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コミュニケーション・メデイアとしての建築 ー 「Architecture as Signs and Systems」を読んで [都市デザイン]

デニス・スコット・ブラウンのエッセイを読む(Architecture as Signs and Systems)。ロバート・ヴェンチューリのパートナーの建築家である。看板としての建築、コミュニケーション手段としての建築の意義を主張してきて、実際、そのような建築をいくつか手がけている。日本だと日光の霧降リゾートなどの設計に携わっている。ヴェンチューリもスコット・ブラウンも書いていることは興味深いのであるのだが、実際、つくる建築はとても今ひとつであると感じる。

景観規制をするうえで対象となるのは広告看板である。それは、その視覚的情報が鬱陶しいからである。私は渋谷とか新宿とかで走っている広告トラックを非常に苦々しい思いで見ているものであるが、それも視覚的情報(さらに聴覚的にも騒音をまき散らしている)が非常に不快であるからだ。特に風俗系の広告だったりすると、本当、不愉快になる。都市空間はコミュニケーションを促すメディアであるというのは指摘通りだと思うが、コミュニケーションは双方向であるから建設的なのだ。単一方向に一方的に受動を余儀なくされる情報はコミュニケーションではない。それを受け入れる人もいるかもしれないが、受け入れない人もいる。特に、ヴェンチューリやスコット・ブラウンの作品では安易にビルの機能を言葉で書いていたりする場合もあるが、それをした時点で建築の負けだと思ったりするのである。

見た目で何かが分かりにくい建築は問題かもしれないが、その判断をする余地をなくすようにするのは品がないと思う。金閣寺の屋根に「金閣寺」と書いたら品がないだろう。エッフェル塔に「Eiffel Tower」とネオンで書かないであろう。ラブホテルも「○○ラブホテル」と字で書いた時点で下品だろう。いや、もちろんヴェンチューリ達の建築作品もいちいち字を記さないものの方が多いが、何か浅薄なものを感じるのである。頭でっかち過ぎるのではないのだろうか。もっと感性とかで空間を捉えた方がいいのではないか、と思ったりした。建築にはコミュニケーション・メディアとしての機能より重要な役割があると思う。看板性ばかりを考えるから、いい空間をつくれていないのではないか、と思ったりもする。



Architecture as Signs and Systems: For a Mannerist Time (The William E. Massey Sr. Lectures in American Studies)

Architecture as Signs and Systems: For a Mannerist Time (The William E. Massey Sr. Lectures in American Studies)

  • 出版社/メーカー: Belknap Press: An Imprint of Harvard University Press
  • 発売日: 2004/12/17
  • メディア: ハードカバー



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ウッチで工場跡地の商業開発について考察した [都市デザイン]

ポーランドにウッチという都市がある。このウッチを以前、訪れて、ブログにアップしようと思っていたのだが忘れたので、今更ながらであるがアップさせてもらう。
ウッチは繊維工場で成長した都市であるが、その工場跡地を複合都市型レジャー施設に再開発したマニュファクチュラというプロジェクトがある。期待していったのだが、ちょっとがっかりした。建物を保全したところは評価したいが、その使い方は、あまりにも商業、商業していて、これだと都市の歴史はなかなか継承できない。まあ、しっかりと見てないので、あまり安直に判断するのは危険であるが、繊維工場があまりにも表層的に取り扱われている。もう少し、オーセンティシティのようなものを維持させることを意識したらよかったのにという印象を受ける。
対照的だったのは、ペトロカフスカ通りにあるオフ・ペトロカフスカという、やはり工場跡地をリニューアルしたところがあるのだが、ここの方がずっと好印象を受けた。それは、ぼろいところをぼろいままで放置したデザインをしているところであろう。綺麗に漂白させない。もちろん、このようなデザインでそこを訪れない人もいるだろうから、マニュファクチュラのアプローチが悪いという訳ではないし、普通のショッピング・センターよりはずっといいかなとは思うが、個人的にはオフ・ペトロカフスカのような開発をしてもらいたいと思う。
特にショッピング・センター的な開発はどうしても地元のお店ではなく、ナショナル・チェーン、インターナショナル・チェーンが入ってしまう。店舗でローカリティというか地域のアイデンティティを発現させるのが難しいので、その歴史というかオーセンティシティをもう少し、意識してもらえればよかったかなと思う。

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【マニュファクチュラ】

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【オフ・ペトロカフスカ】




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テンプリーンという町を訪れる [都市デザイン]

テンプリーンというブランデンブルク州の町を訪れた。住宅会社の人にも取材ができたので、このウェブに情報を共有させてもらう。
 テンプリーンはブランデンブルク州の北部に位置する。ベルリンから北に65キロメートルほど離れたところに位置する。17世紀の30年戦争で激しく町は破壊された。1816年からはプロシアの領土となった。テンプリーンは小さいながらも市壁を有しており、旧市街地に入るための3つの門塔がある。それ以外にも壁の外と結ぶ道路があるが、これらは壁を壊してつくられた。テンプリーンは近年、スパをつくり、観光が重要な産業になりつつある。年間の宿泊者は32万人とそれほど多くはないが、ベルリンからの人気の日帰り観光地となっている。それ以外の産業としては林業、金属加工業がある。
テンプリーンの人口は20世紀にはじわじわと増加して東西ドイツが統一された1990年には18884人になった。その後、人口は緩やかに減少し始め、2020年には15638人になっている。
テンプリーンは2007年にシュタットウンバウ・オスト・プログラムに指定された。それに合わせて「統合都市開発コンセプト2030」を策定し、そこでは5つのアクション・プログラムが記述されている。そのうちの一つ「都市開発・住宅・交通」に注目すると、そこでは歴史的旧市街地の重要性が強調されている。そこには「テンプリンは都心部を生活・仕事するうえでの活力のある中心として機能することに集中する」と書かれている。自治体としては社会流出を抑え、むしろ社会流入することを望んでいる。テンプリーンの縮小政策は、一部の減築とリヒエナー・通りの団地を積極的にリノベーションすることである。テンプリーンには市の住宅会社(WOBA)と住宅組合の住宅会社(WBG)がある。さらに、オープンスペースのリデザイン、空き家の減少、住宅団地をより田園風にロマンティックなデザインに変えるというものである。具体的には室内のレイアウトの変更、新たなバルコニーの設置などを行った。特にペンキに関しては、ペンキ屋が頑張ったこともあり、他の都市と差別化されるようなペンキで住宅が塗られている。シュタットウンバウ・オスト・プログラムが終了した2018年以降は、住宅会社が独自の判断で縮小対策を行っている。
 テンプリーンでは住宅団地の住宅の全倒壊の計画もされたが、結果せずに、基本、減築で対応した。これは、それほどは人口減少を体験しなかったということが要因としては大きい。というのも、テンプリーンは社会増が見られ、周辺の市町村から人が移住してきたり、またベルリンに通勤したりする人もいる。空き家率の具体的な数字は、取材先の住宅会社もしっかりとした情報を提供してくれなかったので把握できなかったのだが、3%以下だとのことである。一方で、6階建ての建物でエレベーターが設置されていないものが多かったので、そういう点から減築をした。5階以上の建物に住みたい人がいなかった、ということもある。エレベーターを設置しなかったのは、エレベーターを設置するとランニング・コストが高くなってしまうから、という経営的な判断である。また、テンプリーンは田舎(田園)なので、6階建てのように住戸密度の高い建物を人々は欲してない。低層の方が需要はあるのと、減築の方が全倒壊して、新たにつくるよりかは安くて済むということで、減築の判断をしたそうである。また、家賃を考慮して、室内のレイアウトは変更した。販売するうえでの重要なポイントはバルコニーである。大体、これらの住宅団地の平均的なサイズは50㎡である。
 リノベーションの費用は最近、高騰しており、不動産の価格も20年前から二倍ほど増加している。労働賃金も材料価格も非常に高くなってしまっている。ただ、ブランデンブルク式といわれる古くて部屋も狭いものは、価格は上がらず、以前、低い家賃で借り手を探しているような状況になる。ブランデンブルク式には、オーブンがあったのだが、再統一後は、オーブンを取り外してセントラル・ヒーティングにしたそうだ。タイルなしの風呂場もつくったそうである。とはいえ、リノベーションをした1993年後から30年経ったため、フラットごとに対応しなくてはならないような状況になっている。
住宅会社が住宅の減築をするうえで、市役所の計画との調整をしなくてはいけないか、という質問に対しては、住宅組合の住宅会社に関しては勝手にできるとのこと。したがって、都市計画との関係性とかは特にない。ただし、市の住宅会社には委員会があるので、委員会を通さないといけないそうである。市役所の部署で一番、厳しいのは歴史建築物の部署であり、住宅組合の住宅会社もこの部署には許可を受けなくてはいけないそうだ。また、市の住宅会社も住宅組合の住宅会社も減築するうえでは市議会では審議が必要なようである。
 テンプリーンはシュタットウンバウ・オスト・プログラムにも指定され、INSEK(マスタープラン)では一度は住宅団地の完全撤去の計画も為されたのだが、結果、そのような対応はせずに減築で対応することになった例外的な事例である。これは、 ベルリンから近いことと、田園集落のような雰囲気があること、歴史的旧市街地があり、自然も豊かで、社会基盤もしっかりしているということで、人口減少はしつつも、それなりに都市への住宅需要があったので、人々のニーズのない5階以上の住宅団地を部分撤去することで対応できた、ということは指摘できよう。また、最近のコロナもテンプリーンには追い風であったそうである。人口が5万人以下で、それなりに魅力のある都市は、最近、人気を有しているそうである。ただ、それなりの都市サービスが必要で、病院、専門医がいることや、高校があることは条件であるそうだ。

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シュテンダールという縮小都市の住宅会社のトップに取材する [都市デザイン]

