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リーダーとしての資質を欠く菅首相のもとでの緊急事態宣言発令はあまり効果は期待できない [サステイナブルな問題]

菅義偉首相は13日、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、大阪、兵庫、京都、愛知、岐阜、福岡、栃木の7府県に緊急事態宣言を発令し、これで背実、発令された東京、神奈川、埼玉、千葉とあわせ11都府県になった。
首相は会見で「あらゆるリスクを予防的に取り除くため」と述べたが、あれだけ専門家だけでなく世論も反対をしていた「Go to Travel」や「Go to Eat」といった、コロナウイルス全国まき散らし政策を前倒しをしてまで実践してきて、どの口が言うか、というのが率直な私の反応である。
菅首相のような人間がバスケットボールの監督をしていたら、その一貫性のなさに選手は皆、言うことを聞かなくなるか、勝つために協働するようなことをしなくなるであろう。もし、会社の上司であったら、必要最低限のことをして、その部署の業績を上げるために頑張るようなこともしなくなるであろう。もちろん、そのように対応すれば、試合には勝てなくなるし、サラリーマンであればボーナスも減る。しかし、そのような自分にもマイナスが生じたとしても、大抵の人はそのようなチーム、組織では頑張れなくなる。有能なリーダーが求められるのは、そのような組織において人々を一つの方向に協働させ、力を出させるうえではそれが不可欠であるからだ。
菅首相をみると、まったくもって名監督が備えている資質を有していないことが分かる。半沢直樹のような人にやりがい甲斐を与えるような上司としての資質を、まったく有していないことも分かる。半沢直樹で菅首相をイメージさせるのは、緋田康人が演じた小木曽忠夫である。あの、人を問い詰めながら、机をかつかつ叩いて半沢の友人であった近藤を追い詰めた浅野支店長の腰巾着である。
ただ、流石に小木曽のようなタイプが首相にまで辿り着くだけの人望を得られるとは思えないから、第二部の再建タスクフォースリーダーの弁護士、乃原正太といったところだろうか。地方で子供の頃、親の事業が傾いたので苦労したという点とかも菅首相と共通している。いや、乃原弁護士のように頭の回転はよくないでしょう、という突っ込みもあるかもしれないが、テレビの画面には見えないところで、意外と乃原弁護士並みの嫌味などは言っていそうである。
逆に言うと、とても大和田常務のような悪人としての器の大きさも感じられないし、大阪西支店長であった浅野のような男の色気的なものも感じない。当然、箕部幹事長のようなカリスマ性はみじんも感じられない。まあ、そういう意味では部下に嫌なことを押しつけて飄々としているところは古田新太演じた三笠副頭取に似ている。彼は、乃原弁護士のように賢そうでもないし、カリスマも男の色気もないし、副頭取というポジショニングからも似ている。というか、三笠副頭取が頭取になったら、東京中央銀行の株とか下落しそう。副頭取なら務まるが頭取には向いていない。菅首相もまさにそんな感じである。
話は随分、横道に逸れたが、菅首相はリーダー的資質をあまりにも有していない。自民党といった二世・三世といった世間知らずのお坊ちゃん達がうごめく世界で、処世術を使って出生していくことは可能であったのかもしれないが、一般国民をリードするような術も持っていなければ、そのような気持ちもない。いや、あったとしてもその気持ちを伝えるコミュニケーション能力を有していない。
そういう意味で、このコロナ禍で菅氏のような人物を首相に祭り上げてしまった日本という国は悲惨である。ということを、改めて11県に緊急事態宣言の発令がされたことで認識する。

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Go to Travelの地域振興券は天下の愚策 [サステイナブルな問題]

