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ぼけないで元気な高齢者の特徴 [サステイナブルな問題]

 90歳になってもぼけないで矍鑠としている高齢者の方々がいる。このような人達にヒアリング調査をしている東京都市大学の古川教授は、「元気な方々に共通するのはポジティブさと感謝の気持ち。そして、見返りを求めない行動。それによってストレスをためないことが若さを保っている理由ではないか」と分析する。ふうむ。私事で恐縮だが、私の母親は「感謝の気持ちがなく」、ひたすら「見返りを求める」人であった。『罪と罰』に出てくるカテリーナ・イワーノヴナに似ていて、陽気で人なつこく、第一印象は良いので相手も母親を受け入れるのだが、勝手に相手をいい人と思い、その期待にそぐわないと悪口を言うという、性根が決してよくない人間である。その母親は84歳であるが80歳ぐらいから認知症になってしまった。この古川教授の分析を知り、なるほどな、と思った次第である。
 などと書いていたらドナルド・トランプはまさに「感謝の気持ち」がほとんどゼロで、「見返りを求めて」ばかりの人生だということに気づいた。トランプは現在77歳であるが、最近のスピーチでもジョー・バイデンとバラック・オバマをずっと間違えて話をしていたし、ニッキー・ヘイリーとナンシー・ペロシとも混合していた。これは認知症なのではないか、という指摘をアメリカのマスコミもしていたが、古川教授の分析が正しければ、そういうことになるのかもしれない。
 いや、認知症になる理由はいろいろあるだろうから、認知症になった人が必ずしも「感謝の気持ちが足りず、見返りを求めている」という訳ではまったくないだろうが、私的にはちょっと母親とトランプという事例から古川教授の指摘は説得力を持ったりもした。ちなみに母親の妹、すなわち私の叔母は母親が認知症になった年を越えたが、まだまだ全然、しっかりとしている。そして、性格もよくて彼女が人の悪口を言ったのは、私の母親以外では聞いたことがない。
 さて、私は母親の血を引いているので、結構、性格的にも似ているところがある。しかし、若くして認知症にならないためにも、「感謝の気持ち」を忘れずに、「見返りを求める」ようなことをせずに残りの日々を生きていこうと、この分析結果を知り、つくづく思った。とはいえ、ドイツで生活していると、なかなか「感謝の気持ち」が持ちにくいのだが。

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能登半島地震の初動対応遅れから日本社会を蝕む「対応力の無さ」を考察する [サステイナブルな問題]

朝日新聞の記事に能登半島地震の初動は「人災」であると指摘した防災計画第一人者の室崎教授のコメントが掲載されていた。たいへん勉強になる指摘が為されていたのだが、個人的に特に気になったのは「先を読んで、刻々と変わる状況に的確に対応できていないこと」という点である。「現場のニーズを把握し、吸い上げてすぐ決定していくことができていない」ということだ。せっかく立派な防災計画を、お金(税金)をかけてつくっているにも関わらず、それをマネジメントできない。
 現在でも関連死が増えている状況では、とにかく、現場で起きていることに対するニーズを迅速にすくい上げ、すぐに判断して的確に差配できる体制を構築しなくてはならないような状況なので、ここで振り返って問題点を指摘するような段階ではないのだろうが、これは現況の日本の公務員の劣化とも関係しているようにも思えるのである。今回、地理的な要因や交通渋滞があるので、「ボランティアはまだ行かないで」と最初から強く国も県も自治体も伝えたが、これはボランティアのプラスの側面を捉えず、マイナスの側面ばかりを意識したからであろう。ボランティアは邪魔なので、我々に任せろ、というような意識がなくては、このような発言はできない。そして、その結果、圧倒的なマンパワー不足と専門的なノウハウの不足で、救えた命を失い、失いつつある。これは、もう国や県、そして自治体のマネジメント・ミスで責任が問われるような問題かと思う。
私は政策学部に所属しているので公務員になりたがる学生が多いのだが、この「現場のニーズを把握し、吸い上げてすぐ決定していくことができていない」タイプの学生が多く公務員になりたがる。ゼミの時間とかで地震が起きたら、一番頼りにしたくないような学生が公務員になりたがる。私も実は、そういう学生は民間より公務員にでもなるしかないかな、と特に反対もしない。つまり、責任を回避し、それだけど給料はもらえる仕事として公務員を選んでいる学生が多いのだ。
 ただ、ギリシャの経済危機の背景に公務員の国民に占める割合の高さがあったように、公務員が多いと国は滅びの道を歩む。ましてや、責任も取りたくなくてその仕事に就いた人が、このような災害の事態でそもそも上手く対応できる筈もないのだ。ちょっと地方分権をさらに進めて、公務員の責任をより明確に、見える形にするなどの対応をしないと、日本の将来は本当、危ないんじゃないだろうか。能登半島地震の背景には、「現場のニーズを把握し、吸い上げてすぐ決定していくことができていない」公務員システムというのが厳然として存在していると考えられる。迅速な変革が必要なのではないだろうか。

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岸田ぬらりひょん内閣は亡国の危機を招く [サステイナブルな問題]

皆様、明けましておめでとうございます。ロシアのウクライナ侵攻はまだ出口さえ見いだせず、今年のアメリカの大統領選では犯罪者として、ほぼ確定されているトランプが有力な当選候補になっていたり、日本の経済は上向くどころかどんどん下回っていく予兆しか見えないなど、まったく冴えない年になりそうですが、どうにか、踏ん張って日々の逆風に耐えるしかないかな、と思っています。
しかし、そういう逆風下で我々が状況を変えるためにできることが一つあります。それは、岸田内閣を退陣させることかと思います。なぜなら、岸田首相に日本の将来の舵を取らせていくと将来はさらに悪化すると思われるからです。岸田首相の問題は、彼が力不足であるからだけではありません。力不足だけではなく政治家としての哲学が圧倒的に不足していることが問題であると思うのです。それであるにも関わらず、ある意味では安部首相よりも国を右傾化させている。大抵、国を右傾化させようとする政治家には信念のようなものがある。ある程度の覚悟がある。とりあえずバッターとは勝負する、といったような姿勢があるかと思います。それが、私利私欲に基づいたものであったり、国のことをまったく考えていなかったりしたとしても(トランプがまさにそうですね)、カルト的なカリスマの勢いはある。したがって、安部首相は敵として見えやすかった。「君たちには負けない」とか、こちら側にも安部首相は喧嘩を売っていましたし、主義主張があったために見えやすかった。
しかし、岸田首相にはそのような覚悟が微塵も感じられません。まるで、公務員のような仕事のやり方で首相をしています。いや、公務員でもしっかりと業務哲学を持っている人はいるので、その言い方は失礼かも知れませんが、何しろ、岸田首相は何をやりたいかが見えない。よく、何がやりたいかが見えない政治家とかも、首相になったら、ああ、これがやりたかったのだな、と分かったりするのに、岸田首相にはこれだけ時間が経っても全く見えてこない。なぜ、そのような野心がないのに首相になってしまったのであろうか。これは首相に担ぎ上げた自民党にも問題があるかと思うが、政治家が家業化してしまった弊害の一つでもあるだろう。なんか、親とか親戚とかが政治家なので、とりあえず政治家にぼくもなろう、ぐらいの気持ちで政治家になってしまった人がなんか総理大臣になってしまった、という印象を受けるのである。
それにしても、岸田首相ほどカリスマに欠けている政治家は珍しい。政治家は良くも悪くも個性が前面に出ている人が多い。麻生太郎、小泉純一郎、鳩山由紀夫。そういう中で、岸田首相ほど個性が見えない、というか何を考えているかが分からない首相は珍しい。首相にもなっている人に「生きていて楽しいですか?」とか「仕事に生きがい、感じますか?」とか聞きたくなるようなキャラクターである。
しかし、それでいて人畜無害であればそれほど問題はない。岸田首相の問題は有害の散水機のように、日本の将来を梗塞させるような悪手を打ちまくっていることである。しかも、信念皆無のような状況で。まさにナチスのアドルフ・ハイルマン(何百万人ものユダヤ人を移送する計画とその実行に手を貸して、戦後、アルゼンチンに亡命したところ捕まり、イスラエルで死刑となる。その裁判では、ふてぶてしい大悪人を予想していた人々のイメージを裏切り、小役人的な凡人であった)のようだ。ただ、アドルフ・ハイルマンは命令に従っていたが、岸田首相は誰の命令にしたがって防衛費を増額し、原発をどんどんと再稼働させているのであろうか。防衛費の増額は、存在感を増すため、みたいな発言を以前、したこともあるそうだが、後者に関してはその依存度を減らすとの発言もしていた。まったく真逆の行動を取っている。ハイルマンのような中間管理職なら圧力を受けたなどの言い訳もできるだろうが、岸田は総理大臣である。なんなんだろうなあ、このポリシーの無さ。ポリシーがなければポリティシャンになったら不味いと思うし、岸田首相は、日本をよくしようというか、日本のためにしっかりと職を務めようという気持ちもないように思える。このような人物が総理大臣の国の将来が明るい訳がない。そのぬらりひょん的な愚鈍さは、極めて危険であり、私は亡国の危機に今、日本はあるのではないか、と思う次第である。
彼が2024年12月31日まで総理大臣を務めていないことを願って、新年の挨拶にかえさせていただきたい。今年もこんなブログですが、宜しくお願いします。

タグ:岸田内閣
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デンマークという国の地理的概要を調べていて、東北地方のポテンシャルに気づく [サステイナブルな問題]

デンマークの国の地理的概要を簡単に調べてみた。まず人口であるが2020年時点で579万人。人口は増加傾向にある。日本の都道府県と比べると千葉県より少なく、兵庫県より多い。もし、デンマークが日本の都道府県だったら、7番目に人口が多い県となる。そして、面積であるが4.3万平方キロメートル。デンマークにはグリーンランドとフェロー諸島という自治領があり、前者は216.6万平方キロメートルと本土に比べるとほぼ50倍、後者は0.13万平方キロメートルと非常に小さいのであまり関係はないが、グリーンランドを含めると広大な国土面積を擁する国の一つとなる。しかし、除くと青森県、秋田県、岩手県の東北三県に宮城県を加えたぐらいの面積になる。ちなみにこれら4県の人口を足すと644万人になり、実はデンマークより多い。東北地方は人口減少が厳しく、経済的にも競争力が弱いというイメージがあったが、実はデンマークより人口も面積も大きいのである。ということは、東北弁を話す人はデンマーク語を話す人より多いということか。そう考えると、ちょっと驚きである。
 デンマークは欧州本土と繋がっているユトランド半島と443の島から構成されているが、重要な島はオーデンセのあるフュン島とコペンハーゲンがあるシェラン島である。その他にはシュラン島の南にあるフェルスター島、ロラン島、さらにはポーランドの北部、スウェーデンの南東部にあるボーンホルム島などがある。
 デンマークの国土の特徴は平坦であること。自然の最高地点は171メートルということで、東京スカイツリーの1/4ぐらいの高さである。この最高地点はユトランド半島の北部に位置している。そのため飲料水は地下水に依存しなくてはならないし、おそらく水力発電はもちろん、小水力発電という選択肢もないことになる。
 緯度の割に気候は穏やかで、また降水量も年間750ミリメートルぐらいで、そのため雪もあまり降らない。ちなみに、日本の年間降水量は1720ミリメートルぐらいだ。
 地方行政区分としては5つのレギーネ、そして98のコムーネから構成される。2016年とちょっと前のデータではあるが、人口10万人以上の都市はコペンハーゲン、オーフス、オデンセ、アールボーグの4都市、人口5万人以上10万人以下の都市が6都市ある。ここらへんのデータからも前述した東北4県の都市で人口10万人以上は、仙台、秋田、盛岡、青森、八戸、弘前、石巻、大崎、奥州、一関と11都市もある。さらに、人口5万人以上10万人以下の都市は18都市もある。デンマークに比べると遥かに都市化が進んでいることが分かる。コミーネに対する自治体数も164と実はデンマークより多い。これは、自治体(コミーネ)間での人口の分散が大きいということでもある。
 デンマークの地理的概要を調べていたら、ほぼ北東北3県に宮城県を加えたものと人口、面積ともに同じぐらいであることが理解できた。このように捉えると、北東北もまだまだポテンシャルがあるのじゃないか、と思わせる。絶対的に違うのは地理的なものではなく行政制度であり、自治体の裁量権であろう。山形県を加えた東北地方は、デンマークより人口も面積も大きいのである。そして人材も遜色なく優秀であろう。そのように考えると、東北地方の将来のことを考えればもっと分権して、自分達の地方の将来は自分達が決められるような制度を導入すればいいと強く思う。特に税金に関して、もっと自由裁量に地方に決定権をもたせるべきであろう。人口増加をしている時ならまだしも、人口減少をしている状況下で、いつまでも既存の中央集権制度で状況を打開できると考える方が間違っているのではないか。

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介護男性の母親絞殺事件は他人事ではない [サステイナブルな問題]

今年の5月、69歳の男性が91歳の実母を殺したということで逮捕され、その判決が11月に出た(下記の朝日新聞デジタル記事を参照)。

https://digital.asahi.com/articles/ASRCX66BXRCXPIHB01G.html?linkType=article&id=ASRCX66BXRCXPIHB01G&ref=weekly_mail_top_20231201

この男性は奥様に先立たれ、さらには親族からもお金の無心が継続的にあり、公務員をしていたこともあり貯金はあったのだが、ほぼ親族を経済的に支えていくうちに貯金は取り崩され、孤独と不安とから、介護の限界を感じて母親に手をかけてしまったそうだ。母親は認知症のレベル2であったそうだ。

