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下北沢のジャズ喫茶「マサコ」の凄さ [都市デザイン]

下北沢でNHKの取材を受けることになったのだが、早く来すぎたのでジャズ喫茶「マサコ」で時間潰しをした。下北沢にはまさにレジェンドと呼ばれるような特別な店が多いが、「マサコ」はまさにそのようなお店の一つである。開業したのは1953年。ようやく、戦後の混乱が収まりつつあるような時であった。初代オーナーの奥田政子は、銀座でダンサーをやっていたのだが、ジャズ好きが高じて下北沢でジャズ喫茶を開くことにしたのだ。その後、ここに高校生ながら通っていた福島信吉が、共同経営者となり、初代オーナーが60歳でなくなった後、オーナーとなる。しかし、地上げにあって2009年に惜しまれて閉店する。
 その「マサコ」が復活した。以前の「マサコ」とは場所は違うが、北口の雑居ビルの二階に2020年5月に、常連客その後スタッフをしていたmoe氏によって開業したのである。ということで、そこで時間潰しをしていた。16時30分が約束時間だったのだが、結果的に取材スタッフが現れたのは17時を回っていた。しかし、それがよかった。というのは、「マサコ」が流していたレコードが凄まじかったからだ。それは、ディストーションによって歪んだ音のギターがただ一本だけでひたすら弾くものだったのだが、こんなギターがあるのか!というような凄まじい演奏だったからだ。こんなギタリストがこの世にいるのか、ぐらいの衝撃を受けた。ジミヘン並みの凄さであるが、ジミヘンとの違いはこれまで聞いたことがなかったことである。そこで、moe氏に聞くと「高柳昌行」。もしかしたら有名なギタリストなのかもしれないが、私は知らなかった。早速、アマゾンでCDを購入した。
 いやはや、ジャズ喫茶「マサコ」のおかげで、私は一つ賢くなったというか、アホから一歩だけ前進した。こういうことは、学校ではなかなか教えてくれない。そういう情報や知識を持っている友人を持っていない奴でも下北沢の「マサコ」のようなお店に来ると、ちょっとだけ賢くなれる。これが、ジャズ喫茶「マサコ」のようなお店の凄さであり、そういう店が多くあるのが下北沢という街の魅力である。ということを改めて知る。
 この日のNHKの取材は「下北沢という街の魅力」についてのコメントを話したのだが、「マサコ」で刺激を受けた私は、まあまあ上手いコメントができたのではないか、と勝手に思っている。

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ケビン・リンチのグッド・シティ・フォーム [都市デザイン]

ケビン・リンチのグッド・シティ・フォーム。フォームというと形態論であると思いがちであるが、リンチのいうフォームは姿勢的な意味合いをもった都市の「あり方論」である。リンチの文章は面白く、難読である。これは、リンチが最初に自説の反論を一つずつ潰していき、そして最後に自分の主張をするというスタイルを取っているからだ。そのため、しっかりとした読解をしないと、リンチが主張するのと真逆の理解をしてしまう危険性がある。また、ちょっと饒舌でもある。若干、脱線とまでは言わないが寄り道をする癖があるので、そのまま直訳をしていると迷走してしまう。そういう意味では、一人で読むというよりかは輪読なので一歩一歩、理解してから前進するといった読み方をするのが望ましいであろう。
 リンチは驚異的な知識の持ち主であり、都市デザインの百科事典のように博学である。そのため、その書は多面的な視点を読者に提供してくれる。しかし、その多面性ゆえに、何か解を求めている読者にとっては分かりにくい。読者が自分で考えることを要求するので、受動的な読書姿勢では、莫大な情報が入ってくるだけで、それを咀嚼もできなければ、リンチが何を言おうとしているかも見えなくなる。また、リンチの主張が強い訳でもない。リンチは原理論者からはほど遠く、歴史の相対性、都市規模の相対性、都市成長・衰退の相対性と、「相対的」に捉えることの必要を説いており、画一的な価値観を共有することの危険性を訴える。
 絶対的な正解はない、ということを数多くの論説を紹介することで我々に理解させようとする。そして、その姿勢は読者を謙虚にさせる。都市デザインを学ぶ学生、実践するプラクティショナーはまさに必読の本である。ジェイン・ジェイコブスよりこの碩学の研究者、実践者の本を読むことを優先すべきであると強く考える。


Good City Form (The MIT Press)

Good City Form (The MIT Press)

  • 作者: Lynch, Kevin
  • 出版社/メーカー: The MIT Press
  • 発売日: 1984/02/23
  • メディア: ペーパーバック



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中崎町のコモン・カフェに何も考えずに行き、度肝を抜かれる [都市デザイン]

大阪の中崎町にゼミ生達と街歩きに訪れる。その後、12月に話題提供で話をしてくれとの依頼を受けたコモン・カフェにゼミ長と二人で顔を出す。あくまでも下見という軽い気分で訪れたのだ。その日は、ジャズ・セッションを行うということは知っていたが、おそらく素人に毛が生えた程度の、フィール・ライク・メイキング・ラブとかサニーとかのジャズのスタンダードを演奏するバンドが出ているのだろうぐらいの心構えで臨んだ。お客さんは10人ぐらいで、まあ、それほど人気もないのだろうな、と思っていたのだが、演奏が始まったらちょっと違う。ギターの音色とコードが普通ではない。ループを使っての演奏だが、もうどうやって計算しているのかも分からないテクニックを駆使している。ドラムのリズムが超絶タイトだ。なんと、素人どころか、バカテク・ミュージシャンである。平気で5拍子の曲にギターとベースがポリリズムのメロディを重ねてくる。なんで、こんなミュージシャンがこんな場末のカフェ(ライブハウスではない!)で演奏しているのか。狐に包まれたような気分になる。アンコールを含めて二時間ぐらいの演奏後、ちょっと放心したのだが、ギタリストと話をすることができた。そこで、あのピエール・モーレン率いるプログレ・バンドのゴングの元メンバーとも競演したり、フィル・コリンズが在籍していたブランドXのメンバーとも演奏したことのある超絶凄腕ギタリストだということが判明した。驚いたあ。思わず、握手をさせてもらった。なんでこんなミュージシャンがこんな場末のようなカフェで演奏しているのか。それは、このコモン・カフェというのは日替わり店長で運営されているのだが、この日は、30年以上もジャズのライブハウスを経営されていた方で、まだ、無名時代のミュージシャンの面倒をみていたことがあったので、それでその後プロとして羽ばたいたミュージシャンも演奏の依頼に応じてくれるからだそうだ。やっぱり、人は金じゃなくて縁で動くんだなあ、ということを改めて再確認。それにしても中崎町、奥が深すぎるだろう。久し振りに驚かされて、実に気持ちがいい夜を過ごせた。こういう発見は本当、嬉しい。これこそ都市の魅力だな。

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豊岡市のふれあい公設市場のおばちゃんとの対話から、中心市街地の蘇生策を考える [都市デザイン]

豊岡市の市役所のすぐそばに「ふれあい公設市場」がある。南北に約70メートルほどで、豊岡市の目抜き通りである大開通りと生田通りに面してた常設アーケードである。木造市場としては、日本で最も古いという指摘もあるそうだ。ここは2003年4月に市の助成を受けた豊岡商工会議所が、全店舗に庇をとりつけて「町家風」に改装した。この時、「公設市場」を「ふれあい公設市場」と改名している。

さて、9月のある金曜日のお昼頃に訪れた。大開通りのほとんどのお店がシャッターを閉めている。そういう中、まだ多少、画期のようなものを感じるのがこの「ふれあい公設市場」である。ということで中に引き込まれるように入る。商工会議所のデータだと14店がまだ営業しているとのことだ。そこで天ぷら屋さんをしているお店のおばさんにお話を聞く。

どのくらい営業されているのですか?
「私は二代目。ここに嫁に来てから、こちらで営業をしている。もう50年以上はしているかな。」

何時から営業しているのですか?
「コロッケをつくるのに5時に起きる。店に来るのは9時。9時から揚げ始める。店を閉めるのは大体14時頃か、売り切れたら。」

商店街は随分とシャッターが降りていますが、どうして?
「買物客が減ったというのもあるが、後継者がいない。後継者がいなくて、閉めてしまう。うちもそう。子供達はもうこのお店を継ぐ気持ちはない。誰かが買ってくれたり、借りてくれたらいいのだけど、買い手がいない。」

随分とお洒落ですが、人は来ないのですか?
「町家風に改装した当時は、結構、人が来た。写真を撮る人なども多くいた。しかし、コロナなどもあり、全然、人通りはなくなった。そのちょっと前からお店が随分と飲み屋へと変わっていった」

ここで、公設市場の他のお店を経営している人が話に入ってくる。この人はお喋りで、いろいろと話をしてくれる。

二階はどのように使われていますか?
「結構、住んでいる人も多い。私は通っているけど。飲み屋はお客さんのための座敷とかとして使っている。二階は結構、広い。」

商店街に来ていた人はどこで今、野菜などの買物をしているのですか。
「駅前のアイティとかに行っていると思う。随分と不便になった。」

商店街がこんなに元気がなくなったのはどうして?
「病院が移転したことが何よりも大きい。病院は大開通りの駅と反対側にあり、それによって多くの人がここらへんも歩いたりしていた。大開通りには駅から病院に行くバスに乗る人も多かった。この病院を移転させたことで、ここらへんから活気がなくなった。今、新しい病院のあたりはお店も増えて賑わっている。」

何が豊岡市の衰退をもたらしたのでしょう。
「一番、悪いのは今井(元市長)。彼の時代に急に悪くなった。病院を移転する計画を描いたのも今井。彼の政策で、中心市街地がガラガラとなった。しかし、その後の中貝も全然、ダメ」

中貝市長は評判がいいと思うのですが。
「マスコミに出ていたりするのでそう思われているかもしれない。コウノトリ、コウノトリといっても我々の生活とは全然、関係ない。今の市長はちょっとよく分からない。豊岡の人ではないし(豊岡市の人ではあるが旧日高郡ではある)」

お礼を述べて、コロッケを2個購入する。コロッケは一個120円。妙に甘い。砂糖が入っているのだろうか。それともジャガイモの甘さか。ジャガイモの甘さであれば、なかなか美味しいコロッケだ。おばちゃんの重ねた時間が、ちょっと沁みていると書いたら、感傷的に過ぎるだろうか。

なかなか、地方都市の活性化策の難しさを感じる対話というか取材であった。印象的だったのが、中心地から病院を郊外に移転したことがいけないという指摘である。一般のおばちゃんも鋭く、問題の要因を理解していると認識した。人口9万人ぐらいの都市で、中心市街地にある集客的施設を郊外に移転させると、中心市街地が衰退することを引き起こすだけだ。どうもこの病院跡地は、想定したよりもはるかに安い値段でしか売却することができず、そういう点でも大失敗だと思われるのだが、こういう政策を展開していた反省が、コンパクト・シティの重要性を認識させているのだろうか。そうであればいいのだが。大学もそうだが、郊外に移してしまった病院、市役所などを積極的に都心に回帰させるという政策を展開することで、地方都市の中心市街地を多少は活性化することができるのではないだろうか。死に瀕している地方都市の中心市街地は、本当に息の根が止まる前に、そこらへんに手をつけるべきではないか、ということを商店街のおばちゃん達とのお話から思ったりした。

おばちゃんのお話は動画撮影したいぐらいだったのですが、断られてしまったので、私の文章でのみ紹介させてもらう。

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ニュータウンにコミュニティ性を加えるための処方箋 [都市デザイン]