今、ホテルに泊まると地域振興券がもらえる。私はこれまでいわき市、水上市、そして岡崎市でもらった。1000円相当の金券で、宿泊当日と翌日に使うことができる。使える場所は限定されているが、宿泊施設がある県と隣接した県において使える。無節操に人の税金をばらまきやがって、と怒っている私であるが、くれてやる一方なのは癪なので、しっかりともらっている。正直者が馬鹿を見る社会は嫌いなのだ。
 さて、しかし、この地域振興券、ほとんど使えない。いわき市でも岡崎市でも、どこで使えますか?とホテルで聞くと、「コンビニエンス・ストアで使えます」と回答する。コンビニでもの買うのに使って何が地域振興か!とも思うが、怒ってばかりでは損をするばかりなので、しょうがないのでコンビニでマスクや歯ブラシとか日常品をとりあえず購入した。水上市では、隣接する新潟県で「柿の種」を買えたので、多少は地域経済に貢献できたかもしれない。しかし、岡崎市ではコンビニ以外だと、チェーン居酒屋で使えるみたいですよ、とのこと。僕が困ったような顔をしていると名古屋駅でのキオスクでも使えるとのこと。ということで、名古屋駅のキオスクで使うことにした。ただ、名古屋駅はキオスクだけでなく、多くの店でも使えることが分かった。ただ、私はあまり名古屋駅に滞在する時間もなかったので、しょうがないので駅弁を買った。急いで買おうとしたので、間違えてJR東海パッセンジャーズの駅弁を買おうとしてしまったのだが、直前に気づいて松浦商店のものにした。松浦商店、絶品とはいえないがしっかりとした駅弁をつくっている。
 まあ、しかしなあ、地域振興券では消費者としてはそれほど必要があるものを買っている訳でもないので、効用がそれほど高まる訳でもないし、地元にも寄与できている訳でもない。供給側も、結局、煩わしい事務作業を処理できるチェーン店などの企業が主流で、本当に援助が必要な援助にはなっていない。
 飢えているダチョウに、2メートルぐらいの高さに食料を与えるようなもので、チェーン店などの大企業のように「背が高ければ」食料に届くが、そうでないと届かない。チェーン店などの大企業はイオンやマクドナルドのケースをみれば分かるが、地域経済をむしろ破壊する。破壊する側に税金を与えるとは、公共政策としても180度間違えているのではないか。
 こういう馬鹿なアイデアを霞ヶ関の官僚が考えているとしたら、霞ヶ関のエリート官僚の知能も地に落ちたものだと書こうとして、そんな訳はないなということに気づき、これはやはり政治家のアイデアであろうと判断する。

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紅葉に関する考察 [サステイナブルな問題]

日本は四季がはっきりとしていて、この季節感が日本人の自然の捉え方や死生観などに影響を与えていることは間違いないであろう。そして、その季節の移ろいの大イベントは桜の開花であるかと思う。ただ、私は桜より紅葉の方が好きだ。乱舞するような色彩のグラデーションは桜より、さらに目を楽しませてくれる。
 アメリカの画家、ジョージア・オキーフはニューヨーク州の避暑地であるレイク・ジョージに住んでいたが、その後、旦那の不倫を機にニューメキシコ州のゴースト・ランチへと引っ越しをする。その時の理由が「レイク・ジョージに比べるとゴースト・ランチのランドスケープの色彩がはるかに多彩である」と説明した。自然の色が、我々の色彩センスを豊かにする。レイク・ジョージが12色の色鉛筆セットであれば、ゴースト・ランチは48色のそれである。画家にとっては、自然の色彩が豊かであるということが、その才能のインスピレーションに必要だったのであろう。
 日本の紅葉時の色彩の豊かさもまさに48色の色鉛筆セットのようである。この色彩の豊かな空間に暮らしていることは、ある意味、たいへんな贅沢である。日本政府は、山を紅葉が美しいブナ林からせっせと植林政策のもとスギ林に変えてしまったが、紅葉時のスギ林の色彩は貧相である。生物多様性だけでなく、色彩の多様性をも失ったのが、日本政府の戦後の森林政策であった。
 とはいえ、日本にはまだそれらの政策から漏れたブナ林などの落葉広葉樹林の豊かな森があり、この時期に我々の心を豊かにするような色彩のダンスをみせてくれる。


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小谷温泉の村営の露天風呂で公共性を理解しない日本の若者に嘆く [サステイナブルな問題]