私も認知症のレベル2の母親がいる。したがって、こういう記事を読むといたたまれなくなる。私の場合は、母親を介護施設に入居させることができたので、この男性のように追い込まれることはない。介護施設は本人だけでなく、家族もしっかりとサポートできる素晴らしい制度だと思う。日本が誇れるような制度だな、と諸外国を訪れても思う。ただ、私がこのような制度を利用できたのは、月額20万円近い介護施設の家賃を負担できているからだ。そして、なぜそれが可能かというと、母親がぼろではあるがアパートを持っていたので、どうにか家賃と年金を足し合わせると、それほど貯金を取り崩さなくても済むからだ。

この男性は親族からの無心がなければ、このような介護施設に母親を入居させることも可能だったかもしれないが、結局、親族を援助してしまったがために追い込まれた。そして、私も母親に手をかけるかどうかは別としても、この男性のように介護をずっとしていたら、そして連れ合いに先立たれたりしたら、相当、追い込まれてしまうだろうな、というのは想像できる。私とかは親族から無心があっても断るであろうから、この男性は優しい人であったのだろう。優しさ故に母親に手をかけることになったとしたら、本当にやるせない。

この男性を批判するのは簡単である。しかし、警察庁の統計によると2018〜2022年の5年間で検挙された殺人罪のうち「介護・看病疲れ」が動機であったのは約4%の165件だそうだ。そして、加害者は息子が38%で被害者は女性が75%。被害者の3割が要介護1であったそうだので、本当、これは深刻な社会問題である。この男性が、感情のコントロールができない身勝手な人とは私はとうてい思えない。要介護2で認知症の母親を抱える子どもの負担は極めて大きなものがあると思う。介護施設にアクセスできなかったら、本当、人生を棒に振るようなことにさえなりかねない。と書きつつ、私もそう遠くないうちに、そちら側に行くことになるので、しっかりとそのような施設に入れるだけの貯金をしなくてはいけないとも思わせられる。家族を犯罪者にさせないためにも、老いる負担を自分で責任取れるように、可能な限り、努めることが定年を迎える年代の我々が意識しなくてはならないことかと思う

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ハイルブロンを訪れ、なぜ人口12万6000人でトラムが新設できるかを考察してみる [サステイナブルな問題]

ハイルブロンはバーデン・ヴュルテンベルク州にある人口12万6000人の都市である。同州ではシュツットガルト、マンハイム、カールスルーエ、フライブルク、ハイデルベルグ、ウルムに次いで7番目の都市である。ネッカー川沿いに発展した都市であり、中世から交易都市として栄える。同地域の他よりも産業革命で先んじ、経済的に発展する。第二次世界大戦では旧市街地がほぼ完全に破壊され、1950年に再建する。
さて、そんなハイルブロンになぜ、訪れたかというと、この都市が2001年に中央駅から新たにトラムを新設したからである。このトラムは、カールスルーエ・モデルのトラム・トレイン・システムに組み込まれており、一部の列車は、そのままカールスルーエまでも運転される。ハイルブロンも1955年まではトラムが走っていたので、廃線してから46年後に復活させたということになる。驚きだ!さらに2005年、2013年とハイルブロンはトラム路線を延長させている。この延長は乗客数が想定よりも多かったということで計画されたとのことだが、人口12万6000人で、広域圏人口もほとんどない都市では、日本では考えられない快挙であるかと思われる。実際、中央駅からトラムで二駅ほどいった都心部の市役所前に行ったのだが、なんと、この市役所駅を挟んだ400メートルぐらいの区間がトランジット・モールになっており、自動車は通行できないようになっていた。その結果、都心部は結構、賑わいがあり、月曜日の午後で雨も降っていたにも関わらず、多くの人が集っていた。日本の都市で人口が12万クラスの都市で、この賑わいはちょっと驚きだ。もちろん、トラムが走っていて、トランジット・モールがあることはもっと驚きであるが。なんたって、日本は京都という150万都市の大観光都市でも、トランジット・モールはもちろん、トラムの復活もできないからだ。何なんだろうなあ、この違い。
大きくは三つ、日本ができない理由があると思われる。一つ目は、公共交通を採算事業であると捉えていること。ハイルブロンのデータは分からないが、これは大赤字事業である。そもそも、ドイツのトラムで黒字の都市は一つもない。バーデン・ヴュルテンベルク州最大のシュツットガルトであっても、赤字率は50%ぐらいだ。人口も遥かに少なく、ネットワークも比較にならないほどしょぼいハイルブロンでは、おそらくシュツットガルトよりも低いだろうから、日本では許されないレベルであろう。しかし、道路事業は超絶、ど赤字でも平気なのに公共交通事業だと急に採算性の話を持ってくる日本は、はっきりいって公共事業においての公共交通差別であり、まったく頓珍漢だ。両方ともモビリティを人々に提供する社会基盤であるにも関わらずだ。ちなみに、こんな発想を持ち出す国は日本以外だと、公共交通を共産主義だと思う一部の右翼思想の人がいるアメリカぐらいである(そのアメリカでも公共交通大好きのピート・ブティジェッジが運輸長官になっているので、状況は変わりつつある)。二つ目は、地方分権が徹底できないこと。これは連邦制のドイツと中央集権の日本との大きな制度上の違いであり、そのため地方自治体の裁量が日本はドイツに比して遥かに小さい。日本の方が人口もドイツの1.5倍はあるのに、そして、自治体の職員も優秀であるのに、中央集権の役人たちが勝手に全国一律のルールをつくってしまう。結果、その地域に応じた交通政策を策定できなくなってしまう。本当、道州制の導入を本気でそろそろ考えた方がいいかと思う。三つ目は、これは不思議なのだが、自動車への偏愛である。これに関しては、最近の若者はちょっと価値観が変わってきているかな、と思うが地方の若者は自動車なくしては生活あり得ない、と今でも言う。まあ、そのような考え方の人がほとんどだとトラムの導入はなかなか厳しいものがあるだろう。ただ、自動車は都心部の集積や賑わいをつくらない。その結果、地方都市と大都市との差はさらに大きくなって、自動車社会が嫌な人や、自動車に乗らなくてもいいような選択肢がある大都市へと移り住んでしまう。いや、自動車に固執するのはいいが「自動車捨てますか、地方捨てますか」という状況になっていることを自覚してもいいかと思う。なぜなら、今後、ガソリン代も高騰し、自動車という交通手段がそうそう長く生き残っていくとは思えないからだ。ドイツの脱自動車的な活動の熱情をみるにつけ、そう思う。
上記のように捉えると、一つ目は価値観の問題だから変えればいいだけだ。二つ目は制度の問題だからこれも変えればいいだけだ。意外と三つ目が一番のハードルかなと思ったりもするが、これもしっかりとその弊害を話すことで状況を突破できるかもしれない。私は人口12万ぐらいの都市でトラムのようなモビリティ手段が提供できていて、その結果、都心部に賑わいが日本の都市でももたらされることを望むものである。日本の都市はそもそも、とてもコンパクトであるし、その文化もとてもアーバニティと相性があるものなので、上手くやればとても魅力的な都市空間ができることを疑っていない。松本市や長野市、金沢市など、上手く既存のトラム的鉄道とJRとかと連携することで、その魅力は大きく向上されると思うのだが、どうだろうか?
ちなみにハイルブロンは、周辺に大都市もない地方都市であり、人口も2001年の120,163人から2011年は116,059人へと減少していたが、2021年には125,613人と人口は減少から増加へと転換している。もちろん、トラムの延長以外の要因もあるかとは思うが、社会基盤をしっかりと整備し、モビリティ、そして都心部の歩行アメニティが改善され、賑わいも生じれば、人々はその都市の将来に希望が持てるようになる。その都市の将来に希望が持てれば人はそれほどその都市から出ることはない。希望が持てないから、人は地方都市から大都市へと脱出するのだ。人口減少時代の地方都市に求められる政策は、未来への希望をしっかりと提示できることではないだろうか。赤字だからローカル線を廃線するような地域にどんな若者が未来を描けるというのであろうか。ハイルブロンの体験は、そういうことを我々に示唆していると思われる。

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【中央駅に隣接してつくられたトラムの停留所】

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【市役所前はトランジット・モールになっており、自動車の通行が禁止されている】

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【市役所前のトランジット・モールを走るトラム】

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ドイツの公共交通はこの20年で相当、改善されている [サステイナブルな問題]

1950年代末までは路面電車(トラム)はドイツにおいて最も重要な交通手段であった。しかし、その後の30年間はトラムにおいては苦難の時代となり、多くの都市において、トラムのネットワークが廃線となった。しかし、1990年頃から、このトレンドは転換し、古いトラム路線は改修され、新しいトラム路線が建設されるようになった。ハノーファーではトラム・システムを中央駅周辺で地下化することを行った。同様の試みはデュッセルドルフでも為された。カールスルーエは1992年から直流・交流で走行できる車両を導入し、トラムと郊外鉄道を共同運行することを可能にした。ルール地方のオーバーハウゼンは1996年にドイツで廃線されたトラム路線を再開する最初の事例となった。そして、ザーブルッケンは1997年にオーバーハウゼンに次いで再開することになった。そして、ミュンヘンでは地下鉄と郊外鉄道のネットワークを補完するために新たなトラム路線を営業することにしたのである。 
 私が現在、住んでいるベルリンでもドイツ鉄道はともかく、地下鉄とバスのサービスはとても優れていて、大学のある京都はもちろんのこと、東京とも遜色はない。いや、地下鉄の車両はオンボロであるし、駅も遥かに汚く、そういったインフラのレベルは低い。ただ、サービスというソフト面だけみれば、相当、レベルが高く、自動車の必要性はほとんど感じない。ここでサービスのことをもう少し具体的に説明すると、まず運行頻度である。平日はほぼ5分間隔で走っている。週末は10分間隔ぐらいになるが、それでも使い勝手は悪くない。そして、地下鉄のホームやバスの停留所では、どの程度で次の列車、バスが来るかをしっかりと電光掲示板で明示してくれるのでストレスがない(これは、私がよく利用する京阪電鉄とは大きな違いである)。また、地下鉄では次の駅で乗換をするバスが何時に出発するかをしっかりと車両の電光掲示板で明示してくれるので(そのような電光掲示板がない古い車両ではできていないが)、地下鉄からバスへと乗換をするインセンティブを提供してくれる。そういった点で、意外なことに京都などより遥かにベルリンの方が公共交通を移動手段として信頼できるのである。
 これは、14年前のデュッセルドルフでは感じたことがなかった。もちろん、デュッセルドルフとベルリンとの違いというのはあるかもしれないが、ここ10年間ぐらいでドイツの都市の公共交通事情は相当、改善されているような印象を受ける。ベルリンの場合は、確か2015年頃にモビリティ法を制定したので、それで大きく改善されているということはあるかもしれない。
 私は今、この記事をカールスルーエで書いているのだが、カールスルーエはそうでなくても相当、便利であった公共交通が、さらに地下路線を整備し、トラム・ラインのネットワークを充実させたことで、より利便性を高めている。
カールスルーエは2001年の27万9000人の人口が2021年には30万6000人まで増加している。これは20年で9.6%も人口が増加したことで、これはドイツ平均の2.1%より遥かに大きい。この増加した要因の一つに、優れたモビリティというのはあるかと思われる。モビリティは都市のインフラ基盤として相当、重要な意味を持つからだ。

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「ローカル・キャピタル」を発現させ、育てるためには地方分権をより進めることが必要であろう [サステイナブルな問題]

『エコロジカル・デモクラシー』の著書であるランディ・ヘスターの講演を聴く。彼は豊かな地域をつくっていくうえでは、「ローカル・キャピタル」が不可欠であると指摘する。この「ローカル・キャピタル」を発現させるためには、ローカルがしっかりとした自治を行えるようにしないとならない。しかし、日本は21世紀においても中央政権がお金と制度を握っている。したがって、ローカル・キャピタルが蓄積できなければ、それを増やすこともできない。そこにあるにも関わらずだ。これは、よく考えたら当たり前のことで、例え中央政権がどんなに優秀だとしても、全国くまなく目配りをして、そのローカル・キャピタルをしっかりと見つけ、ましてやそれを育てるような政策を考えることは無理だ。それは、地元の人たちじゃないとできない。なぜなら、地元の人でないと地元に精通することは難しいからだ。その資源を見つけ、そのポテンシャルを活かすことを考えるには、時間と情熱が不可欠である。それは中央政権にはとても期待できないものである。何より、地元の人たちがすることで、その結果に責任を持つ。また、その過程でシビック・プライドのようなものが醸成される。
 そのように考えると、地域づくり、まちづくりにおいては地域分権をさらに強く進める必要があることが分かる。予算と制度を中央政府が握っている状況を打破し、「ローカル・キャピタル」を発現させ、それをしっかりと育てていくことが極めて重要であると考える。

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原発被災地域のコミュニティ・デザインに参加して絶望的な無力感を覚える [サステイナブルな問題]