ニュータウンがつくられてから、早いところではもう50年以上が経つ。つまり、ニュータウンで生まれた人も、もう人によっては50歳を越えるということだ。これは、もうニュータウンともいえない。さて、ニュータウンはその地縁がない人達が寄せ集まって生活をするようになったため、コミュニティを新たに形成しなくてはならない。ただ、このコミュニティというのは聞こえはいいが煩わしい。家族でさえ煩わしいのであるから、他人と一緒にコミュニティをつくりあげるというのはなかなか言うは易く行うは難しだ。
 さて、しかし、コミュニティのネットワークが弱いと防災面や防犯面で脆弱である。それでは、どのようにすればいいのか。このことに関して、ランドスケープ・アーキテクトの祐乗坊さんのお話を聞かせて頂き、大変、示唆に富むことを仰っていたので、ここに共有させてもらう

「町を手垢で汚す」・・手垢を街につけることが重要。自分の記憶を街に織り込む。団地の空いているところに好きな花を植えるなどして、町のどっかに自分のアイデンティティを刷り込んでいく。そうすると、気になるところが増えていく。そういう意識をもって町に手垢をつけていかないと、縁も地縁もない町をふるさとにすることは出来ない。ニュータウンに住むということは、そのような自分の記憶を織り込むようなことを意識しないと、なかなかコミュニティ性をもたせることは難しい。

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新国立競技場をしっかりとつくれなかった国だから、オリンピックのダメダメ具合は必然であろう [都市デザイン]

オリンピックのダメダメ具合をみるにつけ、新国立競技場をしっかりとつくれないような国だから、この帰結は当然かなと思ったりする。当時、この競技場の案を却下するかどうかで世論が湧いていた頃、週刊ポストにこの件でのコメント依頼がきて、「東京オリンピックはこの競技場でやります、って招致活動したのだから、つくらないのは詐欺ですよね」ってコメントしたら「つくらないのは詐欺ですよね」のところだけ引用しようとしたので、その最終確認を東横線に乗っている時、携帯メイルで受け取って、急いで途中下車して、私のコメントはもう修正しなくていいから全文削除、私の名前を出さないでくれ、と言ったことがる。私はハディド案をつくるべきだと当時も思っているし、今も思っているが、流石に周囲の反対派のバッシングを受けるほどの覚悟はない。
 それはともかく、女性で最初のプリツカー賞受賞者で、ガウディ以来の創造性を有した建築家で、彼女の作品をボツにしたときにリチャード・ロジャースが「イギリスの至宝に何て失礼なことを日本はするんだ」とコメントしたのを覚えている。改めてコンペの講評文を掲載する。

「スポーツの躍動感を思わせるような、流線型の斬新なデザインである。極めてシンボリックな形態だが、背後には構造と内部の空間表現の見事な一致があり、都市空間とのつながりにおいても、シンプルで力強いアイデアが示されている。可動屋根も実現可能なアイディアで、文化利用時には祝祭性に富んだ空間演出が可能だ。(中略)また、橋梁ともいうべき象徴的なアーチ状主架構の実現は、現代日本の建設技術の枠を尽くすべき挑戦となるおのである。(中略)アプローチを含めた周辺環境との関係については、現況に即したかたちでの修正が今後必要であるが、強いインパクトをもって世界に日本の先進性を発信し、優れた建築・環境技術をアピールできるデザインであることを高く評価し、最優秀案とした。」

 このような国際コンペで選ばれた作品も、政治的な絡みなどでボツにする。ハディドの作品はイギリス、ドイツ、イタリア、オーストリア、米国、アゼルバイジャン、シンガポール、中国、韓国の大都市で見学することができる。日本には一つも作品がない。磯崎新がその才能を発掘したにもかかわらずである。それは、日本がそのような建築作品をつくる舞台として覚悟を持てないからである。この覚悟の無さが、今回のオリンピックの低迷と通底している。それは、オリンピック大会組織委員会の武藤敏郎事務総長を始めとした中央政府の役人達が覚悟を持たない無責任体質でやっているからだ。上手くいく訳がない。そして、それはザハ・ハディドの新国立競技場を却下した時点である程度、予測できたことである。

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「都市は亀である」(The City is a Turtle) [都市デザイン]

ジャイメ・レルネル氏が2008年のサラトガ万博で、「サステイナブルな地球のための建築」という展示で寄稿した文章「都市は亀である」を訳したので、ここに共有する。

20世紀が都市化(アーバニゼーション)の世紀であったとしたら、21世紀は「都市の世紀」となるであろう。都市において、生活の質への対立が生じ、その結果によって地球環境や人間関係に決定的な影響を与えるであろう。都市における生活の質を高めるためには、環境との関係における次の3つの点に留意することが必要である。サステイナビリティ、モビリティ、そしてソリダリティである。
 およそ75%の資源は都市で消費されており、ほぼ同じ割合の二酸化炭素も都市で発生していると言われている。したがって、人類にとって持続可能な開発を行ううえで、都市をどうやって開発するかが極めて重要な比重を占めることとなる。そして、そのために建築分野が貢献できるところは少なくない。
 仕事場のそばで生活するか、仕事を家のそばに持ってくることは、持続可能性を測るうえでの試金石となる。自動車の利用を削減し、ごみを分別し、既存の都市施設に多様な機能を与え、保存を最大限にし、廃棄を最小にする。サステイナビリティとは、保存されたものから廃棄されたものの差という計算式なのだ。より多く保存し、より少なく廃棄すれば、よりサステイナブルになる。
 モビリティに関しては、すべての都市が、それぞれ有している交通モードごとに最大限に活用することが必要となる。それが地下にあろうと、地上にあろうとである。そのための鍵は、同じ空間に競合するシステムを有していないことや、都市が有するすべての交通手段を最も効率的に活用するということだ。地上の交通システムの方が、適切な施設(例えば、専用レーン、乗降口の高さが同じ先払いプラットフォーム、高頻度の運行など)を整えれば、地下交通システムより有利である。それは、地下交通システムとほぼ同じ交通量を捌きつつ、その費用はほとんどどのような都市でも負担できるし、またはるかに早く供給することができる。
 健康な都市とは、乗用者以外の快適な交通手段を提供できているところである。そこでは、エネルギーが無駄に使われておらず、道路や公園での歩行をしたくなるようなところだ。
 都市は連帯の避難所でもある。そこは、グローバリゼーションの過程がもたらす非人間的な状況から、人々を守ってくれる。それは、治外法権やアイデンティティを喪失させるようなグローバリゼーションの攻撃から我々を守ってくれる。一方で、最も過激な戦争は都市の縁辺部でおきている。それは、富裕層とゲットーとの対立である。都市は、その域内で異なる都市機能(収入、年齢、人種等)を包摂しなくてはならない。うまく混在させられるほど、都市はより人間的になる。社会的多様性は、共存においては最も重要な課題である。
 最後に、都市は多くの人の夢の集積である。この夢をつくるのはきわめて重要である。それがなければ、市民の本質的な参加は期待できない。したがって、都市の運命に責任を有するものは、分かりやすいしなりを描かなくてはいけない。そのシナリオは、多くの人が期待するもので、すべての年齢層にそれに寄与したいと思わせるようなものである。建築家は、アイデアを提案する専門家として、それに貢献することができる。

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ジャイメ・レルネル氏が逝去する [都市デザイン]

昨晩、大学院のオンライン講義をしている中、クリチバの中村ひとし氏からメイルが届いた。「ジャイメ・レルネル氏が逝去した」という内容だった。慟哭しそうになったが、講義中でもあり堪えた。享年83歳である。ジャイメ・レルネル氏は私にとって父のような存在である。亡き父より二つほど若かったが、父よりはるかに人間的に尊敬している。レルネル氏と話していると魂が浄化するような、人格がよくなるような気がする。世の中、そして自分のことが肯定的に捉えられるようになる。私は無宗教だが、それは宗教的な体験だ。こんな人は本当、滅多に出会ったことがない。敬愛する中村ひとし氏でも有していないカリスマのような強烈な存在感がある。
 ジャイメ・レルネル氏と初めて出会ったのは1997年である。当時はパラナ州知事であった。取材を御願いしたら15分だけ会ってやると言われる。結局、取材は1時間を超えた。私を認めてくれたのかな、と勝手に思っている。それからは、クリチバを訪れることはレルネル詣でと同義語になった。前任校の学生を引率して連れて行った時も、レルネル氏は学生達と一緒に会ってくれた。学生もレルネル氏の凄さは一瞬で理解できたようで、彼の前では皆、よい子になっていた。学生を連れていない時は、中村さんと一緒に彼と飲む機会があった。レルネル氏は都心部にあるマネコを始めとして、ただで飲ませてくれるお店が幾つかあって、それらに連れて行ってもらったし、自宅にも呼ばれたことがある。クリチバには正確にはもう覚えていないが、以前、数えた時15回ぐらいだったのを覚えているので、20回近く訪れたことがあるかとも思う。ただ、京都に職場を移してからは一度も行ってないので、もう3年間も御無沙汰していた。体調は決してよくないので、常に案じていたのだが、ついにその日が来てしまった。
 私はレルネル氏と出会えなかったら、まったく人間的にも仕事的にも違った道を歩んでいたと思う。そして、レルネル氏との出会いは私を真っ当な方向に常に軌道修正させてくれるようなものであった。レルネル氏、そして中村ひとし氏は、そういう意味で私の大恩人である。その一人に、もう二度と出会えないのかと思うと、猛烈に悲しい。
 

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コロナウィルスを火事と捉えると、ワクチンは消化器。日本は消化器を確保できず、ただ火が広がらないことを祈ってるようなものだ。 [都市デザイン]

日本のワクチン接種は欧米などに比べて、信じられないほど遅れている。12日現在、政府のまとめだが、国内で少なくとも1回接種した人は0.9%。国別にみるとセーシェルでは65.6%、ブータンで61.5%、イスラエルで61.4% 。イギリスでは47.2%、あのアメリカでさえ34.2%である(Our World in Data)。先進国で最も遅れているのがイタリアだがしれでの14.4%と日本のダメさ加減とは比較にならない。
 ワクチンは100%安全とはいえないが、コロナウィルスの拡散防止には覿面の効果を発揮している。それは、コロナウィルスを火事と例えると消化器のようなものであろう。鎮火できるかは100%ではないが、火事が広がっている現状では相当、効果的であろう。さて、日本はこの消化器を自国では生産できず、輸入をしなくてはいけないような状況であるが、交渉が下手なのでなかなか確保できない。しかも、消化器が日本の気候でうまく機能するかをチェックしなくてはいけないので、なかなかそれが日本に到着してもすぐに広められないような状況にある。
 しかし、火事は広まっているのである。欧米に比べると、日本のコロナウイルスの致死率は低い。これは、空気が乾燥していないので、火事があまり広まらないような状況なのかもしれない。しかし、確実にゆっくりではあるが広がっている。現状の日本はまさに神頼みのような状況になってしまっている。
 消化器を使いたくない人は使わなくてもいいが、消化器を使いたい人には一刻も早く回してもらいたい。自粛要請をするより、こちらの方が遙かに重要であろう。ただ、つくづく分かったのは原発事故の時もそうだが、日本政府は問題解決能力に劣っているということだ。問題の定義化、さらにはその問題への対処方法の考案、そして方法の遂行、という3つのレベルにおいて劣っている。情けない。

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東京駅の駅弁の変化を考察し、東京の一極集中の弊害に思いを馳せる [都市デザイン]