小谷温泉に小谷村が経営している露天風呂がある。ブナ林の中にある見事な露天風呂で、温泉はもう絶妙だ。ブナの葉が演出する木漏れ日が目に優しく、幸せな気分になる。脱衣所もちょっと開放的ではあるが、清潔であり、気持ちよい入浴体験ができる。トイレはなんとウォシュレットだ。結構、お金がかかっている。ふるさと創世交付金でも使ったのであろうか。
 さて、この施設は投げ銭制度である。私はちょうど財布の中にあった200円を投入した。こんなによい温泉であれば、ちょっとケチだったかもしれない。私が温泉を出て、服を着ている時、白人の若者と日本人の若者とが脱衣所にやってきた。会話から、地元で一緒に働いているような関係のようだ。さて、白人の若者は投げ銭で500円を入れた。流石だ。このようなプロジェクトにお金がかかり、その便益を享受したものがその対価を支払うことを理解しているとみた。500円はちょっと多いかなと思ったが、この温泉に隣接する雨飾荘は600円なので、そういう意味では妥当かもしれない。私も500円は払え、といえば払ったであろう。さて、その白人を尻目に日本人の若者は一円も支払わないで入った。
 なぜ、彼が一円も払わないのかいろいろと事情はあるだろう。たまたま、手元にお金がなかっただけかもしれない。しかし、これは憶測ではあるが、彼は払うことの意味が分かっていないのだと思う。白人の知りあいが払うのを見ても、まったく動揺さえみせず、私がちょっと何だこいつは?的な目で見たとき、挑発的な顔で見返してきたからだ。
 これは典型的な共有地の悲劇の事例かと思う。正直者が馬鹿を見る、という奴だ。しかし、この日本人の若者のようなものばかりになると、この温泉はおそらく成立しなくなるであろう。少なくとも維持には、この村の税金が使われる訳であるから、成立したとしても他のところにシワ寄せが行く。そういうことを理解しての確信犯であるならまだいいが、おそらくこの日本人の若者はそういうことも分かっていないのだと思われる。じゃあ、お金を取るシステムをつくればいいじゃないか、と思われるかもしれないが、お金を取るシステムをつくることにも、またそれを維持管理するにもお金がかかるのだ。こういう正直者に依拠するようなシステムをつくった場合、我々は、そのシステムを利用する際には正直者であるべきである。人を見たら泥棒と思え、という前提では本当、社会を運営するのにお金がかかるのだ。
 日本はそういう点では、他国よりは優れているはずであるが、小谷村の公営露天風呂でみた光景は真逆であった。情けない。
 

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JR東日本の終電時刻の繰り上げは、コロナウィルスが及ぼしたテンポラリーな社会変化を硬直的させることに繋がる [サステイナブルな問題]

一時期の勢いはなくなったが、現在でもコロナウィルスは9月4日時点で新たな感染者数は669人、東京都でも136人で、まだまだ予断を許さない状況にある。さて、そのような中、JR東日本が終電時刻を来年のダイヤ改正で繰り上げることを決定した。
 コロナウィルスによって、人々は夜の街に出かけることが少なくなった。これは、コロナウィスルの感染拡大を抑えるためであり、政府が営業時間の時短などを要請したからである。あくまで緊急対応的なテンポラリーな対応である。ただし、その結果、一時的ではあるが夜の時間帯における活動が抑制され、飲食店などは随分と経営的にも厳しい状況を余儀なくされている。当然、交通需要も減ったであろう。
 さて、しかし、これらは繰り返すが一時的な現象ではある。いや、結構、長引く可能性もあるが、今年中にワクチンが開発されるという報道もある中、また、コロナウィルス系のSARSやMERSなどの事例を考えても、それほど長期間にわたって、コロナウィルスの影響下で生活をすることはないだろう。それは、日本においても、東京都においても感染者数が下がっているトレンドから容易に推察できる(多少の増減はあっても、長期的にはその影響は減少するであろう)。つまり、夕方から夜間にかけての経済活動も、現在をどうにかやり過ごせば、以前のような状態には戻れると思われる。もちろん、その間に店を畳むことを強いられる店舗等も少なくないだろうが、逆にいえば生き残ることができれば、将来的には大丈夫であろう。
 ただし、そのような都市活動を維持するインフラが変更してしまったら、その前提条件は大きく覆されてしまう。報道だと、JR東日本は主に東京100km圏の各路線において終電を30分繰り上げるそうだ。これによって、多くの客が終電に間に合うように30分ほど早くお店を出ることになるだろう。これは、30分間営業時間を短くするようなのと似たような効果が考えられ、お店の営業に大きな影響を与えるのではないかと推察される。お客だけではない。多くのお店では従業員を終電で帰させるように勤務シフトを考えているので、実質的にはこの終電時間の繰り上げは営業面で大きなマイナスの影響を与えることになるであろう。
 30分ぐらい大したことがない、と思うのはお店の事情を知らないからであろう。最近、東京都が夜10時までの営業を依頼したが、少なくない店が無視をした。これは、もうそうしないと経営がたち行かなくなるからだ。この多くの客を30分早く帰宅させる今回のJR東日本の決断は、都市経済活動を維持している最も根元的なインフラを自分達が支えているという自覚に欠けていることを浮き彫りにさせている。いや、民間企業だから知ったことがない、といってしまえばその通りなのだが、鉄道路線は民間企業が経営していても「公共」交通である。そして、その「公共」が福祉だけではなく、経済をも含んでいる場合、それを担うものは重大なる責任が伴う、ということはしっかりと認識してもらわないと不味いなと思う。
 個人的には、サラリーマンを辞めた後は、東京にいる時はほとんど下北沢でしか飲まないし、京都で働いている時も、家に歩いて帰れるような店でしか飲まないので、JR東日本が何をしようが構わないのだが、このような動きを社会がし始めると、暫定的なコロナウィルスのマイナスの影響が、硬直化し、パーマネントになってしまう。コロナウィルスは天災かもしれないが、JR東日本のような動きが見られ始めるとそれは人災になる。
 ということを、あまり誰も指摘しないので、代わりに私が指摘させてもらう。