コミュニティ・デザインの国際サークルのイベントに参加する。会場は福島の原発被災エリアである。これらの地域の将来像をどのように考えればいいか、を日本人だけでなく、世界の人たちと検討するというイベントである。コミュニティ・デザインであるから、アプローチはボトムアップ型になる。あれだけの巨大な被災を受け、しかも大量な放射性物質に汚染された地域をボトムアップで再生させることは絶望的である。それは個人やコミュニティでどうこうできる状況ではないからだ。とはいえ、多くの地域で全域避難指示が解除され、人々は徐々にではあるが戻りつつある。そして、ようやくボトムアップ型での将来像を考える余裕ができるような状況になる。これは、このようなイベントが震災から12年経ったこの時期にようやく開催された理由である。
さて、しかし、その手法は「とりあえず考えなくてやっていくだけだ」というようなものだ。短期的にどうなるものではないので、長期的に楽観的にやっていくしかない。私もその地域、そしてそこで生活する人々へのエンパシーはあるが、どうしても絶望的な無力感を覚えてしまう。
なぜなら、このような悲劇を地域にもたらした巨大なる社会システムが今でも継続されているからだ。このようなコミュニティ・デザインの会議が開催され、その将来像を模索している中、また、放射性物質を含む水が太平洋に排出されている中、そのような事態をもたらした原因である原発依存のエネルギー・システムに回帰しようとしている。高浜原発をはじめとして多くの原発が最近、再稼働し始めている。福島から学ぶべきことは「ネバー・福島」である。このような悲劇は二度と起こしてはならない。
そして、そのためにはその要因となった原発依存型の社会から脱皮することである。北海道とほぼ同じ規模のデンマークはほぼ再生可能エネルギーでエネルギーを賄うことができている。福島の原発をきっかけに原発から脱却したドイツでは、再生可能エネルギーの割合は46%になっている(2022年)。その再生可能エネルギーへのシフトの道は決して平坦ではなく、いろいろと問題があるが、その道を目指すことで、初めて具体化することができる。それが必要条件である。日本は、目の前にこれだけ悲惨な現実があるのに、それから目を背け、同じ過ちを繰り返す条件を再び揃えつつある。そうであれば、いつまでも原発という「麻薬」から抜け出すことができない。しかも、その「麻薬」で快感を得られるのは、一部の電力会社関係者と政治家、そして地域の有力者ぐらいである。
この根源的なシステムを再構築しなくては、原発被災エリアにも希望をもたらすことはできない。同じ過ちを繰り返さない、ということでこのような悲劇を繰り返さない社会システムを新たに構築して、初めてこのような地域、そして日本の将来に展望が開ける。
私は、日本の将来展望が非常に暗いことが最近、気になっているが、これだけ世界に顰蹙を買うような大失態をしても、そのシステムを変えられない硬直性がその要因ではないか、と考えている。先週までドイツ、デンマークなど、新しいエネルギー・システムに積極的にシフトしていた国を訪れていたこともあって、このコミュニティ・デザインに参加していても、暗澹たる気持ちにさせられる。

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デンマークのエネルギー政策の歴史 [サステイナブルな問題]

 デンマークのエネルギーの歴史。1972年は、デンマークは中東の石油に頼りすぎで、エネルギーの自給率が5%であった。そのような中、オイルショックを受け、日曜日には車を運転してはいけないみたいなルールができる。そこでエネルギーの自給を考え、原発がその候補となった。そして、原発を15基つくる計画も策定される。しかし、原発はいろいろと分からないことが多いので、ちょっと調査をする時間をくれ、と言う動きがでてきた。政府は、ちょうど北海油田が出たこともあって、いいよ、といってモラトリウムを設ける。その間、スリーマイル島の事故などが起きたりもして、原発で大丈夫か、という気持ちも広がる。そして、調査結果を示し、原発のメリット・デメリットを提示する。それに基づいて、住民にどうする?と問いかけた結果、原発はつくらない、という道を選ぶことになる。1985年の話である。そして、その後、風力発電を中心に再生可能エネルギーでやっていくことに舵を切る。現在、風力発電は全エネルギーの5割を賄っている。風力発電が多いロラン島は、エネルギー自給率は800%にまで及んでいる。
 デンマークのエネルギーの自給率は1997年に完全自給を達成したのだが、今は、北海油田はこれ以上、掘らないということにしたので現時点では60%になっている。ちなみに日本は11%である。
 デンマークが原発を選ばなかったことで後悔をしている人はいないと思われる。なぜなら風力発電の方が、発電コストが低いからである。そして、何より放射性廃棄物の処理を考えなくてもよい。1995年に国民が賢明な判断をしたことで、大きく、その後の国のトラジャクトリーが変わり、その結果、現在のデンマークの強靱さがつくられていく。デンマークの今の豊かさや、幸福満足度は一朝一夕につくられたものではないのだ。

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ドイツのエネルギー最新事情 [サステイナブルな問題]

 ドイツに来ている。現地でドイツのエネルギーの状況の話を聞いた。ドイツは再エネに邁進しているイメージがあった。現時点でも再エネが総使用料に占める割合は42%である。随分と高い。しかし、ドイツは一貫して再エネ電力はあまり支援されておらず、なかなか普及は計画通りには進んでいないそうだ。ドイツは約束通り、2022年に最後の原発を停止した。しかし、原発は止めたのはいいけど、再エネはあまり普及してないじゃないか、との批判をされているそうだ。いろいろと難しいが、それじゃあ原発を再稼働という話にはならない。原発は過去のものだから、日本でいう石炭ようなものとして位置づけられている。
 私はしかし、原発を止めてしまえば、必要は発明の母、ではないがその代替を考えせざるを得ないので、どうにかこの問題は解決されると思われる。そして、そのような政策的判断を重ねていくことで、状況はどんどんと改善されていくであろう。いつまでも原発に拘泥して、再稼働をしているような国は、いつまでも旧型の安全上にも経済上でも効率の悪いシステムに依存していかなくてはいけない。これは、将来的な経済発展の可能性を摘んでいる。ドイツと日本はこれからもどんどんと差が開いていくであろう。

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上関町の中間貯蔵施設設置調査の受け入れは、同町の人口減少の歯止めにはならない [サステイナブルな問題]

ドキュメンタリー映画『祝の島』の舞台となった上関町の西哲夫町長は18日、中国電力から申し入れのあった使用済み核燃料の「中間貯蔵施設」設置に向けた調査について、受け入れを表明した。この件に関しては、報道するメディアによって、その記事の書き方が大きく異なるところが興味深い。
 例えば、これに賛成しているのは産経新聞。「国の原子力利用の基本である核燃料サイクルが未確立の現状において、中間貯蔵施設の持つ意味は非常に大きい。(中略)中間貯蔵施設は必要だ。」と書いている。それほど強い主張ではないが、特に地元では反対運動などがあったことを一切記していないのが読売新聞である。NHKや朝日新聞は反対派がいることを指摘。ただ、立場的には中立ではある。否定的な論調なのは東京新聞である。 
 さて、受け入れ表明を受けて、上関町では臨時議会が開催された。そこで西町長は次のように述べる。
「町の人口は年間で100人減少し、高齢化率も中国5県で一番高い状態だ。このままでは住民支援策も近い将来できなくなる。持続可能なふるさと上関町を次世代につなげることが私の使命で、中間貯蔵施設の調査を私としては受け入れる考えだが議員の意見をうかがい、総合的に判断したい」。続いて、無所属の柏田真一議員は「実現すれば工事の発注や物品購入、作業員の宿泊などの仕事が期待でき、町の経済効果が見込まれると期待している。町財政の現状を考えれば、調査・検討は早急に了承すべきだ」と賛成する考えを示した。古泉直紀議員は「本件について財源確保を目的とした地域振興策と認識して認識している。上関町のことを考えれば提案は大変魅力のあるものと考えている」と発言した。一方、無所属の清水康博議員は「核燃料サイクルが確立されていないにもかかわらず、よそから使用済み核燃料を持ってくることにかなりのリスクを感じる。なぜここまで住民の気持ちに寄り添わず、急ぎ足でことを進めようとしているのか全く理解できない」として反対の考えを強調した。意見を述べた議員10人のうち、明確に反対を表明したのは3人にしか過ぎなかった。
 朝日新聞が取材した記事からは、町内の女性(89歳)が「町に金がないんじゃけ、中間貯蔵施設はやったらええ」と話したことが紹介されている。「お金」がなければ、お金をくれる人に尻尾を振る。まるで乞食のような発想だ。記事から見る反対意見としては、上関町に隣接する山口県平生町の原真紀町議の「中国電力に上関町の振興策をオファーしたこと自体が間違いだ。このような施設ができれば、私たちが大切にしている海も変わってしまい、漁にも影響が出る」などがあった。
さて、これらの意見から上関町が置かれている状況が理解できる。上関町は人口が減少し、高齢化も進む。もし、中間貯蔵施設を持ってくることになれば、その工事のために経済効果が生じる。町としては、少しでも金が欲しい、それが多少、リスクがあっても貰えるのであればいいじゃないか、という姿勢である。
さて、しかし、人口減少が進んでいる町にお金を持ってくれば、それで人口減少は留まるのか。確かに工事をしている時は、工事関係者が町に来るかも知れないが、それは工事が終わったら去って行く。そもそも、この工事関係者は町に住むのか。近くの柳井市とかから通勤するのではないか。人口減少を止めるのであれば、他力依存的な経済政策ではなく、自立的な経済政策を模索するべきではないのか。例えば、北海道の猿払村、長野県の川上村、山形県の東根市のような競争力のある一次産業品を開発するとか、地元の資源を活かすようなアプローチを考えるべきではないのか。または、飛騨市や高山市のように地域通貨で地域の経済を回すという発想もあるだろう。安易に悪魔に魂を売るようなことで、果たして人口減少が留まるのかは、本当、真剣に考えるべきだと思う。
 上関町の祝島のある町民は、新聞の取材に次のように答えている。「私たちが知りたいのは、安全性と計画後の長期的な展望だ。目先の交付金で決めてはいけない。祝島は若い人たちが少しずつ増えているのに中間貯蔵施設ができたら人口は減ってしまう。町も財政難で行政サービスが立ちゆかなくなる、というのならば、何ができなくなるかをきちんと示したうえで、それから町の振興策を考えるべきだ」。
 上関町の周辺の自然は瀬戸内海を含めて豊穣で美しい。町はこの自然の恵みの中で持続可能な経済を考えるべきであり、それを未来永劫、使えなくなるような可能性を選択することは愚かであり、悲しいことである。しかも、そのような選択をしたとしても、町内の人口が増えるとは思えない。むしろ、町内にある祝島のように、その自然の豊かさから若者等がIターンで訪れている地域があるにも関わらず、今回の町長、そして町議会の判断は問題解決としてはずれているだけでなく、むしろ人口減少を促進させるであろう。なぜなら、このように地域に住むアホな政治、他力依存の姿勢こそが、若者を地域から流出させている一番の要因であるからだ。つまり、このような政治的判断をしてしまう地域政治こそが、地域の人口縮小の根源的には最も大きな原因である。これに気づかなければ、どんなにお金を持ってきても無駄である。というか、お金は重要ではあるが、より重要なのは、そのお金の獲得の仕方である。補助金をただもらうだけで、そこに住む人が豊かな生活、人生を送れるとは到底思えない。そこに人口縮小する地域はしっかりと目を向けるべきである。
 奇しくも、今日、放射性物質を含む水を太平洋に放出した。その結果、中国は日本の水産物の輸入を全面停止した。上関町も漁業こそが持続可能な経済をつくるうえでの基本であろう。どこでも立地できる中間貯蔵施設を金に目がくらんで誘致することは、それほど遠くない将来、致命的なダメージを地域に与える可能性がある。その時、そこは人口が減少どころか、誰も住めない町、地域になる。そういう可能性をイメージできず、それが地域の問題の解決には繋がらない今回のこのような判断をしたことは残念至極である。

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ダナンはくそ暑いが冷房がカフェやレストランにない [サステイナブルな問題]

ベトナムのダナンに来ている。日中は37度ぐらいにまで気温は上がり、相当、暑い。京都よりも東京よりも暑いと思う。さて、そういうこともあって街中を歩いていると暑さにやられてカフェに入ることになる。しかし、このカフェはオープン・カフェのような感じになっていて、冷房がない。扇風機があるし、日陰なので凌ぎやすくはあるが、それでも暑い。それでいて、別にそれなりに大丈夫である。確かに冷房のようにガツンと身体を冷やしてくれると身体は嬉しいかもしれないが、冷房がなくても大丈夫である。もちろん、冷たい飲み物を欲することになるので、カフェもそれで身体を冷やしてくれればという計算もあるかもしれない。
 さて、そしてこのようなカフェはSDGs的に正しいと思う。京都や東京よりも暑いダナンで出来ているので京都や東京でも出来ないことはないと思う。もちろん、そのためには現状よりも遥かにマイクロ・クライメートを意識した空間デザインをすることが必要であるとは思われるのだが、そもそもこういうことに日本人は長けていた筈である。格好付けだけのSDGsとか言っていないで、こういうのを実践するといいと思う。
 え?私ですか。私はちょっと暑さが苦手なので、それもあってSDGsを推奨していないのですよ。そして、コロナの時期を除いて、8月の東京にほとんどいたことがないです。

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2021年の欧州グリーン首都「ラハティ」を訪れる [サステイナブルな問題]

フィンランドのラハティを訪れている。ラハティは2021年の欧州グリーン首都に選定された。「持続可能性」が評価されてのことだが、具体的にはどういうことなのだろうか。まず、交通。自転車のネットワーク整備、交通モバイル・アプリの開発などをしている。次は土地利用。緑地の整備、あと住宅地の高密度化などが図られている。そして、生物多様性。都市のそばに優れた自然環境が提供されている。モモンガなどが生息している。あと大気の管理。そして、リサイクル。ラハティは繊維産業が盛んだが、そこから出る産業廃棄物もしっかりとリサイクルするように心がけられている。企業が行政と協働して循環型システムを構築しようとしている。あとリサイクルは、カンやビンを回収のためにもっていくとお金をもらうことができる。ちなみにカンでも回収にもっていくと15セント返金してもらえる。水質管理は湖の汚染問題に対応してきたが治水にもしっかりと対応、下水道の管理もしっかりとやってきている。
ただ、オリジナルなアイデアは特に見つからない。リサイクル率(41%)を高めるための施策は、子供にしっかりとリサイクルの大切さを教育したことであると説明したが、これはまさにジャイメ・レルネル氏のもとでクリチバ市が1990年頃に実施した政策である。下水を池に貯めて葦などの草を使って浄化するというのは日本を含めてアジアの諸地方で実施されてきたことである。ただ、それらを謙虚に学び、何か自分達のプラスになると考えたら積極的に導入するということは、簡単なようで難しい。それに対してはラハティを評価することができるのではないだろうか。ただ、多くの環境先進都市を訪れて「それは凄いアイデアだ!」といった、驚くような発見をすることはなかった。