シュテンダールという都市がザクセン・アンハルト州の北東部にある。ベルリンとハノーファーを結ぶ鉄道路線の沿線にあり、何本に一本かは特急列車も停車する。ベルリンからは125キロメートルほど離れている。12世紀頃に都市はつくられ始め、13世紀にはこの地域の商業と貿易の中心となり、1300年には市壁をつくっている。1358年にはハンザ同盟に入るなど、豊かな歴史を有した都市である。
 この都市は東ドイツ時代に原子力発電所が計画され、そこで働く人のために二つのプラッテンバウテンの団地がつくられた。結局、原子力発電所はつくられないまま、東西ドイツの再統一を迎える訳であるが、それ以降、これらの団地は空き家が増えていったこともあり、そのうちの一つ、シュテンダール・スードはほぼ完全に倒壊する。一方のシュタットゼーも半分ぐらい戸数を減築・倒壊によって減らすのだが、シュテンダールの住宅会社(シュタットゼーの住宅の85%を所有)のトップに取材をすることができたので、ここに情報を共有させてもらう(備忘録も兼ねて)。
 シュタットゼーは1980年代まではイメージもよかった。しかし、東西ドイツが再統一された後はイメージが悪化し、誰もここに住んでいると言いたくなくなってしまった。ただし、動物園に隣接している南側のティア・ガーデンであれば住んでいると言ってもいい。そういうイメージが共有されるようになった。
前のトップは撤去する建物を選ぶ際に、空き家率の高さを判断基準とした。しかし、2008年から就任した現在のトップはロケーションを何よりも重視した。そうしたら、収益性は格段に向上した。そして、それは会社の判断ではなく、個人の考えに則った。市役所の都市計画的なビジョンも配慮しなかった。
 住宅会社を引き継いだ時、それは倒産の危機にあった。ある住宅会社が倒産すると、ドミノ倒しのように他の住宅会社も倒産する可能性があった。状況は非常に厳しく、緊急事態であった。銀行は外部の専門家に入ってもらって、状況を分析した。これは、銀行は住宅会社を信用しないから、第三者に財務分析などをしてもらいたかったからである。
 銀行は出資の条件として、個々のプロジェクトごとにROI(Return of Investment)がプラスになることを提示した。銀行の担当者とは年に一回、打ち合わせをすることにした。最初は緊張した打ち合わせだったが、最近では打ち解けてきている。
 現在のトップになってから、10年前の50万ユーロしかなかった会社の売上げが現在では700万ユーロにまで増えた。人口減少も収まってきており、ちょっと前までは2022年の人口は3万人を切るだろうと予測されていたが、現状は37000人を維持している。
 シュタットゼーはこんな状況であるが、ついでにほぼ完全に倒壊したシュテンダル・スードの話も聞いた。現在、この地区には市の住宅会社、住宅組合が所有する建物は一戸もない。すべて倒壊したからである。しかし、建物は数棟だけ残っている。これらの建物の所有者は誰なのか、と尋ねたら、トルコとアベルバイジャン、フランス、そしてベルリンの人が投資目的で出資しているそうだ。外国の投資家とは連絡が取れないらしい。ベルリンの人は連絡が取れているが、600万ユーロ支払ってもらったら撤退してもいいと言ってきている。これは、とても払える額ではない。税金はしっかりと払っているのだが、これは大した額ではないので、放っておいても大した損失にはならないのだ。住宅会社としては、シュテンダル・スードもそのうち再開発したいとは思っているそうだ。
また、シュテンダールは市の住宅会社と住宅組合による住宅会社があるが、この二つの会社では建物の倒壊の考えに相違点がみられる。市の住宅会社は市の政策のことを考えるし、住宅組合の会社は組合(住人)の利益を優先的に考える。具体的には市の住宅会社はロケーションを考え、組合の会社は住民のことを考える。
 状況的に一番、最悪のケースは空き家率が3割程度の建物だらけのような状況だ。空き家が集中していて空き家率が高いことは問題ではない。
 倒壊・減築に関しては、ダウンサイズはチャンスだと思わないと成功しない、と述べていた。これは興味深い指摘だ。縮小政策を実践するうえでも、前向きに攻撃的で取り組むことが重要ということか。躊躇があると失敗するのかもしれない。といいつつ、倒壊を止めたケースもある。シュタットゼーの西側は倒壊させるはずだったのに中止した。これは2010年から2012年は倒壊のためのお金を積極的に連邦政府のプログラムから取ろうとしていたが、人口減少のペースが弱くなってきたために、2013年に倒壊を止める判断をした。
 現在も倒壊・減築は行うことを考えるが、これはそうすることで周辺の地域の魅力を高める手段のために行う。地域の魅力を高め、人々に定住してもらうためにするのだ。
住宅会社としては、倒壊しても顧客は失いたくないので、そのまま、他の物件に引っ越してもらいたいと考えている。住民は街への帰属意識を有しているし、社会的関係性は維持したいと考えている。

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ミュンヘンの東にある二大都市再開発地区を視察する [都市デザイン]

ミュンヘンを探訪した。ミュンヘンで西部地区に展開する二大再開発地区を見学した。一つはテレジエンヘーエの西にある再開発で、もう一つはパケット・ポスト・アリアル地区にある再開発である。テレジエンヘーエの西にある再開発は、トレード・フェアが1998年までに開催されていた地区で、それが1998年に都市の東のリーム地区に移転した後にできた新たな土地にオフィス・商業・住居(1400戸数)のミックスド・ユースの都市空間をつくるものである。ドイツ交通博物館とその分館もこの地区に2003年、2006年に開業した。その規模は47ヘクタールだから巨大だ。しかし、ちょっと歩いただけだと空間のつくりは丁寧だなとは思ったが、その個性のようなものは感じられなかった。敢えて、個性をつくらないようにしているのかもしれないが。

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もう一つのパケット・ポスト・アリアル地区は、現在、まさに再開発が進展中で、目玉は巨大なホールのリノベーションとヘルツォーク&ド・ムーロンの二棟の高層ビルである。この高層ビルは110メートルの高さである。ミュンヘンの市街地はこれまで聖母教会の高さ(99メートル)を越える建物を建設してはいけない条例があったが、この条例は改変されたのであろうか。気になる。ちなみに、この条例があるので、99メートルを越える高さのBMWの本社ビルは市街地外に建てられている。まだ、ここは巨大なホールとそれを取り巻くような広大な駐車場という状況で、その将来像は想像もできないような状況ではあるが、中央駅の東の回廊は大きくその土地の性格が変わっていっている。

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エルベタワーの頓挫 [都市デザイン]

ハンブルクの都市再開発プロジェクトであり、ヨーロッパ最大の都市開発プロジェクトでもある「ハーフェン・シティ」の最後のプロジェクトはエルベタワーという標高233メートルの超高層ビルの建設であった。ドイツは超高層ビルどころか、高層ビルでさえ嫌うので、このプロジェクトの完成は空間的だけでなく時間的にもランドマークとなるようなプロジェクトであった。その工事は2021年に開始され、2025年に完成する予定であった。現在、100メートルぐらいのところまで工事が進捗したが、工事が中止になってしまった。これは、シグナ・プライム・エレクションという投資会社が支払期限に支払いを払えていないからだ。現時点(2024.01.15)でも問題は解決できていない。
 工事費は10億ユーロ。シグナ・プライム・エレクションはチロルの富豪ルネ・ベンコが所有している。ルネ・ベンコはドイツのデパート・チェーン、カール・シュタットやマンハッタンのクライスラー・ビルディングを所有している。
 さてさて、21世紀とともに始まったハンブルクのハーフェン・シティの都市再開発事業はその優れたデザイン、よく練られた事業計画など、ドイツの都市計画の秀逸さを見事に物語るプロジェクトであるが、最後の最後で雲行きが怪しくなっている。まあ、いつかは完成するだろうが、絶好調都市ハンブルクがハーフェン・シティのゴール直前で躓いてしまったという感じである。

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ハンブルク・アルトナ駅 [都市デザイン]

ハンブルクにアルトナ区がある。ハンブルクの観光地であるフィッシュ・マーケットはアルトナ区にある。また、ハンブルクの高級住宅地であるブランケネーゼもここアルトナ区に含まれる。人口は27万人である。このアルトナ区にはアルトナ駅というターミナル駅がある。なぜ、同じハンブルク市内に二つのターミナル駅があるのか。これは1640年から1864年までアルトナ区はデンマークの領土であり、アルトナ駅は1844年につくられたからである。ただ、この時のアルトナ駅は現在の駅の南300メートルのところにつくられていた。元の駅はアルトナの区役所として使われている。
 ドイツの領土になってから、すぐに中央駅との接続線が開通し、ここからベルリンなどにもいけるようになる。さらに1867年にはブランケネーゼ線(現在の1号線)も開通する。1898年にアルトナ駅は現在の場所に移動する。第二次世界大戦にオリジナルの駅舎は破壊されたが、その後、建て替えられた。これは、その後、一部の路線を地下化する際に建て替えられて、現在は存在しなし。現在の駅舎は1979年につくられたコンクリートのつまらない建物になってしまっている。
 このアルトナ駅だが、このターミナル駅機能をなくして、一駅北にあるディーブシュタイヒ駅中心に新たにターミナル駅をつくろうという計画がある。ドイツ鉄道が2014年に発表した。
この計画によって都市構造が大きく変わる。そして、現在の工業地区・商業地区であるディーブシュタイヒ駅周辺の土地利用も大きく変化させることになるであろう。その規模は75ヘクタールと相当大きい。これによって、ハンブルク市が慢性的に不足している住宅問題が多少は緩和されるのと、人口密度の高度化も期待できる。
そのため、ハンブルク市議会は新駅の周辺の調査を実施し、ここに商業と住宅がうまく調和して共存できるような都市づくりを目指すことにした。この計画は2021年に完成している。それと同時に、駅からそれほど離れていないところにホルステン・ビールの製造工場があったのだが、これが市の南のハーブルクに移転することで空き地となるために、ここも新しいミックスド・ユースの住宅地区をつくる計画が策定された。
 というように、ハンブルク・アルトナ駅周辺は今後、大きく変貌していくこととなる。20年後には同駅は特急列車も止まらない、というか走ることもない、ただの繁華街の駅というような形になるであろう。
 
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【現在のアルトナ駅(左側)】

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【昔のアルトナ駅。今は区役所】
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ベルリンの正月は前日の大晦日花火のゴミで溢れている [都市デザイン]

