費は入ってくる。むしろ、仕事をするだけ大変だ。仕事をするモチベーションがないため、御用組合的になり、会社の経営陣や大学の執行部などにもなめられる。一方、強制加入ではないと必然、組合の仕事をしないと誰も入らないし、どんどんと辞めていく。組合としての仕事の成果を上げるというのが、その組織を維持するためにも不可欠なのだ。そういうことで、強制加入の組合は辞めたい、辞めたいと思っていた私が、強制でないと入ろうとしている。組織の運営のあり方を考えるうえでは有効な知見を与えてくれるような経験をした。
 
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どんなに面白い話をしても眠る者はいる [その他]

建築家堀部安嗣氏の講演を聞く。大学教授もしているだけあって、話はとても面白く、しかも内容も深く、私は大変感銘を受けた。これはお金を払っても聞く価値のある貴重な話であるな、と感心した。さて、しかし、私の隣に座っていた比較的若い青年は眠っていた。この講演を聴講するのは無料ではない。本人が支払っている訳ではなく、会社や役所が払っているのかもしれないが、それにしても勿体ないな、と他人事ながら思ったりする。
 さて、これは専門家を対象とした講演会であった。私は、実は講演者の一人であったので、おそらく聴講者の中では唯一、専門家ではないのだが、それでも大変興味深く聞けたぐらいであったから、専門家であれば、その話の価値はどれほどのものだろう、と推察したりした。しかし、それでも眠れてしまう。この現象は私にとってはとても興味深いものである。ということで、なぜ、この若者は眠ってしまうのか、ちょっと考察してみた。というのも、私の大学の講義でも、私が眠らせないために面白いと思われる話を、面白く話しても眠ってしまう学生がいるからだ。これを私は自分の魅力の無さが原因なのではないか、と自己嫌悪に陥っていたが、今日の堀部さんのような話でも寝てしまうのであれば、もはやそれは講演者に責任があるとは思えないからである。
 さて、それではなぜ眠れてしまうのか。まず、それは、学生もそうだが、この聴講者にまったくの知的好奇心がないからであろう。そうでなければ、既にその話を何度も聞いたことがあり、もう聞き慣れているということもあるかもしれないが、この講演が有料であることを考えると、それはないであろう。したがって、圧倒的に関心がないのであろう。これは、まさに馬耳東風という状態である。専門性のプロ意識がないということで、おそらく建築の仕事をするのには向いていないのでないだろうか。
 もう一つは、やはり「眠る」という欲望というのは、とてつもなく抗し難いということなのではないだろうか。これは、国会での国会議員の多くが居眠りしているのを見ても、そう思ったりする。国民を代表して、国会で将来の国の方針を議論しているという重責を担っていても、「眠り」に負けしてしまう。これは、国会議員が無責任とか無自覚という訳ではなく、「眠り」というのはそれだけ抗しがたい欲望なのであろう。
 そのように考えると、講義で寝てしまう学生も別に、私に失礼なことをしていると自覚しつつも、敢えてその欲望に負けてしまう、ということもあり得るのではないだろうか。というのを堀部さんの大変面白い話に感銘を覚えつつも、隣の若者が寝ている状況から考察したりした。

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些細なことだけど悔しいこと [その他]

 私は新幹線の車内でよくラップトップで仕事をする。新横浜もしくは品川から新大阪まで往復することが多いが、その時、コンピューターの電源が途中で切れるのが嫌なので窓側の席であるA席かE席に座るようにしている。なぜなら、コンセントのプラグがついているからだ。
 ただ、この両席は最も人気が高いので先に予約で埋まる。もちろんB席やD席でも、ちょっとお願いすれば大抵の場合、使わせてくれるが、それらの席に座っている人が携帯電話などを充電しているとお手上げである。ということで、これらの席が空いている列車に乗るために1本や2本遅らせる場合が多い。
 さて、しかし、このプラグがない旧式の列車が走っていると、せっかく乗る列車を遅らせてもまったく無駄となる。今日もまたそのようなミスをしてしまった。そして、まだ大井川を通過した時点なのに、既にバッテリーが心細くなってきている。些細なことではあるが、私が悔しいというかついていないと思う日常生活の中の一例である。

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ヨドバシカメラで高価な電化製品を買うという習慣を見直すといいかもしれない [その他]