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クリチバの最大・最凶のファベラ『カシンバ』を訪れる [サステイナブルな問題]

ブラジルの最大の都市問題は、これはやはり不法占拠(ファベラ)問題に尽きると思う。不法占拠は本当に根が深くて、ブラジリアとかだと金持ちでも不法占拠をするので、単に貧困の問題として片付けられないところがある。そこは、警察も政府も入ることができない無法地帯である。
 さて、しかし、クリチバはこのファベラ問題に果敢に対処して、大きな成果をあげてきた。具体的には社会住宅という名の公共住宅を大量に供給し、これらファベラに住んでいる人達がそこから移り住めることを可能とした。また、ごみ問題に関しては、ユネスコからも賞を受けた「ゴミ買い運動」などで見事に対処した。
 しかし、カシオ谷口氏が市長を辞めてからの16年間ぐらいの都市計画空白期間にファベラ問題が放置されたこともあり、クリチバも他のブラジルの都市のようなファベラが増えつつある。私が調べた時点(2023年3月)では、クリチバのファベラの数は30ぐらいだそうだ。そして、そのようなファベラの中でも現在、最大で最凶なのはクリチバ市の最南部、イグアス川とバリグイ川の合流点そばにできたカシンバである。
 カシンバの土地は、そもそもは民地であった。しかし、バリグイ川の上流にあったペトロブラスの石油精製所が石油流出という事故を起こし、その賠償として、この民地を買い取った。そして、パラナ州政府に譲渡する。パラナ州政府は、その後、ここを何もせずに放っておいた。そしたら不法占拠が始まったのである。ここの開発状況を時系列で、空中写真で見ることができるのだが、もう、本当、あっという間にどんどんと広がっていることが分かる。
 これはクリチバの前回の市長選(2016年)でも争点となり、当選したグレカ市長は、このファベラの存在を市の最大の課題として位置づけ、フランスの開発銀行のお金を獲得して、ここをどうにかしようと取り組んでいる。グレカ市長は、1992年に3期目のレルネル市長の後を継いで37歳という若さで市長になった人で、途中、多少、政党的にはアンチ・レルネル派になったりしたが、都市計画でクリチバの都市問題を解決するというアプローチはレルネル市長と同じである。
 このカシンバ問題は、クリチバ市の都市計画研究所(IPPUC)が先頭に立っている。私も取材をしたのだが、IPPUCの人達も久しぶりに都市計画に盛り上がっている。ただ、ファベラのギャングのボスを捕まえようとして、大量の警官が取り締まろうと家宅捜査するが取り逃がし、それでファベラのボスが切れてコミュニティのキーパーソンだった女性が通報したと誤解して殺害。その女性を支持していた反ギャング派がボスと実行班の二人を殺害。警官もそうだが、市役所もなかなかファベラに入れないような状況になっている。
そこでIPPUCとファベラのコミュニティを繋いでいるのが元クリチバの環境局長であり「ごみ買い運動」を推進した中村ひとしさんの長女、サンドラさんである。市役所の職員であったお父さんと民間のサンドラさんとでは立場は違うが、同じようにファベラの人達とコミュニケーションを通じて、その状況を改善させようとしているのは運命的である。私もサンドラさんと一緒に現地に行かせてもらった。彼女は現在、コミュニティ・キッチンに食材を提供する仕事をしているので、コミュニティ・キッチンとそこのリーダーであるおばさんを訪れさせてもらった。このコミュニティ・キッチンには巨大な冷蔵庫が数台あり、その中には食材が保管されている。一日に一度、食べ物をコミュニティの人達に配付することをしているようだ。
ちなみに、私が握手をしたコミュニティ・キッチンのおばさんの息子が、ギャングのボスを殺した暗殺者の可能性もあるそうだ。なんか、にこやかな青年に見えたんだけど。また、サンドラさんは、このコミュニティ・キッチン側には随分と信頼されているようで、「誰か殺したい奴がいたら言ってくれ、殺しておくから」と言われたそうだ。なんか、こういうギャング的な世界は全然、縁がないのでもう驚くしかない。
カシンバは社会的な問題もそうだが、環境的にもバリグイ川が氾濫すると、コミュニテイの半分以上が水没するそうだ。そういう意味でも、現在、氾濫原からちょっと標高が高い場所に新たに住宅をつくり、そこに移転させる計画を策定しているそうだ。
しかし、そのような開発が行われるとニュースに報道されたりしたので、カシンバに来る人が増えている。そこで、新しい人達は補助の対象にならないのと、フランスの開発銀行に提出した申請書と実際の数字が異なると補助金がもらえなくなる、ということをコミュニティの人達に説明した。その結果、新たに来る人にここには住まないでくれ、と伝えるのはコミュニティの人達が積極的にしてくれるとのことである。
さて、現在、総力でカシンバ問題に取り組んでいるクリチバ市役所であるが、昔であったら、こういうファベラが出来そうだと、すぐ迅速に対応して、問題が大きくなる前に芽を取っていた。それが、官僚主義がクリチバ市でも広がってしまい、問題への対処が後手後手になってしまうようだ。いろいろと考えさせられるクリチバのカシンバ問題である。

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<カシンバの中央通り?>

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<この地域はバリグイ川が氾濫すると水没する>

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<クリチバ市のファベラでは見られないゴミの多さ。これでも、ちょっと前よりは随分と改善はされているそうだ>

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<コミュニティ・キッチン>


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ウーバー・イーツがうざい [サステイナブルな問題]

ウーバーは2009年に基本、ウーバーキャブとして配車サービスとしてサンフランシスコで始まった。ウーバーキャブが単にウーバーになったのは、サンフランシスコのタクシー会社からクレームが来たためである。その後、モバイルアプリを使って、利用者が通常のタクシーやウーバー運転手を要請できるサービスを開始した。私も始めて使ったのはリオデジャネイロであったが、現地の日本人の旅行代理店の業者が運転手付き車レンタルとして請求してきた10万円に近い金額が、1万円ちょっとに節約でき、なんて便利なサービスなんだと感心したことがある。ただ、日本では東京と京都で過ごしているので、ウーバーで呼ぶより路上で拾った方が通常、便利で早いこともあって滅多に使わないが、海外とか不便なところだともう素晴らしいサービスだなと思っている。
 さて、しかし、2014年にウーバーが始めたウーバー・イーツはすごく社会的に無駄だと思う。特に東京や京都といった大都市だと、まったくアホらしいサービスかと思う。まず、ほとんどの場合、人に持ってきてもらうのではなく、自分でお店に行って食事をすればいいと思う。そもそもてんやものというサービスが日本の多くの食堂ではあるし、それは無料で提供されているので、そういうサービスを提供している店で注文すればいいのだ。いやいや、そういうサービスを提供しないもっと美味しいお店のものを自宅で食べたいんだ、と反論がくるかもしれないが、そういう美味しさに拘るなら、お店でできたてを食べるべきである。ウーバー・イーツで運ばれる時間を考えれば、もう美味しさは半減している。ウーバー・イーツを注文した時点で美味しさを語る資格はないと思う。もちろん、一人暮らしでコロナになったり、病気になったら活用するという手はあるかもしれない。しかし、病気になったら、うどんやお粥を自炊した方がおそらく身体にはいいであろう。いや、病気で辛いかもしれないが、味が濃い外食を食べるより、消化がよいものを食べるべきであろう。
 まあ、私はてんやものも取らないので、ウーバー・イーツを取ったことは一度もないし、頼むニーズを感じたことは一度もない。一度だけ、誰かの家で食事をした時、ウーバー・イーツを食べたことがあるが、「すごい人気店のイタリア料理屋に注文した」とおっしゃっていたが、それほど美味しくはなかった。そりゃ、時間が経つと料理は冷えるし、油がきつくなって美味しくなくなるわな。
 加えて、ウーバー・イーツによって歩行環境は悪くなっている。特に狭い歩道をウーバー・イーツの自転車が傍らを抜き去っていく時など、危険で邪魔だ。そもそも消費者はつくりたてでない料理を食べること、しかも運び代を払うので、コスト・パフォーマンスが悪くなるし、家で引きこもる時間を長くするので社会性を広げる機会を逸し、また運動不足にも繋がる。ウーバー・イーツではたらいている人は低賃金の重労働と言われたりしているが、私が気になるのは、社会的に何の付加価値も提供できていないことである。いや、実質面では上記の点からもマイナスの付加価値であるかと思う。高齢者やそれこそ病気・怪我で外出が難しい人などへ特化したサービスとしては、需要もあるし、社会的にも付加価値があるかもしれないが、人気店での料理を自宅に持ってこさせたい、という発想は貧しいと個人的には思う。
 まあ、こういうことを書くと、そんなことを言ってもアメリカの都市では受けてるじゃないか、と言われるかもしれない。しかし、これはアメリカ人はそもそも料理が不味くても全然、平気なので、そういう質を意識しなくても大丈夫である(なんせテレビ・ディナーが売れる国だからな。日本人はテレビ・ディナーは流石に厳しいでしょう)ということに加え、郊外住民は、低密度と土地利用が分離されているので、歩いてお店に行けないからだ。加えて、夜は治安が悪いので、ウーバー・イーツの運び人にお金を払って、そのリスクを背負い込んでもらうというニーズはある。さらに道路は広いのと歩行者は滅多に歩いていないので、日本のように歩行者とウーバー・イーツの自転車が接触する危険性もおそろしく低い。このように、食事が不味くてもOK、都市構造の相違、さらには治安の悪さ、さらには自炊を滅多にしない、という条件がウーバー・イーツを成立させているのだ。それは、アメリカの国の貧困さを象徴しているようなビジネスであり、日本人がアメリカで流行っているから、と一緒に貧しくする必要性はまったくないと思う。

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日本の人口減少について考察する [サステイナブルな問題]

国際日本文化研究センターで「縮小社会の文化創造」の研究グループの研究員を3年間ほどしてきて、先日、その集大成を京都国際マンガミュージアムで展示をし、またシンポジウムも開催した。
 この研究グループの研究の視点は、文化芸術や福祉だったりして、私のディシプリンとは違うのでたいへん興味深かった。その研究を経て、自分なりに改めて理解したことは次のようなことである。
 縮小問題というのは、日本人の人口が縮小するという問題であり、これは極めて地域限定的な問題である。世界の人口は今でも増加しており、むしろ人口増加が人類的な課題である。そういう観点からすると、むしろ日本において人口が減少しているのは、地球上のバランスを考えると喜ばしい。というか、すべての国が減少を嫌がり、増加しようとすれば、そのうち人類が依存する地球の資源はなくなってしまう。そうでなくても、エコロジカル・フットプリントという考え方では、アメリカ人と同じようなライフスタイルを前人類がしようとすれば、地球があと2つ必要なのだ。地球という閉じた環境系の中で人類が生き延びるのであれば、どこかが成長するのであれば、どこかがそれを相殺するように減少しなければ、人類は滅びてしまう。「共有地の悲劇」の地球版だ
さて、しかし日本人の人口減少は、日本人にとっては大きな問題であるように捉えられている印象も受ける。それはどうしてか。まず合計特殊出生率が再生産の基準を大きく下回っていることもあり、そのうち「日本が消滅する」と指摘する人がいる(例えば朝比奈一郎、イーロン・マスクなどである)。しかし、「日本が消滅する」の日本って、一体何なのか。日本という国土は合計特殊出生率の低さでは消滅しない。それが消滅するのは、「日本人」が地球上からいなくなるということだが、ここで考えなくてはいけないことは「日本人」とは何かということだ。
 「日本人」は日本民族であるという考え方に則ったとしても、それはそもそも弥生民族、縄文民族の混血である。そう考えると、「日本人」という血統に拘ることはあまり意味がないことが分かる。そもそも、犬じゃああるまいし、血統を意識する必要もほとんどないと思われる。
 そもそも、人々が思っている多くの「日本人」が混血である。ローラはインドの血が半分入っていて、日本人の血は1/4だが、「日本人」であろう。ドナルド・キーンは「日本人」の血が一滴も入っていないが「日本人」であろう。というか、多くの「100%純血」(ということがどういうことか、科学的には分からないが)の「日本人」より「日本人」であると思う。逆にいえば大坂なおみは「日本人」より「アメリカ人」である。国籍は「日本人」かもしれないが、3歳からアメリカに住んでいるし、英語の方が日本語よりはるかに堪能である。
 そのように考えると、「日本人」の血統のようなものと「日本人」とは違う。すなわち、地球上から消滅して困るのは「日本人」の血統のようなものではなく、ドナルド・キーンなども含む「日本人」というものであるということだ。さて、それでは、そのような「日本人」が地球上から消滅すると何が困るのであろうか。
 まず考えられるのは日本語である。日本語というのは、日本人しか使用していない言語であるため、「日本人」が消滅すると、日本語を未来に継承する役割を担う人達がいなくなる。これは人類的には損失が大きいと思われる。なぜなら、日本語はそれによる文学を長い期間、生み出してきたからである。このような言語は、それほど多くない。そのような文学は日本語を使う人がなくなると忘れ去られる可能性は大きい。これは未来の人類にとってはもったいないことだ。
 あと、日本料理や日本酒などの日本のユニークな生活文化の未来への継承者もゼロとはいわないが、相当、少なくなるであろう。
 すなわち、人類の多様性の一部を構成するグループがいなくなることによる人類の損失は大きいと思われるのだ。ただし、それらを継承するのは「日本人」の血を引き継いでいる必要性はゼロである。上記の文化を継承してくれるものが消滅するのは、いろいろと人類的観点からも損失があるが、そのような人が存在していれば構わない。それは、祖先が日本人である必要はゼロだ。ドナルド・キーンがまさに「日本人」であるというのは、そういう意味からである。
 そのように考えると、人類的には、それだけのマスが次世代にも存在し続ければ問題がなく、日本という限られた地域経済を維持するために、日本人の数を確保させようとすることは、極めて短期的な視野でものごとを捉えすぎである。そもそも、日本はヨーロッパ大陸で一番、人口が多いドイツ(ロシアを除く)と同じ国土であるのに、人口は1.5倍も多いことから分かるように、人口は国土に比して、多すぎるのだ。しかも、ドイツと違って、東京や大阪といった大都市圏に人口の偏りが甚だしい状況になっているのが問題なのだ。
 そして、日本の人口が少なくなり、エコロジカル・フットプリント的にも日本列島の国土と同じぐらいの規模(すなわち、サステイナブルであるということ)にまで落ち着けば、必然的に人口は、それ以上は減らなくなると思われる。成長曲線は一次線形ではなくロジスティック・カーブを描く。縮小曲線もロジスティック・カーブを描くと考える方が妥当である。
 ということで、地球的規模でみれば、日本の人口減少などは問題どころか、むしろ解決策であり、さらに、日本の立場から考えても、守らなくてはならないのは国民の数というよりかは、日本の言語を含む文化を次世代に継承する人達の確保ということが、国際日本文化研究センターの研究を通じて理解したことである。