ベルリンの大晦日は花火が各地で打ち上げられる。結構、夜遅くまで花火の打ち上げる音がうるさい。また、しっかりと組織的に打ち上げられている花火もあるのだろうが、実際は、地元の人達が適当に打ち上げていることが分かった。
 さて、しかし、この花火を打ち上げた後に生じるゴミをどうも私の家のそばの人達は片付けないようで、歩道やちょっとした広場的なところには、この花火のゴミが散乱している。相当、汚い。正月早々、このゴミを見るのは日本人的には抵抗がある。日本でも花火をした後に生じるゴミは片付けると思う。これは、しかし、放っておいて誰かが片付けるのであろうか。
 花火を大晦日の夜に打ち上げるのはすればいいと思う。何も反対しない。むしろ、新年を祝おうという気持ちを盛り上げるのはいいことだとさえ思う。しかし、それでゴミを出して迷惑をかけるのであれば別である。私は外国人という立場で暮らしているのと、新年を体験するのは今年だけなので、積極的に状況を改善しようとは思わないが、なんかだらしがない。ドイツはごみ問題の対応で先進国だとか言う日本人は、もう随分と前から(このブログでも10年ぐらい前から)間違っているのではないか、と言ってきたが、まさにそれを再確認する。嬉しくないけど。

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コペンハーゲンにはトラムが走っていない [都市デザイン]

コペンハーゲンには比較的頻繁に来ているかと思う。10回は来ている。最初に来たのは、アーバン・デザイナーであるヤン・ゲールに取材するためだ。まだ日本でヤン・ゲールが有名になる前のことである。ただ、その時はアポが取れたものの直前にキャンセルされたので、彼に会えず(その後三回ほど会うことになる)、しかし、航空券をキャンセルするのが嫌だったのでそれでも行って、ストロイエを見に行ったことがある。これが2007年のことだと思う。市街地をどう動いたかをあまり覚えてないのだが、勝手にクリスチャニアにはトラムで行っていたようなイメージを抱いていた。しかし、時期的に考えると出来て、それほど間もない地下鉄で行っていたようだ。随分と適当な記憶である。
 コペンハーゲンには昔、トラムが走っていた。開通したのは1863年と日本の路面電車より前、というか江戸時代である。そして1972年に廃線となる。日本の都市などは東京がそうだが、路面電車を廃止した後、地下鉄で代替するというアプローチを取るが、コペンハーゲンが地下鉄を整備するのは30年経った2002年である。それから、現在まで4路線ほど整備している。 
 モビリティを強く意識しているコペンハーゲンでトラムがないのは意外な事実だったが、これはコペンハーゲン市もそう思っているらしく、2025年に開業予定のトラムを整備中である。しかし、通常の都心部のアクセスを提供するような役割を担う訳ではなく、コペンハーゲンの北にある郊外のLundtofte駅と西にある郊外のIshøj駅とを結び、コペンハーゲンの市境を走るような、むしろコペンハーゲン市内をバイパスするようなルートとなっている。
 


 

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カールスルーエ・モデル [都市デザイン]

カールスルーエ・モデルはトラムと郊外電車を共同運行するようにしたシステムで、東京や大阪で私鉄・国鉄が地下鉄と乗り入れをしているようなシステムであるが、トラムという路面電車と郊外電車との乗り入れというところが画期的である。そんなことは広島電鉄でもしているではないか、と言う指摘はあるが、同じ企業体である広島電鉄と違って、直流・交流、法律、運営主体の違いなどを克服して実現されたこと、さらにはそれによって市域を越えたバスとも一体化した広域の公共交通ネットワークを構築できたことが、なかなか画期的なことと評価されている。私も、トラムと郊外電車のいいとこ取りのシステムで、人口密度の高い都心部では小回りが利くトラムのメリットを活かし、人口密度の低い郊外部では郊外電車の高スピードと移動の快適性を活かす、というなかなか優れたシステムであると思う。人口30万人をわずかに越える都市で、これだけのモビリティを確保できていることは大いに感心する。ただ、公共交通事業としては大赤字だろうから(というか、公共交通で赤字事業じゃないところが日本以外であったら本当に紹介してもらいたい。アジアにはあるかもしれないが、欧米では皆無である)、公共交通の赤字を受け入れられないという世界的には希有な日本においては、実現は不可能であろう。だから、多くの日本の役人とかが視察に来ているがほとんど実は無駄な視察となる。
それはともかくとして、このカールスルーエ・モデル、なかなか複雑でよく分からない。いろいろと論文や運営会社のホームページを読んだりしても理解ができない。これは、私が理解力に欠けているから、ということもあるかもしれないが、複雑だと思う。そこで、カールスルーエに来て、このトラム・トレインを乗り回して、理解を深めるようにした。また、この視察をして疑問を感じた点は、できればカールスルーエの交通会社に頑張ってアポでもいれて明らかにしたいと考えている。
さて、分かってきたのはカールスルーエ・モデルと一言で言っても、それは幾つかのシステムが重ね合わされており、決して、完全に統一されたシステムではないことである。そこにはトラム・ネットワークと郊外鉄道(Sバーン)・ネットワーク、さらにはカールスルーエ市が取得したアルバタール鉄道という地方鉄道のネットワーク、それにドイチェ・バーンのネットワークもちょっと前までは加わっていた。ドイチェ・バーンのネットワークはもう外れたので考慮に入れなくてもいいが、このトラムとSバーン・ネットワークのシステムの重なりは留意しなくてはならない。というのも、それらのシステムが合体して、大きなシステムをつくっているというよりかは、それはトラム・トレイン(カールスルーエ・モデル)とトラムという二つのシステムによって構成されていると考えるべきだからだ。ここでトラムは基本、Straßenbahn と訳されており、車両数も少なく、低床である。
それに比してトラム・トレインは車両も場合によっては6車両も連結されており、どちらかというともうトラムというより郊外鉄道線にむしろ近いくらいである。しかし、都心部に入るとトラムと同じ軌道を共有する。したがって、郊外鉄道線がトラム路線を走っていると考えるのが妥当だと思われる。というのも郊外鉄道の車両がトラム路線を走っている訳ではなく、郊外鉄道を走ることのできるようにトラム車両を改良した路線が、システム上を走っているというイメージだからだ。そして、トラム・トレインの車両は相当、立派なので、一部のトラム路線は走れないようにも思われる。曲率半径が短すぎると厳しいのではないだろうか。いや、これは確認が必要であるが。
そして、このトラムと郊外鉄道とをどのように結ぶかであるが、線路を新設している。例えば西部にあるヴォース市と結ぶ路線(S5線)は、カールスルーエの市域内のラインバーグ・シュトラッセ駅までは既存のトラム路線が走っているが、そこから先は新しく線路を敷設し、郊外鉄道(ドイツ鉄道の線路)と接続できるようにしている。
一方、東北部とを結ぶS4線は、ドイツ鉄道のデューラッハ駅を過ぎて、それまではここが終点(というのも転回用の線路が残っている)で、その先はおそらく新規で路線を敷設していると思われるのだが、しばらくはずっとドイツ鉄道とは別のトラム・ライン専用の軌道を走っている。そして、この路線をつくった時に新たにいくつかの駅も新設していると推察される。ダーラッハ駅から2駅目のグロッツィエン駅でドイツ鉄道(郊外鉄道)の線路と平行に走り始め、3駅目のグロッツィエン・ウーバーシュトラッセで東北部に向かうS4線とそのまま東に向かうS5線とが分岐する。ここからは、なんと複線が単線になる。ここからは、郊外鉄道の路線と合流し、しばらく行くと再び複線となる。ここらへんは丘陵地の美しい森の中を走って行く。ベルリンのように丘陵のないところから来ると、丘の緑が目に優しい。この路線はそのままハイルブロンまで行く。ハイルブロンに行くと驚くことに、その都心部までドイツ鉄道と分岐してトラムとして走行する。これは、なんと新たにトラム路線を新設したものだそうだ。ハイルブロンは、以前はトラムが走っていたが戦後、すぐに廃線にしている。それを何と21世紀になって復活させたのである。
南部はS7線が走っているが、これは中央駅からアルブタール鉄道のカールスルーエ駅を経由して、トラム・トレインの路線を走り、ラスタット駅で再びドイツ鉄道と合流する。トラム・トレインはドイツ鉄道と同じ路線を走っていても、こまめに駅を新たに整備したりしているので、利便性は大きく向上している。
これまでカールスルーエには何回か来たこともあり、実際、話も聞いたりしたことがあったのだが、なかなか頭ではしっくりとこないことが多かった。公共交通を調査するうえでは、とりあえず乗って経験する、というのは私が尊敬する中村文彦先生の研究アプローチであるが、実際、乗って分かることは多い。というか、乗ることによって疑問も多く、出てくる。今回、初めて強い問題意識を持って訪れ、実際、乗車して見えてきたことがたくさんある。「書を捨て、町に出よ」というのは、公共交通研究者にとっては不可欠な姿勢であるな、ということを、公共交通を必ずしも専門としない私だが思った次第である。

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カールスルーエは訪れるたびに都市の魅力が増しているように思われる [都市デザイン]

カールスルーエはドイツのバーデン・ビュッテンベルグ州第三の都市で、その人口は30万人をちょっと越えるぐらいである(2022年)。ドイツの都市としては歴史が浅い。カールスルーエは「カール」の「休息」という意味で、ここでいうカールとはバーデン・ドゥルラハ辺境伯であるカール3世ヴィルヘルムのことである。カール3世ヴィルヘルムは現在のドゥルラハ地区にお城があったが、17世紀末にフランスとの戦争で徹底的に破壊され、新たにドゥルラハ地区より西5キロメートルにある現在地に城を建てることにした。城の建設が始まったのは1715年である。カールスルーエは、このお城を中心に道路が放射状に伸びていくという極めて特徴的な空間構造をしており、同州の第二の都市であるマンハイムとともにドイツのバロック都市として知られる。

歴史が浅い都市だと、そのアイデンティティづくりにいろいろと苦労しなくてはならないのだが、カールスルーエの場合は、いきなり王宮都市としてつくられたので、もうその時点で強力なアイデンティティを有していることになる。王宮から放射状に道路が整備されている都市構造といい、そのユニークさはドイツ屈指である。というか、それ以上のブランディングも特に必要としない。そういう点では恵まれた都市である。

カールスルーエはまたモビリティの優れた都市としても知られている。カールスルーエ・モデルというトラムと郊外鉄道を一体的に運行するシステムは、世界初の試み(直流と交流の両方の電流に対応した車両、二つの異なる法体系に対応した車両や施設)として内外に知られる。カールスルーエ・モデルに関しては、なかなか複雑なので、また機会が設けられたら別途、このブログでも紹介したいと思う。カールスルーエは、このようなシステムだけでなく、最近では都心部において、このトラムの軌道を地下化し、それまでのトランジット・モールをオール歩行者空間にしたり、さらには自転車利用促進にも力を入れており、それまでミュンスターと自転車首都の看板を競っていたエアランゲンを自転車利用率で抜いた。その割には、あまり自転車専用道路などを見ないが、トラムに自転車を持ち込む人が多いので、そういったデュアル・モードでの移動をしている人が多いのかもしれない。

