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小学校の英語の授業を参観して憤怒する [語学に関して]

小学校三年生の次女の英語の授業を参観する。小学生に英語を教える意義について疑問を持っていたからだ。ちなみに次女は目黒の区立の小学校に通っている。英語の先生はちょっとヒッピー風の背の高い若い男性であった。子供たちに話しかける英語を聞いて、えっと思う。イギリス人かな? しかし、その後、その強烈な訛りから、すぐオーストラリア人もしくはニュージーランド人であると確信する。

英語を教えるのは国際語であるからだろう。したがって、通じればいいとは思う。しかし、英語が国際語であるのはアメリカの母国語であるからであり、オーストラリアもしくはニュージーランドの母国語であるからではない。オーストラリアそしてニュージーランドは足しても恐ろしく小国である。日本の5分の1程度である。そのような国の訛りの強い英語を教わるために、なぜ現地の人を呼ぶのか。それは日本語を教わろうとして山形弁を一生懸命に教わるようなものだ。それなら、いっそ日本人の先生に教わった方が遙かにいいと思う。なぜなら、この若い英語の先生は教え方はなっていないからだ。果物の絵をみせて、子供に英語で答えさせる学習をしている時、次の果物を絵を見せずに子供に憶測させるのだが、その時のヒントをこともあろうに「ビートルズのドラマー」と言い放った。もちろん、児童はポカンである。そんなの日本の小学校3年生が分かる訳がないだろう。これは、勘が悪いというよりかは、小学生が新しい言語を学ぶということを理解していないからこそ出てくる発言である。つまり、教え方がなっていないのに、英語も方言しかしゃべれず、一体全体、小学校というか教育委員会というか文化庁は何を考えて、このような訛りの強い現地人を雇っているのであろうか。もしかして、白人であれば皆、正当の英語をしゃべるとでも誤解しているのであろうか。この英語の先生の発音は、アメリカにいったら馬鹿にされるような訛りである。まあ、オーストラリア人(ニュージーランド人)であれば、しょうがないなあ、で笑って済まされるであろう。しかし、なぜ日本の子供がアメリカに行って馬鹿にされる英語をオーストラリア人(ニュージーランド人)からわざわざ貴重な時間を割いてまで小学校で教わらなくてはならないのだろうか。本当に、これが冗談でなくて何であろうか。

と授業を観ながら憤怒していたのだが、この先生が「ワーラーメロン」(すいか)と言って児童に復唱させたら、子供たちはみな「ウォーターメロン」と「タ」がはっきり聞こえるように発音していた。なんてことはない。この先生のオーストラリア英語を誰も耳でフォローしていないのである。多くの子供たちは、おそらく英語を他でやっているのであろう。じゃなければ、「ワーラーメロン」とオーストラリア訛りで発音する筈である。まあ、それはそれで大いなる無駄を再確認したのであるが、なんか本当、英語教育では迷走しているなということを知った訳である。とはいえ、現地の英語の先生を雇うのであれば、アメリカ人(南部訛りであってもオーストラリア訛りよりはずっとましである)であるか、最低でもイギリス人であるべきだと強く思う。まだ人口が多いインド英語の方が将来、役立つかもしれない。何が悲しくて、日本の小学校で小国のオーストラリア訛りの英語を現地人から教わらなくてはならないのだろうか。これは、本当に茶番である。

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押尾学の公判での弁護側の「すぐいる?」解釈はあり得ない。日本人が英語ができないからって、ここまでバカにするんじゃない。 [語学に関して]

 押尾学の公判はとても興味深く、その推移をチェックしている。ドイツ、そしてニューヨークと日本にいないので、インターネットでのチェックになってしまうのだが目が離せない。とはいえ、このブログで何か書くことには躊躇いがあった。というのは、いくら有名人だといってもここまで赤裸々に私生活を暴かれたら大変だと同情するからである。随分と、押尾学は自分勝手の酷い男だとマスコミから非難されているようで、確かに問題はあるとは思うが、実際、自分もドラッグをやっているのに、ドラッグで危なくなった人を救命することは難しいと思われるから、ドラッグをやっていたことの罪では問われても、その救命に関しての責任はどの程度罪を背負わなくてはならないかは不明であると考えていた。と、こういうことを書いて私の脳裏に浮かぶのはスペインのビルバオの公園での光景である。この公園では、中学生が10人くらい、皆でドラッグをしており、そのうちの一人の女の子がもう白目を剝いて酷い状況になっていたのだが、周りの友人達はただうろうろしたり、ボーッとしてそれを見ているだけであった。私は、これは相当不味いと思ったが、同行していたドイツ人の友人に「関係するな」と言われてそのまま去ってしまったことがある。もちろん、私はスペイン語もほとんどしゃべれないに近いし、近くにこの中学生にドラッグを勧めたギャングもいただろうし、何をしても無力に近いので、放っておくのに越したことはないとは思うが、これももしかしたら私も「放置責任」に問われるのではないかと思ったりもしてしまうからだ。
 押尾学は息子をリアムと名付けて記者会見で惚けたり、お塩語録の凄さにはたまげるところはあるが、この公判に関しては、よく分からないことが多すぎるので、このブログに書くことも控えようと思っていた。しかし、公判で次のようなやり取りをしていることで、とても腹が立った。それは、自分はバイリンガルだから「来たら、すぐいる?」というのは、「(自分の身体が)いる?」という意味だと解釈させようと試みたからである。そんなことはあり得ない。これは、私もバイリンガルであるからよく分かるのだ。ちょっと、この弁護士と被告押尾とのやり取りを以下、記す。