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コロナによる死亡者数の推移 [サステイナブルな問題]

コロナウィルスを警戒する人達を「コロナ脳」と批判する人達が増えています。まあ、批判するのは勝手かもしれないですが、このグラフをみてから言ってもらいたい。

https://public.flourish.studio/visualisation/2944635/?fbclid=IwAR1QBsz0mpvotGoiGS-gcq7XHScyTJBC-ouxtY_nAWw3lXSwymbDtINlM1I

このグラフは、2020年1月1日から今まで(7月24日)の要因別死亡者数を示したものです。2月頃からコロナウィルスでの死亡者数が凄い、勢いで増え始めて、マラソンに例えれば最下位グループからまさにターボエンジンをかけたかのように猛追して、現在は3位。しかも2位の「結核」に肉薄している。1位の「糖尿病」も視野に入っている。これは、今年後半ではトップに立つでしょうな。どこが、ただの風邪だ。ちなみに、こちらの方が危険だと指摘されているインフルエンザは11位。


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コロナ脳批判の背景を考察する [サステイナブルな問題]

最近、コロナ脳を批判する人達が日本において増えている。不思議なのは、このコロナ脳批判の議論は国際的にはほとんど異端であるにも関わらず、日本では幅を効かせているということだ。いや、完全に異端という訳ではない。ブラジルの大統領は、コロナ脳批判を繰り返している。そして、自分も罹患してしまった。ただ、その後も意見をあまり変えていないようだ。ある意味、信念の人かもしれない。あと顕著なのは、トランプ政権とその支持者達である。5月頃は、コロナで自粛したりする州(特にニューヨーク州など)を政策的な失敗と批判していて、今、まさにコロナ脳とカテゴライズされるコロナ自粛派を批判というか、罵詈雑言を浴びせている人達とほとんど同じことを言っていた。特にフロリダ州のデサンティス知事やテキサス州のアボット知事などである。7月の今、両州とも驚異的にコロナ患者が増え、ヒューストン市などでは病院のキャパオーバーとなり、まさに緊急事態である。フロリダ州はアメリカ合衆国を含めてだが、国として捉えると4番目の新規感染者数を記録している。
 コロナはただの風邪、みたいなことは、まさにアメリカのコロナ脳批判者側がずっと言っていたことで、コロナ脳批判者の意見には既視感を覚える。ということは、2ヶ月後には日本も相当、コロナが流行していることが考えられる。
そして、ついにトランプは先日、コロナは危険であり、しっかりと抑制させなくてはいけない、マスクもしなくてはいけないとホワイトハウスの記者会見で述べた。自分のこれまでのコロナウィルスに対する考え方を公に改めたのである。トランプが、このように煮え湯を飲むことになったのは、コロナウィルスがアメリカにおいて猛威を奮っているからである。コロナによる死者数が14万人を越えた現状において、これ以上、コロナ脳批判を繰り返していると、11月の大統領選において惨敗することが目に見えているからだ。
グローバル化することでメリットとデメリットが双方あるが、こういう輩達の意見がおかしいということが、他国が辿った道を知ることで分かるということはメリットであろう。おそらく、こういう情報を流している人達の一部はお金をもらって発信しているだろう。アメリカにおけるSNS等を通じたフェイク・ニュース発信者と同様に、そういうビジネスがあるのだと思われる。そういう人達の意見は無視していればいいのだが、結構、インテリもだまされたりするので気をつけなくてはならない。ホリエモンとかはまず相当の確率で、あのように発言することでお金が懐に入っているような気がする。くれぐれもそのような発言には気をつけて、自分の頭でしっかりと考えることが必要である。鵜呑みをするのは危険である。まあ、そういう意味ではこのブログも同じ位置づけかもしれないが。

