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ブロツワフに行く [都市デザイン]

日曜日と月曜日にかけて隣国のブロツワフにまで行く。ブロツワフはポーランドの南西に位置し、人口67万人(2022年)のシレシア地方の中心都市であり、大都市圏だと100万人を越える。それは、オーデル川沿いに位置している。歴史的にブロツワフはシレシアの首都であり、都市としては1000年以上の歴史を有する。ベルリンなどよりもずっと古い。ただ、国は頻繁に変わり、ポーランド王国、ボヘミア王国、ハンガリー、ハプスブルク家、プロシア、そしてドイツと変遷した。そして1945年にはポーランドに属することになる。
ブロツワフは大学都市でもあり、学生数は13万人を越える。これはほぼ人口の2割だ。ブロツワフ大学はこれまでに9人のノーベル文学賞を輩出しており、その教育レベルの高さで知られている。ブロツワフは多くの歴史的ランドマークを擁しており、中央市場広場、ブロツワフ・オペラ座、大聖堂島、国立博物館、100周年ホールなどである。100周年ホールは世界遺産に指定されている。2016年には欧州文化首都にも選定されている。
歴史的には13世紀中頃にモンゴルの侵攻を受け、相当の破壊を被るが、モンゴルが去った後は、徐々にドイツ人が住むようになる。そして、13世紀以降はポーランドの重要な都市であるにも関わらず、ドイツの都市法が適用されるようになる。そして、1335年に350年間に及んだポーランド王国の同市における覇権は失われ、神聖ローマ帝国に属することになる。1387年にはハンザ同盟に所属する。15世紀にはハンガリー帝国に属することになり、1526年からはハプスブルク家の支配に入る。30年戦争ではスウェーデンとザクソンの支配下になる。1740年からはプロシアの支配下になり、反ナポレオン運動の中心都市となる。19世紀にはポーランドの独立運動の重要な拠点の一つとして位置づけられる。1871年にドイツ帝国が発足した時、ブロツワフは帝国内で6番目に大きな都市であった。1900年には既に42万人の人口を擁していたのである。当時の人口のうち98%がドイツ語をしゃべり、ポーランド語はわずか1.3%、残りの0.7%がバイリンガルであった。第二次世界大戦では、ドイツ側の極めて重要な防衛拠点となり、ソ連との激しい戦いの場となった。ドイツの大都市では、最後まで降伏しなかった都市で、結果、市街地の半分以上が破壊され、市民の死者数は8万人にも及んだ。そして、第二次世界大戦後のヤルタ会談で、再び、ブロツワフはポーランド領となることが決まり、本日に至る。
いやあ、なんか日本では信じられないような都市の話である。こうなると、もはや都市のアイデンティティの方が遥かに国のアイデンティティより重要となるであろう。というか、国のアイデンティティって何?みたいなことを強く考えさせられる。歴史に蹂躙された、と言えばそうなのだろうけど、それでも都市はずっと存続していく。都市としての独立性、自立性を強く考えさせられる都市だ。
さて、ベルリンからブロツワフには一日に一本だけ、直行便の特急列車が走っている。これはプシェミシルというウクライナ国境の町が終点の列車で、途中、クラカウやカトヴィッツなども通る。なかなか旅情溢れるが4時間以上かかるので、結構、退屈だ。ただ、ワイファイが通じるのでユーチューブで時間を潰すことができた。
ブロツワフ駅は、なんかアートヌーヴォー風の変わった意匠の駅である。市場広場はめちゃくちゃ規模が大きく、真ん中に市庁舎や建物が建っている。これは修復中であったがポツナンも同じような感じであった。ここらへんのスタイルなのであろうか。とはいえ、隣国のザクセンとかの広場とは違う。まあ、勉強不足なので適当なことは言えないが、ちょっとドイツ感はそれほどしない。ゲーリッツやコットブスなどとは共通点を感じるが。まあ、ここらへんはもう少し、勉強してから意見を述べたいと思う。
ホテルは95ユーロのところを予約したら、めちゃくちゃハイグレードであった。ドイツだと、もう100ユーロ以下はくそホテルという印象だったのだが、ここらへんは物価の違いを感じる。もう少し、安いホテルを予約しておけばよかったと反省する。

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<ブロツワフの素晴らしい市場広場>
タグ:ブロツワフ
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