カールスルーエは現在(2023年11月)、都心部の歩行アメニティを改善するのに力を入れている。来るたびにカールスルーエは、よりよくなっているという印象を受けるのだが、この都心部のリ・デザイン事業が終わったら、さらに魅力的な都市へと変貌しているであろう。明日が今日よりもよくなる。これこそが都市政策が満たすべき重要な要件であると思うが、日本ではそのような希望がなかなか持ちにくくなっている。この問題点をしっかりと検討すべきであろう(と書きつつ、大阪の難波駅周辺のリ・デザイン事業のように驚くほど素晴らしい事業もあるので、全然駄目だとは思っていません)。

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ドイツの自転車都市エアランゲンに行き、ちょっと失望する [都市デザイン]

ドイツはデンマークやオランダに比べると、ちょっと今ひとつではあるが、自転車政策に力を入れている国であるかな、と思う。私が現在、住んでいるベルリンでも自転車専用レーンを2030年までに3000キロメートル整備するという計画を掲げている。とはいえ、年に60キロメートルぐらいしか整備できていないので、到底、無理だろうとの声も聞こえるが。
 それはともかくとして、ドイツを代表する自転車都市としては、一般的にミュンスターとエアランゲンが知られている。ミュンスターの自転車利用状況に関しては、このブログでも記述したことがある(https://urban-diary.blog.ss-blog.jp/2009-08-28)のだが、城壁跡地を自転車専用道路にしたり、駅前に駐輪場を兼ねる自転車修理センター、レンタル・センターなども設置したりして、なかなか自転車都市の看板に偽りなし、といった好印象を抱いていた。
 そこで、このミュンスターと並び称されることが多いエアランゲン(日本でも結構、紹介されている)なので、大きな期待を抱いて訪れたのだが、それはちょっと失望に変わった。もちろん、駅前を中心にちょこっと歩いただけなので、誤解をしているところもあるかもしれない。あくまでも駅前周辺を見ての印象ということで、最初にお断りをさせていただきたい。
 まず、エアランゲンはそれほど大きな都市ではない。自治体の人口は11万7000人ぐらいである。アメリカだとコロラド州のボルダー市、ドイツだとコットブス市と同じぐらいの規模である。また、ミュンスターやアメリカのデービスのような自転車都市と同じように大学都市である。
 自転車都市としての歩みは1970年代から始まっているので、おそらくデンマークのようにオイル・ショックが契機となっている可能性が高い。当時のハールヴェグ市長が推進役となって歩道に自転車専用レーンを設置するようにしたそうである。
 ただ、私はあくまで駅前周辺しか歩かなかったのでこの自転車専用レーンを確認することはできなかった。代わりに目にしたのは、駅前に放置されていた大量の自転車である。駐輪場はしっかりと整備がされているのだが、それだけでは収容しきれていないようである。ただ、駅前にこれだけ自転車が駐輪されているのは、サイクル・アンド・ライドといった自転車と公共交通を連携した移動が一般的にされているということで、それはそれで優れていることかな、と思ったりもする。
 実際、自転車の利用者は多く、全交通における自転車の分担率は23%、市内に限れば34%にも達する。ミュンスターは通勤交通では、全体でも47%に達するので、そういう意味ではドイツの自転車都市の冠はミュンスターのものかなと思ったりもするが、ただ23%と言う数字は相当、高いことは確かだ。
 そして、私は確認することはできなかったが、エアランゲンには自転車専用レーンは確かに整備されており、現時点で10の通りにある整備されているようだ。ただ、駅前へアクセスする道路で整備されているものは皆無であった。あまり利用されているところでは整備できていないような印象も受ける。
 ということで、30分ぐらいの滞在時間しかないのにいい加減なことを言うのは憚られるが、自転車都市エアランゲンというのは、自転車利用者が多いということであって、政策的に優れたことをした結果とはあまり関係がないのかな、との印象を受けた。まあ、この印象が事実とズレている可能性は決して低くないが、もし、そのような事実が判明されたら、またこのブログにて記したいと思う。

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【エアランゲン中央駅前に放置されたままになっている自転車。これは万国共通的に美しい景観とはいえない・・・これに関してはミュンスターが駅前に地下駐輪場を設けたのとは異なっている】

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【一応、駅にはいくつかの駐輪場が整備されているが、需要の方が多いようだ】

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【駅に向かう道に自転車専用レーンは見つけられなかった・・・ミュンスターだけでなくフライブルクや他のドイツの都市でも、ここらへんはもっと整備されているように思われる】

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日本の農村はなぜ美しくないのか? [都市デザイン]

日本の農村が美しくない、ということで農林水産省はどうやったら美しい農村景観がつくれるかの政策を検討するうえで、なぜヨーロッパの農村が美しいのか、などの研究などをしていたそうだ。その話を聞いて、確かに日本の農村は美しくないよな、と思ったりもしたが、日本の農村景観は20世紀半ばぐらいまでは、世界でも最も美しい農村景観を有していた。それは、1964年にイギリスのランドスケープ・アーキテクトであるジェフリー・ジェリコーとスーザン・ジェリコーが著した『ランドスケープ・オブ・マン(Landscape of Man)』の写真を見ると明らかである(この本に関しては、このブログでも以前、簡単に書評らしきものを記している。https://urban-diary.blog.ss-blog.jp/2010-01-02)。この本は世界中の人がつくりあげたランドスケープを解説している素晴らしい大著であるのだが、世界中の農村景観の中でも最も私が、その美しさから感銘を覚えたのはなんと日本の農村景観である。
 つまり、日本の農村景観は、そもそもは美しかったのである。それを、戦後の経済成長下で醜悪にさせてしまったのであって、元々はヨーロッパの農村と比べてもまったく遜色がなかったのである。したがって、ヨーロッパの農村を研究することには、それなりに意味はあると思うが、ヨーロッパの農村の美しさの構成要素などを研究するのは、日本の農村を美しくするうえでは意味はないと思う。というよりかは、日本の農村がなぜ醜悪になったのか、なぜヨーロッパの農村は醜悪にならなかったのか、その背景となった政策や社会動向変化を比較研究することが重要なのではないか、と思うのである。
 基本、日本の農村を醜悪にさせたのは、公共施設や道路である。特に道路の問題は深刻だ。下にイギリス、ドイツ、日本の農村景観の道路の写真をアップするが、どうみても日本の農村の道路はオーバースペックで周囲と合わない。もちろん、日本でも大内宿などは道路からアスファルトを剥がして周囲の景観と合わせているので、日本人がそういうのに無関心ではないことは明らかだ。ただ、そういう工夫が大内宿などの特殊ケースに留まっているのが、欧州の農村などとの大きな違いであろう。日本の農村は美しくないのではなく、美しかったのを醜悪にしたのである。それは、昔の姿に戻した大内宿がその美しさを復活させたことからも明らかであろう。その点をしっかりと認識してもらい、間違っても、ヨーロッパ風の農村をつくるような愚を犯してほしくないものである。農村の美しさは、その風土の美しさである。風土をしっかりと理解することが、美しい農村をつくるうえでの最重要事項であると思われる。

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【ドイツ:バイエルン州南部の道路】

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【イギリス:ホーリーヘッドの道路】

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【日本:群馬県の上野村の道路】

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【日本:福島県の大内宿の道路(街並み)】
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ポーランドの地方都市の公園で公共が提供しているワイファイ・サービスに接続する [都市デザイン]

ウッチというポーランドの地方都市に来ている。ちょっと歩き疲れたので、公園で休み、もしかしてネットに接続できるようなカフェがあるかなと検索したら、ウッチ・ワイファイというどうも市が提供しているサーバーに接続できた。凄いなあ、なんでそういうサービスを提供してくれるんだろう。これは、もはやワイファイは公共財という理解があるからだろうな。でも、助かった。日本でももっと積極的に公共空間でネットに接続できるようにするといいと思う。

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埼玉県の「子どもだけで留守番禁止」条例改正案からみる、議員の馬鹿さ加減 [都市デザイン]