タグ:コロナ脳
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日本のコロナウィルスの人口当たりのテスト数の異様な低さ [サステイナブルな問題]

日本のコロナウィルスの人口当たりのテスト数を国際比較すると、その数字の低さに愕然とする。215国中なんと159位で、日本はセネガル、ウガンダの次である。私はセネガルには行ったことがないが、ウガンダには行ったことがある。まともな医療サービスを受けることが難しいようなウガンダの方が日本より順位が高いというのは驚愕の事実だ。ちなみに日本の次はカメルーンで、グイアナ、ケニア、インドネシア、トーゴ、トリニダード・トバゴ、フィジー、ザンビアと続く。日本より100倍多く実施しているのはルクセンブルクであるが、50倍以上であれば、アラブ連邦共和国、バーレイン、アイスランド、デンマーク、イギリス、シンガポール、ロシア、イスラエル、カタール、アメリカ合衆国、オーストラリア、ポルトガル、スペイン、ベルギー、アイルランドといった国が挙げられる。
 感染者数が27090人、死者が988人、新規感染者数が567人(7月22日)という状況で、このテスト数の異様な低さは異常である。
 コロナウィルスの感染の拡大を抑止するのは、ニューヨーク州での取り組みが成果を上げていることからも分かるように、徹底的にテストをして、コロナウィルス感染者を隔離し(自宅待機等でも構わない。人との接触を回避させるということ)、非感染者によって経済活動を続けるという状況を維持させることである。つまり、岩手県のように感染者数がゼロのところの小学校まで一律に閉校するのではなく、感染者が存在する場所において、その感染拡大を抑制させることが極めて効果的である。
 ここでテストをして陽性なのに陰性がでた人が移したら大変だ、という議論があるが、それであれば二回テストをして、そのような確率を減らすことを考えるといいと思うし、そのような人が多少、人に移すリスクがあるといっても、それでも検査をしないよりかは、はるかに状況は改善されると思う。自覚がないまま、人に移してしまう人が存在するという事実は検査をしようがしまいが、どちらにしろ、あり得るからだ。まだ検査をした方が、少なくとも検査で陽性が出た人が行動を抑制するからプラスである。
 ゴートゥー・トラベルの理不尽さは、二階氏関連の業界への利益誘導であることが明らかになり、納得している自分がいるが、このコロナウィルスの検査を回避しようとする本当の理由は何なのであろうか。アフリカ諸国並みの人口当たり検査数、そして、ここ数日の新規感染者数の高さの異様さから考えると、日本はなんかとんでもなく駄目な国になってしまったと思わずにはいられない。アメリカ合衆国の馬鹿な対応を対岸の火事のように笑えない状況になりつつある。

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「Go To トラベル」は21世紀の「生類憐れみの令」なみの愚策である [サステイナブルな問題]