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常磐高速道路沿道は相変わらず放射線量が驚くぐらい高い [サステイナブルな問題]

常磐高速道路で仙台から東京まで自動車で移動する。大熊町とか双葉町のあたりでは、ご丁寧に放射線がどの程度、大気中にあるかを教えてくれる。0.1マイクロシーベルトのところもあったが、高いところでは4マイクロシーベルところもあった。これは時間当たりの数字である。0.1であれば、年間で876マイクロシーベルト。4であると年間で35ミリシーベルトになる。国際放射線防護委員会は、自然界からの被爆や医療での被爆を除いて年間1ミリシーベルトを線量限度としているから、年間35ミリシーベルトとは相変わらず驚愕するような高さである。同委員会は、通常よりも高い放射線量が継続する場合は、20ミリシーベルトまでは被爆限度と考えているが、35ミリシーベルトはこの上限よりも高い。相変わらず、本当、悲惨だよなあ。何がアンダーコントロールだ!とこの数字を確認するたびに安部首相の無責任さと適当さに腹が立つ。
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JR桜井線(万葉まほろば線)に乗る [サステイナブルな問題]

私の学生が卒論で桜井線(万葉まほろば線)をテーマにしている。桜井線、これまで乗ったことはない。指導するうえでこれは不味いだろうということで、天気も晴れていたので乗車をしにいく。しかし、京都では秋晴れのいい天気だったのに近鉄奈良駅に着いたら雨。ついていない。そこから奈良駅まで歩いて行ってもいいのだが、奈良町でもちょっと巡るかということで、一駅歩いて京終駅まで行く。途中、雨足が強くなって、逃げるようにして駅舎に駆け込む。ちなみに京終駅ってどう読むか分かるだろうか?「きょうばて」だ。もう、ここまで当て字だと、漢字としての機能を失っているのではないかといいたくもなる。ちなみに、桜井線はその後も、帯解(おびとけ)、櫟本(いちのもと)、巻向(まきむくえ)、香具山(かぐやま)、畝傍(うねび)という難読の駅が続く。ちなみに駅数は14で、その延長距離は30キロメートル弱である。
 京終駅は、なんかエライお洒落で、待合室にピアノなどが置かれている。おそろしく洗練されたカフェが併設されており、そこでは小物グッズが販売されているのだが、それらもセレクト・グッズのように上品でお洒落なのである。なんでも二年半前に開業したそうだ。電車が来る前に珈琲を注文したのだが、出てくるまでに3分ぐらい待たされた。これは、丁寧に淹れているからであり、スローライフのお洒落駅という感じだ。駅には車掌さんのような方がいて、この人はJRの社員かボランティアのおじさんか、危ないおじさんかは分からなかったのだが、待合室で待機している観光客と思しき人に町の解説をしていた。ちょっとお話を聞きたかったが、電車が来たので駅を後にする。電車は二両編成で最新の車輌であった。とても快適な車輌である。驚いたのは、結構、乗客が多いということで立っている人などもいる。一時間に二本というダイヤではあるが、これは結構、人々の足としては機能しているといえるのではないだろうか。いや、当然、赤字ではあろうが、これは例えばドイツのローカル鉄道などと比較すると、ずっと使われている。JRは当然、廃線にしたいという意向があるかもしれないが、これは奈良県とかがしっかりと維持しておくべき路線だなという印象を持つ。というか、本当、上下分離を一刻も早く実施すべきだと思う。
 当然、単線なのだが、なぜか天理駅は二つ島型のホームであった。しかも橋上駅。単線でホームを4つつくることの意味が分からないのだが、何かあるのだろうか?ちなみに天理駅周辺はえらい立派で、金がかかっているように見えた。世界を代表する宗教都市。初めて訪れたような気がするが、今度、しっかりと調べてみたいなと思ったりもする。
 車窓からの風景は田園に安普請の郊外住宅が並ぶ、乱開発された光景。まったく美しくないが、遠くに目をやると山の稜線が美しい。この郊外住宅の醜悪の光景は結構、ずっと続く。
桜井駅で線路は90度に曲り、ここからは近鉄線と並行して走っていく。さて、私は終点の高田駅まで乗らずに畝傍駅で降りる。畝傍駅は結構、立派な駅で駅の駐輪場には多くの自転車が駐輪していた、駐車場も結構、車が駐車されていた。しかし、これらが桜井線の利用者かどうかは不明だ。
 ドイツに住んでいた時、鉄道を乗りまくっており、多くのローカル鉄道も乗ったが、この桜井線は郊外鉄道の性格も有しており、近鉄が平行に走っていたりするので経営的に難しい側面もあるが、活用の可能性は多いにあるなというのが率直な感想だ。まあ、逆にいえば、これぐらいの利用者がいて、沿線の土地開発が進んでいても公共交通が黒字にならないのは世界的にみれば当然な話なので、これらを公共事業体が税金で担っていくか、少なくとも上下分離にすることは一刻も早く検討すべき課題であろう。
 

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大川村に行く [サステイナブルな問題]

四国は高知県にある大川村に訪れました。新居浜に前泊して、9時に開業するレンタカー屋で車を借りて、一路、大川村に。大川村は高知県にあるのですが、愛媛県の方が早く行けるのです。新居浜からは西条の方まで行き、そこから国道194号線で南下します。この国道194号は四国山地を縦断するのですが、四国山地の険しさは半端じゃない。中国山地とはエライ違いです。まさに急峻で絶壁。以前、石鎚山に登った時にも驚いたのですが、改めて驚く。この険しさは私が経験した中でも南アルプスの甲斐駒ヶ岳周辺とか並みです。東北地方の山々も私が知っている限りですが、こんな険しいところはありません。その険しい中を自動車で走っていきます。紅葉が美しく、ドライブ自体は楽しいのですが、やはり遠い。さらに、役場のそばで土砂崩れが起きて迂回路を行く羽目になります。対向車とのすれ違いも難しいような険路を行き、ようやく役場に着いた時は約束の11時を20分も遅れてしまいました。

役場では取材をさせていただき、大川村のことをまあまあ知ることができました。まず、その前に大川村に何で行くの?という疑問を持たれる奇特な読者もいるかもしれないので説明させていただきます。大川村は離島を除くと、奈良県の野迫川村に次いで人口が少ない自治体です。その数、なんと354人(野迫川村は340人)。1960年までは4000人も住んでいましたから、この60年間で9割も人口が減ってしまった自治体です。これって、日本ではそれほど珍しくないのですが(夕張など)、海外の自治体だとよほど特殊なケースでないと、そういう事例は見当たりません。ただ、大川村は実は相当な特殊ケースではあります。というのも1977年につくられた早明浦ダムによって、村役場を含めて村の大部分が水没しているからです。これによって、1980年には人口は既に1000人を下回っています。とはいえ、それでも40年で6割以上の人口が減っています。このままだと、大川村はどうなるのか?私は増田さんの「地方消滅」という考えに凄い抵抗を覚える者ですが、大川村はそうはいっても心配です。そこで、数字だけみると愕然とするけど、実際、そこで生活している人はどう思っているのか。ということで、現地を見て、役場の方にお話を聞こうと思った次第なのです。特に社会減のネットをいかに少なくできるか、という問いを心の中に持ちつつ、質問をしてみました。

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<村役場の建物>

まず、学校ですが、小学校と中学校は村にありますが、高校はありません。その結果、ほとんどが高校の時に村を出ます。そして、下宿か寮、兄弟や親戚と一緒に生活したりします。一番近い高校は嶺北高校なのですが、そこに進学する学生はあまり多くなく高知市まで出る子が多いそうです。大川村中学校はバトミントンしかクラブがないので、バトミントンに熱を入れる子が多いらしいのですが、ここらへんだと高知商業がバトミントンだとよいので、そこに進学する子も少なくないとのことです。

どうせ村を出るのであれば思い切って大阪や東京に行く選択肢はあるのでは、と尋ねるとそういう学生はほとんどいないそうです。これは、親が休みの日には会いに行って面倒をみたいから、そこそこ行きやすい、高知あたりが望ましいからだとのことです。

さて、中学を卒業した子たちは、そのまま村に戻ってこない場合がほとんどです。Uターンがゼロという訳ではないけど少ない。それは雇用がないからです。主な就職先は役場、農協、森林組合、社会福祉協議会、郵便局、小学校の教員。それに村の第三セクターです。大川村の産業は畜産業、それと観光業です。ここでは市場経済で成立するような地域産業はほとんどありません。それではなぜ村が成立したのか。疑問に思われるかもしれませんが、ここには銅山がありました。四国の銅山といえば別子銅山が有名ですが、大川村の白滝銅山は四国では三番目の産出量を誇り、さらに林業も栄えていたので、不交付団体であった時もありました。経済的豊かさを提供してくれる土地であったから人々が多くこの山間部の僻地に来たのだな、ということが分かります。しかし、白滝銅山は閉山し、林業は全国どこにでもいえることでしょうが、木材の値段が下落し、やればやるだけ赤字になるという構造不況に陥ってしまいました。農業もなかなか難しく、専業農家がつくっているものはからぴーまん、花卉栽培(百合)、ほうれん草だそうです。森林割合は、と聞くとそれは不明だそうですが、高知県ですでに84%。明らかに高知市などより森林だらけなので、ほぼ森林ということになるのかもしれません。農業に活路を見出せないのが大川村の厳しいところです。

市場経済のロジックだけで考えると、この村は「市場から撤退」するべきだと考えられるかもしれませんが、本当にそれでいいのだろうか。市場経済というルールをそこまで絶対的なもので捉えていいのだろうか。いろいろと疑問は湧きます。昨今、コロナで外国産材が入らなくなって、木材の値段は高くなっている傾向もあります。円の弱体化が進む中、林業の復活というシナリオもあり得るかもしれません。

大川村は地域おこし協力隊を積極的に受け入れています。これがIターンの主力です。とはいえ、最長で3年間です。参加者の半分が3年間いますが、なかには1年、2年で辞めてしまう人達もいます。それは個人的な理由もありますが、期待していたことと現実とのギャップがあったということも否定できません。地域おこし協力隊の人達がそもそもなぜ、大川村を選ぶのか。それは、自分のやりたいことをやれそう、つまり自己実現が図れると考えるからです。そのような人は登山とか観光関係の仕事をつきたいと考えています。大学時代に登山をやっていて、それを活かした観光開発などができないかと考える訳です。他には、ウェブ・デザイナーの仕事を募集をしていたのだが大川村だけだったので、その募集内容で来た人もいるようです。ミスマッチが起きて、明らかな喧嘩別れはないそうです。早めに辞める人は、他にやりたいことが見つかったか、もしくは大川村の中で暮らしていてイメージしたものとちょっと違うな、と思って辞められるケースが多いようです。

大川村の特徴としては、人口が少ないのでいい意味でも悪い意味でも地域の方と関わることになる。村はのんびりしているんじゃないか?と思われるけど、実態は少ない人口で回さなくてはいけないので忙しい。自分の仕事ではなく、コミュニティの仕事に追われる。つまり、お金をもらえる仕事ではなく、通常の仕事が終わった後、コミュニティとしてすることが多い。特に若者達は労働力が期待されている。いろいろな集まりがあるので、それらは仲間に入れてもらえる、ということでは有り難いが自分の時間はなくなっていく。こういう「田舎の集まり」で時間が取られることをストレスに感じる場合も多くみられるそうです。

村役場には23〜24人ほどいます。これは全人口の6.7%が公務員ということで凄い割合の高さではあるのだが、逆にこの人数で全部の村の仕事を回さなくてはならない。少ないからといって調査の数が減る訳ではありません。ただ、職員は全員、村民だそうです。これは、群馬県の南牧村や京都府の笠置町といった人口縮小自治体とは大きな違いです。それだけ僻地ということかもしれません。この村に住まないと、いざという時にかけつけなくてはならないことが大きな理由です。