大学を出た後、コンサルタント会社に入ったこともあって何しろ国内出張が多かった。長野市、仙台市、大阪市、富山市、金沢市、福岡市などへ頻繁に出張に行った。顧客がいる場所に多くいくので結構、地域的には偏りがあるが、鉄道移動の場合が多く、不健康な話であるが駅弁を多く食べることになった。さて、そうするとどこの駅のどういう駅弁が美味しいのか、はたまた不味いのかを調べたくなってくる。特に、不味い駅弁を食べるともう出張自体が失敗したかのような後味の悪さを覚えてしまう。
 さて、最近では使わないがサラリーマンの時に最もよく使ったのは東京駅であった。そして、この東京駅の駅弁は選択が難しい。というのは、東京駅はJRの子会社の駅弁屋がほぼ牛耳っていて、独占状態にあるからだ。そして、JRの子会社の駅弁はクオリティがほぼ間違いなく低い。これは、競合を排除し、その独占的地位にあぐらをかいてきたからであろう。美味しい駅弁を提供するインセンティブがないのである。
 ちょっと前までは、帝国ホテルの駅弁を購入することができ、これは値は張ったが驚くほど美味しかった。まだ、食堂車などが新幹線についていた時代の話である。コスパはよくないのだが、JRの子会社の駅弁は安くても不味くてコスパはさらに低かったこともあり、プチ贅沢な気分でよく買った。
 しかし、これはそのうち販売中止となってしまった。すると、本当に困ることになった。ただ、ホームに入る前であれば、崎陽軒などJR子会社ではない弁当屋の弁当を売るお店をみつけ、ほぼここで購入した。しかし、東京駅で崎陽軒の「しゅうまい弁当」も何だよなあとは思っていた。いや、「しゅうまい弁当」とても美味しいですけどね。
 そのうち、大丸デパートなどのお弁当が充実してきたこともあり、時間に余裕がある場合は、そこらへんで購入するようにした。しかし、これは山手線や中央線で東京駅に向かった時は一度、改札を出ないといけない。さらに丸ノ内線の東京駅で降りた時も、随分と歩かなくてはいけない。そういうこともあり、なかなか利用勝手は悪かった。
 そうしたら駅構内に随分と立派なグランスタができ、そこでは随分と多くの駅弁が売られることになった。すき焼きの今半、築地の寿司清、仙台の牛タンの利休、名古屋の地雷也の天むす屋、大阪のいなり寿司の豆狸、築地の卵サンドの松露サンドなどで、これらの駅弁は相当、グレードが高い。私はそこで「つばめグリル」のハンバーグ弁当(1600円)を購入したのだが、やはり冷たくはなっても腐っても鯛。さすがの美味しさであった。
 さて、東京駅の駅弁のクオリティがこの30年間ぐらいで随分と向上したことは喜ばしい一方で、ちょっと複雑な気持ちもある。それは、今半とかつばめグリル、松露サンドはまだしも、名古屋の天むす、仙台の牛タン、大阪のいなり寿司とかをわざわざ東京で買わなくてもいいだろう、と思ったりもする。何でもいいものは東京に集める、というような傾向はこの30年間で随分と強まっている。そして、その反作用として、地方の魅力が相対的にガクッと落ちている。そして、それはモノだけでなく人でもある。強力な磁石のように東京が人でもモノでも集めているが、そのような状況が国全体の魅力を高めているとは決して思えない。というのは日本の魅力はその地理的、文化的な多様性にあるからだ。地方に人やモノを還元することを考えず、一方的に東京が年貢のように吸い上げていくことばかりを考えていると、そのうち国が衰退するであろう。もう既に、その傾向は顕在化している。というのを、東京駅の駅弁の変化で思ったりした。

タグ:東京駅 駅弁
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アメリカのコロナウィルス感染者数とトランプ支持者との関係を考察する [都市デザイン]

 アメリカはコロナ対策が後手後手に回り、2021年1月20日時点で感染者数は2481万人、死者数は41万人と国別の比較ではダントツで世界をリードしています。人口当たりでみても、感染者数は100万人当たり74702人と国別では7位です。トランプ政権の無策がこのような事態をもたらしたのは明らかですが、これを地域別にみると温度差がみられます。州別に人口当たりの2021年1月20日の感染者数をみると、人口当たりの感染者数が最も多いのはノース・ダコタ州で100万人当たり12万6000人。何と人口の12%がコロナに感染しています。逆にもっとも少ないのはヴァーモント州で同数字は1万6000人。ノース・ダコタ州の10分の1以下です。何がこのような違いを生じているのでしょうか。
 50州の人口当たりの感染者数と昨年11月の大統領選で共和党(トランプ)に投票した割合との相関係数を計算すると0.429になります。これは、比較的高い相関関係があると考えられます。2020年12月の人口当たりの感染者数との相関係数は0.418なので、この一ヶ月ちょっとでも、共和党を支持する割合の高かった州での感染率が高くなっていることが考察されます。ご存知のようにトランプは、コロナウイルスは「ただの風邪だ」「夏になれば不思議のように消えてしまう」などと吹聴し(ただ、実際はその危険性を知っていたことがジャーナリストのボブ・ウッドワードとの取材で明らかになりました)、「それらは民主党とマスコミが仕掛けた罠」だとまで言い放ちました。その結果、トランプの支持者達はマスクをすることを拒み、コロナウイルスの危険性を無視したことが、このような数字からも明らかになっています。
 ちなみにカリフォルニア州の郡別でも、コロナウィルス感染者数とトランプの投票した割合との相関係数を計算すると0.21とプラスではありますが低くなります。これは、州によってコロナウィルスに対する政策が大きく異なるので、同じ州民であればトランプ支持であろうがなかろうが、感染率はそれほど変わらなくなることが伺われます。
 さてさて、バイデン大統領は就任当日に、大統領令でコロナ対策をどんどん打ち出しています。ようやく、トランプのコロナウィルス感染者数の拡大という悪夢からアメリカ人も解放されることが期待されます。

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『大阪アースダイバー』 [都市デザイン]

東京地域を対象とした「アースダイバー」の大阪編。東京編も相当、面白かったが、この「大阪アースダイバー」の方が著者である中沢新一の分析力が研ぎ澄まされているとの読後感を覚える。大阪という都市は関東ものからするとなかなか分からないが、本書では大阪という地域を解析するうえでの貴重な切り口を提供してもらった気がする。エピローグで著者が書いているように「東京のセンスで大阪を見ようとすると、いろいろなものを見誤る」と捉えられる。そして、東京において成長によって生じた様々な齟齬を大阪では解消するような知恵を有しているとも思われる。ただ、肝心の大阪が東京的な眼鏡をしてしまって、迷走しているのは気になるが。


大阪アースダイバー

大阪アースダイバー

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/06/28
  • メディア: Kindle版



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シビック・プライドについてザッと考察する [都市デザイン]

自分がそのコミュニティに所属していることを「誇れる」ことがシビック・プライドであろう。それは、コミュニティへの愛着心、忠誠心へと繋がる。そのようなシビック・プライドを市民に抱いてもらう自治体運営は望ましいが、それを政策として実践させようとすると難しい。
 また、逆にそこに所属していることを「恥」と思わせたりすると、それはシビック・シェームとなる。そのような自治体運営をしていると、隙あらばそこから脱出したいという気持ちを住民(特に若者)に抱かせる。
 私の人生はノマドみたいなもので、豊島区、目黒区、ロスアンジェルス郊外のモンテベロ、サウスパサデナ、杉並区、サンフランシスコ郊外のアルバニー、バークレイ、ドイツのデュッセルドルフにて生活していた。目黒区でも3回引っ越しをしているし、杉並区でも2回引っ越しをしている。現在は京都で働くので、ほぼ週日は京都で暮らしている。
 これらのうち、一番長く住んでいたのは豊島区で生まれてから9歳になるまでと、さらに17歳から29歳ぐらいまでいた。合計すると21年だ。しかし、豊島区に対してのシビック・プライドはまったくない。愛着はゼロではないが、南池袋公園の整備など、マーケティング的な観点からコンセプトを導いたような表層的なプロジェクトを自慢する区政などにはむしろ嫌悪感を抱いている。本当に区のイメージをよくしたいなら、千川上水の暗渠をやめて、親水空間を整備するぐらいのことをして欲しい。
 それでは、どこが一番シビック・プライド的なものを感じるかというとバークレイであろう。ここは、自分が住むところを選んだというのもあるが、バークレイという都市が強烈なアイデンティティを発信していて、それが自分のそれと共振する自分がちょっと誇らしいというのがあるからだろう。というか、私自身の個性はバークレイに育まれている面が強い。ビフォア・バークレイとアフター・バークレイとでは、私の個性は相当、違う。
 もちろん、豊島区も私の個性に何かしら影響を与えていると思われるが、その影響を自分が好きでない、というのはあるかもしれない。豊島区で好きな場所を挙げろ、と言われると真剣に困る。苦し紛れに「サンシャインの水族館」を挙げるかな。それと、鬼子母神の界隈、とげ抜き地蔵へのアプローチ道路、学習院大学そばの目白通りぐらい。自分の住んでいた東長崎界隈で、ちょっと子供心に惹かれる場所は練馬区や板橋区、中野区、新宿区にあった。増田元岩手県知事に「消滅都市」として指摘されたときは、そんなことは起きえないと思ったが、別に消滅して寂しいと思うことは、住んだこともない新宿区や世田谷区ほどもない。シビック・プライドのようなものはないし、むしろ隠したい過去のようなものだ。
 バークレイにシビック・プライドを抱くのに対して、ロスアンジェルスの二都市には面白い感情を抱いている。これらは親の都合で住むことになったのだが、モンテベロ市はまったく思い入れがないが、サウス・パサデナ市にはある。これはモンテベロに住んでいた時の方が小さかったが、サウス・パサデナ市には中学時代にもいたので街を自分で相当、探検できたというのと、サウス・パサデナ市はロスアンジェルスでは極めて珍しく高速道路の建設に一貫した反対運動を続けていて、今でもそれを止めているというところに感心しているからだ。ロスアンジェルスの郊外都市としては珍しく、アーバン・ビレッジが形成されており、商店街もあるし、トラムも走っている。この都市で育ったことをまさに誇りとするところがあり、豊島区とは正反対の愛着を持っている。一方でモンテベロは、なんか金がないのに郊外住宅を求めた人達が住むようなところで、裏山はごみ捨て場だったし、いいイメージはないし、愛着もない。また、当時は日本人が珍しかったので、差別的扱いを受けていたということもある。アメリカ人を根本的に信頼できないのは、この時の経験があるような気もする。
 豊島区、杉並区、目黒区だと目黒区に一番、愛着を持っているかもしれないが、じゃあ、シビック・プライドを有しているかと問われると、どうかな。ただ、今、京都と東京とで二重生活をしていると、自分の日本人のアイデンティティ的なものは圧倒的に東京人であるということに気づかされる。というか、他の都市じゃあ受け入れてくれないであろう。良くも悪くも、東京人というアイデンティティから自分は逃れられない。
ただ、ここで東京人というが、私の東京人というのは、豊島区、杉並区、目黒区といった山手線のターミナルでいうと池袋、新宿、渋谷に限定されるような東京人である。東京23区の山手地区の環状7号線生活文化しか経験していない。東京という巨大都市のほんの一部分としか共鳴できないようなアイデンティティである。そのような自分が東京という都市にシビック・プライドを持つはずはない。ただ、何かノスタルジーというか哀愁のようなものは感じる。
あとデュッセルドルフは1年しか住んでいないが、ちょっと思い入れはある。これは、数多ある都市から自分が選んでそこに住んだというのがあるからだろう。シビック・プライドという点では「シビック」の方が怪しいので、有していないが、付き合ってなくてもデートをしたことのある女性ぐらいの親近感というか、思いは有している。
これら住んでいたところ以外に、シビック・プライド的な感情を有しているところとしては下北沢と港区がある。前者は、下北沢の道路反対運動でいろいろと私も活動させてもらったり、イベントにも参加さえてもらったり、さらに私が頻繁に飲みに行ったりするので多くの人的ネットワークがあるということが理由として挙げられる。港区はマスタープラン策定委員会の副委員長をしたり、短期間ではあったがカフェを経営させてもらったり、イベントには多く参加させてもらったことがあるからだ。ようするに街の運営とかに参画させてもらうことができた。このように、自分が街づくり的なことに関与すると愛着、そしてその関係性を誇りたいという気持ちになったりもする。
さて、もう勝手に徒然にシビック・プライドについて思ったところを書き殴ったが、ポイントを整理すると次のようになるだろう。
1) シビック・プライドを有するのは、自分のアイデンティティと共鳴するところが自分にとっても肯定的、誇れるような場合である。
2) 自分が能動的に都市を住むところとして選んだ時は、シビック・プライドが醸成しやすい
3) シビック・プライドを政策的に推進させるためには、市民達に能動的にそのまちづくりに関わらせるような仕掛けをすることが重要であろう。そういう点では、豊田市のトヨシバはうまくできているかなと思うのと同時に、豊島区の南池袋公園は全然、ダメだなと思う(空間設計は素晴らしいのだが)。 
  