コロナウィルスの新規感染者数が増えている。昨日(7月21日)、東京都内では237人の新型コロナウイルス陽性者が確認された。陽性者が100人を越えるのは13日連続で感染拡大に歯止めがかからない。大阪府でも 72人と増加傾向がみられる。国内での新規感染者数は631で、全体でも増加傾向にある。増加率の推移をみると、4月2日の頃よりは緩やかではあるが、パンデミック前夜というような状況でもある。
 さて、そのような危機的状況にある中の本日、「Go To Travelキャンペーン」が開始される。Go To Travelって、英文法的に間違っているだろう(敢えて正しいように解釈すると、Travelという固有名詞がある場合、例えばTravelというお店に行けという場合は間違いではない)という突っ込みは置いといて、このあまりのタイミングの悪さにゾッとする。というか、実態としては、人々の移動をむしろ規制するような状況であるのに、血税を投入してまで人を移動させようと促すこの愚策は、なんかコロナウィルスを撒き散らしたい悪意があるのか、とさえ邪推させる。
 コロナウィルスは人を介して感染する。したがって、ソーシャル・ディスタンスやマスクが極めて、その感染防止に有効である。これでも感染拡大を阻止できない場合は、ロックダウンという措置をすれば、EUの経験からも抑えることができることは分かっている。
 ゴートゥー・トラベルはまさに、その逆の効果しか及ぼさない。それなのになぜ、このような対策をするのか。表向きは国内観光需要喚起ということで、コロナウィルスの流行によって打撃を受けた観光産業の支援ということだが、この施策によって、さらにコロナウィルスの新規感染者数が増えれば、結果的には観光産業により大きな打撃を与えることになる。そもそも、コロナウィルスによる地球規模でのパンデミックは、観光のあり方に大きなパラダイム転換のような変化を強要しているような状況である。コロナウィルス以前の観光を維持させようという発想自体、賢明ではないと思われるが、そのために血税を投入する必然性はない。この愚策の予算は1兆7千億円。日本人一人当たりの負担額は1万4600円ぐらいか。一人一泊当たり2万円の補助だと、まあそんなものかもしれないが、東京都民には適用されないので、その不公正はどうにか対処してもらいたいと思う。と書いて、東京都民の予約キャンセル料を国が補填するので、これで東京都民分は全て水疱に帰すだろうな、と思ったりする。しかし、このキャンセル料に税金を使う、ということの馬鹿さ加減というか無責任さをもっと自覚してもらいたい。普通、こんなキャンセルをさせるような事業を遂行したら、民間企業だったら降格かクビですよ。というか、ボーナスは全額カットであろう。
 それはともかくとして、この状況下でこの愚策を推し進めるのは、当然、全国旅行業協会の会長が二階さんであるからだと推察できる。とはいえ、あまりにも分かりやすくて、国民を愚弄している。そして、二階さんを支持しているのが観光産業を所管する経済産業省らしい。相変わらず、経済産業省はセンスが悪い。
 私の机の上には、使われていない「アベノマスク」が置かれている。使おうかと思うのだが、あまりにもサイズが小さくて、結局、市販のものを使ってしまっている。そのうち、ゴミ箱に行くであろう。このアベノマスクで使われた国民の血税は260億円。まったくの無駄であったが、260億円だと国民一人当たりの負担は220円。まあ、これぐらいだったら、それほど痛くない。1万4600円は、ちょっと洒落にならない。あと、アベノマスクはコロナウィルスの感染防止に役立たなかったかもしれないが、その感染拡大には寄与していない。ゴートゥー・トラベルは感染防止にはまったく効果はゼロだが、感染拡大には寄与する。そして、この感染拡大することが、観光産業へのダメージをより長期化、深刻化させる。
 二階さんは4200万円ぐらい、観光業界から献金してもらっていたので、このような機会に恩返しをしたいという気持ちはあったのかもしれないが、国民の健康(場合によっては生命)を犠牲にしてまですることではない。というか、これって、観光業界への恩返しにもならない。なぜ、もう少し、待てなかったのか。
 これは、「生類憐れみの令」なみの愚策だ。おそらく、歴史に残るであろう愚策になるだろうと思われる。

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人口減少や少子化・高齢化といった問題を自治体だけで対応しようとしても無理であろう [サステイナブルな問題]