集落はこの役場があるところ以外に西の方にもあります。そちらには以前は小学校がありましたが、今は閉校しました。その集落の子供はスクールバスで学校に通っています。大川村は地理的には愛媛県の方が近い。高知市だと自動車で二時間、西条だと一時間ぐらいかかります。しかし、なぜ高知県なのか。これは1999年に寒風山トンネルができたから愛媛県の方が近くなったためで、それまでは高知県の方がずっと近かったそうです。私の取材に応じてくれた大川村の役場の人は高知出身ということもあって、高知に買物に行きます。ただ、最近では西条市や新居浜市のショッピング・センターに買物に行く人は増えたそうです。縮小都市というと「買物難民」の課題がついてくるかとは思いますが、大川村には農協の移動販売車が入ってきていることもあってそれほど問題はないそうです。村内にはコミュニティ・バスという荷物と人が乗せられる交通サービスもあるそうです。また、食材は難しいかもしれないですが、ネットショッピングを使う人は多いそうです。お年寄りはあまり利用していないですが、60歳ぐらいまでだと利用している人が多いようです。とはいえ、ネットショッピングはよほど値段が高くないと、大川村には運んだ時点で赤字でしょう。ドローン販売などの普及が求められるようになるかもしれません。高齢者の場合は、一般的には、週末に家族が食材を送り届けるというのがパターンのようです。家族はたいてい高知か愛媛県に住んでいます。

400人規模の自治体に住んでいて難しい点は、人間関係に気をつけないといけないことのようです。村人の中で親戚関係の場合が多い。そういうのは都会と違っているようです。人の悪口は言わない方がよい。あと、行政サービス的には非常に手厚いものがあるようです。村役場の方は「過保護かな」と言っていました。行政と地域は近く、一人一人への対応が丁寧。7%の村民が役場の職員ということは、まあそういうことでしょうが、これが村人各人が負担していたら、とてもじゃないですが行政は成り立ちません。また、行政がしっかりとしているので「お上に頼る」、「役場がどうにかしれくれる」という依存気質は強いようです。

住民ですが、高齢化が進んでいますが42%ぐらいと、驚くほど高い訳ではありません。というか、大川村は今、ベビー・ラッシュだそうです。これは最近、結婚をされた方が多いからです。この10年間ぐらいには戻ってきている人もおり、地域おこし協力隊でやってきて地元の女性と結婚した人も2人います。地域おこし協力隊員は二人とも男性だそうです。

村の将来ビジョンとしては、村長は400人の人口を維持するとの目標を掲げています。現在は370人ちょっとで、人口減少には歯止めがかかっているとはいえます。移住・定住政策としては、土佐はちきん地鶏事業で雇用を生むことに成功しています。土佐はちきん地鶏はブランド地鶏で、ここ15〜20年ほど注目されています。それ以前は大川黒牛。それらを知ってもらうために謝肉祭を行ってきました。あと、地域おこし協力隊にたくさん入ってもらうようにしているということがあります。観光産業としては、観光資源としては山。いくつか登れる山があるので登山をどうにかできないか。あと、ダム建設をプラスに取り組むようにして、ウォータースポーツやワカサギ釣りなどを展開できればと考えているそうです。キャンプ場もあります。観光も一つのコンテンツでは難しいのでツアー化したいと考えているそうです。ここで宿泊できるような形で進めているようです。

社会増で人口を維持するための最大の課題は、それらの人が住む家がないということです。空き家は多くあります。しかし、それらは老朽化していてとても住むことができません。空き家の調査はしているので、持ち主は分かっているところが多いです。意外と持ち主は近場に住んでいます。すぐ住めそうなところに関しては、持ち主の交渉したのですが、一軒ぐらいしか使わせてもらえませんでした。これは、しっかりと管理されている空き家は、それなりに持ち主のニーズがあるからです。一方で手入れもされないと3年ぐらい放っておかれるとあっという間に風化してしまいます。それでは、移住してきた人はどこに住むかというと、村営住宅に入ります。学校のそばとかに公営住宅もあります。これら二つ会わせると39戸。家賃は収入によって変動しますが、だいたい1万円から6万円ぐらいだそうです。

ということで、人口が最小か二番目に最小の自治体、大川村を訪れ、そこで得られた情報を簡単に整理してみました。そもそも人が住んだ歴史が浅く、銅山で人が集まってきた訳ですから、銅山が閉山するとここに住む理由がなくなります。また、ダムでそもそもの村が沈まされた。昔の役場は今、ダム湖の下に存在して、渇水の時には姿を現したりもします。そもそも少なかった平地の中でも、人が生活しやすい部分はダム湖に沈んでしまった。林業が復活できれば、またここに住む人々も増えるのかもしれませんが、なかなか厳しいものがあります。とはいえ、市場経済のロジックをかざして、ここは人が住むべきではない、という主張をすることには強い抵抗を覚えます。いろいろと人口減少という政策課題の難しさを抱えた村です。

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<最も人口が多い集落>

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<ダム湖。この湖の下に昔の役場などが沈んでいる>

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<少しの平地に家々は建てられている>

タグ:大川村
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地方都市でのおばあちゃんカルテットとの会話 [サステイナブルな問題]

豊岡市にておばあちゃんが集うサードプレイスがあることを市役所の職員から聞く。それは、市役所が設置した「豊岡市立 加陽水辺公園交流館」である。この施設は、コウノトリ関連の資料館という位置づけであるのだが、おばちゃんがたわいのないお話をするような場所となっている。珈琲なども出してもらえ(100円は支払う)、なかなか居心地がよい。私は、豊岡市の知りあいに付き合ってもらい、いきなり話に加わらせてもらった。本当はその会話を動画でも撮影したかったのだが、それは断られた。

さて、人口が縮小するおばあちゃんの暮らしはどのような状況なのであろうか。現状では、車が運転できているので問題がないそうだ。買物とかでも特に不便はないそうだ。とはいえ、空き家が増えているので寂しいとは言う。空き家はもうあっという間に草ボウボウとなる。売りたくても売れないそうだ。とはいいつつ、郊外には新築が建設されている。なんで、空き家がこんなにあるのに、新築が建つんだろうという意見に皆、不思議そうにそうだな、と頷く。

四人のうち三人は年金暮らし。ただ、一人は農家のおばあちゃんで80歳ぐらいなのだが、年金では暮らせないとのこと。これは、他の三人が厚生年金であるのだが、このおばあちゃんだけ国民年金だからだそうだ。国民年金だと月額5万円ちょっとしかもらえない。しかも、このおばあちゃんは農家で農地を人に貸しているのだが、一反4000円で貸しているそうだ。しかし、この農地をもっているので水利権のお金を払わなくてはならない。これで、ほぼ農地をもっていることで賃貸料を受け取っても月額2万円ほどの赤字になるそうだ。それに、さらに集落内での付き合いがある。とても5万円ではやっていけないそうだ。できれば売りたいのだが、買い手がいない。ある意味、不良債権ではある。国民年金だけでは不足なので、市役所からの委託の仕事をしている。

このおばあちゃんは今、とても元気だが、倒れて例えば介護付き施設に入ると月15万円かかるという。さらにおむつ代などを考慮すると、月20万円ぐらい必要となる。子供は3人いるけど、3人に負担をお願いしたら一人6万円強。とてもそのような迷惑はかけられないし、かけたくない。子供には迷惑かけたくない。ぼっくりと死ぬのが理想、という。この意見に関しては、皆が合意(お一人は家族はいなかった)。

この30年間ぐらいの大きな変化としては、全般的に世知辛くなっている、という。昔はもっと大らかだったけど、今は、訴えられたりすることが怖くて不便になっている。例えば、以前だったら近所の人の車に平気で乗れたのが、最近だと事故を起こして訴えられたりしたらたまらない、と乗せてもらえにくくなっている。学校の先生とかも指導を厳しくしたりすると訴えられたりするので臆病になっている。ストレスが高まって大変だと思うと指摘する。

全般的にコミュニティの紐帯は弱まっているという認識はもっている。若者に対しては、「若者の意見は状況を理解していないくて、聞くに値しない」という意見と、「若者の意見もなかなか傾聴に値する」という意見とに分かれた。どちらの意見もなるほどと思うところはあるが、若者に豊岡にいてもらうためには、ある程度、若者の意見を尊重しないと厳しいかなとも思ったりもする。

祭り等の地域行事に関しては、伝統的な慣習が次々となくなっていると指摘される。これは「村」によって違いがあり、皆がそうだという訳ではなかったが、祭りなどの行事がある時は幹事役の家が、お酒代は出すという慣習があったが、若い人が幹事をした時、そんなことはしないと指摘し、それからそういう慣習はなくなった。およそ20年ぐらい前の出来事である。昔は、分限者(お金持ち)が負担するという不文律があったが、今ではそういうのは古くさい習慣として過去のものとなってしまっている(うちの村はそうではない、という指摘もある)

高齢者のコミュニティとしては、グランド・ゴルフなどがある。これらのイベントの連絡は携帯電話。携帯電話がないと生きていくのは難しい、という。携帯電話の扱いは難しいのでは?との質問には「ボケ防止」と明るく答える。グランド・ゴルフは朝8時とかから始まり、午前中で終わる。

また、「村」のコミュニティはよそ者の意見はなかなか受け入れてもらえない、との指摘もあった。伝統的な行事を引き継ぐときも、よそから移住したものではなく、昔からその「村」に暮らしてきた人達に引き継ぐ。ただ、最近ではそうも行っていられなくなってきたので、昔ほど極端ではなくなっているという。

このような話を1時間以上にわたって聞かせてもらった。豊岡市という地方都市において高齢者の暮らしは結構、大変なのではと思ったりしたが意外とそうではなかった。むしろ、都会で暮らしている人達より孤独でないのかもしれない。これは、都会であればコミュニティがある訳ではないからだ。ただ、高齢化という問題において、生き延びていくお金、というのは深刻であることは改めて確認させられた。

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日本の明るい将来を導くためには道州制の導入が必要だろう [サステイナブルな問題]

今回のコロナウイルスへの対応の自民党政府の酷さは目に余る。その理由としては、もちろん自民党政権の知力が劣化しているからであるが、彼らの知力は随分と前から劣化している。おそらく森あたりが首相を務めた時から劣化は相当、進んでいたであろう。さて、それでは何で、それでも政権を維持できたのか。それは中央省庁のエリート達が優秀だったからである。民主党政権がいろいろと上手く回せなかった最大の要因は、この中央省庁のエリート達を使いこなせなかったからである。自民党は政権掌握期間が長いので、ここらへんはゆかりがない。上手く彼らに操縦されて、どうにか政権を維持できてきた。
 さて、それではなぜ、今回このコロナウイルスでは上手く対応することができなくなったのか。それは、中央省庁の役人達が劣化を始めているからだ。小室圭のことだって、宮内庁がしっかりとしていればこんな問題にはならなかった。中央官庁の役人がサラリーマンのようになってしまい、国の課題を解決する主体であるという自覚がなくなってしまったことが、コロナやオリンピックを始めとして、いろいろと直面する問題が解決できなくなってしまっている最大の要因ではないかと思うのだ。最近でも、国の未来を担うというような気持ちで中央官庁の役人になる者はいる。しかし、彼ら・彼女らの多くが、中央官庁という組織に嫌気が差して辞めていく。私の周囲にもそういう人達が何人かいるのを知っている。エリートという約束されたポジションを捨てるほど、その組織は拘束的で、クリエイティブだったり、問題意識が高い人ほど辞めていく。結果、残るのは自分のことしか考えていないような輩だけとなる。ちょっと前にも経産省の若きエリート役人が詐欺で逮捕されたが、彼らはコロナ対策補助金を詐欺をして自分のポケットに入れて、それで何をしたかというと給料以上の家賃のマンションに住んで、1000万円以上の会社買っていたそうだ。そのさもしさに涙が出る。(https://www.sankei.com/article/20210703-Q3TJU5ZVAZI5LN5PV5AZ46VOXU/
 こんな人達が、コロナウィルスから国民の安全や命を守ろうなんて、思う訳がない。
 さて、それでは我々、国民はどうすればいいのか。ふて寝という選択肢もあるが、それじゃあ、いつまで経ってもふて寝をしていなくてはいけないし、そのうち中央政府と自民党コンビに殺されるかもしれない。
 ここは、道州制を導入して、中央政府の役割を国防とかに限定させてしまうことを提案したい。環境省や国土交通省、経産省、農林水産省、厚労省とかはもう解体した方がいい。財務省などの解体は「円」の管理人としては必要だが、現状よりずっと小規模にして構わないであろう。州政府に移譲すればいいのだ。コロナの対策もはっきり言って、自治体の方が遙かに機動力があって知恵もある。福井県の対応なんて、国よりはるかに現実の危機への対応力がある。
 道州制は1990年代頃から議論されていたが、既得権を守りたい中央省庁や自民党政権によって潰されてきたが、もう日本もただのアジアのダメ国の一員になっていたことがオリンピックで露見されたことをきっかけに再び議論をするべきであるし、それを導入すべきであろう。そうしないと、このバカな国は再び平気で戦争をするぞ。そして、今度、戦争したら、本当に国が消滅するかもしれない。目をつぶって楽観論だけを耳に入れて、オリンピックに突入して、このコロナが猖獗を極めている危機を招いた自民党政権・中央政府の反省しない態度をみるにつけ、これは本当にこの国は危機にあるな、ということを思い知らせられる。ただ、我々は、この劣化した中央政府に拘る必要はない。徳川幕府より解体することは簡単だし、無血で出来る筈だ。

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コロナ禍での人口移動を考察する [サステイナブルな問題]