弁護人「その前の2時14分に、あなたから田中さんに『来たら、すぐいる?』というメールをしています。これに対して、田中さんからはどのような返事が来ましたか」
被告「『いるっ』と返事が来ました」
弁護人「これは、どういう意味で送ったのでしょうか」
被告「来たらすぐ、オレのことほしいか。オレのこといるだろう。そういう言葉の遊びというか、プレーです」
弁護人「『おれの体がいるか』という意味ですね」
被告「はい」
 《検察側はこのメールについて「MDMAがいるか」という意味だと指摘していた》
弁護人「お互い薬を持っているという前提だから、(違法薬物が必要かを)確認する必要がないということですね」
被告「はい」
《ここで弁護人が、「ところであなたは、ものを考えるとき、英語と日本語、どちらで考えますか」と尋ねた。被告は「英語です。初めて会話を覚えたのは英語なので、英語の方が得意です」と答えた》
弁護人「『おれの体がいるか』というのを英語で言ってみてください」
被告「Do you want me right away?」
《軽やかに英語を話す押尾被告。あまりに流暢(りゅうちょう)な発音のため、弁護人が一語ずつ区切って繰り返し、確認した》
弁護人「どういう意味ですか」
被告「すぐいるか、すぐほしいか、おれのことを」
弁護人「『(違法薬物を)来たらすぐいるか』というのを英語で言うと?」
被告「Do you want a drug when you arrive.もしくはDo you want a drug right awayとかです」
 《弁護人は再び、ゆっくりと英文を繰り返して確認した》
弁護人「田中さんが来たら、すぐセックスするつもりだったのですか」
被告「はい」
弁護人「田中さんもそのつもりでしたか」
被告「はい」
弁護人「セックスすることをお互い分かっていたのに、なぜこういうメールを送ったのですか」
被告「なんだか久しぶりというのと、お互いそういう言葉の遊びが好きというのと、会う前に興奮するというのがありました」

 以上である。言葉には多くの意味がある。したがって違う言語に訳す場合、文脈によって違う言葉に変換して訳すことになる。というのは、言葉によっては、それは二つの言語間では1対1で対応せず、1対多であったりもするからだ。例えば、rightという英単語は日本語に訳すと「右」と「正しい」と二通りある。Wantは薬だったら「いる」だが、身体だったら「欲しい」と自然と訳す筈で、そんなことは被告ぐらい日本語ができれば自然とできる筈である。英語で考えるから、日本語がおかしくなるなんていうのは、相当日本語のレベルが低くなくてはあり得ない現象である。すなわち、バイリンガルとは二つの言語で思考できるからこそバイリンガルであり、どちらかの言語に影響を及ぼされるようであるなら、それは定義としてはバイリンガルとは言えない。押尾学ほど日本語ができて、日本語でしゃべっている(すなわち日本語で思考している)時、英語の影響など受ける筈もない。
 ついでにいえば、英語とドイツ語など類似性が極めて高い言葉同士で、これらの二つの言語を知っているが、一方の言語の習得レベルが低い場合はそういうミスが生じることも考えられるが、英語と日本語ほど関係性というか類似性が低い言葉の場合は、英語のいい回しがそのまま日本語に影響を及ぼすというのは、よほど英語が得意で日本語が下手な場合でしかあり得ない。押尾学の日本語のレベルは、そのようなミスをするレベルでは決して無く、このようなことで言い逃れをしようとするのは、本当に人をバカにしている。こういう人をバカにした言い逃れを弁護士がもし考案しているのであれば、まさに日本の裁判もアメリカ並みにどうしょうもなくなっていくのだろうか。大変な不安を抱くのと同時に、このやり取りで、やはり押尾はクロだったのだなとの印象を持ってしまった。
 さらに言えば、私はそういうことをしたことが一切ないので憶測になるが、ドラッグ・セックスをするのであればドラッグを採取してからセックスの順番になるであろう。セックスをよくするためのドラッグというか興奮剤なんだから。「田中さんが来たら、すぐセックスするつもりだったのですか」というのに「ハイ」と答えた押尾学。それなのにドラッグをして、さらにDVDを観てからコトに及んだと証言している。やはり矛盾が多すぎる。ここはアメリカではないのだから、正直に状況を説明した方が例え、罪をかぶることになっても遙かにその後の心証はよくなっただろうに残念である。ついでに、こんな輩達に騙されないためにも、しっかりと英語を理解する人を増やした方がいいかもしれないと思ったりもする(これは、すべての人がそうなる必要があると言っている訳ではありません)。
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日本語に訳すと記号と化す英語 [語学に関して]