現在、京都大学の教授をしている広井良典氏が2010年に自治体を対象として実施した
「地域再生・活性化に関する全国自治体アンケート」で「現在直面している政策課題で特に優先度が高いと考えられるものは何か」という質問をしているのだが、その回答の一位は「少子化・高齢化の進行」であり、二位が「人口減少や若者の流出」であった(広井良典『人口減少社会のデザイン』、東洋経済出版社)。
 これらの課題は深刻ではあるが、これは自治体が政策的に対応してどうにかなるものではない。地球温暖化に一自治体で対応することよりかは何かしら手立てがあるかもしれないが、ほとんど焼け石に水であろう。というのも、このような問題が生じているのは、その自治体に原因がある訳ではなく、全国いや全世界的な現象であるからだ。そういう意味では地球温暖化とも共通点はあるかもしれない。
 それは10歳の子供が家計を心配しているような、なんかズレを感じてしまう。というのも、このような現象が生じている一番の要因は、中央政府そして自民党政権がそのような大都市(特に東京)を極端に優遇するような政策を推進してきたからであり、それに抗うのはゴリアスに素手で挑むようなものである。それは政策ではなく、政治で対応しなくてはならない、それなのに、そもそも地元に基盤はあっても、東京で生まれて東京で育って東京で暮らしている政治家が地元視点での政治ができる訳ないのに、そういう人達にずっと投票をしてきたことに問題がある。ここらへんから変えないと、一地方自治体が政策で対応しようとしても無理だ。それは、癌を手術ではなくて薬だけで処方しようとするようなものだ。しかも、薬ほとんど揃えがないし。
 このようなマクロの問題に対処療法的に対応するような愚はやめて、もっと、その自治体が100年後にどのようになっていきたいのか、といったような将来構想を地元で共有できるような動きをすることの方がずっと効果はあると思われる。それによって、未来をその自治体でつくっていこう、という気持ちにもなる。私が幾つか訪れた自治体でも、長門市(山口県)とか尾道市(広島県)、金沢市、弘前市、神山町などではそのような動きの鼓動を感じることができる。
 特にコロナウィルス禍の中では、それまで大都市の優位性の根源であった集積の経済が必ずしもプラスとして働かなくなっている。自分の自治体の存在意義、アイデンティティといったものを考えることの方が、「少子化・高齢化の進行」や「人口減少や若者の流出」といった課題に小手先で対応しようとすることよりずっと効果があると思われる。

人口減少社会のデザイン

人口減少社会のデザイン

  • 作者: 広井 良典
  • 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
  • 発売日: 2019/09/20
  • メディア: Kindle版



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テレワークの可能性と課題 [サステイナブルな問題]

