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中国の大学とのワークショップに参画して、その即興的講義手法は音楽でいえばジャズみたいなものだなとの印象を受ける [教育論]

中国の四川大学で、台湾国立大学、北京大学、そして私が奉職する龍谷大学政策学部の学生達とで成都近郊の村の将来を構想するワークショップに参画している。最初の二日間は四川大学で、それから現地で1週間近く滞在し、そのまとめを再び四川大学に戻り実践するというワークショップである。途中からアメリカのワシントン大学の学生も参加するようだ。
 さて、このワークショップは四川大学が旅費や滞在費(食費を除く)をスポンサーする破格の条件なので、我々としても大変有り難いプログラムなのだが、何しろ、ロジスティックスや内容が直前まで決まらない。決まっていても直前で変更されたりするので、計画がほぼ無効なのである。私も到着した翌日の歓迎会の席で、「あんた、明日の講義をやってよ」と言われて当惑したが、これは逃げられないと思って睡眠時間を削って資料を作成して、翌日、講義を行った。
 このような状況変化は集合時間や講義内容にも及ぶ。この変化に、中国の学生はえっ!と思いつつもしょうが無いと対応する。しかし、私の連れてきた学生達はなかなか対応できない。それはそうだろう。日本の大学では最近では文科省の指導で、シラバス等で半年以上も前から計画を組まされている。私のように政策学部で教えていると、講義内容と関係する時事的なテーマがあるとそれを紹介するために時間を割きたくなるが、そのような余裕も与えられない。これはフィールドスタディでも言えることだが、相手がいるのに半年も前から予定を確約させることは不可能だ。インドネシアとかでも直前に講師が替わり、話す内容が変わったりすることがあったが、これは日本の大学のシラバス制度のもとではご法度である。いきおい、そういう講義をしない方がいいということになるが、そういう覚悟を文科省はしているのだろうか。一方でアクティブ・ラーニングとかが重要であるとか言っているので、本当に論理的に破綻している。
 いわば、日本の文科省が押し付けている大学の講義は、クラシック音楽をオーケストラが演奏するように、しっかりと皆が楽譜通り(シラバス通り)に演奏することを講義で強制しているようなものだ。しかし、政策学部のように生きた内容を教えていたりする科目内容や、フィールドスタディといった現地を相手にする講義、特にこのフィールドが外国であったりする場合は、ジャズの即興のように、相手方が予期せぬ演奏をしたら、それに応えてこちらも演奏しなくてはならない。コード譜ぐらいはあるが、何をやってくるか分からないジャズ演奏が我々にも求められるのだ。
 そして、そういう緊張感の中で学生も対応しなくてはならない。オーケストラの演奏ばかり上手くなっても、現実は計画通りに進むことはまずなく、ジャズ演奏のような即興能力が求められる。私が、今の学生をみていてつくづく思うのは、そういう変化に対応できない柔軟性の無さと、そういう状況変化を厭う姿勢である。これは、まさに学生から「生きる知から」を削いでいると思う。シラバスで確約したことしか学びたくないといった消費者意識は、結果的に学生の損失になっていることに気づいた方がいいと、四川大学のワークショップに参加していて強く思う。

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