 一眼レフのレンズ、そして出来ればカメラ本体も購入したいと考えていた。さて、しかし、写真撮影をする仕事がなければ意味もない。ということで、仕事の継続が決まるのを待っていたのだが、無事、今年度も仕事が取れたので早速、購入しに行った。
 昨日、ヨドバシカメラに行った。ほとんど買うつもりであった。買おうとしたのは、Canon のEF16-35 F2.8Lである。値段は29万円であった。実際の売値はと尋ねると、「同じである」と回答したので、「随分と高いね」と返したら、「ちょっと待って下さい」と言って「ネットで調べたら25万円なので、25万円が売値です」と言い直した。どうも信頼できないなあ。
 次にカメラを見た。私は今EOS7Dを持っているが、ISOが6400しかない。長女に買ってあげたEOSのKissだってISOは12800まである。これが大きなネックだったので、新たに購入したいとは前から考えていた。狙っていたのは、比較的出たばかりのEOS 5D Mark IVである。これが幾らか尋ねると39万円。うわっ、高い。「実際は幾らで売っているんですか」と別の店員に尋ねると、「値札通りです」とのこと。しかし、この人はソニーの販売員だった。「ソニーの人だからそうだよね」と皮肉を言って何も買わずに出た。レンズの件から、値札通りとは到底思えないからだ。ただ、店を出る前に値段はしっかりとメモをしておいた。
 新宿のヨドバシカメラなので、すぐそばにマップ・カメラがある。マップ・カメラに行ったが20:30が閉店でもう閉まっていた。そこで翌日、中野のフジヤカメラに行くことに決めた。この店は1938年に創立された老舗のお店である。
 午前中に訪れたのだが、平日なのに結構、人はいた。まずはレンズを買おうとする。Canon のEF16-35 F2.8LはIIが出たばかりなのに、既にバージョン変更したIIIが出ている。値段は16万円と22万円。お店の人は無愛想だったが、「IIIの方がいいです」と確信的に言う。それで、私はレンズを買うことを即決した。そして、持参していたEOS7Dにマウントすると、どうも広角じゃあない。そこで、初めて自分のカメラがaps-cであることに気づく。間抜けな話かもしれないが、実際、使っていると別に不自由はしなかったからだ。ただし、せっかく広角のいいレンズを購入するのに、これでは宝の持ち腐れである。ということで、なんだかなあ、と思う。カメラの本体も購入したいが、昨日のヨドバシカメラの値段では予算オーバーも甚だしい。
 私が、いやあ「このカメラだと宝の持ち腐れになっちゃうなあ」とぼやくと、店員の人は私がカメラを買う意図が密かにあるということを見抜いたように、「Eos 5D Mark IIIが今、新商品のMark IVが出たのでお買い得ですよ」と言う。私が幾らぐらいですかと尋ねると25万円。これは安い。私が今、使っているカメラは2009年に買っていたので、ほとんど寿命に近い。今のカメラを買った時は、前所有していた一眼レフのシャッター回数の限界が来たからである。そのカメラは7年間使用したので、今のカメラもそろそろシャッター回数的に寿命が来ている筈である。
 ちょっと私がその意見に食い付いて、「Mark IIIはでもMarkIVに比べるといろいろと劣るでしょう」と言うと、店員は「いやいや、MarkIVが出たことでむしろMark IIIは再評価されているぐらいです。特にMovie機能などを使わない人は今でもMark IIIの方がいいくらいじゃないですか」と言う。気になる欠点は「重いところ」ぐらいであるとまで言う。ここで私は落ちた。そもそも値段が安いのに、自分のニーズには遙かに合っている。今のカメラの一番、不満なところはIOSだが、その上限が6400からいきなり25600まで伸びる。相当、思い切った出費ではあるが、どうせなら一緒に買った方がいいだろう、ということで中野まで来たこともあり買ってしまった。
 持っていたカメラを下取りでは幾らになりそうですか、と尋ねると、いろいろと見てくれた後、これだけボロいと売らない方がいいですよ、と言われてしまいました。そういう意味でも、どうせカメラも買わなくてはいけない時期に来ていたということか。また、セカンドとして持っていた方が、山登りとかに持って行けるのでいいかもしれない。
 ということでカメラとレンズを購入したのだが、私はつくづく、ヨドバシカメラの接客態度というかサービスに大いなる不満を覚えた。確かに、ヨドバシカメラは安い(とはいえ、フジヤカメラの方がポイント換算を考えても安かった)。ただ、カメラやレンズを売ろうという誠実な姿勢を伺うことはできなかった。ここで、誠実な姿勢というのは、顧客の立場、顧客のニーズを「忖度」して、自分の商品知識の中から最適だと思われるものの情報を提供するという姿勢である。それは、コンシアージ的な機能であるかと思われる。店員は売っている商品のコノセールであるべきだ。消費者側がその商品知識に造詣が深く、店員は取りあえず売ればいいという小売り形態は多くある。例えば、コンビニエンス・ストアやマクドナルドであったりする。しかし、圧倒的に店側が商品知識を持っているものも少なくない。一般的には自動車やステレオ、大型家電などの買回品がそうだったりするが、日本酒やワイン、高級寿司などもそうであろう。そして、高級一眼レフカメラやレンズなども、まさにそうである。確かに、ヨドバシカメラ(ビッグカメラなどもそうである)は、圧倒的な仕入れ力で価格を下げ、売価も安くしたが、自分は本当に何が買いたいか、その商品をカタログで調べていても自信はない。そういう点で、今回のレンズ、カメラともにヨドバシカメラはまったく私が必要な情報を提供してくれることはなかった。こちらが尋ねてでもある。一方で、フジヤカメラは適切な情報を提供してくれたことで、レンズかカメラのどちらかだけを購入しようと思っていた私に両方とも売ることに成功し、そして私も大変満足しているのだ。私は結構、ヨドバシカメラで買うことが多いと思うが(カメラ本体はともかく、レンズなどはそうである)、今後は、ヨドバシカメラで高価な電化製品を買うという習慣を見直すべきであると今回の経験から思わせられた。