 

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雨飾山(日本百名山45座登頂) [都市デザイン]

雨飾山に挑戦する。前日は白馬にあるペンションにて宿泊。素泊まりである。ペンションの部屋は大変お粗末であって、お湯もボイラーを焚かないと出なかった。とはいえ、まあ車内で寝るよりはましかぐらいの気分で宿泊しているので、多くは要求しない。その割には、宿泊代は高かったが。4時にはペンションを出る。白馬のセブンイレブンで、朝食のサンドイッチと珈琲、そして昼ご飯のお握りを2つ、さらには水を2リットルほど買う。
 そこから雨飾山のキャンプ場へと向かう。キャンプ場に着いたのは5時30分ぐらい。駐車場は満車だが、皆、路肩に止めている。路肩も幅広く、路駐に都合のいいスペースもあり、そこに止める。いろいろと準備に手間を取り、登山口を出発したのは6時ちょうど。天気は曇りである。10分ほどは快適な平坦な道を行くが、すぐに登りが始まる。登山道は、ぬかるんだ泥であまり歩いていて楽しくはない。ここの下りはきついだろうな、と思ったが、それは下り時に現実となる。30分ぐらいで3合目。ここらへんのブナ林はなかなか美しく、紅葉時はさぞかし綺麗だろうにと思う。50分ほどでブナ平に着く。ブナ平周辺のブナの木々は、心をこう落ち着かせる効果がある。
 7時15分ぐらいに雨飾山の尾根筋が見える。この登山で初めて展望が開けた。なかなか、いいじゃないか。しかし、ここからは荒菅沢には下らなくてはならない。この登りたいのに下るというのが、個人的には損をした気分になってしょうがない。荒菅沢には7時25分到着。ここまではコースタイムよりちょっと早いぐらい。荒菅沢からは雨飾山は見えないが稜線は見え、また布団菱とよばれる岩峰が屹立しているのが展望できる。これは、なかなかの光景だ。
 荒菅沢からは急登。ヒモと階段が頻繁に出てくる。道もぬかるんでいる泥で、雨だったらまず上り下りは無理じゃないかと思わせる。デジャブ現象だと思ったら、後方羊蹄山の登山道と似ている。どちらも好きじゃないが、こちらの方がさらに急登である。ただ、後方羊蹄山と違って、こちらの方が距離はずっと短い。また、登るにつれて視界は開け、妙高連山が後ろに見える。ただ、樹林帯を抜けると、いきなりロック・クライミングかというような岩場にでる。ストックをリュックにしまい、ここはもう手を使って這い上がるしかない。日本の登山って、本当、技術面ではハードだよなあ、と思う。それだけ国土が急峻で山だらけということなのかもしれない。こういうことを知れたのも百名山にチャレンジしたからだ。
 岩を這い上がるようにして、笹平に到着したのは8時45分。ほぼコースタイム通りである。笹平からは美しい山容の雨飾山を見ることができる。しかし、笹平で雨飾山を確認するとすぐ、霧が山を覆い始める。せっかくの美しい姿も観られないと価値がない。
 笹平からは笹の中を山頂目指して尾根道を歩いて行く。しばらくは平坦な道で両側に展望が開け、快適な気分になる。特に日本海側の展望が雄大で爽快だ。さて、山頂へ行くには最後のきつい登りが控えている。ここも、ほぼロック・クライミングのような感じだ。とはいえ、山頂はまだ霧の中。ここを上がっても何も展望は得られないだろう、ということで、ちょっと広くなっているスペースにてお湯を沸かして食事を取ることにする。ガスバーナーを持ってきたのは久し振りだ。定番のカップヌードルを持ってきたのだが、味噌味だったせいか、全然、美味しくなかった。登山で食べるものはほぼすべて美味しく、特にカップヌードルは格別に美味しいと思っていたので、これは大いに裏切られた気分だ。ただ、ドリップ式の珈琲を飲めたのはよかった。
 登山口からは想像、できないほどここはもう寒く、ウィンドブレーカー、長袖のフリースなどを着込む。手は特に寒く、手袋なしでは作業ができないくらいだ。ここで結局、一時間弱時間を潰す。ようやく霧が晴れつつあるので、最後の岩壁にチャレンジする。結構、人が多く、狭い道をすれ違うのに気を遣う。とはいえ、それほどの困難はなく、無事、10時過ぎに登頂する。残念ながら絶景は楽しめなかったが、それでも多少は周辺の地形などを楽しむことができる。まったく見えないのと、ちょこっとでも見えるのはエライ違いだから、急いで登頂しなかったことは正解だろう。また、山頂にはスペースがあまりないので、そういう意味でも岩壁の前に休憩を取ったのは正解だったかもしれない。
 山頂は結構、寒いのと手袋の下でも手がかじかみ始めたので、早速下山を開始する。笹平に到着したのは10時40分。そして、荒菅沢まで岩をよじ降り、ぬかるみの急斜面をゆっくり歩いていく。荒菅沢に到着したのは11時45分。コースタイムとほぼ同じか、ちょっと遅れているぐらい。
 結構、今回は膝も大丈夫かなと思っていたのだが、そう思った途端、2回ほど泥に足を取られて滑って尻餅を打った。一度は、膝を変に捻ってしまい、大事には至らなかったが、ヒヤッとした。この泥のぬかるみ道、登りも嫌だが、下りは本当に嫌だ。結局、足はまあまあガクガクの状況で登山口まで辿り着く。到着時間は1時30分。これはコースタイムよりも45分も長く、175%も余計にかかっている。下りが苦手であることが今回の登山でも判明し、ちょっとこの点は鍛えなくてはならないなと思わせられた。
 その後、温泉に浸かろうと小谷温泉に行くのだが、あいにく雨飾荘はコロナで外来客の入浴は禁止。これは、どうしようかと思ったら、何と小谷村の村営の露天風呂がすぐそばにあることを発見。この露天風呂、ブナの森の中の大変、気持ちよい温泉で、非常に得した気分。雨飾山の登山の結構、これがハイライトだったりして。また、昼ご飯は、やはり小谷村の山間にある「蛍」という蕎麦屋で食べたが、これもちょっと新鮮な体験であった。雨飾山の登山、泥のぬかるみ道はいただけないが、山容の美しさ、そこからの展望、そして登山後のお風呂と食事は、大きな魅力である。

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<雨飾山キャンプ場前の駐車場>

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<登山道は最初は、こんな感じ>

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<しかし、10分もするともう泥のぬかるみ道の急登が始まる>

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<ブナ平のブナはいい感じ>

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<ブナの森を抜けると荒菅沢の沢に出てくる。こっから下り>

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<荒菅沢>

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<荒菅沢からも急登。そして、このぬかるみの泥道>

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<泥道抜けると今度は岩登り>

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<相当急峻です。ストックは無意味。両手を使って登ろう>

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<笹平から展望する雨飾山>

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<尾根から日本海を展望する>

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<オヤマリンドウ>

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<山頂は曇っているので、その手前で食事。久し振りにお湯を使って調理>

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<ようやく雲が晴れる>

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<山頂>

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タグ:雨飾山
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中崎町を訪れる [都市デザイン]

大阪市の梅田そばにある中崎町を初めて訪れる。もう19時を回っていたので、夜の中崎町であるが、近年、若者に注目されているスポットということで興味津々で訪れた。さて、中崎町は大阪の北の中心地である梅田から歩いて10分もしないで着くことができるような距離にあるが、雰囲気は独特である。阪急、東海道本線、大阪環状線という高架の鉄道が三本走っていて、空間的な雰囲気は大久保っぽい。実際、エントレプレナーが多いという点でも共通しているが、大久保が韓国を中心としたアジア勢であるのに対して、中崎町はちょっとお洒落な若者というところが違う。カフェや古着屋、などが古くからある居酒屋や食堂と違和感があるようで、うまく調和しているところが魅力である。
 とはいえ、梅田駅から近いということもあって、専門学校、オフィスビルなどが立地していて、さらには高層マンションも建っていて、そのカオスぐあいはブレードラナーのようである。ブレードランナー的な都市景観といえば、東京だと三軒茶屋が相当いい感じを出しているが、中崎町もなかなか負けていない。
 中崎町は第二次世界大戦で奇跡的に被爆を回避することができたので、モータリゼーション以前の区画が多少、残っている。このメーズというかダンジェン的な都市空間は、ちょっとわくわくさせる。この点は下北沢と同様だが、ほぼ畑だった下北沢と違って、昔から市街地であった中崎町の方が、その点では下北沢に勝っている。とはいえ、中崎町を分断するような幹線道路が通っており、これが中崎町のいい雰囲気を台無しにしているので、総合的には下北沢に軍配が上がるであろう。とはいえ、下北沢も分断される都市計画道路が計画されているので、いつあのアーバンな雰囲気が壊されるかは分からない。
 中崎町の個性ある店舗は、私が訪れた時はその多くが閉店していたが、それでもそのセンスのよい雰囲気のよさは感じられた。ただ、空を見上げると高層マンションやオフィスビルとのギャップが強烈だ。総じて、アスファルトジャングルの裂け目に美しい雑草が咲き乱れているといった感じの町であろうか。

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利尻岳(日本百名山41座登頂) [都市デザイン]

