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大学の進学先を理系・文系の入試試験の点数の取りやすさで決める愚 [教育論]

 長女が大学院に合格した。中学も大学も第一志望に落ちたので、心配していたが、本人は落ちたら院浪する気持ちだったので、返って落ち着いて受験できたようだ。まあ、長女の弱点は必要以上に緊張して、本場で実力を発揮できないということなので、ある程度、吹っ切れて受験できたのが功を奏したようである。
 さて、それにしても思い出すのは、彼女が高校時代の進路相談で担任から「理系は無理だから文系にしなさい」と指導されたことである。私は理系の大学だって偏差値が70から30まで幅広くあるのだから、別に偏差値が低いところにいけばいいと反論して、この担任のアドバイスには耳をまったく傾けなかった。というか、大学に行く目的とは、将来に歩むべき道の基礎的土台を築くことであって、偏差値が高いところに取りあえず行くということでは決してない。長女に文系に進ませて、何をさせようと当時の担任は考えていたのであろうか。いや、長女が営業をできるような社交的なキャラであったり、歴史に強い関心を持っていたり、文学オタクであったりすれば、文系に行くということを進めるというのは理に適っているであろう。しかし、長女はまったく無愛想で、たまに放つギャグは滑りまくり、また小説とかは読まない訳ではないが、没頭して読んだり、文章を書いたりするのが好きなタイプでは決してない。一方で、色彩のセンスがよかったり、鉄道オタクだったりはした。私はそもそも理系と文系といった、まったく日本特有のガラパゴス的な分類は、血液型で人の性格を判断することと同じような愚であると思っている(私が奉職する経済学科が必要とする素養は数学である。なぜ、数学科が理系で経済学科が文系なのかはまったく理解に苦しむ)ので、理系だ、文系だ、といった分類軸で将来進むべき道を決めるという習慣は、日本教育の大きな欠陥ではないかとさえ思っている。しかも、この理系と文系というのは、単に入試でどちらの方で相対的に高得点が取れるか、というような将来の人生設計に比べれば、はるかに矮小な理由で決められているのである。高校時代こそ、将来のビジョンをしっかりと考えるいい機会であるにも関わらず、目先の大学受験のことだけで進路を選ぶことの愚を、高校の先生がむしろ学生に指導しなくてはならないのに、逆の状況が跋扈しているのは間違っている。
 私は、このようなシステム自体に反対であるが、自分自身はまことにもって微力なので、そのシステムを変えるようなことはできない。しかし、自分の子供をその弊害から守るぐらいのことはできる。
 長女は某国立大学の建築学科の大学院に進むことになる。ブラック業界の建築の世界で生きていくことになるのであろうが、手に職をつければ気が利かずに営業ができないような女の子でも、文学を深く鑑賞するような感受性がなくても、無愛想で接客とかに向いてなくても、どうにか生きてはいけると思うのである。ということで、親としては取りあえずは一安心した次第であるし、間違っても文系に進学させなくてよかったと改めて思うのである。

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