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ポケモンGOをしない人が、しない人に取材をして、へんな分析をすることは止めてもらいたい [その他]

12月12日からポケモンGOのポケモンが追加されることになった。ちょうど、その前日に私はポケモンをコンプリートさせた(海外バージョンのガルーラとケンタウロスはゲットしていない。バリヤードはゲットしている)。ちょっと、このように告白すると恥ずかしい。いい大人がポケモンGOをしていることを恥じている自分がいるからだ。さて、そのようなポケモンGOであるが、「若者がポケモンGOから離れた理由」(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161216-00000002-zdn_m-sci)などと、したり顔で分析している人達が多いことが気になっている。ポケモンGOをしていない若者に取材をして、ポケモンGOをしていない人が、なぜポケモンGOをしないのかを聞いても、その理由が分かる訳がないだろう。私はホヤが好きでないが、「ホヤを食べない」人達がなぜ「ホヤを食べないのか」を、本人もホヤを食べない人が取材をして分析を試みても、ホヤをマーケティングする戦略が見えないことと同じである。ホヤを食べる人達はとても多くいて、それらの人をマーケットとして、ホヤ産業は十分に成立している。別に、我々のような「食べない人達」が食べなくてもどうでもいいのである。このエッセイは、「新ポケモンの追加でさらなる盛り上がりを見せるポケモンGOですが、若者たちをどこまで取り込んでいけるのでしょうか」と締めているが、私からすれば、今の状態でも十分にポケモンGOをする人が多すぎて、盛り上がっていて、ちょっと困っているぐらいである。これ以上、増えると逆に一人当たりの効用は減るので、そこまで儲けなくてもいいだろう、という気分である。さて、それでは、なぜ私のように未だポケモンGOをする人がいるのに、飽きている人もいるのか。ポケモンGOをしている私が解説したいと思う。