利尻岳にチャレンジする。利尻岳には鴛泊ルートと沓掛ルートの二つがあるが、前者を選ぶ。宿の車で利尻北麓野営場まで送ってもらい、そこを5時に出発する。ちなみに利尻北麓野営場のトイレは驚くほど綺麗だ。ウオッシュレットまでついていた。ここの標高は約200メートル。そこから甘露水という日本百名水のある水場までの600メートルはしっかりと整備された道を歩く。登山の最初にこういう道を歩くと、こう気持ちが高まる。甘露水は鴛泊ルートにおいて、最初で最後の水場であり、水も美味しいのだろうが、流石に600メートル歩いただけではまったく水を消費していないので、ここでは水を補給する必要もなくパスする。
 しばらく歩くと、姫沼・ポン山ルートとの分岐点にくる(5時15分)。ここからは道も登山道という様相を帯び始める。空には雲もなく、朝の光がダケカンバの森を美しく照らす。たいへん爽快な気分で道を進むが、これからの長く果てしない距離を考えるとペースを上げずに、ゆっくりと歩を進める。四合目に到着したのは5時30分。ベンチもあり、ここで朝食を取る。ここで持っていた筈のストックを忘れたことに気づく。おそらく甘露水か姫沼・ポン山との分岐点でちょっとリュックを降ろした時だ。取りに戻ろうかとも思ったが、一緒に登っている友人が一本彼のを貸してくれると言ったので、そのまま進むことにする。取りに戻ると30分は損失する。この損失は時間的にも体力的にもよくないという判断だが、もしかしたら誰も取らないのではとの期待もあった。
 森の中の道は、晴れているので清々しい気分で歩を稼ぐことができる。たまに展望が開け、海を見ることができる。素晴らしい絶景に、さらに高いところから展望したいと気が逸る。五合目に到着するのは6時25分。だんだんと斜度は大きくなる。六合目に到着するのは6時40分。ここは第一見晴台とも言われ、長官山と海、礼文島を展望することができる。素晴らしい眺めであるが、まだ利尻岳を見ることはできない。ここからは本格的に標高を稼いでいく。七合目を過ぎると、岩が露出した急斜面がひたすら歩いて行く。第二見晴台に到着するのは8時。さらに踏ん張って登ると長官山。長官山に到着するのは8時35分。長官山まで登って初めて利尻岳の雄姿を望むことができる。利尻岳は本当にシルエットが素晴らしい。まるでマッターホルンのような造形の美しさだ。この姿をみると、大いに疲れも飛ぶ。ここの標高は1219メートルなので、ほぼ1000メートル登ったことになる。ここから山頂まではさらに500メートル登らなくてはならないが、気持ちを奮い立たさせる格好良さである。
 長官山からはちょっと下り坂もあり、せっかく標高を稼いだのにという気持ちにさせられるが、平坦な道は身体への負担は少ない。尾根道なので展望は素晴らしく、歩いていて気持ちよい。この心地良さも登山の醍醐味である。避難小屋を通過するのが8時50分。そして、9時30分に9合目に到着する。9合目は最後のトイレブースが置かれているところだ。そして、9合目の看板には、「ここからが正念場」と書かれている。9合目で水や必要としない雨具を置いて、若干、軽装になり、山頂を目指す。さて、正念場というだけあって、ここからはほとんど岩登りの様相を呈す。ストックも下りはともかく登りはいらないであろう。両手を使いながら、這い上がっていくような形で登る。たまに尾根に出た時に、強風が吹くので帽子が飛ばされないように気をつけた方がいい。
 沓掛ルートとの合流点に着いたのは10時15分。さらに急峻ながけのようなところを登っていく。ただ、崩落しそうな登山道は補強がしてあり、それほど危険は感じない。蝋燭岩の異様な姿を横目に見つつ、力を振り絞って山頂にたどり着く。時間は10時45分。ほぼ5時間45分で山頂に到着。
 山頂からはまさに360度の大絶景を楽しむことができる。まるで天上から下界を展望しているような感じだ。周りはすべて海だが、その先には礼文島、北海道、さらには樺太らしきものも見られる。深田久弥が『日本百名山』で「島全体が一つの頂点に引きしぼられて天に向かっている。こんなみごとな海上の山は利尻岳だけである」と述べているが、山頂からの展望は地上にすべて放たれている、という感じである。息を呑むような美しさで、このような晴天の日に利尻岳に登れた幸運に感謝する。
 山頂では簡単な昼食を取り、11時過ぎに下山し始める。さて、登りよりさらに注意をしなくてはならないのは下山だ。ここではストックを使いながら、1歩1歩丁寧に下がっていく。八合目の長官山に着いたのは13時。ここからはもう利尻岳は望めないので、後ろを振り向かずまっすぐ登山口へと向かう。とはいえ、この胸突き八丁を降りるのは結構難儀である。足も相当、疲れているので浮石に足を取られやすい。五合目に到着したのが14時50分。五合目からは森の中の難しくないコースなのだが、疲れが相当きているのと、膝を痛めないようにゆっくりとしたペースを維持しながら進む。しかし、四合目を過ぎると、ストックがそのまま残されているかどうかが気になり、ペースを急ピッチとする。そして、姫沼・ポン山との分岐点にストックが無事、二つとも草むらに置かれたままであった。感動的だ。このストックを紛失したら、せっかくの利尻岳登頂にも苦い思い出を残すことになったので、登山者達のマナーに本当、心から感謝する。そして、非常に晴れやかな気分で登山口の北麓野営口に到着したのは16時。
 ほぼ11時間、歩行距離11.6キロメートルの長丁場の登山であったが、その苦労の甲斐あって、大変素晴らしい登山経験をすることができた。 

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<登山口の北麓野営場>

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<第一見晴台からは素晴らしい海の展望が得られる>

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<ワイルド・フラワーが多いのが利尻岳登山の魅力であろう>

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<登山道に多く咲くリシリブシ・・・トリカブトの一種で毒を持っている>

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<長官山まで辿り着いて初めて利尻岳の勇姿をみることができる>

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<九合目から利尻岳を望む>

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<九合目の道標には「ここからが正念場」と書かれている。なぜか英語はTough Trail。ちょっと意味は違うよな>

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<周りが海に囲まれているので、山頂付近からの展望は感動的である>

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<頂上まであと少し。しかし、この急登は厳しい>

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<山頂のそばに屹立する奇岩、ろうそく岩>

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<山頂からこれまで沓掛方面をみる。すごい急峻な山であることを改めて実感する>

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<利尻岳の最高峰は南峰なのだが、現在は行くことは禁止されている>

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<山頂からは礼文島がくっきりと見える>

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<山頂手前の凄まじい登山道>
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千里ニュータウンの訪問度・知名度調査 [都市デザイン]

私の大学で「地域都市政策総論」を受講している学生と千里ニュータウンの関係性を尋ねてみた。その結果をグラフで示す。母数は249名だ。そのうち3名(1%に相当)が千里ニュータウンに住んでいた。私の4回生のゼミ生が14人中2人がニュータウンに住んでいたので、もっと割合的には高いかなと思っていたのでこの数字は意外であった。住んでいない学生で、訪れたことはある学生は16%。6分の1ぐらいか。ただ、私も別にずっと東京に住んでいたが、多摩ニュータウンには滅多に行くこともないので、まあそれほど驚かない数字である。あと知らない学生も3分の1ぐらいいた。意外と千里ニュータウンの知名度は高くないので驚きだ。まあ、こんなアンケート結果を公表されてもな、と思う読者が大半だろうが、せっかく調査に学生達も協力してくれたので、ここに公開させていただく。

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佐賀駅と下北沢駅の乗降客数 [都市デザイン]

 ちょうど一週間前に、佐賀県知事が新しい公共事業「SAGAアリーナ」を「とりあえず下北沢みたいにしたい」と発言して、その阿呆さ加減をこのブログで指摘した。
https://urban-diary.blog.ss-blog.jp/2020-07-05
 しかし、その際、駅の乗降客数を比較し忘れたのでここで追記する。下北沢の1日あたり乗降客数は小田急線と京王帝都井の頭線を加えての値だが、237000人である。これに比して佐賀駅は12624人とほぼ20分の1、下北沢の5%ぐらいにしか満たない。下北沢の楽しさは、自動車ではアクセスできなくて、徒歩や公共交通でアクセスできることだ。そのマーケットが佐賀駅は下北沢の20分の1しかない。「とりあえず下北沢」の発言が、どれだけ本質を外しているのかが、この数字からも分かるであろう。
 私が、どうして、この件でこんなに立腹しているか、というと佐賀市には佐賀市のよさがあって、それを追求すべきであるのに、昔の地方で乱立した「○○銀座」のように、21世紀になっても、いまだ東京的なものを追求する田舎もん根性が払拭できていないことと、東京のような世界でも希有な大都市でしか存在できないようなものを、佐賀できもできると考える無知蒙昧さ・・・これが地方を駄目にするからだ。地方の豊かさを将来の世代に残すために何をするべきか、を真剣に考えたら、こんな馬鹿な施策ができる訳がない。そして、地方の多様な豊かさこそが、日本という国の豊かさなのに、なぜ東京的な豊かさを地方で実現しようと考える。しかも、それは都市の生態系的なことを考えれば、出来ないことは火を見るより明らかなのに。
タグ:下北沢 佐賀
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佐賀県知事が新しい大型公共事業「SAGAアリーナ」を「とりあえず下北沢みたいにしたい」と発言したことの愚かしさ [都市デザイン]