埼玉県が「子どもだけで留守番禁止」などを含む虐待禁止条例改正案を出したが、県知事宛に送られた1007件の意見のうち、1005件が反対であったなどの猛反発を受けて、それを取り下げた。この改正案では次のことがらを虐待としている。「子どもだけで公園で遊ばせる」「子どもだけでおつかいに行かせる」「高校生のきょうだいに子どもを預けて外出する」。ちなみに、ここで子どもと定義されているのは小学校3年生以下である。
 これらがなぜ、虐待であるかが分からない。「子どもだけで公園で遊ぶ」、というのは私の子ども時代の素晴らしいよい思い出である。缶蹴りとか鬼ごっことか、似たような年齢の子と公園で楽しんでいた。ここに親というか大人が入ってくると、随分と水を差されたような気分になったものである。そこでつくられたのは子どもだけの世界で、そこで私は随分と社会化されたと思う。ドラえもんでのび太やジャイアンが空き地で遊んでいるが、埼玉県の条例ができたら、ドラえもんの物語も成立しないな。
次の「子どもだけでおつかいに行かせる」というのも、素晴らしくワクワクした体験であった。いわゆる「初めてのおつかい」・・・私は家のそばのパン屋におそらく幼稚園の年長ぐらいの時に行ったと思うのだが、その時は「親から頼まれた」という事実に意気揚々として、無事に買い物が出来て褒められた時は、大いなる達成感を覚えた。こういうハードルを一つ一つクリアしていき、子どもは徐々に社会化していくのである。このような機会を政治家が奪うのはとんでもなくけしからんことだと強く思う。
 三番目の「高校生のきょうだいに子どもを預けて外出する」というのは、ちょっと何が悪いかは不明だが、アメリカなどでは高校生の一番のアルバイトはベイビー・シッターである。この条例ができたらベイビー・シッターも出来なくなってしまい、高校生が気軽にできるアルバイトがなくなる。あと、子どもは高校生ぐらいの準大人が大好きだ。これらのお兄さん、お姉さんから子どもが多くを学ぶというのは、例えば世田谷区のプレイ・パークなどをみても明らかである。これじゃあ、埼玉県じゃあプレイパークも出来ないな。
 このように上記の3点をみても、まったくもって子どもにとってマイナスな改正案であるが、実際、これらが施行されたら親、特に母親はたまったものじゃない。こんな条例が成立したら、まともに働けないし、子どもがさらに負担となる。子どもを産みたい気持ちをさらに削ぐような愚策である。少子化が問題となっている今、むしろ、母親(父親も含む)の負担を減らすような政策こそ進めなくてはいけないのに、まったく逆行している。
 このような改正案を出そうとしている議員が多い埼玉県は、とんでもない自治体だなと思うのと同時に、そもそも、なんでこんな改正案が出てきたのだろうか。
どうもそのきっかけは、「保育園バスなどの置き去り事故が相次いだ」ことを受けてだそうだが、そうであれば、なぜ置き去り事故が起きたのか、また置き去りについての罰則を強化させればいいだけである。なんで、そういう発想にならないのか。
 また、改正案は自民党県議団でプロジェクト・チームを設置しまとめたそうだが、この58人のうち女性は3人だけである。この団長の田村琢実というのが、どうも首謀者に近いようだが、彼には子どもはいない。そりゃ、そうだ。子どもがいたら、こんな改正案がおかしいことぐらいすぐ分かる。1971年のさいたま市生まれ、ということだから、1963年に池袋のそばで私がしたような子どもだけの公園遊び、みたいな経験には乏しかったのであろうか。こういう遊びは意外と都会の方ができたりするから。ベイビー・シッターのようなアルバイトも高校生時代にしてなかったのだろうな。
 ちなみに、私は小学校4年生からアメリカのロスアンジェルスで暮らしていたが、よく友達と一緒にお姉さんにベビーシッターをしてもらっていた。彼女には母親はアルバイト代を渡していたと思おう。4つぐらい上で、子供心になんかうれし恥ずかしいような気持ちになった。自分も中学校一年の時に、ベイビー・シッターのアルバイトをしていた。まあ、知り合いの子どもと一緒にテレビを見たり、トランプをしたりするようなものであったが。子供たちには慕われていたのと、小遣いが少しもらえたので嫌な体験ではなかった。もちろん、アメリカと日本では一緒に出来ないが、このプロジェクト・チームでは、アメリカでは子供たちで登下校をさせない、という発言があったそうなのでちょっと付け加えさせてもらった。また、アメリカでは子供たちだけで登下校する場合はある。私はロスアンジェルスの郊外というアメリカでも自動車化が進んでいるところに住んでいたけど、登下校は歩いてたし、友達もそうだった。友達が家まで迎えに来てくれていた。そして、そのような傾向は歩いて行ける範囲で住んでいる児童は今でもやっている。もちろん、当時でも自動車で送ってもらう子たちもいたけど、それが100%ではない。ただ、アメリカは治安が悪いので、私も結構な頻度でカツアゲ少年とは出会う。私も結構、会った。しかし、それをうまく回避するために知恵を使ったことはその後の人生で多少は約に立っているかとも思う。基本、学校と家の間を歩くと、道ばたの花とか木とかと親しめるし、周りの人たちも知ったりする。私が都市に興味を持たせてくれたのは、この時の経験が大きいと思う。本当、親が放っておいてくれて、そういう面では幸せであった。
 このように考えると、このプロジェクト・チームのメンバーは、おそらく相当、頭が悪いと思われる。つまり、何が欠けているかというと、問題(この場合は、置き去り事故)が起きたことを受けた後の背景・要因の分析、そして、それらを解決するために何をすればいいのかの政策論での検討、である。田村団長のコメントなどをみると、彼に欠けているのは、上記の分析・検討をするための頭脳だけでなく、周りの状況をしっかりと把握しようとする謙虚さ、であると思われる。ただ、彼はプーチンではない。彼は公正なる選挙で選ばれている県会議員である。そのように考えると、その責は埼玉県にある。ダサいの語源が埼玉であることを思い出すような改正案であった。まあ、却下されてよかった。これは、母親はもちろんであるが子どもにとっても、とてもよかった。というかジェイン・ジェイコブスの本とか、ヤン・ゲールの本とか、拙著(『若者のためのまちづくり』岩波書店)などを埼玉県民は読んで欲しい。


若者のためのまちづくり (岩波ジュニア新書)

若者のためのまちづくり (岩波ジュニア新書)

  • 作者: 服部 圭郎
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2013/08/22
  • メディア: 新書



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ポツダムを訪れる [都市デザイン]

ドイツに来て4回目の日曜日。起床すると雨だったので、これはどこにも行けないな、と思っていたのだが、お昼頃から雨が止み、晴天ではないが、そこそこ明るいのでポツダムに行く。ポツダムは住んでいるアパートからシャーロッテンブルク駅まで地下鉄に行き、そこからSバーンに乗れば一本で行ける。私は、ベルリンの市内公共交通のAB区間の一ヶ月チケットを持っているので無料で行けるかと思ったのだが、ポツダムはC区間であった。その手前のヴァナゼーまではB区間だったのでちょっと残念だ。ポツダムまでは片道3.80ユーロであった。電車は10分おきぐらいに来るのだが、通勤時間並みに混んでいた。みんな、日曜日は森にハイキングに行ったり、ポツダムに遊びに行ったりするのだということを知る。
 郊外鉄道であるSバーンはベルリンの郊外住宅地であるグリュネヴァルトを過ぎると広大な森の中を走って行く。アウトバーンが並行に走っていて、しばらく駅もない。これは、ちょっとしたグリーンベルトのようなものかもしれない。
 さて、ポツダムは極めて変わった都市である。というのも、ベルリンという大都市の郊外都市として位置づけられているにも関わらず、ブランデンブルク州の州都であるからだ。州都であるのに、隣にベルリン州があってベルリン市があるために、なんか存在感が薄い。ちなみにポツダム市の人口は18万人ぐらいで、ベルリンの10分の1にも満たない。そのくせ、ブランデンブルク州では人口が一番多いのだ(というか、ブランデンブルク州の都市、小さすぎないか)。さらにプロシアの都であり、王宮は世界遺産に指定されている。都市としての歴史も1000年以上あり、新参者のベルリンに比べると古参である。そういう意味では、むしろベルリンより格が高い。地理的にもまったく平坦な湿地跡につくったベルリンに比べると、多少、丘陵があったりして、そういう意味でも豊かである。
 ポツダムに訪れるのはおそらく4回目である。2006年と2011年に訪れた時の写真は、私の写真ストックにあるのだが、もう一回、雨の中、ブランデンブルク州の役所に取材に訪れた時がある。このときは、ベルリンから慌てて自動車で往復したのと、また、雨が降っていたので写真をまったく撮影しなかったように覚えている。さて、ポツダムはいいイメージがまったくない。東ドイツ時代に建てられた集合住宅のプラッテンバウがポツポツと建っていて都市のオリエンテーションも分かりにくく、なんか陰鬱なイメージを抱いていた。もちろん、サンスーシ宮殿は流石にゴージャスだとは思ったが、それ以外にはいいイメージがなかった。今回、中央駅に訪れて驚いたのは、おそらく10年以上ぶりということもあるかもしれないが、相当、改善されている、というか見違えるようによくなっていた。前回、訪れた時に工事中であったものが、結構、具体化されたという感じであろうか。特に聖ニコライ教会の周辺のアルト・マルクト辺りは見違えるようである。トラムも東ドイツ時代のものが随分とアップグレードされたようで、都市に彩りを与えている。
 思っていたより随分と興味深く、今回は偵察という感じであったが、これからもう少し、しっかりと調査をしたいと思わせられた。今ひとつであったものを、都市デザイン、都市計画の力で改善させていく。この点においては、ドイツは優れているとつくづく思っていたが、それを強烈に再確認させてくれたポツダム訪問であった。

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都市デザインは問題解決のための手段である [都市デザイン]

ドイツのベルリン工科大学の客員教授として10月途中から働いている。同僚は結構、無愛想で教員で私に親しく話しかけるのは、私を招待してくれた教員を除くと二人しかいない。二人ともベルリン出身ではなくて、ノルトラインヴェストファーレン州からベルリンに赴任してきている。偶然かもしれないし、そうでないかもしれない。そのうちの一人は、今年度(10月)から教員として講義を受け持つようになった若いドイツ女性である。金髪で碧眼の目をしているところはドイツ人っぽいが、一般的なドイツ女性らしく肩幅は広くなく、そういう点では柔らかい好印象を与える女性だ。その彼女が、ちょうど今日、初めての講義をしたらしくて、興奮していた。
 そこでいろいろと先輩面をして話したのだが、「学生は早くデザインをしたくてむずむずしているけど、私はいろいろと制度面を教えなくてはいけない。その重要さをどうやったら伝えたらいいのか難しい」というので、「都市デザインは都市を創造するのではなくて、都市の問題を解決することだというのを教え込むのが必要だと思うよ」と言ったら、納得して「今度、そう言ってみる」と嬉しそうにしていた。まあ、ここらへんはドイツ人も日本人も共通にみられる課題であるが、デザインというと、みな自分の創造性に任せて勝手に絵が描けると思っている場合が多いが、建築ではなく都市を対象とした場合、それはあくまでも問題解決のための手段にしか過ぎない(いや、本当は建築もそうなんですけどね)。つまり、何が問題であるかを調査し、その問題点をしっかりと分析し、その解決手法をデザインする、という3段階の能力が必要なのだ。ここらへんは学生だけでなく、日本だと政治家とかも分かってなかったりするので、それは、自分のような人間の発信力が不足しているからだと責任を感じたりもする。
 まあ、今日は年寄りの客員教授として、少しは貢献できたかなと思ったりもしている。

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ベルリンの都市イメージと実態との乖離 [都市デザイン]

日本から知人がベルリンに訪れてくれた。それでベルリン観光に出かける。ルートは連邦国会議事堂、ブランデンブルク門、ホロコースト記念碑、ポツダム広場、アレキサンダー広場(テレビ塔)、ハッケシェ・ヘーフェ、そしてビアガーデンである。さて、この知人は初めてベルリンを訪れたのだが、特にテレビ塔からの景色をみて、イメージと全然違う、という。イメージと違って、高い建物がない、そして小さい、さらに緑が多いという。
確かに知人の指摘のようにベルリンにはドイツの首都、ドイツ最大都市としての風格のようなものがちょっと欠けていると思う。まあ、基本プロシア王国の首都だし、第二次世界大戦で結構、爆撃で壊されているし、戦後から45年間は東ベルリン、西ベルリンと分断されていたので、120万人の都市と210万人が合併して300万以上に膨れ上がっただけなので、もともとの都市集積はそもそもそれほど大きくない。市町村合併して、統計上は人口が増えても、その人口規模に見合う都市の魅力がなかなか伴わない日本の都市(例えばいわき市、高山市、仙台市)などと同じような状況にあるのではと推察される。加えて、大都市圏でみてもポツダムぐらいしかある程度の人口を擁する都市がない。大都市圏だとドイツ国内では、ルール都市圏の方が遥かに人口規模は大きかったりする(ただ、ルール都市圏も個々の都市は小さいので、いわゆるメトロポリタン的な魅力には欠いている)。
ということで、この統計数字に比べてベルリンの都市的魅力が欠いていることを、この知人の発言を踏まえて改めて確認したわけである。