日本語に訳すとき、非常に難しくなってしまう言葉が幾つかある。これは個人的なものかもしれないが、英語ではすっきりと頭に入りやすいのに、日本語というか熟語になると急にその言葉が伝えることが単なる記号のようになってしまう言葉である。例えば「帰無仮説」。これは「帰無」という言葉がしっかり理解されていないためかもしれないが、「帰無」などという単語は日常生活で使われているのを聞いたことなど一度もない。不真面目な学生だった私は、これをしばらく「キム仮説」と思い、韓国の学者のキムさんの仮説だと思っていたくらいである。英語だとこれはnull hypothesisになる。帰無と違って「無」のイメージが強く分かりやすい。統計学はこのような難しい日本語が氾濫しているが、経済学用語でも少なくない。例えば、限界費用。英語のmarginal costとかだと、現状より増減させる臨界点としてのmaginalという言葉がよく分かりやすいのだが、限界だと分からなくなる。これは個人的なことかもしれないが、とっつきにくい言葉だと思う。境界費用とか、臨界費用と訳してくれたらさぞかし分かりやすかったのにと思う。とはいえ、今さら限界費用という訳語を変えるのは不可能であろう。

こういうのは何なんだろう、と考えていた時、「異界性」という訳語に出くわした。これはliminalityの訳であり、公的なものと私的なもの、文化と経済、場所と市場が鋭く交錯しながら、前者が後者に置き換わっていくような状態を表している、と「異界性」と訳した人が解説している(吉田直樹、「都市の階層分化」『都市の個性と市民生活』,p.157)。Liminalityという英語はイメージが湧く。二つの異なる性質のものがその結節面において交錯しているというイメージが描かれる。ところが、「異界性」だと、能動的なイメージが消失してしまう。加えて、「異界」という言葉に「魔界」のように、我々のいる世界とは違う世界を指す「彼岸」のようなイメージを私には与えてしまう。この訳を考えた人の日本語の文章は非常に論理明晰で分かりやすいのだが、この「異界性」という言葉が読んでいて非常にひっかかってしまうのである。もったいないことである。ドイツ語の文章を英語に訳したものと照合すると、結構、意訳が多いことに気づく。まあ、これはたまたまなのかもしれないが、無理矢理外国語を日本語化するよりかは、一度その言葉の意味を咀嚼して、分かりやすい日本語で説明してもらえると有り難い。とはいえ、Liminarityのいい訳は恥ずかしながらなかなか出てこないのだが。
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語学の天才的人間と出会う [語学に関して]

このブログでもたまに書いているが、外国語の学習はスポーツと同様に才能というか得意、不得意があり、すべての人間に母国語ではなく外国語の一定レベルの習得を基準として設けることは愚行であり時間の無駄であると思う。例えば英語を義務教育として課し、一定レベルの理解能力、会話能力を目標として設定することは、すべての子供が100メートルを16秒以内で走れることを目標とするのに近いような馬鹿らしいことであると思っている。

ときたま語学能力に極めて優れた人間に会う。例えば、ロシアで3年間、ドイツ語を学習して、その後、ドイツで2年間生活しただけで、ドイツ人でさえドイツ生まれだと思うほどの完璧なドイツ語をしゃべるロシア人大学生。チェコ生まれチェコ育ちで、ドイツ語はほとんどのドイツ人が外国人だと思わないほどのレベルで話して書け(勤務先はドイツの大学)、日本語も電子メイルだと日本人が書いているのかと思うぐらいの完璧に近い日本語の文章が書け(日本に留学経験があり奥さんは日本人)、しかし私との会話は英語でする同僚の大学助手。さて、そういう語学能力に傑出した人間に、通っていた語学学校でまた出会った。彼は6ヶ月かかるプログラムを3ヶ月で終えた。飛び級に次ぐ飛び級で、小学校でいえば1年生の次に4年生、6年生と進級するようなスピードで語学学校のプログラムを駆け抜けた(ちなみにこの語学学校は毎日45分単位の講義を5単位実施して、そもそもついていくのも決して簡単ではない厳しさがある。進級できない学生もいる)。私とはこの比喩でいえば最後の6年生に相当するクラスで一緒になったのだが、このクラスでも私より遙かにいい成績を残したのはいうまでもない。私もそれなりに語学はできるとは思うが、しかし、それでも圧倒的な語学的才能の違いを痛感させられる能力である。