佐賀県が佐賀市の佐賀駅から北に1キロメートルぐらいいった日の出地区に540億円をかけて「SAGAサンライズパーク」というものを整備しようとしているようだ。この施設だが、山口佐賀県知事は、そこを「色々な人が勝手に集まって勝手に楽しむ、何が起こるか分からないチャレンジゾーンにしたい」「とりあえず(東京の)下北沢みたいにしたい」などとその展望を語った(朝日新聞2020年7月3日)。そして、その展望を具体化すべく、電通を代表企業とした企業グループを指定管理者に指定した。
最近、コロナウィルス禍の環境変化にやられて元気がまったくなくなっていたのだが、この新聞記事には久しぶりに腹が立った。怒髪天を衝くぐらいの気分だが、髪の毛がないので頭がただカッカしているような状況だ。この記事から、佐賀知事の何が愚かなのか、このブログ記事の奇特な読者は分かりますか?
まず、下北沢はつくろうと思ってつくれるようなものではない、ことが全然、知事が分かっていない、ぞの無知蒙昧さが腹立たしい。というか、本当、佐賀県民でなくてよかった。下北沢はニューヨーク・タイムスの記者が記事でグリニッチ・ヴィレッジに対する東京の返答、と形容するほどの特別な空間である。それが比肩できる場所は、地球上でもマンハッタンのグリニッチ・ヴィレッジとイースト・ヴィレッジ、ロンドンのカムデン・ヤード、パリのモンマルトルぐらいしかない。いや、モンマルトル、下北沢と同じ土俵に上がれるか、と書いていて不安になるぐらいだ。それは、東京という世界に冠たる大都市における創造的集積が展開した希有な街である。ちなみに、下北沢は北沢二丁目と代沢五丁目の一部(駅に近いところ)だけで1500店舗以上がある。最近では、北沢二丁目から北沢四丁目、代沢二丁目などにも店舗が浸食しているので、実際はこれよりもはるかに多くの店舗数がある筈だ。これらの数字は、私が学生と実地で数えた数字であるので、商業統計よりも遙かに多いので、佐賀市と比較しにくいので、ここでは食べログで見てみよう。
カフェの数を下北沢駅から1キロメートルの範囲で食べログで検索するとその数は214軒。一方の佐賀駅は38軒である。カレーは、下北沢は61軒、一方の佐賀県は8軒である。そもそもの集積がまったく佐賀とは違う。しかも下北沢の個性を出しているこれらの店の多くが個店である。凄まじいボトムアップ型の地域経済力があってこその下北沢の個性なのである。下北沢のもう一つの特徴として、文化を創造する孵化器的な機能が挙げられる。下北沢には決して規模はおおきくはないが21のライブハウス、8の小劇場がある。わずか2キロ平米ぐらいの中にこれだけの集積があるのだ。どうも佐賀県にはライブハウスが3つしかないようだ。下北沢の凄みというのは、この集積の経済が発現されるところにあって、今では大阪の大して実力のないガールズ・バンドがデビューのきっかけをつくりに下北沢に来るという、ちょっと「大阪、お前もか」と思わせるぐらいの下北沢と他との格差が生じてしまっている。これはこれで個人的に問題かなと思ったりもしているが、これらの集積が佐賀駅周辺に出来る筈がないだろう。というか、正直、九州でミニ下北沢ができるような都市があるとしたら福岡だけかもしれない(熊本と鹿児島は可能性ゼロとはいえないですが・・)。なぜなら、福岡はミュージシャンを輩出し、またそれを育てるような孵化器的な機能があるからだ。そして下北沢がなぜ、このように突出したようなバンド孵化器な機能を有したかというと、それはそのバックに東京という大市場があるからだ。そして、東京は創造都市的な要素も非常に強く、クリエイティブな活動を支援するような環境がある程度、整っていて、それは佐賀とは雲泥の差がある。
そうそう、下北沢がもう一つ特別なのは、歩行者空間が広がっていることだ(最近、駅前の開発が進んでいて心配だが)。駅周辺には信号が一切ないからね。佐賀市のように自動車中心のライフスタイルのところに、下北沢のような集積は絶対できません。
知事の発言になぜ、私が烈火のごとく怒っているかというと「下北沢みたいにしたい」といって、下北沢という街のことがまったく分かっていないと思われるからだ。加えて、佐賀県知事の発言は、お見合いの仲人に「とりあえずノン(能年玲奈)みたいな女性にしてよ」と依頼するような、身の程知らずな謙虚のなさをも感じる。
あと、もう一つまったく納得できないのは、その依頼を電通等の企業に御願いしていることだ。下北沢をつくったのは、個店を営んできた個人達である。それら個人は、お互いライバルとして切磋琢磨をしたり、また時には協働したりして街をつくりあげてきた。下北沢音楽祭、下北沢カレーフェスティバル、シモキタ将棋名人戦、下北沢大学・・・これら下北沢を象徴するようなイベントは皆、個人が企画し、周りを巻き込んで実現したものばかりだ(成功するとカレーフェスティバルのように企業がスポンサーになったりするが、それはほとんどが後付けだ)。下北沢や高円寺、自由が丘といった東京の魅力ある街の特徴は、それらを地主や住民が作ってきていることだ。吉祥寺はお寺が地主なので、個店が地上げを受けずにサバイバルできたのが、今の魅力に通じている。電通の能力は企業としてはずば抜けて高いとは思うが、そもそも企業は魅力的な街をつくることが構造的にはできない。これに関して論じようとすると、本が書けてしまうのでその詳細はここでは述べないが、企業に頼めば下北沢ができるという街のエコロジーをまったく分かっていないその愚は、本当嘆かわしい。こういう知事がいるから、というか、こういう知事を選ぶような土壌だから、皆、若者が地方から逃げたがるのだな。私が佐賀県民だったら絶対、逃げ出すだろうから、このような若者の気持ちはよく分かる。
そして、一方で、今の東京一極集中の状況は日本という国にとっては好ましくないので、このような知事がいることは日本国民としては由々しき問題であるなと思う。
新聞記事だけでの情報なので、知事はもうちょっと思慮があっての発言であるのかもしれないが、文面だけで取ると、そのように理解される。あと、下北沢の街の魅力とかが知事をやるぐらいの人でも分かっていない、というのは深刻な問題で、私自身もどうにかしないといけないな、とは思う。のだが、最近、本当疲れ気味なので、このブログの記事をアップするぐらいのことで今はちょっと勘弁していただきたい。我ながら情けない。

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ポケモンGOというレンズを通じて、都市を観る [都市デザイン]

ポケモンGOのゲームは中年の方がはまっているという面白い現象が日本では見られるが、恥ずかしながら私もそのような輩の一人である。ポケモンGOの凄いところは、とりあえずのゴールを達成すると、さらに新たなゴールというか目標を設定させてきて、決して飽きさせない、というか終わらせてくれない点だ。例えば、初期の段階では、レベル・アップが目標であった。しかし、このレベル・アップは青天井ではなく、レベル40が最終到達点なのである。私はレベル40まで到達したら止めようと思っていたのだが、そこに到達すると、ロケット団とバトルするという新たな楽しみができ、さらに現在はトレーナー・バトルまでが追加される。このトレーナー・バトルが相当楽しい。このように、目の前の目標を到達すると、さらに新しい目標を設定、というか楽しみを提供してくれて飽きさせない。
 さて、ポケモンGOのもう一つの楽しみは世界中で出来ることである。私は海外によく行くので、あちらこちらでポケモンGOをする。中国では出来なかったが、香港では出来た。そして、国ごとにポケモンGOの熱中度とかが違って面白い。というか、同じ国でも地域によっていろいろと展開具合が異なる。これは日本でももちろん、そうである。
 ここ数年、この都市では私が最強ではないか、と思わせたのはアメリカ合衆国のカリフォルニア州のデービス市である。大学都市なので、比較的プレイヤーが多いのではと思われるのだが、リーグ・バトルから考察すると、私のレベルに到達しているプレイヤーはいなさそうな感じであった。アメリカの地方都市のように人口密度が低く、自動車移動が前提のところではポケモン・スポットも散らばっており、あまり楽しめない。というか、徒歩を前提としてポケモンGOのゲームは設計されているので、自動車との相性はよくない。欧州の都市とかと比べても、あまり熱中しにくく、それ故に熱心なプレイヤーもそれほどいないのかもしれない。話は逸れるが、東京とかで自動車乗って、ポケモンGOのレード・バトルに来るのはルール違反であると思う。いや、ポケモンGOのルールではなく、社会的マナー、都市的マナーに反していると思う。
 閑話休題。それではどこが最強のポケモンGO都市であるかというと、これは東京だと思う。私の自宅がある都立大学周辺などは最強に近い。というか、どれだけ暇なリタイアが多いんだと思わせるぐらいだ。仕事場のある京都なんかと比べても遙かにエグい。全般的に人口密度と自動車依存度の低さ(目黒区は実は人口当たりの自家用車所有台数が東京都区で最低)とポケモンGOの都市レベルでの強さは正の相関関係があると思われる。
 ということで、都市の質(アーバニティ)を探るうえで、ポケモンGOは貴重な情報を提供してくれるのである。初めての都市(特に外国)でポケモンGOをすると、ある程度、その都市の性格のようなものが見えてくる。ポケモンGOというレンズを通じて、都市が見えるのだ。

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コロナウィルスはアメリカでは流行らないだろうな、と勝手に推測する [都市デザイン]

現在、アメリカにいる。コロナウィルスへの危惧から株も大暴落をしているが、さて、アメリカではそれほどコロナウィルスが流行らないだろうな、という気分になっている。これは、日本と比べて遙かに人口密度が低いからだ。そもそも人と接しない。いや、ニューヨークのマンハッタンのようなところであれば、流行るかもしれない。しかし、私が今回、訪れたデンバー、アトランタ、シアトルだとそれほど流行らないような気がする。この三都市の中ではシアトルが圧倒的に人口密度は高いが、それでも京都や東京とは比べものにならない。コンサートやスポーツ・イベントに行けば、それなりにウィルスも広まっているかもしれないが、日常的な移動も自動車が主体だし、なんか日本とは状況が違うのではないかなと思ったりする。伝染病が流行する危険度は都市度を測る一つの指標ではないだろうか。

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ヴィレッジ・ホームスの管理について [都市デザイン]

ヴィレッジ・ホームスの設計者の一人であり、開発当初からの住民にお話をする機会があった。彼女は、ビレッジ・ホームスの考案者であるマイケル・コーベット氏の事務所で、まさにヴィレッジ・ホームスをつくる時に働いていたので、気になる話を聞かせてもらった。まず、コーベット氏は「NOを受け付けない人」だと表現していた。ヴィレッジ・ホームスという極めて斬新でユニークな開発をするうえでは、役所はもちろんだが、金融機関はほとんど駄目出しをする。しかし、その駄目出しを全然、真に受けなかったそうである。こういう新しい事業を具体化するうえでは必要なメンタリティなのかもしれない。信念の人だったのだな、ということを改めて知る。
 また、やはりポイントは維持管理ということだ。道路自体は市役所が管理したりしてくれるが、公共的な空間(芝生)などは三名から四名ぐらいの人を雇って管理しているそうだ。これらはホームオーナーズ・アソシエーションが雇用をしているそうである。このアソシエーションは他にもコミュニティ・センターなどを管理している。一方で、プラムシア(Plumshire)という不動産管理会社もあって、ここはヴィレッジ・ホームス内にあるオフィス、レストランなどの不動産を管理しているそうだ。このプラムシアはヴィレッジ・ホームス以外には物件を持っていないそうである。
 あと、この方は45年もここに住んでいるが、最近では、このヴィレッジ・ホームスで育った子供達が一度はここを出るが再び、戻ってくるという傾向がみられるそうだ。確かに、ここは子供を育てるには相当、いい環境ではないかと思われる。自動車の通過交通はないし、自転車で移動しやすいし、果実はそこらへんに育っているし、自家菜園での健康的な野菜を食べることができる。ある意味で、アメリカの理想的な郊外像を提示しているのではないか、と思ったりする。公共交通の問題などはあるが、自転車で市内であればほぼどこでも快適に移動できるし、ある意味、レッチワースより田園都市的かなという印象も覚える。

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ヴィレッジ・ホームスのコミュニティ・パーティに参加する [都市デザイン]

サステイナブル・コミュニティの代表的事例であるヴィレッジ・ホームスに滞在しているのだが、ちょうど日曜日にコミュニティのポットラック・パーティが開催されたので参加させてもらった。ヴィレッジ・ホームスはサステイナブル・コミュニティを具体化させることを意図したのだが、そこで何しろ重視したのは、コミュニティという共同体をいかにつくりあげるのか、ということである。これは、ヴィレッジ・ホームスを設計したマイケル・コーベット氏に以前、取材した時に、彼が特に強調していた点でもある。
 さて、しかしヴィレッジ・ホームスがつくられたのは1975年。つくられた当初の高邁な理念は徐々に風化してしまい、共同体意識も薄れていったような印象を覚えたりした。いや、私は1993年に初めて訪れてから、その後、それこそサンフランシスコに住んでいた時はもちろん、帰国後も1997年、2003年、2005年、2008年と訪れていたので、時系列的な変化を観察していたので、そのような変化を感じていたのだ。実際、1975年に30歳ぐらいで移り住んだ住民達も70歳を越え、子供達も大人になってここを出た。住民の高齢化はここでも一つの課題である。
 このようなトレンドの中、ふたたび共同体としてのコミュニティを強化しようといった動きが見られつつある。このポットラック・パーティーはまさにそのような試みの一つで、数年前にここに住むようになったフランス出身の絵描きが提案して一年ぐらい前に始まったイベントのようである。
 ポットラック・パーティーはヴィレッジ・ホームスのコミュニティの象徴でもあるコミュニティ・センターで行われた。このコミュニティ・センターの中に入ったのは初めてだったのでそういう意味でも個人的には興味深かった。
 私はおばさん住民の間に座らさせられ、なんかまったく話題もなく、相当浮いたが、たまたま前に座った人がマイケル・コーベットの事務所で働いていたことがあり、つくられてすぐコーベット氏にヴィレッジ・ホームスの家を買わされてから住んでいるヴァージニアという方だった。そこで、つくった時の苦労話や、コーベット氏の話、ヴィレッジ・ホームスの運営管理の話などを聞かせてもらった。
 郊外住宅はコミュニティをつくることが大きな課題である。コミュニティという共同幻想をどうやって支えるかは住民のコミットメントが必要だが、ほとんどの郊外住宅地ではそれができていない。いや、郊外どころか家族という郊外においては核となるべき幻想でさえ、もはや蜃気楼のような状況になっていて共有できていない。これはアメリカでも似たようなことかと思うのだが、移民国アメリカは、この幻想を強化しなくては、という意識が強いような気がする。というか、強い人がヴィレッジ・ホームスのようなコミュニティに住むのだろうが。どちらにしと、面白い経験をさせてもらった。