総務省は8月4日、住民基本台帳に基づく2021年1月1日時点の人口動態調査を発表した。コロナの影響下で、人々がどのように移動したかの傾向が見られる調査であり、興味深い。

さて、まず外国人住民が7年ぶりに減少した。まあ、これは分かりやすい。ただ、大都市から地方という移動はほとんどマクロではみられない。相変わらず、減少率が高い(この1年で1%以上減少)のは秋田(1.40%)、青森(1.23%)、岩手(1.16%)、山形(1.13%)、福島(1.02%)といった東北勢に新潟(1.01%)、高知(1.09%)、長崎(1.09%)である。人口減少が進んでいるところが相変わらず、人口減が激しい。さて、それではどこが増えているのかというと、埼玉、千葉、東京、神奈川の一都三県+沖縄であり、これまで人口増が進んでいるところが相変わらず増えている。きれいに勝ち組と負け組が別れている。東京は昨年に比べると社会増の数が減っているということらしいが、それでも47都道府県の中で神奈川に次いで多い二番目のポジションを得ている。なんてことはない。コロナ禍でも相変わらず、人々は東京に引っ越して来ているのだ。

今後の地方を展望すると、追い風どころか向かい風の強風が吹き荒れているような模様だ。なぜなら、地方に雇用を創出していた工場がどんどんと閉鎖されているからだ。栃木県真岡市のホンダ、豊田市のキューピー、新発田の京セラ、川崎のJFEスチールなどである。これらを後押ししているのは、高度成長期につくられた工場の老朽化や、人工知能などの第四時産業革命への対応、そして経営合理化。

地方で雇用がなければ東京に出てくる(もはや大阪ですら怪しい)ことになるが、その肝心の東京がオリンピックの敗戦処理でこれから経済的に混迷していく。こりゃ、まじで東京でもスラムが出来るような悲惨な状況になる。そういう状況を回避するためには、地方で産業をつくらなくてはダメだ。いや、本当、不味いでしょう。とはいえ、本当に美味しいものは東京ががめるからな。まあ、オリンピックをがめたら罰が当たったけど。そもそも、地方選出の国会議員のほとんどがその地方を知らないで東京育ちだから、そりゃ、ほとんどの国会議員が地方のことをどうしようなんて本気で考えない。私の目の黒いうちに何か大きく、日本を変えるようなことが起きるかもしれない。しかし、それは東京を否定するような、首都機能移転ではなく、既存の都市への首都移転といった大胆なことになるであろう。まあ、行き詰まって戦争やって敗戦からの復活、といったようなバカなことは二度と繰り返してほしくないと強く思うが。話が随分と横に逸れたが、まあ、コロナで東京から地方へ人が移動ということはほとんど見られなかったということが分かった。せいぜい、ちょっと多摩川を越えて武蔵小杉に住む人が増えたというぐらいの変化であろう。

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東京オリンピックは人類のスポーツの平和の祭典ではなく、コロナウィルスの大変異イベントになるだろう [サステイナブルな問題]

東京オリンピックはどうも強行されそうだが、それによって、世界中からコロナウィルスがこの東京に集まることになるだろう。そうすると、異なるコロナ株に重複感染する人も当然、増えていく。というか、現状と比較すれば、すごい高い確率でそのような人が増える。さて、重複感染するが起きると、「異なる株同士で遺伝子が組み換わる可能性が高まり、新たな新型コロナの変異株が生まれる結果にもなりうる」ことがブラジルの研究で明らかになったとCNNが報道している。
 いや、これは怖ろしい。極めて高い確率でオリンピックを契機とした「東京株」ができることが予測されるからだ。
 東京でオリンピックはやるが、海外からの訪問客はほとんど来ない。しかし、選手、そしてスタッフ、マスメディア関係者は多く来る。これは、コロナウィルスも多く来るということだ。そして、まさに東京において、このコロナ・カクテルが人体を介してつくられていく。中には、ドラクエの錬金術のように、とんでもないコロナ・カクテル・ウィルスもつくりだされるかもしれない。
 菅首相は東京オリンピックを「人類がコロナウィルスに打ち勝った証しとしたい」と言い放ったが、実態は「人類がコロナウィルスに致命的ダメージを受ける証し」になりそうだ。
 さて、それでは我々はどうすればいいのか。おそらく、怖いのはオリンピックが終わって二週間後の8月中旬から9月下旬ぐらいだ。この時期にコロナ・カクテル・ウィルスが蔓延するであろう。医療崩壊の可能性も高い。それこそ、巣籠もりをするか、東京から一ヶ月脱出するか、などを考えないと命が危ないような事態が生じそうである。今のうちにワクチンを接種することも必要だろう。流行し始めたら医療崩壊が現実的になるので医療機関でのワクチン接種は期待できない。もう、経済を維持とかいっているような余裕はなくなるだろう。ウィルスの戦いは、これからが正念場だ。アホな政治家を選び続けたツケを一挙に支払わされる時が来そうである。いや、私は現在の安部、菅関係者に一票も入れたことはないけどね。

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なぜ、日本政府はコロナのワクチンを国民に接種させられないのか [サステイナブルな問題]

東京都は本日(29日)、新型コロナウィルスの感染者が1000人を超えたと発表した。1000人を超えたのは三ヶ月ぶりで、もう、コロナとの戦いも1年以上に及ぶのに、未だトンネルの出口さえ見えない。これは他国と比べると極めて対照的である。いや、インドのように日本より深刻な事態にある国もあるが、先進国と比べるとその無能さぶりが明々白々である。
 コロナを収束させる現時点における唯一の手段は、ワクチンを国民に接種させ、集団免疫を確保することである。これは、議論をする必要もないほど明々白々な事実である。イギリスはコロナウィルスの感染者が激増していたが、ワクチンの接種が普及するとともに大きく減少した。イスラエルも同様であり、なんとトランプ馬鹿政権のアメリカもバイデンが大統領になって100日ほどの間に1億以上の接種を実現し、現時点では2億にも及んで、他国にワクチンを輸出するぐらいの余裕がある。
 それなのに、なぜ、オリンピックの開催も危ぶまれるかもしれないコロナの蔓延に日本政府はなすすべもないような状況なのであろうか。これは、本当に不思議な事態であるが、その答えはおそらく日本政府が本当に無能だからであろう。問題に対処できないのは能力が欠如しているからだ。菅首相は、「夏の東京オリンピック・パラリンピックは、人類が新型コロナウィルスに打ち勝った証として、また、東日本大震災からの復興を世界に発信する機会としたい」と今年1月の国会で述べたが、他の国々が次々とワクチンによってコロナを沈静化させているのに、日本だけが「打ち勝つ」どころか、サンドバッグのように経済・社会がコロナにボコボコにやられまくっている。「打ち勝つ」どころか、完敗のような状況である。さらに、「東日本大震災からの復興」どころか、福島の原発に保管していた放射能の汚染水を太平洋に垂れ流すという国際的には大顰蹙を買うような政策を決定した。なぜ、オリンピック後でなく、前に発表するのか、訳が分からないが、復興どころか、結局、責任をもって対処できないことを世界中に晒してしまっている。
 このままでは、10年後、20年後には韓国、中国の後塵を拝することにもなるであろう。本当に、衰亡の道をこの国はひたすら走っていることを認識させられるようなコロナ対応の不味さ、さらには原発事故の処理の無能さである。

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小室圭さんと眞子様の結婚がもたらす天皇家に対する非可逆的で破壊的なダメージ [サステイナブルな問題]

小室圭さんと眞子様の結婚がいろいろとトラブルがあるらしいということは、流石にテレビを見ない私でも知っていた。しかし、それほど関心は抱いていなかった。眞子様が皇籍から離脱することで解決するだろう、ぐらいに思っていた。しかし、小室さんが今月頭に発表した文書を読んで私の考えは変わった。
 この男は下手をしたら宮家を破壊するほどのダメージを与える潜在力を有していることに気づいたのだ。というか、彼はもう歴史に名を残すことが確実なほどの宮家への危機をもたらしている。今日の東京新聞での解説では、中年女性の9割がこの結婚なのに反対なのは、娘の母親としてこのような男性との結婚を認めたくないから、のような解説をしていたが、事態はそんな個人レベルの小さな話ではない。今後の天皇家の運命をも分かつような大事件である、と捉えることが必要である。
 なぜか。それは、この文書が日本人の一般個人を攻撃しているのに加え、眞子様が関与していると報道されているからである。しかも、その攻撃の内容は一方的である。私の解釈に間違いがあったら申し訳ないが、事態はこういうことであろう。
1) 婚約者の男性は、小室さんの父親とマンションの管理組合を通じて知り合う
2) 小室さんの父親がなくなった後、小室さんの母親にアプローチされて付き合う
3) 小室さんの母親と男性が2010年に婚約する
4) 小室さんの母親からのお金の無尽蔵の請求に耐えられなくなり、2012年に婚約を破棄する
5) 小室さんの母親に409万円の借りた金を返して欲しいと訴える
6) この男性の友人が告発したことで、広く世間に知られるとことなる。
さて、小室さんの母親は随分とこの男性に無心をしていたらしいことは確かだ。そして、それに応じた男性は「お金を貸した」と思い、小室さん側は「くれたものだ」と解釈をした。しかし、お金を貸した方が「貸した」と思っていたのであれば、借りた方は普通「くれたのかと思ったけど誤解したのか」と理解し、返すのが世間的には常識だと思う。それを、今回の文書では、「くれたかと思っていたのに貸していたのだと言われて名誉が傷ついた。許せない」というような言い方をしている。そんなに名誉が大切なら、そもそもお金をもらうなとも思うし、もし、そこらへんでの行き違いがあったら、返却をして、そして困った時に貸してくれて有り難うございます、ぐらい言うべきであろう。返却できなかったら、いついつまでには返しますのでちょっと待って下さい、と言うべきであろう。これは、一般社会ではごく常識的なことである。いや、アメリカの前大統領のトランプとかは返却しそうもないので、当然の常識といいにくくなってはいるが、潤滑に世の中を回していくためには最低限のマナーであると思われる。
ということで、一般社会でも相当、デタラメだなと思われる彼の行為であるが、これに眞子様が加担しているという情報もある。もし、仮に加担をしていたら、これは天皇家の日本国民に対してのとんでもない加害行為であり、それは日本国象徴としての天皇家にあってはならないことだ。
天皇家というのは、国という巨大幻想のさらに幻想的象徴ということで、大きな観念にしか過ぎない。そして、その大きな観念は、日本人がその価値を共有することで初めて具体化するという儚い存在でもある。天皇家の最大のピンチは第二次世界大戦の敗戦時であったろう。玉音放送で、天皇という神の存在が普通の人となってしまった後、天皇家をどうするのか。家永三郎の著書で指摘されたように、天皇は戦争犯罪人というのは国際法的にはすこぶる正しい。戦争の責任を天皇家に取らせるのは、その後、ファシズム国家を民主主義国家へとシフトさせるためには劇的な効果をもたらしたであろう。しかし、戦勝国であるアメリカ合衆国の判断で、天皇家は国民の平和の象徴として継続させられることになる。これが社会主義国家のロシアだったら、天皇家は取り潰された可能性は高いように思う。
さて、そのように将来が必ずしも明るくなかった天皇家は、しかし平成天皇、美智子皇后のたゆまぬご努力によって、国民が誇りをもって、まさに日本の平和の象徴として共有し、担がせていただきたくなるような存在になられた。それは、日本人のアイデンティティを強化させてくれるような存在でもある。
その後の3人のご子息も、ここまではそれなりに国民の好意に支えられ、美智子皇后のようなカリスマ性を放たなくても、特に大きな問題もなく、天皇家の役割を果たされていたと考察される。
しかし、今回の眞子様は、もし報道通りに文書作成に関与していたとしたら、とんでもないことだ。ここで小室さんとの結婚を天皇家とも繋がりが残ったような状態でするというのであれば、国民の天皇家への支持は大幅に減り、そして、その支持が減ることで、共有幻想としての天皇家も消滅することに繋がりかねない。なぜなら、そんな国民に支持されないような国民の象徴は、誰もが関心を持たない自分の住む自治体のゆるキャラのようなもので存在自体が希薄化していくからだ。そして、そのような希薄化する象徴に税金を支払うことには、(ゆるキャラと同じように)強い抵抗を覚えるであろう。
したがって、天皇家がその存在を将来的にもしっかりと維持していきたいのであれば、眞子様とは絶縁をし、そして結婚してもらえればいい。メーガン・メルケルと結婚したヘンリー王子のように「公務からは完全に離れる」ことはもちろんだが、天皇家とも一切、関係を絶って、ただの一般人になればいい。ここで、しっかりとした対応を取れなければ、私は本当に天皇家の国民の支持が離れると思うのである。そして、戦前の天皇家とは異なり、戦後の天皇は、国民の巨大共有幻想というもとに成立しているので、その幻想が消失したらその存在価値はなくなる。そして、小室さんはその巨大幻想を暴力的に破壊しようとするまさに歴史に名を残すヴィランであり、国民としても適切に対応することが必要である。適切に対応してもブランドは汚されたが、それでもブランドはまだ維持することができるであろう。
いや、私は天皇家が好きなので、本当に小室さんはとんでもないことをしているな、と思っているが、一方で天皇家が存在しない日本を想像することはできる。それは、今の日本よりちょっと面白くない日本である。しかし、小室さんという存在がそういう帰結をもたらすと想像できていない人は、ほっぺたを叩いて目を覚ますべきである。小室さんにはそれだけの破壊力があることを認識すべきである。

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コロナウイルス蔓延の結果、「ケ」と「ハレ」の境界が曖昧となっている [サステイナブルな問題]