この人物に私は大いなる興味を抱いた。彼は34歳のアルメニア系のアメリカ人で、職業はなんとプロのポーカー賭博士であった。すなわち、プロのギャンブラーである。30歳からおもにインターネットのポーカーで年収1000万円以上を稼いでいるそうだ。コロンビア大学で数学を学んでいたのだが、途中で工学部に転部してそこを卒業し、あのインテルでエンジニアをしていたのだが、ポーカーの方が稼げることと、仕事に疑問を感じて辞めたそうである。しかし、どうもその優れた脳が、知的刺激に飢えてきたのか、楽しみのためだけに外国語の学習を思い立ち、デュッセルドルフに9月に来たのである。私の周辺には自称、パチスロの学生などがいたりするが、本当にプロのギャンブラーで生計を立てている人と知り合いになったのは初めてだったのでとても嬉しい。結構、親しくなり、家などにも遊びに来たのだが、次女と遊ぶ姿などをみると非常に好青年なナイスガイで、とてもプロのギャンブラーの面影はない。私の周辺にいる自称パチスロの学生は、絶対娘とデートさせたくないと思わせるのと比べると大違いである。知性もあり、知識も非常に豊かで話していてまったく飽きない。さて、彼の人となりも興味があったのだが、同様に私の好奇心を惹いたのは、その語学習得のスピードの速さである。彼の優秀さは、ドイツ語学校でも結構、注目されたが、何がそんなに速いスピードで語学習得を可能にしたのか。ここに私の分析を披露したい。

まず、文法の習得に非常に力を入れたことである。彼は私と放課後によく語学学校で勉強したのだが、私をパートナーとして受け入れてくれたのは、私が他のクラスメートと違って文法の重要さを理解しているからだと言っていた。他の学生は、文法を軽視していて何か勘違いをしているとも言っていた。私のクラスにはドイツに2年間住んで仕事もしているエクアドル人や、母親がスイス人で3歳までスイスで育ち、会話とヒアリングにはほとんど問題のないアメリカ人の18歳の学生などもいる。こういう学生は会話もヒアリングも私はもちろん、2ヶ月ちょっとしかドイツ語を勉強していない彼より遙かに優れている。しかし、文法を馬鹿にしているから、その習得の効率は悪いと彼は指摘していた。私は、彼のようには彼らを批判できるレベルにはないが、まあ例えば私が文法を彼らのように蔑ろにしたら、今のドイツ語のレベルにも到達できなかったことは確かであろう。文法は数学に似ていると彼はよく指摘した。私も最初に入学したのは数学科であったので(1年で才能がないことがよく分かり転学したが)、そこらへんの指摘はよく分かる。彼と私はクラスで2人だけドイツ語の資格試験を受験して、一緒に試験勉強をしたのだが、その時の彼の文法の学習方法はいわゆる日本の受験生と類似していたのが印象的であった。すなわち、ひたすら過去問を解いて、そこで分からない問題があると、その理由や文法事項を整理するといった方法である。また、文法の問題集も徹底的に行っていた。こういう学習は、他の学生は退屈と敬遠していたが、文法へのアプローチの違いはあとあと大きく差をつけることになるのではないかと思ったりする。

2点目は、ひたすら勉強していたことである。ドイツ語学校に私も通っていて気づいたことだが、語学は集中的に学習することによって効率が高まる。例えば同じ100時間でも、1週間に2時間の講義を1年間かけて100回するよりも、5時間の講義を20日でやった方が遙かに効率がよいということである。私が彼と通っていたドイツ語学校は一日4時間の講義を17日間1セットで実施するというものだが、彼はさらに個人レッスンも受け、空き時間も語学学校が閉まるまで残って、ひたすらドイツ語の勉強をしていた。まあ、猛烈に勉強をしていたのである。才能もあるが、やはり才能にプラスして努力が必要だというのを改めて理解させる猛烈ぶりであった。

3点目は、勉強最優先という環境を周りも引き込んでつくりあげるということである。我々のクラスメートは彼を中心として私も含んで、勉強クラブのようなものが形成された。まあ、基本的には年寄りというか社会人の寄り合いであったが、あたかも司法試験の勉強をする法科大学院のクラスといった雰囲気を彼はつくりあげた。そこでは、会話はまずドイツ語でし、クラスでも勉強最優先という合意を仲間内で形成して、パーティーに明け暮れる大学生連中に邪魔をされないような環境をつくりあげた。このグループは会話やヒアリングに難のある私にとっては大変有り難く、私は彼と受けたドイツ語資格試験にその後、合格するのだが、彼という大波にうまく乗ることができたためであり、単独で受験したら受かったかどうか極めて怪しい。

4点目は、講義を120%活用したことである。彼は宿題はもちろんのこと、先生がやっておいた方がいいよということを全て実施していた。語学学校に通っていると、語学学校の講義が生活の中心に据えられる。以前のブログにも記したが、何人かの学生は、講義を生活の中心に据えることをあたかも拒むように遅刻をしたり、社交に積極的になったりするが、彼は講義を生活の中心に据えて、スケジュールを設計していた。これによって、講義を120%活用し、ドイツ語の学習効率を最大限まで高めていたと思われる。私もこれは意識していたのだが、彼ほど徹底して行うことはできなかった。