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サステイナブル・コミュニティの雄、ヴィレッジ・ホームスに生まれて初めて滞在する [都市デザイン]

アメリカはカリフォルニアのデービスに来ている。デービスでは、サステイナブル・コミュニティの草分けとしてよく知られている。私もシーサイドやケントランド、ラグナ・ウェストといった、いくつかのサステイナブル・コミュニティを訪問したことがあるが、このヴィレッジ・ホームスがもっとも持続可能というコンセプトに忠実であると捉えている。実際、設計者のマイケル・コーベット氏に取材をしたこともあり、その結果は拙著『衰退を克服したアメリカの中小都市のまちづくり』(学芸出版社)にまとめている。ヴィレッジ・ホームスに関してはこの本でまとめているし、三浦展氏が洋泉社から出したムック本でも、詳細な解説を書いたりしたことがある。
 さて、しかし、実際、そこにある家に泊まったことはなく、今回が初めてである。大学院時代の同級生宅なのだが、4泊ほどさせてもらった。マイケル・コーベット氏の話を聞いた時に、印象を受けたのは微気候を意識した省エネ住宅をつくることに随分と神経を使ったということだが、友人は結構、改造していた。この友人宅はコーベット氏本人ではなく、彼のところで働いていた女性建築家が設計したそうだが、実際、生活すると窓が少ないなどの点で住み心地はあまりよくないそうだ。コーベット氏は断熱を考えると窓がない方がいいと言っていたが、住民からすると、やはり明るい方がいいという考えになるようだ。
 とはいえ、建設されたのが1975年ぐらいの筈だから、既に45年経っている筈だが、住宅もなかなか悪くなく快適だ。ただ、やはり住宅より感心したのは周囲の環境である。狭い自動車道路、自動車道路側ではなく、歩道側に玄関を設置した空間構成。塀を設置しないで個人より共同体を優先するというコンセプト。そして、歩道に植えられた街路樹は果樹で食べられる。いわば、エディブル・ランドスケープの嚆矢である。実際、朝食では友人がこれらの街路樹から落ちているグレープフルーツを拾ってきて出してくれたが、なかなか美味であった。また、友人はこれらの果樹(梅やオレンジ)をもとにジャムをつくっているのだが、砂糖を少なめにしているので個人的にはとても美味しい。さらに、杏もシロップ漬けにしていたりしたが、これもなかなか箸が止まらない美味しさであった。このエディブル・ランドスケープだが、基本、その木のある人達が管理しているのだが果実は、木から落ちたものはもらっていい、というのが友人の個人的なルールだそうだ。
 そして、エディブル・ランドスケープより感心したのは共同農園である。ほとんど無料のようなお金で(確か50ドルぐらい年会費で払うことを言っていたが、正確な数字は忘れてしまった)借りることができる。友人はカリフラワー、ブロッコリー、アーティチョーク、サラダ系の野菜、じゃがいも、ニンジンなどを栽培しており、鳥さえ飼えば自給自足できると言っていた。ちなみに、鶏を飼っている家もあった。
 このように食べものに関しては、コーベット氏が以前、私に言っていたように、相当、自給自足でサステイナブルな暮らしが出来ているなと感心したのだが、もう一つのエネルギー。友人はこの家を買った時に、さらに太陽光パネルを増設したので黒字である、すなわちプラス・エネルギー・ハウスになっていると述べていた。デービスはちょっと暑いので、冷房が必要かなと思ったりするが、友人宅は屋根も高く、特にその必要はないようだ。
 そして移動に関してだが、自動車は所有していた。この友人は、大学院時代は車を所有していなく、私が結構、自分の車に乗せて大学院のフィールドワークなどには連れて行ったりしたが、現在はシェブロレの電気自動車に乗っていた。そうそう、電気自動車もこのデービスで生まれて初めて運転したが悪くない。今、私は「自動車を持たない贅沢」などとのたまっていたのに自動車を所有している。おそらく買い換えることはないような気はするが、もし買い換えるのであれば電気自動車にしようかなと思ったりもした。環境にはやはり電気自動車の方がいいし、なんせ動く蓄電器は地震の時などには随分と心強いからである。
 ということで、デービスのヴィレッジ・ホームスの理解が、より進んだという点で非常に有り難い経験をさせてもらった。つくづく、学生時代の友人のネットワークというものは有り難い。

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<ヴィレッジ・ホームスにある友人宅>

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<鶏を飼っている家もある>

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<道ばたに育つグレープフルーツの木から落ちた果実を拾う友人>

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<友人の自家菜園で育つ野菜>

参考までに「ヴィレッジ・ホームス」に関しては、下記のHPでも説明しているので宜しければ参考にしてもらえればと思う。
https://www.hilife.or.jp/cities/?p=1071
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コービー・ブライアントの悲報に接して思うこと(1) [都市デザイン]

アメリカのプロ・バスケットボールのスーパースターであったコービー・ブライアントがヘリコプター事故で亡くなった。享年41歳。同乗していた13歳の次女のジジも一緒に亡くなり、今、アメリカでこの訃報を聞いたのだが、アメリカ中が喪に服しているような状況にある。さて、コービー・ブライアントのこの悲報に接して深く考えさせられたことが二つある。
 一つは、コービー・ブライアントを殺したのはロスアンジェルスの悲惨な道路渋滞、そしてその原因であるお粗末な交通システムであるということだ。コービー・ブライアントは、この道路渋滞を回避するために日常的に、移動にヘリコプターを使っていた。どのように、ヘリコプターを日常的に使っているのかという質問に対して、ブライアントはウェブ記事の取材に次のように回答している(https://toofab.com/2020/01/27/heartbreaking-reason-kobe-bryant-insisted-on-flying-in-helicopters-in-his-own-words/)。
「朝早く、筋トレ。子供を学校に(車で)送る。ヘリコプターに乗る。きちがいのように練習する。メディア関係や、その他のしなくてはいけない仕事をこなす。ヘリコプターで帰宅する。車で子供を迎えに行く」。
 そして、ヘリコプターを使うのは、家族と過ごす時間を1分も無駄にしたくないからだとも回答している。
 コービー・ブライアントが亡くなった事故は、ロスアンジェルスの南に位置する自宅があるニューポート・ビーチから、彼のスポーツ学校であるマンバ・スポーツ・アカデミーのあるロスアンジェルスの北西のサウザンド・オークスまでヘリコプターで移動している時に起きた。確かに、ニューポート・ビーチからサウザンド・オークスに自動車で運転していくのはちょっと考えたくない。ヘリコプターで行きたい気持ちも分からなくもない。
 ただ、ロスアンジェルスは自動車を前提に都市づくりをしたので、低密度で広大な面積にいろいろな都市機能を分散させ過ぎた。人口が少ない時はそれでも、ある程度機能していたのかもしれないが、これだけ大きくなり、しかも公共交通の使い勝手が極めて悪いような状況下では、ブライアントのように時間価値が高い人が金に糸目をつけずにヘリコプターで移動したくなる気持ちはよく分かる。
 しかしなあ、もっと都市をコンパクトにして、また東京のように公共交通での移動がしっかりとできる都市であれば、このような事故も起きなかったのかもしれない、と思ったりもする。ヘリコプターで移動しなくてはならない、というかそういう選択肢を日常的に採る人が出た時点で、もう都市が機能していないということを理解すべきであろう。
 逆にいえば、ヘリコプターで移動できるから、ブライアントもマンバ・スポーツ・アカデミーを自宅から遠く離れたサウザンド・オークスに立地させたのかもしれない。どちらにしても、NBAのスーパースターと才能溢れる次女の命を奪ったのは、ロスアンジェルスという都市の構造であることは間違いない。ブライアントはロスアンジェルス・レーカーズ一筋のスーパースターであり、その都市のアイコンである。恩を仇で返すとはこのことだ、と思わずにはいられない。
 二つ目の点は、また後日、書かせてもらう。

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岡崎市を生まれて初めて訪問する [都市デザイン]

岡崎市を生まれて初めて訪問する。いや、岡崎インターを降りてJR岡崎駅そばの有名な鰻屋に入ったことがあったりするので初めてというのは違うが、岡崎城がある岡崎市の中心地に訪れたのは生まれて初めてであった。
 岡崎は江戸時代には東海道53次の宿があり、家康生誕の地でもあり、東三河の中心地であった。名古屋なんかより、はるかに存在感がある都市であったと思われる。明治時代に入っても岡崎県が設置されていたぐらいであるから、それなりのプレゼンスがあった筈だ。それが、現在は一地方都市として、なんか存在感が薄い。人口は増加しているが、これは外国人増加で日本人減少を補っているだけであるし、経済力は優れているかもしれないが、これは豊田のベッドタウンとして位置づけられる地理的要因に起因している。ということで、本来的には地方中核都市的位置づけであった筈なのに、なんで、こんなことになってしまったのか。
 それに対しての私の答えは、鉄道を忌諱したからだ。東海道本線が敷かれた時、当然、鉄道側は岡崎の中心に鉄道を敷きたかった。しかし、これに対して岡崎市民は猛反対。その結果、岡崎駅とは名ばかりの、岡崎市の南端に駅がつくられた。中心市街地からは相当、距離がある。その後、名古屋鉄道が名古屋と豊橋を結ぶ路線を敷くときは、中心市街地の近くに駅を設置することに成功する。これは、当時の名古屋鉄道がちんちん電車のようなもので、国鉄のような迫力がなかったためであると岡崎市役所の人が説明してくれた。現在、岡崎市の中心駅といえば、この東岡崎駅になるそうだ。
 その後、新幹線が1964年に開通するが、岡崎市はこの新幹線にも反対する。もし、新幹線のルートが岡崎市の中心近くに走ったら、岡崎市に新幹線の駅がつくられたかどうかまでは不明だが、その都市の歴史、さらには都市規模、また名古屋と豊橋との距離、三島や熱海、米原、岐阜羽島などに駅がつくられたことを考えると、岡崎駅ができてもまったくおかしくなかったであろう。結局、新幹線は岡崎市をかするように通っているが、はるか市街地より南を通り、その後、隣の安城に新幹線駅はつくられるようになる。
 中心市街地に公共交通が整備されていなかった訳ではない。1960年代まではJR岡崎駅と東岡崎駅、そして家康の菩提寺である大樹寺とを結ぶ路面電車が走っていた。現在も、この路面電車が走っていた通りは「電車通り」と呼ばれているそうである。しかし、路面電車が廃止され、その後は、ひたすらモータリゼーションの道を進む。中部地方最大ともいわれるイオン・モールが20年前にJR岡崎駅と東岡崎駅の中間に開店すると、中心市街地の衰退も一気に進む。
 岡崎の人達がなぜ、ここまで鉄道を嫌ったのかは不思議である。もし、東海道線をもっと都心部にまで引き込み、さらには名鉄を都心部に走らせ、新幹線の駅もつくっていれば、今頃はもっと栄えていたのではないかと思われる。なんか、とてももったいないことをした都市のような印象を覚える。