コロナウィルスが蔓延して、ウィズ・コロナというライフスタイル・ワークスタイルを強いられている。その結果、日々における「ケ」と「ハレ」の境界が曖昧となっていると思われる。というか、「ケ」が「ハレ」の領域を侵蝕し、結果「ハレ」が縮小していると思われる。そもそも、この「ケ」と「ハレ」というような分類は、ネット環境ではぼやけていた。ユーチューブで流されるコンテンツは、日常的なものも非日常的なものもフラットになる。そのような「ハレ」が「ケ」から差別化することが難しくなっているのにダメ押しをするような形でコロナウィルスの感染拡大が生じた。
 コロナウイルスは、お祭りやイベント、といった「ハレ」的な活動を大きく規制させることになった。結果、「ハレ」消費が大きく縮小している。海外旅行とかはもちろんだが、国内旅行も相当、縮小化しているし、ちょっと気張った外食も減っている。日常的な「ハレ」行為でもある飲酒も減っている。これらは、消費動向に如実に現れていて、ユニクロやマクドナルドが売り上げを増やし、小洒落たアパレルや飲み屋は売り上げを大きく減らしている。もちろん「ハレ」的なものがおしなべてダメになっている訳ではなく、星野リゾートのようなしっかりとしたサービスを提供できているところは、売り上げの減少が他に比べると少ない。矮小化していく「ハレ」市場においては、競争力がないところから淘汰されていることが読み取れる。
 コロナウイルスは、生きていくうえで「ケ」的なエッセンシャルなものだけを取捨選択しているようにも思える。そして、「ハレ」はよほど競争力がないと篩いにかけられていく。そういう点では、ある意味、相当、資本主義的な厳格さを伴っているとも思われる。そのように考えると、バイデンが実施したような交付金的な行動は正しいかとも考えられるが、それはハードランディングを回避することはできても、長期的にまで現状の産業構造を維持させることにはならない。つまり、このコロナウィルスによって、大きく産業構造や人のライフスタイル、ワークスタイルは変革を余儀なくされると考えられる。
 なかなか、そのトランスフォームしている過程においては厳しいことも生じるかもしれないが、生き延びていくためには、その変革は必要不可欠である。そして、このパラダイム・シフトをした新しい世の中のフレームワークは、それ以前のものに比べてよりサステイナブルであることは間違いない。自分が大好きなものも、下手したら自分の命をも失うようなリスクを伴うトランスフォーメーションではあるが、その荒波にうまく乗っかって、岸に辿り着きたいものである。

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日本のコロナウィルスのワクチンの接種状況が酷い [サステイナブルな問題]

コロナワクチンの接種状況だが、世界の累計接種回数は4億4048万回である(2021年3月21日のデータ)。最も多く摂取しているのはアメリカで1億2443万回。これは100人当たり37.5回に相当する。アメリカに次いで多いのは中国、インド、イギリス、ブラジル、トルコ、ドイツである。これらの国の接種回数は1000万を超える。
さて、それでは日本はどうかというと57万回。これはアメリカの200分の1,ドイツと比べても20分の1という驚きの少なさである。それはペルーやアイルランドよりも少ない。100人あたりの接種回数をみると0.5人で、これはガーナ、ミャンマー、エクアドル、ラオスよりも少ない。
 日本はあと数ヶ月でオリンピックを開催する。外国人の観光客にはシャットダウンするということだが、世界中から選手、コーチは招聘する。コロナウイルスは緊急事態宣言で、ある程度抑えられているが、まだ感染拡大の予兆もみえる。緊急事態宣言を解除する前に、ワクチンの接種を増やすことが重要であろう。
 というか、この数字の低さは異常である。明らかに政権の無能さを露見している。ワクチンというコロナ対策の処方箋として、現段階でこれ以上、優れたものがないと考えられる選択肢をしっかりと選べない無能さが腹立たしい。というか、なぜミャンマーやペルーのようなこともできないのか。しかも、こんなに無能なのにオリンピックを開催しようと考えたことが悔しい。こんなに無能なのに原子力発電所を再稼働できると考えていることが腹立たしい。
 こういう無能な政治家しか選べない国である、ということをしっかりと自覚することから始めないと、この国には将来がないのではないだろうか。とてもオリンピックをまともに開催したり、原子力発電所を安全に稼働することなどできないことはしっかりと自覚した方がいいだろう。この状況下でのワクチン接種の低さは、そのようなことを露見している。

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伊根町を訪れる [サステイナブルな問題]

伊根町という自治体を訪れる。交通の便が悪いので京都でレンタカーをして訪れた。京都府の北、丹後半島の東にある伊根湾を囲むように伊根町がある。1945年に四村が合併して発足した自治体である。産業は観光業と漁業が中心である。伊根町には5つの漁港がある。ぶりが採れるが、カニはあまり採れないようだ。岩ガキや水産加工品(へしこ・ぶりのみそ漬け)などが特産品である。
 伊根町といえば舟宿である。ここでいう舟宿は江戸時代の江戸や大坂などにあったものとは違い、伊根湾に面して建つ家屋のことを指し、その家屋の下に船を係留することもできる。そして、この湾に面した家は住まいとして使われず、その家屋と道路を挟んだ向こう側にセットとしての住宅の建物がつくられている。海から望む舟宿は大変、風情があり、またピクチャレスクでもあるので、コロナウィルスが流行る以前はインスタ映えする風景からSNSの口コミによって主に台湾人の観光先として人気を博したそうだ。2005年には漁村としてはじめての重要伝統的建造物としての指定を受けている。
 観光客の推移をみると伝建指定によって観光客が増えたという訳ではなく、大きく影響を与えたのはNHKの連ドラ「ええにょぼ」の舞台となった1993年、そして国道178号が開通して、自動車での交通の便が大分改善された2007年だそうだ。

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 伊根町は人口が随分と減少している。合併直後の1947年は7611人あった人口は1950年にピークを迎えた後、一貫して減少し、2021年2月の推計人口は1860人である。国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば2040年には人口は1115人になる。人口ピラミッドをみるとまさに逆ピラミッドのような形状をしており、これから自然減による人口減少が進むことが予測される。
社会増減をみると、ほぼ毎年、転出が転入を上回っているが2010年は同数であった。社会増減を年齢階級別にみると15〜19歳で大幅な転出超過となっている。これは町内に高校がないことが大きな要因である。20〜24歳では転入増であり、15〜19歳で転出した層が戻ってきていることが推察されるが、その割合はそれほど高くなく、中学・高校で町を転出したものがそのまま帰郷しないというパターンが多くあると考えられる。
 合計特殊出生率(2008〜2012)をみると、伊根町を含む丹後管内は1.73と京都府全体(1.27)に比べてはるかに高い。伊根町は1.51と京都府よりは高いのだが、周辺地域と比べると低いという状況にある。その要因の一つとして、京都府に比べると低い未婚率が上げられる。
 伊根町の人口ビジョンでは、人口減少によって大きく3つの課題に直面するとことを指摘している。一つ目は「地域の産業における人材の不足」であり、地域産業の担い手が減少し、経営の継続が難しくなったり、それによって経済の低迷が懸念されている。二つ目は「地域ストックの維持管理・更新等への影響」であり、地域の空き家が増加すること、集落の機能低下・喪失などが懸念されている。そして三つ目は「社会保障等の財政需要、税制等の増減による地方公共団体の財政状況への影響」である。
このようなマクロな課題を伊根町は指摘しているが、実際の生活現場から伊根町の大きな課題をみると、それは買物での不便さある。コンビニエンス・ストアや主要スーパーの出店がない。最近まであったA-COOPも閉店した。移動販売がされているが、買物環境は以前より悪化している。これは以前あった個人商店がなくなっているからである。医療サービスに関してはは町内に二つの診療所があり、それほど不便ではないそうだ。公共交通に関しては、コミュニティ・バスは運行はしている。あと、国道が開通したことで宮津市や与謝野町に行くのは便利にはなっている。
しかし、一方でこの国道ができたことが契機で、まちなかの個人商店がなくなったり、周辺への移転が増えているのではないかと推察したりもする。というのは、国道ができたことで車で宮津市や与謝野町の商圏に伊根町も組み入れられたからである。さらに、転出先で与謝野町が増えているのは、国道ができたことでむしろ伊根町に戻りやすくなったということが背景にあるのではないか。これは、一般的には逆、つまり国道で宮津市へのアクセス時間が短くなれば、伊根町に住んで高校に通ったり、宮津市の会社に通勤する人が増えるのではないかと期待されたりするが、実際は親の住む伊根町の自宅に週末に戻れたりするので気楽に伊根町を後にすることを促したりする。
 与謝野町は新しい分譲住宅がつくられているし、スーパーマーケットでも二桁以上ある。そして隣町の宮津市もすぐアクセスできる。鉄道駅もあれば高速自動車道路のインターチェンジもある。パチンコ屋もあるなどレジャーも充実している。そして、何より高校への通学が便利である。伊根町の中学生が進学を考える高校は宮津高校である。宮津高校に伊根町から行くと、通学定期は一学期10万円もした。今では安くなっているが、それでも3万円はする。与謝野町だったら自転車で無料で通える。さらに通学時間が短くて済む。国道が開通したことで、むしろ与謝野町と伊根町が近くなったことが、伊根町から同町への流出を加速化しているということがあるのではないか。逆にいえば、与謝野町から伊根町へ転出する必要性のようなものは減っているかと思う。このようなストロー効果的なことは、地方において道路を整備するときは強く意識した方がいいかと思う。その是非を問う前に、そういうことが生じるということを自覚していくことは必要であろう。
 さて、しかし伊根町の町長は、どうも人口縮小に対しては泰然自若と構えているらしく、「田舎の人口が増える訳がない。いかに減り具合を緩やかにするかが大事」と考えているらしい(役場での取材結果)。そして、「ある程度まで減れば止まる」とも言っているそうだ。まあ、確かにこの素晴らしい伊根町の舟宿をみると、ここがゴーストタウンになることはあり得ないなと思ったりもする。確かに、これらの舟宿を別荘や宿泊施設にしたがるニーズは相当、高いらしく、先日もマレーシア在住の日本人が「5000万円で買えないか」と問い合わせをしてきたらしい。ただ、空き家でも売却どころか貸すのも嫌がる人が多いのと、よそ者を受け入れにくい風土があるらしく、そういった面で持ち主が変わるということはあまりみられていないそうだ。
 

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笠置町を訪れて、地域は貧困であったのではなく、中央集権国家によって貧困にさせられたことを再確認する [サステイナブルな問題]

京都にある笠置町に行く。人口減少が激しい自治体だ。さて、京都駅から木津駅までみやこ路快速で快適に行った。木津駅はベッドタウン開発が著しい成長自治体の木津川市の中心駅だ。ここは駅の周りが畑で、それを囲むようにベッドタウンが開発されたというめちゃ不可思議な都市構造をしていて、それはそれで興味深いのだが、今日は笠置町。さて、木津駅から笠置駅までは2駅だ。しかし、この2駅が遠い。なぜなら、木津駅の次の加茂駅ですべての列車が止まるからだ。ここで乗り換えなくてはいけない。これは、加茂駅まで電化されているが、そこから先は非電化区間になるからだと思われる。
 しかし、なぜ加茂駅までしか電化しないのか。その疑問は加茂駅を出たらほぼ理解できた。というのは、木津川に沿って走る線路は断崖絶壁に近いところを縫うようにいくからだ。これは、ちょっと工事をするのが大変だ。
 笠置町は1960年の人口が3048人。2015年は1368人である。山間の川沿いに張り付くように町は広がっている。こういう町の人口減少は、そこに住んでいた人がいなくなるという感じで進む。つまり、家などの建造物はそのまま残されているのだが、そこで住んでいたり、働いていたり、買物をしたり、遊びに来たりする人の数が少なくなっていくのだ。そして、そのような人口の減少は活力を町から失わさせる。
 興味深いのは、大きな旅館やら、レストランなどがあることだ。そして、大きな旅館は閉館して随分と時間が経っているのだろうか。まるでお化け屋敷のようだ。それにしても、ここは観光地だったのだろうか。木津川の渓谷は美しいが、わざわざ遠くから来て鑑賞するほどは素晴らしくはない。川沿いには巨岩があって、ボルダリングの練習をする若者を見かけたが、昔はボルダリングなどしなかっただろうから、ここに何を期待して観光客が来たのかはちょっと不思議だ。いちおう、温泉は出るようだが。
 ただ、つくづくこういう人口減少している地方自治体を訪れて感じるのは、そこが以前は豊かであったということである。高齢化率が一番高い群馬県南牧村を訪れた時もそう思ったが、以前は森林、蚕、こんにゃく、和紙製造など、山間部だからこその経済的豊かさの源があった。
 しかし、豊かな森林を杉林に置き換えるという林野庁の愚策や、工業製品を輸出する代わりに農林産品を輸入するという貿易政策のおかげで、このような自然の豊かさに依っていた地域を貧困化した。そして、そのような貧困化政策を進める一方で、補助金という形で経済的豊かさを還元することで、自民党の政治家達は選挙を有利に展開させ、権力を握っていった。補助金などというものは地域が豊かであったら必要ないものだから、この地域貧困化政策は前提条件として必要な訳だ。土木事業に一生懸命力を入れるのも、それらが公共事業であるのはもちろんだが、本質的には地域を豊かにしないからだ。ここらへんは拙著の『道路整備事業の大罪』でもまとめているが、まあ、それを発刊してから10年経って、さらに地域の状況は悪化していることを再確認する。笠置町のような地域は貧困だったのではなく、中央集権国家のもと、貧困にさせられたのである。それは、地域が貧困の方がいろいろと政治家としては有利だったからであろう。道州制の導入を真剣に考えるべきだなと思う。
 

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