まあ、いろいろと語学を能率良く習得する方法論を、彼を観察することで考察できた訳であるが、日本での語学学習も、小学校からチンタラチンタラやり続けるのではなく、例えば義務教育ではない高校一年生の時に、希望者だけに徹底して半年か1年くらい集中してやればいいのではないかと思う(まあ、その手始めに高校1年生の夏休みを活用することもできるし、私立の中高一貫であれば中学の夏休みとかを活用したり、中学3年頃の半年を活用したりするということも考えられる)。そして、この集中した勉強の後に、希望者は継続して、ある程度英語の学習を受け続けられるようにするといいのではないだろうか。私の大学はそれほど学生の質が相対的には悪くないとは思うが、それでも英語のレベルをみると上位5%を除けば、まったく出来が悪く、この彼の学習期間3ヶ月に満たないドイツ語のレベルに遠く及ばない。ちなみに、彼はそれ以前にはまったくドイツ語に触れたこともなかったそうだ。まあ、46歳の私の1年にも学習が満たないドイツ語のレベルと比べても、90%ぐらいの明学の学生の英語レベルは劣っているであろう。これは、彼はともかく私が優れている訳では決してなく、方法論が違うからである。文法重視、集中学習、会話に関してもパターンの暗記重視、そして語彙力のひたすらアップ。これこそが語学学習の王道であると思う。ここまで読んで気づいてくれた人もいるかもしれないが、これはいわゆる日本の英語会話学校が主張していることとおそらく正反対である。ノアとかガバとかがビジネス・モデルとして優れているのは(ノバは倒産したが)、いつまで通っても英語が上達しないで、ひたすら通い続けることになるからである。まあ、ビジネス・モデルとしてはキャバクラや銀座のクラブに似ているのではないだろうか(いつまで通っても適当にはぐらかされて付き合ってもらえない。ちなみに私はよく知らないので想像で書いていますが)。ということで、もし本気で語学向上を考えるのであれば、英会話などは放っておくことが重要である。間違っても、日本人の仲間内で英会話の出来不出来を比較するなどということを考えたりするのは放棄すべきである。なぜなら、どんなに仲間内でうまく話せていたりしても、実際現地で話せば、とんでもなく変な訛りのある英語をしゃべっているからである。私の中学や高校の英語の先生の発音なんて、よく考えればアメリカで話せば、とてもまともに通じないレベルの酷さであった。すなわち、日本で住んでいて英会話が習得できるのは、ごく一握りの天才的能力の持ち主だけであって、そんなことに力を入れるのは愚の骨頂である。語学は会話ではなく、何より読解力、そしてヒアリング力、ライティング能力を考え、スピーキングはそれらについてくるぐらいに位置づければいいと思う。現地で生活したら、それなりに出来るようになるし、生活しなければ習得しても無駄だし、生活しなければ習得するのにも無理があると思う。ちなみに、8歳の次女はドイツ語学校の現地校に通っているが、もう半年通っているが相変わらずスピーキングが駄目だ。ヒアリングはほとんど出来るようになっていることを考えると改めて、スピーキングというのが大変なことが分かる。発音が出来ないのではなくて、文章が構築できない、すなわち日本語からドイツ語への翻訳ができず、しかもドイツ語脳が未熟なためにヒアリングは出来てもスピーキングはなかなか出来ないからである。現地で生活していてもそうなのだから、日本で生活して文法等もしっかり理解しないで英語がペラペラと出てくるのを期待していたら、大変な時間がかかる。英会話学校にいくらぼったくられるか分かったものではない。

いろいろと書いたが、多少、学生等を含めて参考になると幸いである。こういうことを書くのは、学生に直接言っても、相変わらず私のアドバイスを無視して英会話学校に通う学生が後を絶たないからである。英会話ではなくて、英語を勉強するべきなのに、なんかまあ、英語ではなくて英語ぺらぺらを目指しているから、いつまでたっても上達しないのだ。ここらへんは英会話を重視するカリキュラムをつくろうとする大学関係者もちょっと考え直すべきだと思う。まあ、語学をしっかりと勉強しなかった人や、語学ができない人ほど、この会話を重要視したがる傾向が強いように思われる。自分が出来ないから、その難しさや、効率の悪さを理解できないからであろうか。どっちにしても、関心ややる気がある学生が語学を習得することは素晴らしいとは思うが、そうではない学生が強制的にやることの非効率と無駄を考えるべきだと思う。人口が減少していく中、人的資源もしっかりと効率的に活用することが求められると思われる。

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ドイツ語学校に通い、語学教育のことに思いを巡らす [語学に関して]