まず、ポケモンGOというゲームの本質を理解していない人が多いことが挙げられる。別に本質を理解したとしても、それに興味を持たなければどうでもいいことであるが、それを知る前に飽きてしまう人が多い。多くの途中で飽きた人達は、このゲームはポケモンをゲットすることが目的であると考えている。それも一つの側面であるが、このゲームはポケモン・ジムにて、バトルをしながら陣取り合戦をすることこそが、もう一つの目的であり、これはなかなか楽しいゲームであると私は捉えている。そして、バトルをするためには、ゲットしたポケモンを強化させなくてはならない。この育てる、という側面もこのゲームを楽しくさせている点だ。どのポケモンを鍛え、ジムに参戦させるのか。タイプごとに、戦略ごとに、いろいろと考えなくてはならない。ポケモン・ジムで参戦をして勝てばコインがもらえる。コインによって、孵化器などのグッズを購入することができる。孵化器はポケモンの卵を孵化させるのに必要な道具で、いくらあっても困らない。お金を払っても買うことができるが、流石にそれはちょっともったいないので、私は毎日、海外にいても10コイン(最低の単位が10コインから)はゲットするように努めている。このコインのインセンティブがあることは、プレイする人達の大きなインセンティブになっていると思う。このバトルのシステムは非常によく考えられており、つくづく、このゲームは洗練されていると思う(タイプごとに弱点と強みがあるところとか)。私は、駅から家に帰る際に、2つ、状況に応じては3つほどジムを訪れ、バトルをしてから帰宅をしている。バトルをしている姿は、ちょっと人に見せられなくて、その点は相当、このゲームの弱点ではあると思うが、喫茶店でやれたりもするところがあるので、それは助かっている(ゲームをしているのではなく、メイルを打っているように見えるからである)。
 ポケモンGOをポケモン・ゲットと捉えている人が飽きてしまうのはもったいないと思うが、このゲットするという行為自体にも、なかなか楽しい工夫が為されており、もう少し真剣にやれば楽しみが分かると思うのである。レア・ポケモンのポケモンの巣に訪れて取るのは、あたかもカブトムシがわんさかといる森に行って、それらを取る時のような興奮を覚える。そして、そのために知らない公共空間(たいてい公園などの公共空間がポケモンの巣に設定されている)を訪れるのも悪くない。こんないい公園が東京にはあったのか、などを知る機会を提供してもらって感謝をする時もあるぐらいだ。
 私の場合は、子供達はあまり興味を持っていないが、家内もはまっているので、なかなか夫婦のコミュニケーション・ツールとしてはプラスになっている。もちろん、そういうのがまったく不要なおしどり夫婦であれば、いらないのであろうが、ちょっと夫婦仲が怪しい場合は、ポケモンGOはプラスしかもたらさないであろう。
 私の子供は一人が大学生で、ポケモンGOは家族で最初に手を出したのだが、一番早く飽きた。それは、ポケモンGOというゲームに問題があるというよりかは、その奥深さを追求するような意欲、好奇心が欠けているからである。そんな、好奇心のない若者に媚びて、合わせていたら、ゲーム自体の楽しさを損なう。というか、バトルをしているとつくづく感じるのは、皆、やり過ぎ。香港とかに来て、おっ!ここはポケモンのレベルが低いな、と喜んだのだが、バトルでやっつけても瞬時でまたバトルを仕掛けられてしまう。レベルが低いが、ポケモン・バトルの参加度は東京を上回るのではないだろうか。ポケモンGOに嵌まっている人達は、既に世界中に十分いるし、私としてはちょっとコインを稼ぐためには、皆があまりにもポケモン・バトルをやり過ぎるわ、と自分のことを棚に上げて思ったりしているぐらいだ。現状のポケモン・ジムの数からすると、参加者は飽和数に近いのではないだろうか(いや、さらに参加者が増えればジムを増やすだけでしょうが)。ということで、本当、ポケモンGOをしない人が、しない人に取材をして、へんな分析をすることは止めてもらいたい。というか、したり顔は格好が悪い。

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セビージャにてバリヤードをゲット。スペインのポケモンGO事情。 [その他]