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ブロツワフに行く [都市デザイン]

日曜日と月曜日にかけて隣国のブロツワフにまで行く。ブロツワフはポーランドの南西に位置し、人口67万人(2022年)のシレシア地方の中心都市であり、大都市圏だと100万人を越える。それは、オーデル川沿いに位置している。歴史的にブロツワフはシレシアの首都であり、都市としては1000年以上の歴史を有する。ベルリンなどよりもずっと古い。ただ、国は頻繁に変わり、ポーランド王国、ボヘミア王国、ハンガリー、ハプスブルク家、プロシア、そしてドイツと変遷した。そして1945年にはポーランドに属することになる。
ブロツワフは大学都市でもあり、学生数は13万人を越える。これはほぼ人口の2割だ。ブロツワフ大学はこれまでに9人のノーベル文学賞を輩出しており、その教育レベルの高さで知られている。ブロツワフは多くの歴史的ランドマークを擁しており、中央市場広場、ブロツワフ・オペラ座、大聖堂島、国立博物館、100周年ホールなどである。100周年ホールは世界遺産に指定されている。2016年には欧州文化首都にも選定されている。
歴史的には13世紀中頃にモンゴルの侵攻を受け、相当の破壊を被るが、モンゴルが去った後は、徐々にドイツ人が住むようになる。そして、13世紀以降はポーランドの重要な都市であるにも関わらず、ドイツの都市法が適用されるようになる。そして、1335年に350年間に及んだポーランド王国の同市における覇権は失われ、神聖ローマ帝国に属することになる。1387年にはハンザ同盟に所属する。15世紀にはハンガリー帝国に属することになり、1526年からはハプスブルク家の支配に入る。30年戦争ではスウェーデンとザクソンの支配下になる。1740年からはプロシアの支配下になり、反ナポレオン運動の中心都市となる。19世紀にはポーランドの独立運動の重要な拠点の一つとして位置づけられる。1871年にドイツ帝国が発足した時、ブロツワフは帝国内で6番目に大きな都市であった。1900年には既に42万人の人口を擁していたのである。当時の人口のうち98%がドイツ語をしゃべり、ポーランド語はわずか1.3%、残りの0.7%がバイリンガルであった。第二次世界大戦では、ドイツ側の極めて重要な防衛拠点となり、ソ連との激しい戦いの場となった。ドイツの大都市では、最後まで降伏しなかった都市で、結果、市街地の半分以上が破壊され、市民の死者数は8万人にも及んだ。そして、第二次世界大戦後のヤルタ会談で、再び、ブロツワフはポーランド領となることが決まり、本日に至る。
いやあ、なんか日本では信じられないような都市の話である。こうなると、もはや都市のアイデンティティの方が遥かに国のアイデンティティより重要となるであろう。というか、国のアイデンティティって何?みたいなことを強く考えさせられる。歴史に蹂躙された、と言えばそうなのだろうけど、それでも都市はずっと存続していく。都市としての独立性、自立性を強く考えさせられる都市だ。
さて、ベルリンからブロツワフには一日に一本だけ、直行便の特急列車が走っている。これはプシェミシルというウクライナ国境の町が終点の列車で、途中、クラカウやカトヴィッツなども通る。なかなか旅情溢れるが4時間以上かかるので、結構、退屈だ。ただ、ワイファイが通じるのでユーチューブで時間を潰すことができた。
ブロツワフ駅は、なんかアートヌーヴォー風の変わった意匠の駅である。市場広場はめちゃくちゃ規模が大きく、真ん中に市庁舎や建物が建っている。これは修復中であったがポツナンも同じような感じであった。ここらへんのスタイルなのであろうか。とはいえ、隣国のザクセンとかの広場とは違う。まあ、勉強不足なので適当なことは言えないが、ちょっとドイツ感はそれほどしない。ゲーリッツやコットブスなどとは共通点を感じるが。まあ、ここらへんはもう少し、勉強してから意見を述べたいと思う。
ホテルは95ユーロのところを予約したら、めちゃくちゃハイグレードであった。ドイツだと、もう100ユーロ以下はくそホテルという印象だったのだが、ここらへんは物価の違いを感じる。もう少し、安いホテルを予約しておけばよかったと反省する。

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<ブロツワフの素晴らしい市場広場>
タグ:ブロツワフ
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ポツナンの都市ノード [都市デザイン]

ポーランドのポツナンを訪れ、トラムの一日券を買って乗り回している。都市の実態を知るには安上がりで手っ取り早いと思ったからだ。さて、7号線というほぼ環状線のようなルートの路線に乗っていたのだが、気づいたのはラウンドアバウトがトラムにとっても重要な結節点というかノードになっているということだ。ノードは『都市のイメージ』を著したケビン・リンチも人々が都市をイメージするうえで重要な役割を担っていると指摘しているが、このノードはポツナンでは、おそらくランドアバウトになっているのではないかと推察する。実際、トラムは大通りと並行して走っている場合が多いので、ランドアバウトが乗換駅にもなるからだ。実際、ここの住民にポツナンのイメージ・マップを描いてもらったら、ラウンドアバウトを描写する人が多いような気がする。

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<ポツナン市東部にあるラウンドアバウト>
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ベルリンの公共交通事情(鉄道) [都市デザイン]

ベルリンは公共交通が相当、優れていると思う。まず、ネットワークが相当、細やかなのと駅間の距離が短いので、都心内であれば、どこでもほぼ地下鉄と鉄道で行くことができる。私は郊外というか近郊に住んでいるが、ここもしっかりと地下鉄駅が徒歩3分ぐらいのところにあるので非常に便利だ。さらに、運行頻度がよい。日中であれば4〜5分間隔で走っているので、ほとんど待つことでストレスを感じることはない。京都の京阪電鉄はもちろん、市営地下鉄よりも断然、便利である。駅間距離が短いので東京よりも使い勝手がよいかもしれない(スピードはその分、遅いがこれは都市規模がずっと小さいのでそれほどの問題とはならない)。このようなサービスが提供できるのは、採算度外視で赤字運営を前提としているからだ。とはいえ、それでも、料金は高い。初乗りが3.20ユーロである。大体500円ぐらいであろうか。これは円安といった問題もあるが、日本の初乗りに比べると相当、高く、一日4回ぐらい乗るともう2000円ぐらいになってしまう。これは堪らない、ということで一月チケットを購入した。これだと、ベルリンのAB地域(ほぼベルリン市の中心から近郊部)であれば、一ヶ月間どれだけ乗っても大丈夫だ。この料金が91ユーロ。大学での通学で一日あたり最低限6.40ユーロは支出するので、15日間大学に行けば元が取れる。結構、お得だし、何しろ、券売機でいちいちチケットを購入する手間が省けるのが何より、有り難い。ドイツの券売機はお札を受け入れなかったり、受け入れる機械でも5ユーロ札と10ユーロ札としか受け付けなかったりなどといろいろと不便だからである。あと、一度、購入すると、元を取ろうと公共交通を使うことになるので、出不精になるのを防ぐというような隠れた効果も期待できる。

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日本の市民参加はアメリカのそれより進んでいる?? [都市デザイン]

アメリカの市民参加をヘンリー・サノフとともに、広く一般化することに貢献したランディ・ヘスターの講演を東北大学で聴く。彼が日本や台湾と関心をもったきっかけは、1990年代にはアメリカの市民参加はほとんど制度側がコントロールをしていたのに対して、日本や台湾の方がずっと優れていたと感じたからだということを知る。そこで、彼は日本や台湾と一緒に市民参加の会議をすると、自分がいろいろと勉強できると感じたのである。つまり、これは、アメリカよりも日本や台湾の方が市民参加については1990年代には進んでいたということである。これは、なかなか衝撃的な意見であるが、以前も、伊藤滋先生(東大名誉教授)が、アメリカ人が日本に来たら、市民参加が民主主義的に行われているので驚いたのを知って、自分が驚いた、という話をしていたことを思い出させた。つまり、日本人はアメリカの市民参加という方法論を参考にしたのですが、本家がアリバイ的に使っていたのをくそ真面目に導入して、逆にしっかりした制度をつくってしまったのである。
 もちろん、これは一面的な見方である。市民参加という方法論をくそ真面目にやっている自治体もあるが、多くの場合はそれほどしっかりとされていない。特に、自治体規模やプロジェクト規模が大きくなれば、市民の声が全然、届かないのは神宮外苑の再開発のケースをみても明らかである。とはいえ、先進国から一生懸命、学んだと思ったら、そのオリジナルより上達してしまったというのはケーキやパン、自動車づくりだけではない。それじゃあ、なんでそれでまちづくりが上手くいかないのかというと、ボトムアップを政策に繋ぐチャンネルがないからだ。逆にいえば、いくら市民参加をしても、このチャンネルが不在であるので暖簾に腕押しになってしまっている。こういう勿体ない制度設計になっていることが、日本がなかなか袋小路を突破できない理由の一つかなと考えたりする。

タグ:市民参加
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ダナンという都市のつまらなさの背景を考察する [都市デザイン]