10月と11月にドイツの語学学校に通った。月曜から金曜まで午前8時30分から午後1時までである。以前5月と6月にも通っていた。このドイツ語学校はレベルをAレベル、Bレベル、Cレベルと分類しており、Aレベルが4段階、Bレベルが5段階、Cレベルが3段階にさらに細分類されている。Aレベルを終えると日本語のドイツ語検定の3級、Bレベルを修了すると2級、Cレベルを修了すると1級に相当すると思われる。私は、ドイツに来る前に慶応大学の外国語学校の初心者レベルのコースに通ったことがあったので、5月にはAレベルの3段目、6月には同レベルの4段目、10月にはBレベルの1段目、そして11月には同レベルの2段目に通い、修了した。慶応の外国語学校はAレベルの1段目に相当し、私はこのコースを最低限に近い成績で通ったにも関わらず(まあ主要因は出席率が低かったからであるが)、語学学校の入学テストが選択肢を選ぶものでどうも勘がさえてしまったらしく、最初Aレベルの4段目のクラスに入れられてしまい、初日の1限が終わったあと急いで3段目に移してもらったという経緯がある。3段目のクラスに入っても、いきなり「昨日何をしましたか?」と先生に聞かれて、過去形を学んでいなかった私はまったく答えられなかったという苦い思い出がある。ここで2段目のクラスに移動しなかったのは、3段目のクラスにたいへん感じのいい30代後半の日本人男性がいて、一緒に学習すると効率よく学習できるだろうと考えたからである(この狙いは当たった)。

ドイツ語を学習して分かったことは、文章を理解するのには何しろ文法が大切であるということだ。文法が分からなくてもしゃべられるというのは、楽譜を読めないで自己流で楽器演奏を習得しようとするもので極めて非効率だ。楽譜を読めなくても、自己流で弾けるようになったりするかもしれないが、効率が悪い。よく、楽譜が読めなくてもギターが弾ける例としてビートルズのジョージ・ハリソンやジョン・レノンが挙げられるが、だから彼らはあんなにギターを弾きまくっていても決してうまく弾けなかったのである。楽譜が唯一読めたポール・マッカートニーがベーシストであるにも関わらず、ジョージやジョンよりギターがうまく弾けるのは、しっかりと音楽を論理的に理解できていたからではないかと思うのは私だけであろうか(これはもしかしたら例外、すなわち楽譜が読めなくても超絶テクニシャンがいるかもしれないので、比喩としては適切ではないかもしれない。もしかしたらジェフ・ベックは楽譜が読めなかったかもしれない・・・。でも、そうだとしたら、だから彼は作曲ができないのだ)。

話が語学から逸れてしまったが、文法の習得と同時に大切なのは語彙力であろう。語彙がなければ文法を理解しても、言葉にならない。ある意味では語彙が豊富であれば文法が間違っていても通じる。文法の理解力と語彙力が向上すれば本が読めるし、文章も書ける(これは相当、難しいが)ようになる。すると、独学でもドイツ語が勉強できるようになると思う。そして、私のような立場であれば読解力と執筆力の二つが最も外国語学習において必要なものであるのであり十分なのだが(執筆力もドイツだと英語で済ませられるのでそれほど必要としない)、この方法論だと会話力やヒアリング力がなかなか鍛えられない。この二つはドイツで生活しているという条件においてのみ必要とされるが、私は現在、ドイツで生活しているので、この二つが劣っていることは結構、問題となる。実際、私の会話力はBレベルの2段目では相当、周囲から劣っており、クラスメートの評価も10人いる学生の中でカタール人の女の子の次に駄目ということであった(ここらへんはあけすけで面白い)。ヒアリング力も結構、劣っているのだが、これはドイツ語テープを頻繁に聴いたりしていたら多少は向上した。とはいえ、クラスメートの中でも平均以下であると思う。ただし、ヒアリングはもっとも早く向上するので、それほど心配することはないと思う。多くの場合、語彙力が不足しているので、何を言っているかが分からないという場合もあるので、正しい発音で理解した語彙力が向上して、耳が慣れてくれば聞こえてくると思う。ということで、会話力をどのように鍛えるか、というのが課題であるのだが、これは単語を覚えるように、言い回しをそのまま暗記するというのが効率がよいのであろう。とはいえ、さすがに40代後半の脳味噌だとなかなかこの覚えることが辛くなる。言い回しどころか熟語でさえ、単語に比べて遙かに覚えられない。ドイツ語は英語と相当似ているが、前置詞が異なる場合が多い。例えば「参加する」は、take part in やparticipate inと前置詞はinを用いるが、ドイツ語だとteilnehmen anとan、英語でいえばonになる。これはドイツ人が英語を学習するうえで直面する難しさだが、英語を下手に理解してしまっている私のような人間も大いに混乱させられる。もう、これは九九のように熟語を暗記しなくてはならないのだが、これがもう記憶力が劣化している私にとっては辛いのである。もう、親爺ギャグの語呂合わせで覚えているという状況である(たとえばアンを思い出す erinnern an など)。