 スペインに来ている。実は、私はたしなむ程度にポケモンGOをしている。スペインに来たので、仕事のついでにポケモンGOのスペイン事情もちょっとチェックをした。まず、ポケモン・ストップなどの数はマドリッドの都心には多くあるが、郊外とかには少ないという印象を受ける。スペインでも都市偏重という傾向がみられる。また、ポケモン・ジムに関してだが、日本よりは弱い印象があるが、圧倒的な差があるとは言えない。カイリューの3000ポイントクラスがいたりもする。
 あと、スペインだと日本とは頻繁に出てくるポケモンが違う気がする。といってもマドリッドとセビージャだけでしかやっていないので、スペインと括るのは問題があるが、サンドとガーディ、アーボが多く出てくる。それとニャース。ここらへんは、やはり乾燥している気候だからだろうか。また、リザードも出てきたりして、なんとなく火ポケモンと砂ポケモンが多くでる気がする。逆にまだまったく遭遇していないのは、コイキング、ヤドン、キャタピー、ビードル、ふしぎだね、なぞのくさ、トサキントなどである。これらは、「近くにいるポケモン」でも出てこない。草系、水系があまり出ないという印象だ。
 ポケモンGOには地域限定ポケモンがあり、ヨーロッパはバリヤードである。マドリッドの郊外のホテルでも「近くにいるポケモン」にシルエットが出たが、夜であったこともありホテルの外(ホテル内では出てこなかった)までゲットしにいくのは諦めたが、その後、マドリッドからセビージャに移動して、水を買うためにセビージャのホテルを出て、歩いていたら「近くにいるポケモン」に再び出現したので、これは是非ともゲットしなくてはと思い、計画的に歩くことで(消えた場所(A点)で折り返し、逆の方向に歩いて再び消えたところ(B点)をみつけ、ABの垂直二等分線上を歩く)みつけてゲットした。思わず、「やった」と声が出てしまった。
 プログラミングをされたものを分析するのは虚しいところはあるが、地域によってポケモンをどのように分散させて出現しようとさせているのか、その考えは企業秘密なのだろうが、知りたいところである。明らかに風土を反映させるように意図されているような印象を受ける。

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武蔵野大学の長谷川秀夫教授の無責任発言について、多少考える [その他]

武蔵野大学の長谷川秀夫教授がインターネットサイトのニュースサイトに「残業100時間で過労死は情けない」と投稿したことで、ネット上で炎上、大学がその処分を検討するような事態になってしまった。電通の女子社員の過労自殺ニュースが配信された時間帯に投稿したことで、彼女のことに言及してはいないが、亡くなった人への配慮がなく無神経な発言であったことの誹りは免れないであろう。

ただ、「残業100時間で過労死は情けない」という発言を擁護する気は毛頭ないが、私のように50代を越えた人間からすると、特にバブル期においては、残業100時間は珍しくはなかった。流石に4月に自殺された原子力規制委員会の審査対応をしていた関西電力の課長職の四十代男性の残業200時間は、当時でも異常な数字ではあったが、100時間というのは私もよくクリアしていた数字である。「過労死は情けない」という発言は情があまりにも無いと思うが、残業100時間というのを「たいしたことないじゃないか」と思うのは、1990年前後にサラリーマンをしていた人たち、特に私のような法人サービス産業、に従事していた人が共有する感覚なのではないか、と思う。

これは、しかし、おそらく若い人たちからすると論外であることだろうし、なかなか共感することは難しいであろう。私も、結果的にやってはいたが、徹夜明けのオフィスで貧血になって倒れたりしたり、基本、プライベートな生活はほとんどなかったりで、仕事はやり遂げたかもしれないが、ほとんど何もプラスにはなっていない。したがって、100時間残業をやってはいたが、それが大したことがないと感じてしまうのは、私の問題でもあろう。

ただ、私が残業していたのは、会社や上司のせいではなく、コンサルタントという業務の特性からであった。顧客が納得できなかったら、残業をしてでも完成度をあげなくてはならない。それは理不尽なところもあるし、私はちょっと直情的なところがあるので、顧客に文句を言ったりもしたが、それでも情報や知恵で、お金をいただくというのはとても大変なことなのである。そして、電通も業態的には私が働いていたシンクタンクと似たようなところがある。私はよく後輩に、「なんで顧客が君のアウトプットにこれだけのお金を払うと思うの。その価値をつくるための工夫や努力をしないと」と言っていた。それは、私が自分自身を自戒するために自問していたことでもある。さらにいえば、顧客がアウトプットに満足してくれた時には、私は大いに嬉しい気分と達成感が得られた。まあ、それが高残業のインセンティブに当時はなっていたのは確かであり、おそらく今では許されないアプローチなのかもしれないが、プロとしての自覚がそのようにさせていたというのはあったと思う。そのことを私は個人的には、それほど肯定したくはないが、組織全体ではそういう厳しさを共有して乗り越えようといった体育会的な雰囲気があり、それはある意味では居心地が悪くはなかった。もちろん、そのような雰囲気が苦手(特に女性)な人たちがいたことをあまり配慮していない、という排他的な雰囲気も合わせて有しており、決して褒められたものではないが、そういうのに肯定的な日本の組織文化のようなものを有している企業は、当時は少なくなかったと思われる。