ダナンは人口規模からすると、ベトナム第五の都市である(2022年)。私はホーチミンとハノイを訪れたことがあるが、それらの都市が擁する混乱や無秩序はなく、整序だった印象を受ける。道路は広幅員で、一方通行であり、渋滞もあまり見られない。歩くのは暑いのと、都市スケールがヒューマン・スケールを逸脱して大きいので、なかなか辛いが、ハノイのように危険を感じることは少ない。また、都市の歴史のようなものが感じられない。都市の「魂」のようなものが、ちょっと歩いただけだが、感じられない。そして、そのせいか、とてもつまらない都市のように感じる。ベトナム版のシンガポールみたいな感じだ。なんで、こんなニュータウンのようなアイデンティティが感じられない都市なのか。
 そこで人口の推移を見てみた。ダナンは1950年には63000人しか住んでいなかった。現在は119万人なので、この70年ちょっとで19倍ほど人口が増加したことが分かる。都市としては急激に膨張したことが分かる。すなわち、大都市としての歴史をハノイやホーチミンのように有していなかったのである。日本の政令都市でいえば、千葉市のようなものだろうか。ただ、その千葉市でも1950年には13万人以上の人口を擁していた。そのような背景から、大規模な道路などを新都市のようなノリで整備することができたのであろう。
 都市を都市たらしめている大きな要因は、人口規模である。しかし、人口規模が大きくなれば、都市になる訳ではない。そこには人口が集積することによっての交流、情報の交換などによって新たな価値を生み出すことが必要となる。そして、そのためには時間の積み重ねが不可欠である。ダナンにはこの時間の積み重ねが圧倒的に少ないのではないか。それが、この都市のつまらなさの背景にあるのではないか、と考察した。
 

タグ:ダナン
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ダナンは韓国人にとって、ドイツ人のマジョルカ島のような場所になっているようだ [都市デザイン]

ダナンに来ている。ダナンには多くのハングル語がみられる。多くの店がハングル語の看板を掲げており、韓国人向けの焼き肉屋店のようなお店も多い。なんで、こんなにハングル語が氾濫しているのか。学会で一緒になった韓国人の先生に尋ねてみた。すると、韓国人にとってダナンを始めとしたベトナム全般の観光地が人気となっているようだ。ここ10年間ぐらいのことらしい。どうも、韓国人からすると、ベトナム人とは気性が合うようで、とても居心地がいいらしい。それは、多くのドイツ人がスペインのマジョルカ島に行くようなものですね、と言うと、そうそう、と反応した。
 韓国人とベトナム人の気性が合うというのは、ちょっと新鮮な意見ではあるが、日本人にとっての沖縄、サイパン、グアムのようなものなのかもしれない。韓国には、そういう亜熱帯のリゾートはないので、ダナンは需要に合うのかもしれない。とはいえ、ダナンも10年前はこんなに韓国人にとっての人気リゾートになるとは思わなかったであろう。まあ、ニセコもちょっと前までは、今のようにオーストラリア人に人気が出るとは思わなかったであろうから、ここらへんの観光の国際マーケットは結構、興味深い。

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ハノイの旧市街地を訪れる [都市デザイン]

ハノイに来ている。というか、本当の用事は翌日にダナンである学会の参加なのだが、その前にハノイの都市計画を調べに一日滞在できるようにスケジュールをセッティングしたのである。日本の都市計画学会を通じて、ベトナムの都市計画学会にアポの依頼をしたのだが、ガン無視された。私は結構、司会等の仕事もするのだが、腹が立ったのでドタキャンをしたいくらいの気分である(いや、出来ませんと返事をくれるだけでもいいのだが)。とはいえ、日程は抑えてしまったので、とりあえず旧市街地に行く。ハノイは初めてだ。ホーチミンには二回ほど行ったことがあるので、そことの違いとかも感じられるかなと期待もしていた。
 さて、ハノイはオートバイに溢れていた。そして自動車も多い。正直言って、カオス状態である。これはホーチミンでも経験済みだが、もう20年以上も経っているのだが、相変わらずのオートバイの氾濫状況にちょっとびびる。旧市街地は道路幅が狭く、立派な街路樹が都市の森のような状況をつくっており、とてもアーバニティに溢れている。とても空間的にはヒューマン・スケールで素晴らしい。しかし、歩くための空間がなく、歩くのに本当に一苦労する。歩道はあるのだが、歩道空間はお店の売り物が置かれていたり、カフェのイートインのための椅子や机が置いてあったりする。そして、それらが置かれていないところはほとんど隙間がないようにオートバイが置かれている。結果、車道を歩かなくてはならない。歩道が歩道として利用されていないのだ(一部、例外的に歩けるところもある)。せっかくのアーバニティ溢れる素晴らしいヒューマン・スケールの空間がまったく台無しだ。というか、台無しだけならいいが、いつオートバイや自動車にはねられるかもしれなく、命が危ない。基本、河のようにオートバイは常に流れているので、この狭い道を横断することが命がけになる。さらに、一方通行のような気もするのだが、自動車はともかくそれを無視するオートバイが多い。交差点には信号がないのだが、たまにある。信号もいわゆる日本の左折(こちらでは右折になる)はどうも信号を無視していいのか、またそもそもオートバイは信号無視も多いので、それほど役には立たないが、それでもあった方が安心する。信号が有り難いと思ったのは生まれて初めてかも知れない。
旧市街地は「ハノイ36通り」とも呼ばれている。ここは、ハノイに都がおかれていた11〜19世紀にかけて商業地区として栄え、空間的にも機能的にも今日まで伝えている。同じ職種の工房や店舗が通りごとに集まり、通りごとにその性格が異なっていて興味深い。例えば、トゥオックバック通りは金物、ハンティエック通りはブリキ製品、ランオン通りは漢方薬などである。集積の経済の効果を経験的にもしっかりと理解していたということだろうか。この地区は都市計画的にも、保存地域に指定されており、許可無く取り壊しや建替ができない。これが、個性的な街並みを維持できている大きな要因であろう。
空間的にも、その豊穣なアイデンティティの維持といった点からも素晴らしい場所であるにも関わらず、モビリティのコントロール、特に歩行者の動線をしっかりと確保できていないことで、その魅力が十二分に発揮できていない。これらハノイ36地区から自動車をほぼ撤退させ、オートバイが通れる道を限定し、そして、それ以外を歩行者空間地区にすれば、この地区は素晴らしい空間としてさらに魅力を発現するだろう。それこそ、コペンハーゲンのストロイエに双肩するような都市空間になれる(もしかしたら上回れる)ようなポテンシャルを有していると感じる。それだけに、現行の状況はとてももったいないと思う。

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<歩道はあるけど、そこはオートバイが駐輪されていたり、お店の延長の机や椅子で人々が食事をしたりして歩けない。結局、危険を冒しながら車道を歩かなくてはいけない>

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トランクルームは上手く使うとなかなか便利だ [都市デザイン]

トランクルームを初めて使ってみた。それまでは、トランクルームを使わなくてはいけないほど物を買うなよな、みたいな気持ちだったのだが、秋からベルリンに一年ほど行くことになり、急遽、京都で借りていた賃貸長屋から引っ越すことになった。家具を置くための算段をしていて、同僚や研究室の学生の家に置かせてもらおうかと考えたが、なかなかそれも迷惑をかけることになるな、と思い、トランクルームを使った方がいいだろうと判断したのだ。
 さて、トランクルームもいろいろとあることが分かった。京都を縄張りに営業している某不動産会社のトランクルームが自分の賃貸長屋の目の前にあるので、そこを借りようとして電話で問い合わせをしたら、申込書を送って欲しいと言う。面倒臭いな、と思いつつ申込書を記入しようとしたら、保証人の情報まで要求してくる。たかが、月1万円もしないようなトランクルームの契約に保証人を要求してくることや、電話で連絡してから申込書がメイルで送られるのが遅かったので、全国展開しているハローストレージの在庫をネットで調べたら、やはり賃貸長屋のすぐそばにあった。しかも、これはそのままネットで契約を結べることが分かり、遥かに簡単な手続きで済むのでそこを予約した。予約した日の前日には鍵が宅急便で届く。1畳ちょっとではあるが、ベッドのマットレス、ベッド、冷蔵庫、食器棚と布団類をすべて入れ込むことができた。屋内であり、環境もそれほど悪くなさそうだ。
 ということで、なかなか使い勝手がよさそうで今のところ満足である。東京の実家も荷物が多く、どう処分するか考えなくてはいけなかったのだが、これもとりあえずトランクルームに入れることを前向きに検討したいと考えている。いやあ、思ったより便利な土地の使い方かもしれない。

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都市の魅力と『パタン・ランゲージ』 [都市デザイン]

1980年代頃、都市の論客として巨大な存在感を示したクリストファー・アレキザンダー。彼は『パタン・ランゲージ』という概念を提示し、「都市はツリーではない」という名言を広げます。私は1993年から3年間、カリフォルニア大学のバークレイ校に留学しますが、バークレイ校に惹かれた理由の一つとして、クリストファー・アレキザンダーがいたことが挙げられます。彼のゼミにも応募して、無事、入り込むことができますが、3回だけ開講すると、個人の都合で勝手に中止されました。まあ、そのことを書くと、話が進まないので、それはまたの機会に置いておきたいと思いますが、このクリストファー・アレキサンダーはパタン・ランゲージにおいて、「都市の魔力(マジック)」という言葉を用いて、都市の魅力を論じています。彼によれば、「都市の魔力」を生むのに必要なものは、大学、美術館、図書館、動物園、交響楽団、日刊紙、AM/FM放送局、高級宝石店、毛皮店、流行に強いブティック、などを挙げています。
 これを読んだ方は、このリストに対してどう思いますか?ちょっとは納得するけど、あまり納得しないのではないでしょうか。凄く魅力に寄与するなというのを+++、そこそこ寄与するかなというのは++、まあ、無いよりはましかなは+と評価すると、+++であるのは「大学」ぐらいかな。++としては「美術館」「図書館」「動物園」「日刊紙」はそうは評価できると思いますが、他のほとんどは+。というか、個人的には「交響楽団」「高級宝石店」「毛皮店」はいらない。
 じゃあ、何が魅力として必要なのかを考えると、もうこれは圧倒的に「飲み屋」、それも「いい飲み屋」です。美味い寿司屋があると嬉しい。あと、いい酒屋、珈琲豆焙煎店、豆腐屋、コンフェクショナリー。スーパーと差別化できるクオリティの、肉屋、魚屋、八百屋。銀行と郵便局は近くにあった方がいい。金物屋や園芸店、文房具店、本屋もあるといいです。さらにライブハウスがあると嬉しい。交響楽団はいらないけど、いい箱があると有り難い。レンタル・スタジオがあるといい。また、コミュニティが集えて、ちょっとした会合などができるようなカフェ、もしくは市民菜園みたいなものがあるといい。同じ趣味を持つ人が集い、交流できるような場があるといい。それと快適な散歩ができる緑道や公園などもあると有り難い。
 それと余裕があれば、プロスポーツ・チームがあるといいかもしれない。個人的にはそういうところには滅多に行かないが、その都市での話題づくりにもなるし、気持ちが一つになりやすい。
 ということで、クリストファー・アレキザンダーと自分とで随分と都市の見方が違うことに気がつきました。クリストファー・アレキザンダーは一般的な都市づくりの「言語」として「パターン・ランゲージ」を提唱して、それはそれで興味深い指摘だったかとは思いますが、彼の使う言語は「アレキザンダー語」であって、普遍的ではないことがこの一事例でも理解できます。このアレキザンダー語が普遍的な言語でないのと同様に、建築も都市もその場所、時間、そこで息づく人々によって異なり、そこに普遍的な一般性はない。アプローチとしては興味深いものがあるが、民主的なアプローチが必ずしも万人に受け入れられる魅力的な都市をつくれる訳ではないことも、この一例は示唆していると思います。
 むしろ、ドイツのIBAのエムシャー・パークのようなアプローチの方が有効ではないのか、と思います。つまり、設問を提示して、それを多くの人が市民参加的なワークショップではなく、それぞれが思考を深化させることで解決を見出すというプロセスです。
最近、『パタン・ランゲージ』を高く評価する私よりずっと若い都市デザインの研究者と話をして、ちょっと違和感を覚えたので、少し、考えをまとめてみました。