さて、ドイツ語学習をしていると、よく先生やクラスメートから日本語のように、ドイツ語とまったく異なる言語を母国語にしているとその習得は大変だろうと同情される。しかし、ドイツ語を勉強して気づいたことは、私はドイツ語を理解しようとしている時には常に英語で考えているということである。すなわち、私の英語脳が機能しており、日本語脳はめったに出てこないのである。日本語脳が出てくるのは、ドイツ語の英語訳が分からず、英語脳が思考停止した時や、前述した親爺ギャグの語呂合わせの時ぐらいである。これは面白い現象だ。だから、本来的には英語を母国語とする人間と同様なハンディしか有していない。とはいえ、このように同情されるのはドイツ語の出来が悪いからなので、まあ、あまり訂正しないようにしている。訂正するとより惨めになるからである。もちろん、私の英語脳はそれほど優秀ではないので、優秀なアメリカ人のように効率よくはドイツ語を習得できないが、まあ、それでも相対的に優れている日本語脳よりはドイツ語の理解が早くなると思う。これが、面白い現象だなと思うのは、私はスペイン語を学習していたことがあるのだが、スペイン語の時はあまり英語で考えなかったように思うからである。やはり、ドイツ語というのは英語に相当、近いと思われる。もちろん、ドイツ語がなかなか習得できない学生の多くは、英語で考えすぎているからであり、私も先生にそのような指摘を受けるし、これ以上のレベルを目指すのであれば、英語からの独立を意識しないといけない。特に、これはアメリカ人の学生ともよく議論するのだが、副文や分離動詞などの構造の違いをしっかりと把握するためには、英語を捨てなくてはならないと思う。ドイツ語習得の最初のレベルでは有用な英語脳であるが、そのうち英語脳が足を引っ張ることになるし、これは英語が母国語ではないが英語脳を有している私のような人間が落ちやすい陥穽である。

まあ、それほどクラスでも優秀ではない私がドイツ語学習のことを云々ぬかすのはちょっと自分のことを棚に上げて感が強いが、とりあえずBレベルの1段階目修了に相当するドイツ語資格試験(おそらく日本の独検でいえば準2級ぐらいのレベル)には通ることができたので、少しは参考にはなるかなと思ったりする。また、しばらくドイツ語の学習からは離れる。ドイツ語を勉強するためにドイツに来ている訳ではないからだ。とりあえず意味はないかもしれないが、資格試験を通ったので達成感もある。あと1点付け加えると、ドイツ語をはじめ語学の学習は、少しを継続的にやることより、集中的にやった方がいいと思う。これは一般論とは異なるかもしれない。集中力はなかなか続かない。私の日本人の知り合いでもずっと継続的にドイツ語学校の集中講義を受けていたりするが、だれると言っていた。よほどの精神力の持ち主でないと集中講義を継続して集中力をもって受講することは難しいと思われる。ちなみに私は2ヶ月が限界である。

まあ、もしかしたら大学が春休みに入った帰国前の3月にもう一度集中講義を受けるかもしれないが、その時は他の仕事も溜まっているのでおそらく受講するような余裕はないであろう。つくづく、若い時にもっと勉強しておけばよかったと悔いる。本当に人生、何やっているんだろう、と思うことしきりである。そして、今のイマイチな人生を導くための人生の選択のミスを私はほとんど10代後半と20代でしている。30歳以降になるとミスをする余裕もなくなるが、多少は賢くもなるのであまりミスもしなくなる。若い時のミスはその後の人生、大いにツケとして回ってくるので、若い人はしっかりと将来のことを考えておくといいと思う。話が語学からちょっと逸れてしまった。

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センター試験のリスニング・テストは百害あって利益なしだ [語学に関して]

今年も大学入試センター試験での英語のリスニング・テストでICプレーヤーの不具合などの問題が生じた。リスニング・テストは今年で4回目だが、毎年トラブルが生じる。今年も181会場の計253人がトラブルによる「再テスト」の対象となったそうだ。

このリスニング・テストは、試験方法としてまったく無駄であると思う。私も英語のリスニング・テストを受けたことがあるが、私にとっては記憶力のテスト以上の意味はない。右に行ったか、左に行ったか、とか何時に出発したか、というのやらは英語が分かっていても覚えていない場合が多く、結構、解答するのに難儀する。そもそも、実際の会話では、何時に出発したかを忘れてしまったら、もしくは確認したい場合は、聞き返すし、聞き返した方が望ましい。それにも関わらず、リスニング・テストは聞き返せない。まあ、記憶力を試しているというのであればいいが、英語のリスニングを試したいというのであれば、あまりいい試験方法ではないと思う。

そもそも、リスニングなんか、外国で生活しなければ不必要だ。日本で住んでいるのであれば、アメリカ人やイギリス人は日本語をしゃべるべきであり、我々日本人が外国に行って日本語で通そうという傲慢不遜な気持ちを持たないのと同様に、彼らもそのような傲慢不遜な意識は払拭すべきであろう。確かに戦争で負けたという負い目はあるが、植民地化されなかった訳だし、そこまで卑屈になる必要はないと思う。