その物言いは情がなさ過ぎるのは確かであるし、おそらく長谷川教授は後悔もしていると思うのだが、ちょっとバブル期にサラリーマンをしていた私は、彼がそう迂闊にも口走ってしまった背景は理解できるのだ。そして、そのような経験がない大学一筋で過ごされた学長に処分を検討されてしまうのは、正直、同情を禁じ得ない。いや、発言に対して責められることには同情の余地はないが、処分されることには同情をするということです。

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ポケモンGOはバスに乗りながらやるのがちょうどよい [その他]

 私も嗜み程度に、ポケモンGOをしている。モンスターボールを投げるのが下手だったり、電池を猛烈に消耗したりするので、それほど嵌ってはいない。ただ、このゲームは都市をフィールドとしているので、いろいろと発見があったりして興味深い。
 まず、気づいたことは当たり前であるが、東京の歩行環境の悪さである。ポケモンGOを歩道でも歩きながらするのは相当、危険である。私の家内は実は、ポケモンGOに相当、没頭しているが、彼女は自転車に乗りながらもやっている。とても危険で止めさせたいのだが、どうもポケモンGOの魅力には打ち勝てないようだ。私の家内のような危険人物もいるので、またそうでなくても歩行環境はよくないので、実質的にポケモンGOを歩きながら出来るのは、河川を暗渠化させてつくられた緑道ぐらいではないだろうか。ちなみに、このような緑道はポケモンが多く出る(コイキングやコダック等水ポケモン系)ので一石二鳥である。ただ、このような例外的な事例を除くと、なかなか歩いてもポケモンには出会えない。身の危険を賭してまで、歩いてやるだけの価値があるのか。ちょっと疑問である。
 それじゃあ、自転車や自動車に乗りながらやればいいじゃないか、と思うかもしれないが、これは家内がやっている手前、あまり強くは言えないが、ほとんど犯罪に近いと思う。特に自動車をやりながらするような輩は厳しく取り締まるべきだ。実際、取り締まられているそうだが、当然である。
 幸い、東京は公共交通機関が充実している。自分が運転しなくても、歩くより遙かに速いスピードでポケモン探しができる。ただ、電車だとちょっとスピードが速すぎる。GPSのスピードがついていきにくいし、ポケモンやポケモンストップを発見してもあっという間に消え去ってしまう。また、地下鉄はなかなかポケモンが出てきにくい。
 それに比べてバスはちょうどよいスピードで動く。集中していないと逃したりもするが、それがそれほど惜しくないほど次から次へと出てくる。これは、バス路線によっても事情は違うのかもしれないが、私が通勤で使っている目黒通りは、よく出てくる。バスに乗っていても飽きない。
 また、ポケモンストップは、ランドマークに設定されている。したがって、普段、バスで移動していて気づかなかったような神社やお寺、ちょっと面白そうな店などがあることを知ることができる。沿線のちょっとした地理の勉強にもなる。暇な時に訪れてもいいかな、と思ったりもしたりする。東京のバス会社は、お客があまり乗らないシーズンや時間帯は、ポケモンGOとタイアップすることを考えるといいと思う。マクドナルドに寄るよりか、ずっと楽しくポケモンGOを遊べると思われる。
 東京のバス路線ごとに、どんなポケモンが出てくるか、などを解説する本などがあってもいいと思う。歩くのも危険、自転車、自動車は論外、鉄道はスピードが速すぎ。バスこそがポケモンGOを遊ぶのに最も適した移動手段であり、私は、ちょっとこれに気づいてからバスに積極的に乗るようになっている。今日も、蒲田駅から羽田空港までバスで初めて移動したのだが(それまでは京急羽田線を使う場合が多かった)、イーブイをゲットできた。イーブイはそれほど珍しいポケモンであったが、私的には初めてだったのでちょっと嬉しい。

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