パタン・ランゲージ―環境設計の手引

パタン・ランゲージ―環境設計の手引

  • 出版社/メーカー: 鹿島出版会
  • 発売日: 1984/12/05
  • メディア: 単行本



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都市計画的には道路は川のように考えるべきだ [都市デザイン]

都市において川は空間を大きく分断する。その両岸を繋げるためには橋が必要である。道路も同じように空間を大きく分断する。大きな川がその分断する力が強いように、大きな道路も分断する力が強い。そのような橋の両側を繋げるために重要な役割を担うのが橋である。同じように道路の両側を繋げるためには橋のようなものが必要である。ただ、ここで川と道路の大きな違いは、川と岸は同じ高さではないので、川に架かる橋は地表とほぼ同じ高さで済むということだ。道路は、ほとんどの場合、地表と同じレベルにあるので、橋を架けようとするとその分、上り下りをしなくてはならない。これは、大変、不便であるだけでなく、体力的にも苦痛である。高齢者や怪我をしている人、乳母車を押す人にとってはとても辛い。
 ただ、川と違って、道路には信号というものを設置することができる。横断歩道という線を引けば、それを渡ることができる。これによって、道路の分断する力を和らげることができる。そして、これは都市の賑わいをもたらすうえでは極めて重要なのだ。なぜなら、都市の魅力は「集積の経済」によって、つくりだされるからであり、これは分断させずに集めれば集めるほどいいからである。下北沢や自由が丘に多くの商店が集まって賑わいが生み出せているのは、それを分断する致命的な大通りがないからだ。逆に明大前、中目黒とかがその利便性に比して今ひとつなのは、大通りによって分断されているからだ。私が住んでいる都立大学が隣の学芸大学に比べると、おそろしく今ひとつなのは急行停車駅かどうかという話ではなく、目黒通りという大通りによってその集積が分断されてしまっているからだ。
 さて、そのようなことを考えている時に名古屋を訪れる機会があった。金山駅や日比野駅の周辺をうろうろとしたのだが、ここらへんは高速道路のような大通りが街を分断している。そして、500メートルぐらいこれらの通りが横断できないようにしている。なんて、人に優しくない都市なのだろう。日本の都市は比較的、人に優しいのだが、この不親切さはヨーロッパでも寡聞にして見たことがない。ブラジリアとかアメリカの都市だとあったりするが、公共交通がこれだけ発達している名古屋のような都市で、この酷さは驚いた。これじゃあ、歩きたくても自動車に乗るしかない。高齢者には本当、辛い都市なのではないだろうか。私はこの都市には住みたくない。

タグ:名古屋 道路
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レルネルさんと車 [都市デザイン]

クリチバ市の元市長であったレルネルさんは、いろいろと自動車について興味深い発言をされてきた。「自動車は都市のコレステロールである」、「自動車は姑のようなものだ。やっかいだが縁を切る訳にはいかず、付き合っていかなくてはならない」などである。
 さて、しかし、BRTを発明したレルネルさんが、どのような自家用車を保有していたのかは今まで尋ねることもしなかったし、彼が自家用車の話をしたことは一度もない。ただ、バスのネットワークが充実しているとはいえ、ブラジルの都市、クリチバである。さすがに自動車を保有しているだろう。ということで、今回、彼の次女のイラーニャさんと話をする機会に恵まれたので、そこらへんを知ることができた。
 レルネルさんの自家用車はアルファ・ロメオ。おお、やはり腐っても市長、州知事だ。高級車に乗っていたのだな、と思ったら、イラーニャさんが、そのニックネームは「腐敗物」(Rotten)と言うではないか。どうも、このレルネルさんのアルファ・ロメオは中古車らしくて、あまりの酷さに奥様が付けたニックネームだそうだ。アルファ・ロメオというと日本だと高級車というイメージだが、ブラジルだとそれほど有り難い車ではないのかもしれない。しかし、有機物でもない自動車なのに「腐敗物」という渾名が付けられるとは、どんな車なのか。ちょっと興味が湧く。
 ちなみに、そんな感じであるから、子供たちの車もおそろしく安い中古車しか買ってくれなかったそうだ。イラーニャさんは、お姉さんのお下がりをもらったので、もう本当に友達に見せるのが恥ずかしかったそうだ。しかし、そんなぼろ車なのに(というか、ぼろ車だからか)4回も盗難されたそうである。あまりにも盗難されるので、警察も4回目の盗難時は「まさか、また盗まれたんじゃないよな」とイラーニャさんの顔を見たら言ったそうである。さて、しかし、その話を私と一緒に聞いていたレルネルさんの市長時代に環境部長を務めた中村ひとしさんの長女のサンドラさんは「私は6回盗まれましたよ」と言ったので、またまた驚き。ちなみに中村ひとしさんも、レルネルさんも自動車は一度も盗まれていないので、盗まれ癖というのはあるかもしれない。
 サンドラさんは、一度は、友達の家に行き、自動車から降りようとしたら、自動車泥棒に銃口を頭に突きつけられて、車に戻れ、と言われたことがあるそうだ。彼女は強く拒否して抵抗し、友達のマンションの守衛が現れたすきをみて逃げ出し事なきを得たのだが(というか、その後、友達と一緒に自分の車に乗って逃走した泥棒グループを追いかけた)、なんかブラジルで生きることは日本と本当、危険度のレベルが半端ないなということを、こういうエピソードからも思い知らされる。
 まあ、話が逸れてしまったが、レルネルさんはやはり自動車をそんなに好きじゃないんだな、ということを知る。
 ちなみに、私も「自動車に乗らない贅沢」などと宣っていたが、京都に大学を移した時に生まれて初めて55歳で自動車を買った(それまでは父親が亡くなった時、彼の車を相続したりしたことはある)。ミニだ。まあ、ほとんど使わないが、バンドの練習(エフェクターが重いので)、京都と東京間で荷物を運ぶ時と、山登り、スキー(一年に一度行けるかどうかぐらいだが)では使っている。

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ジャイメ・レルネル氏の次女のイラーニャさんと故人を偲ぶ [都市デザイン]

ジャイメ・レルネルさんの事務所を訪れ、次女のイラーニャさんとお会いする。会うのは初めてである。中村ひとしさんの長女のサンドラさんに同行していただいた。ジャイメさんは2021年5月27日に亡くなられたのだが、亡くなられる半年ぐらい前から体調が優れなくなっていた。イラーニャさんに言わせると「病気のショッピング・センター」。コロナがきっかけで亡くなったというのは事実のようだが、コロナに罹患した後は一時期、回復したそうだ。ただ、腎臓にダメージが及んだようで、その悪化で亡くなられた。ただ、亡くなるまでは本当、眠ってばかりであり、亡くなる時も眠りながら永眠されたそうだ。敬愛している人の最期のお話を聞くのは悲しくて辛いが、一方で救われた気持ちにもなる。亡くなられて1年半が経ち、ようやく私もお送りすることができた気持ちになる。
 さて、せっかくの貴重な機会であったので、私が長年、疑問として抱いていた「なぜ、政治的なコネクションもないジャイメ・レルネル氏が34歳という若さで市長になれたのか」ということをイラーニャさんに尋ねてみた。その回答は次の通りである。
 ジャイメ・レルネル氏はパラナ大学の土木工学科を卒業するが、その後、同大学に建築学科ができる。そこで、建築学科に入り直すのだが、教員が不足していたため、学生をしながら教員をするようなことをしていた。そして、その頃、サンパウロの都市計画コンサルタントがクリチバ市のマスタープランを作成するので、それを手伝ってくれとジャイメ達にお願いする。そして、一緒にマスタープランを作成するのだが、内容が気にいらなかったジャイメ達は大幅に変えてしまう。そして、そのマスタープランの提案としてつくられたIPPUC(クリチバ都市計画研究所)の初代所長となる。
 そして、1971年にクリチバの市長にパラナ州知事によって任命されるのだが、その当時の市長は軍事政権下であり、あくまでもトップダウン。いつ首になってもいいような位置づけであった。イラーニャさんによれば、マスタープランの作成をし、IPPUCの所長であったジャイメを市長に任命するのは、市長の重みが軽い当時としては、それほど不思議ではないと言いつつ、このマスタープランを一緒に作成したレルネル氏より年輩のフォーティナイト氏は、この人事が随分と面白くなかったようだ。それから、ほぼ絶縁をして、レルネル氏と付き合うことはなかったと言う。このフォーティナイト氏は、自分が市長に任命されると確信していたそうで、レルネル氏が任命されたのは想定外であったそうである。なぜ、フォーティナイト氏ではなくて、レルネル氏なのか。それは、州知事との相性だったのではないか、というのがイラーニャさんの推察である。ちなみに州知事も任命制なので、こういう首長的ポストは現在とはまったく違う、ということのようである。
 他にも中村ひとしさんとの凸凹コンビの話、レルネルさんの日本での思い出話、ぼろい中古車しか買ってくれずに恥ずかしい思いをした話などをしてくれた。改めて、ジャイメ・レルネル氏と知り合ったことが自分の人生にとっていかに貴重で有り難いことであるかを確信するような一日であった。

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