私が以前、マレーシアでコンサルタントの仕事をしていた時の話である。クライアントの某日本企業の部長が現地の人達と打ち合わせをするのに同行したことがある。マレーシア側は、ある事業に日本サイドが出資するのかどうかを詰め寄った。その部長は、英語が分からなかったようで、もごもごしていたが、思い切って「イエス」と言ってしまったのである。マレーシア側は大喜びで、部長もなんか、とてもいいことをしたみたいな気分になって、嬉しそうに笑っていた。私はとなりにいた課長補佐に「いいんですか」と言ったが、自分の会社でないので放っておいた。その後、当然、そんな部長の決裁でできない多額の出資を、その企業は断るわけであるが、マレーシア側の怒りと失望が大きかったことは想像に難くない。ここで何が言いたいかと言うと、日本を代表するような大企業の国際畑で仕事をしている人でも、リスニングはなかなか難しいということである。だから、この部長は通訳を介すべきだったのである。通訳を介せば、問題はなかったであろうし、仮に問題が生じても通訳の責任にすることもできる。でも、なんか英語ができるという気分になりたかったのであろう。しかし、その格好つけの代償は大きかった。私はそもそもそんなところで格好つける必要もないと思うのである。しっかりと仕事をすることの方が、ほにゃらか英語コミュニケーションができるより、ずっと格好いい。そういう意識を徹底させた方が会社のためにもなると思うのである。オシムが達者な英語を取材で使わずに母国語でしゃべり、通訳を介していたが、彼はそういう意味で本当に、この部長とは対照的に賢明であると思う。

英語を始めとして語学の習得には才能が必要だ。野球やギターと同じようなものだと思っている。だから、英語の才能があるものだけがその能力を伸ばせばいいのである。なぜ、野球やギターはやりたい奴や才能のあるものだけがやればいいのに、英語は才能がないものまでやらされるのであろうか。しかも、リーディングなどは自分のためになるかもしれないが、ライティングやさらにリスニング、スピーキングなどはほとんどの人にとっては本当に無用の長物である。というか、特別な才能の人を除けば、海外で生活しなければライティング、リスニング、スピーキングの能力は習得できない。さらにいえば、海外で生活してもなかなか習得できない。天才的な能力のある人間は別である。しかし、凡人が語学を習得するのは本当に大変だ。リスニング・テストなどやっても、ほとんど大学の講義には関係ない。私は留学生を対象とした英語で実施している講義を受け持っているが、履修する日本人のほとんどが理解できないので、彼らのために日本語で補足説明をしなくてはならない。そもそも、日本語で説明しても分からない場合が多いのに英語で説明しても無駄である。しかも、この講義を履修する学生は英語に興味があるのだ。それでいて、このレベルであるので、本当にリスニング・テストを入試で課すのは無駄だと思うのである。

いつまでこんな不毛なことをやっているのだろうか。センター試験の季節になると、いつも我が国の行く末が心配になってしまう。麻生首相のような漢字が読めないことの方が、リスニングができないことより、遙かに恥ずかしく、問題であることをもっと自覚すべきであろう。


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優れた奴隷的労働者になるために、大金を支払って英会話学校に行く愚 [語学に関して]

英会話学校ジオスの電車の吊り側広告のコピーが「日本はもはや日本語だけでは通用しない」とかいうものであり、呆れ返った。ふざけるのもいい加減にしろ!以前も書いたことがあるが、英会話という土俵にのぼることは、ビジネスの交渉上などでは非常に不利なハンディを背負うことになるのである。相手のルールに合わせなくてはならず、まあ力の差が相当あっても、大変な苦労をすることになる。だから、私はアメリカでも7年生活していたこともあって英語にはさほど不自由していないが、馬鹿にされてはいけない場合は、日本語で話すようにしているし、日本語で書くようにしている。 JICAとかJBICとかの仕事もたまにするが、彼らのレポートも、英語を母国語とする人間からすれば、どうしても3割くらいは、本来的な知性から差し引かれた感じの文章になってしまっている。そこまでしてハンディをしょいたいのか。しかし、それでもこれだけ英語が席巻している現在、読み書きはしっかりと出来た方がいいとは思っている。私も英語の読み書きが出来るので、研究するうえでは大いに役立っている。しかし、しゃべったり、聞いたりすることはそれほど重要ではない。大前研一の英語の発音だって恐ろしく酷いのである。それでも、あれだけ通用している。なぜなら、大前研一の考えを聞き手は知りたいからである。英語のヒアリングができて、発音よくしゃべれるというのは、アメリカ人の上司にとって都合がいいだけであり、それは優れた奴隷的労働者に求められる資質でしかない。優れた奴隷的労働者になるために、大金を支払って、英会話学校に行くことほど、愚かしいことはないと私は痛切に思うのである。
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