タグ:岡崎市
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先斗町で開業してから55年経つスナックを訪れる [都市デザイン]

都市デザインの大家である大阪大学の鳴海名誉教授から、1970年の先斗町、木屋町の飲み屋マップを授かった。それで、この地図を片手に、時間がある時(あまりないのだが・・)に、まだ存在しているお店を訪れるということ同僚の若手の石原先生としている。というか、正確には今日で二度目であるのだが、そういうことをした。前回は、万作という先斗町と木屋町通とを結ぶ路地にある居酒屋を訪れた。ここは、「随分と長くやっていらっしゃるんじゃないですか?」とおじさんにいったら「いやいや、全然、新しいですわ。ほんの60年」とか回答されて、「うわっ、京都や」と唸らされたのだが、今回は、ちょっと懐も温いこともあって、スナックにチャレンジした。
 ちなみに、私はそもそも京都だけでなく東京でもスナックには行かない。これは、スナックがとても苦手だからだ。まず、カラオケが嫌いでしない。さらに、綺麗なおばさんとか、ホステス的な若い女性があまり好きでない。そういう意味ではキャバクラとかも全然、好きじゃない。さらに、スナックは結構、高いくせに美味しい酒も置いてなく、まったく行こうとも思わなかったのだが、ほんの一週間前に、東京大学の某H先生に連れられて、四谷荒木町のスナックに行き、ちょっとスナックへの抵抗が減ったということもあったかもしれない。
 1970年の地図に残っていたスナックは、「歌宴」という店であった。看板に「女性バーテンダーの店」と書いてある。女性バーテンダー?ちょっとよく分からないが、何しろ1970年から営業しているのであれば、そんなえぐい店である筈はないだろうと思い、どきどきしながら扉を開けた。
 さて、扉を開けるとおばあさんが一人、客席に座って、テレビをボーッと観ていた。おお、これは不味いかも、と瞬間思ったが、ここはヒアリング調査もしなくては、ということと、一人ではないということも手伝って、「入っていいですか」と声をかける。おばあさんは、客が来たことを心から喜ぶような表情をして、我々を自分が座った席に座らせ、自分はカウンターの中に入る。
 このお店は、このおばあさん(以降、ママとする)が1964年の4月、18歳の時に開業したもので、今年で開業55年目になるそうだ。そして、ママの年齢は73歳。しかし、73歳とは思えないほど、話し始めるとチャーミングでこちらも楽しい気分になる。さすがプロだ。お店はママのお母さんが出資してくれて始めたもので、当時は350万円ほどで支払ったそうだ。つまり、ママは正真正銘、このお店のオーナーであるのだ。ウィスキーのロック割りを飲みつつ、柴漬けやスルメイカを食べる。これらのつまみもちょっと工夫をした味付けがされており、美味しい。
 先斗町、木屋町通はこの50年で随分と変わったそうだ。50年前はもう飲み屋と料理屋だけで5000軒もあったそうである。5000軒!下北沢の店舗数が12000店であることを知っているので、多少、その規模感とかが推測されるが、それにしても多い。飲食店だけだからね!しかし、それからは随分と減ったそうである。現在の数字はママさんもよく分からないようだが、特に減ったのは、ホモ用のお店だそうだ。当時は220軒はあったそうであるが、今は10軒もないとのこと。220軒もあった時は、美少年と金を持っている中年男のカップルが結構、よく周辺では観られたとのこと。
 また、結構、ぼったくりのお店も多かったそうだ。あと、あの呼び込みというのは、お店が雇っているわけではなく、アウトソーシングされていることも知った。ぼったくりは、ちょっと入ってお酒を一杯か二杯飲んで、15万円ぐらい請求するようなお店である。こういう店のほとんどはヤの字が経営していたようである。
 「18歳でお店を始めた時は、結構、将来どうなるかとか、いろいろと考えられたんじゃないですか」と、ママが開業した時より年を取っている幼稚な学生達と日々、接しているので、思わず尋ねると、「開業当時は目が回るほど忙しくて、そんな考える余裕なんてなかった」と回答された。そして、どうも開業当時は「女性バーテンダー」というのは珍しかったらしく、テレビ、ラジオ、雑誌などで随分と紹介されたそうだ。人を雇っていた時も結構、長かったそうだ。
 店にはレオタード姿のママの若い時の写真が貼ってあって、それは相当、可愛い感じなのだが、既にその時45歳だったそうである。45歳で、この美貌であれば、20歳の時は相当、可愛かったであろう。
 ということで、ほぼ生まれて初めてぐらい、再訪してもいいスナックを見つけた気分になっている。料金はやはり、そこらへんのバーの3倍ぐらいは高い。私が最も頻繁に行く下北沢のマザーよりも3倍は高く、しかもママは60歳は越えているが、「夜宴」のママよりも若い。まあ、マザーが先斗町にあったら、夜宴に行かないかもしれないが、マザーは先斗町にはないからな。
 

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ドルトムント駅ではいつでも南北の方角を混同してしまう [都市デザイン]

西村幸夫氏の『県都物語』を読んでいる。日本を代表する都市研究者が、47都市を訪れ、そこでいろいろな思いを馳せ、文章にまとめたものだが、その内容は大変興味深い。さて、ここで著者は中央駅を降りた時の都市のオリエンテーションについて、常に関心を抱いている。中央駅は、その都市の玄関口である。玄関がどの方向に向かって、何を意図して設置されているのか。都市計画者らしい鋭い視点での考察がなされている。
 さて、そういう観点でいうと、私が常に方向感覚を失うのがドイツのドルトムント駅である。初めて訪れた時にそう思ってしまったかもしれないが、中心市街地が北側にあるように思ってしまうのである。そして、久しぶりに訪れたドルトムントでも中心市街地に行こうと思って駅を降りると逆の方向に歩いてしまったし、東側にあるドルトムント大学に行く列車を待っていたら、てっきり右から電車が来るかと思ったら左から来たので驚いた。
 これは、もう本当に意識しないと間違えてしまう。太陽の方向とかを考えれば、すぐ分かると思うのだが、どうにも間違ってしまう。一度、そのように空間認識をしてしまうと是正が難しいのか、それとも都市計画的になんかそう誤解させるようなつくりをしているのであろうか。ちなみに、ドルトムントと同じルール地方にあるボーフム、エッセン、デュースブルク、デュッセルドルフといった大都市の旧市街地は皆、デュッセルドルフからベルリンに向かう列車では右側に都心部がある。ドルトムントだけが例外である。これが、私の方向感覚にズレを覚えさせている可能性は極めて大きい。他にもドルトムントと距離の近いミュンスターとかもいわゆるデュッセルドルフから下りの列車では左側に都心部がある。まあ、他にも原因があるのかもしれませんが、いつも間違えるし、久しぶりに訪れても間違ってしまった。玄関口の設計等に何か課題があるのかもしれないが、私のイメージ・マップでは駅の北側に都心部ができてしまっていて、なかなか修正できないでいるのである。

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ドルトムントの4つのアイデンティティ [都市デザイン]

以前、客員教授で1年間ほどいたドルトムント工科大学の空間計画学部を訪れる。10年ぶりぐらいだ。私が行くきっかけをつくってくれたフランク・ルースト、私と一緒にドルトムント工科大学に行き、その後も長いつきあいを続けているヤン・ポリフカ、さらには私を引き受けてくれた同時の学部長であったクリスタ・ライヒャーなどは皆、もういなくなっている。彼らに換わって、私の相手をしてくれたのは、私が客員で滞在しなかった時にはいなかったトーステン・ヴィーマンである。
 さて、彼とはいろいろと有意義な話をすることができたが、ドルトムントという都市の話が特に私の興味を惹いた。ドルトムントには4つのアイデンティティがあると彼は指摘する。鉄鋼業、石炭、ビール、そしてサッカーである。いや、そんなこと私でも知っているよ、というリアクションをする方もいるかもしれない。私も、そんなもんだよな、という感じでその話だけでは新鮮さを覚えない。ただ、ヴィーマン先生は、それを説得力のあるデータにもとづいて話してくれる。これは、興味深い。例えば、ビールの生産量は世界で二番目の都市だそうだ。一番はちなみにミルウォーキーのようである。ということは、ドイツでは当然、一番ということだ。サッカーはボルシア・ドルトムントの本拠地であるシグナル・イドゥナ・パルクの収容能力は80000人を越え(立ち見含む)、この規模は世界一だそうである。2014年から2015年のシーズンでは、ドルトムントの平均観客動員数は80463人。これって、全試合、完売というか満席ということである。ボルシア・ドルトムントのファンが世界一というのはあながち嘘ではなさそうだ。ちなみに80000席のうち、50000席がシーズン・チケット・ホルダー。ボルシア・ドルトムントのホームゲームのチケットを入手するのが大変、難しいのはこういう点にもあるのだろう。
 2015年にドイツのサッカー博物館がドルトムント中央駅の目の前につくられたが、この施設はやはりドルトムントにこそつくられるべきものであったな、ということも納得した。

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道明村にある竹芝村で日本語が達者な宿屋の経営者と話をする [都市デザイン]

崇徳村でフィールドワークをしているのだが、外国人はいわゆる民宿には宿泊できなく、ちゃんとした宿に泊まらなくてはいけないらしく、近くの道明村にある「竹芝村」というリゾートにあるホテルにて宿泊している。この「竹芝村」は田園風景が売りらしく、どことなく福島県とか茨城県を彷彿させるような風景が広がる。自然景観が優れている訳ではまったくないのだが、まあ、ちょっと落ち着くような田園風景ではある。そこには、このホテル以外の民宿も多くあり、散歩がてらちょっと覗いていたら、なんと日本語がぺらぺらな方がオーナーの民宿があった。これは研修生で以前、山梨県に住んでいたからだそうだ。
 そこでいろいろとお話を聞いてみた。まず、このオーナーは成都に家があり、この宿を弟と友人の3人で出資したつくったそうである。キャピタル・コストは7500万円ぐらいだそうだ。そして、ここは1泊およそ1万5千円ぐらいだ。二食付きであるだろうが、なかなかの値段である。ちょっと日本より高いような気がする。目の前に浅間山や富士山が見える訳ではないので、この値段はちょっと割高だ。ただ、部屋はみてないので、もしかしたらとても豪華かもしれない。とはいえ、温泉もないだろうし、やっぱ高いな。
 お話を聞きながら、ついでにお茶と食事をいただいた。食事は餃子と刀削麺であったが、4人でなんと300元であった。4500円ぐらいか。お茶は確かに相当、美味しかったし、料理も相当美味しいと思ったが、それにしても値段は高い。日本より高いような印象だ。
 このオーナーはまだ40歳代ぐらいかと思われるが(年齢は教えてくれなかった)、自動車はBMWだ。旦那さんはアウディに乗っているようだ。ほぼ毎年、冬には日本のスキー場にバカンスで行くそうだ。北海道に多く行くということだが、そんなことは私は到底、お金がなくて出来ないので、相当、儲かっているのかもしれない。なかなか羽振りはいいという印象だ。
 しかし、温泉もなく、平凡な田園風景が売りで、この値段であることを考えれば、中国人がインバウンドで日本に来たがるのはよく分かる。日本はいつの間にか、物価が安い国に成り下がってしまったのだな、ということによく気づかされた。

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(なかなかお洒落な民宿である)
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