2020年6月5日の東京新聞に、職業別のテレワークに関する実施率の調査結果が示されていた。パーソル総合研究所が実施した「新型コロナウィルス対策によるテレワークへの影響に関する緊急調査」(4月10日~12日)をまとめたものである。さて、それで実施率が50%以上の職業は上から「WEBクリエイティブ職」(64%)、「コンサルタント」、「企画・マーケティング」、「IT系技術職」、「広報・宣伝・編修」となっている。逆に10%に満たないのは下から「福祉系専門職」(2.2%)、「ドライバー」、「製造(組み立て加工)」、「建築・土木系技術職」、「飲食の接客・サービス系職種」、「理美容師」、「幼稚園教諭・保育士」、「医療系専門職」、「飲食以外の接客・サービス系職種」、「警備・清掃・ビル管理」、「販売職」となっている。
 コンピュータを相手に仕事をする職業ほどテレワークに移行しやすいことが分かる。とはいえ、それでも最大の職業でも3分の2ほどがテレワークで仕事をしているだけで、残りの3分の1はテレワークではなく仕事をしている。一方でテレワークの割合が低いものは、そりゃ、そうだと納得するような仕事がほとんどだ。人を対象とする仕事、もしくは場所(現場)に縛られる仕事(建築・土木、移動はするがドライバー)でテレワークをしている人は管理職のような人だけであろう。
 筆者は大学教員であるので、ほとんどテレワークである。テレワークをしはじめて、いろいろと気づいたことがある。まず、生活のリズムを維持することが大変であるということだ。あと、これは大学がオンライン講義にシフトすることを決めた時点で即、覚悟したことであるが、その準備は猛烈に忙しい。オンライン講義が開始してから、ほとんど土曜日と日曜日も仕事をしているような状況になっている。そりゃ、そうだ。90分の講義を録画しなくてはならないけど、一発でうまく録画できる訳がない。そもそも、途中で休みを入れないのはこの年だと無理に近い。疲れた時に録画作業をすると、噛みまくって何回も録画をする。それで、アップする前に再確認で見ると、結構、失言なども少なくなく、納得できず再録画をしたりもする。その結果、明け方まで仕事をしたりする場合も少なくない。同僚の若い先生はそのまま徹夜をしたりもするらしいが、私はとても無理なので明け方に眠って昼に起きるような生活になったりする。無理に起きると、昼食後に猛烈な睡魔が起きて、家ということもあって寝てしまう。結果、もういつでも時差のような状況になってしまう。
 個人的には、これが一番の課題であるのだが、このアンケート調査ではテレワークの課題も尋ねていて興味深い。それを多い順で紹介すると、「運動不足を感じる」(74%)、「テレワークでできない仕事がある」(60%)、「プリンターなど必要機器がない」(48%)、「仕事に集中できない」(44%)、「業務上の指示ややりとりに支障がある」(39%)、「会議が減ってさびしさを感じる」(37%)となっている。
 「生活のリズムが崩れている」という回答はないが、これは単に選択肢のなかっただけかもしれない。ここで挙げた課題で私も同意するのは「運動不足」と「仕事に集中できない」の二つである。「運動不足」は本当、相当気をつけないと大きな問題となる。私は幸い、自宅のそばに緑道があり、また1キロメートル以内に駒沢公園という広大な都立公園があるので、1日に5キロメートルぐらい散歩をするようにしているが、このような散歩環境がないと結構、ストレスは溜まるであろう。コロナ禍では、これら緑のインフラが生活環境内にあることの重要性を再確認する。もう一つの「仕事に集中できない」のは、自宅での作業の問題点であろう。誰も監視せず、周辺には気が散るものに溢れている。というか、コンピューターもユーチューブとかが私の集中力を大いに妨げる。いや、単に意志が弱いというだけなのかもしれないが、この自分の怠け心に打ち勝って仕事に集中出来る人がどのくらい、この世の中にいるのか。私はちょっと相当、少ないのではないだろうか、と思っている。
コロナウィルスは、現在は落ち着きつつあるが、また県外にまたがる移動を許可したということで、これからも収束するのは難しいと思われる。おそらく、コロナウィルスとは共生していくことになるかと思うが、そうすると、このテレワークで仕事をするスタイルは、緊急避難的な意味合いではなく、ある程度、対応できる職業を中心に普及していくのではないだろうか。そのための課題なども、このアンケートは浮き彫りにしており興味深い。

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経済社会活動をまともに戻したいのであればPCR検査は不可欠だ [サステイナブルな問題]

日本ではPCR検査数が圧倒的に少ない。その少なさの異常さは、イギリスのBBCなどで報道されている。桁が違う、という指摘である。このBBCの記事では、日本に滞在する外国人がPCR検査を受けるまでいかに酷い目に遭ったかとの報道もされていて、「日本、おかしいぞ」という論調で書かれている。

https://www.bbc.com/news/world-asia-52466834

私は日本のニュースはみなくてもCNNとMSNBCは毎日、チェックしているので世界的なコロナウィルス対策はある程度、理解しているが、そのような目でみると確かに日本は否定的な意味で「例外的」であり、ちょっと「異常さ」も感じる。

さて、しかし、日本ではあまり、この「異常さ」を自覚しているとは思えない。例えば、次はある総合病院のブログではあるが、PCR検査をしないことの理由が書かれている。橋下元大阪市長などの意見もほぼ同じようなものだ。

「新型コロナウイルスのPCR検査の陽性率(感染している人を調べた場合、陽性と出る確率)は70%と言われております。また、陰性率(感染していない人を調べた場合、陰性と出る確率)は99%ほどと言われております。
つまり、感染していても30%の人は陰性となり見過ごされてしまい、感染していなくて1%の人は陽性と誤った診断を下されてしまうのです。これがPCR検査の限界でそれを知った上で検査に望まなくていけません。
例えば、日本人の人口1億人をPCR検査で調べたとします。そして感染している人の割合を0.1%と仮定して、10万人としましょう。(5月10日時点で全国で15000人と発表されております。多めに見積もって10万人とします)すると、1億人の1%である100万人の人が感染していないのに陽性と診断を受けて、場合によっては入院やホテル待機になります。
100万人に対して全国の病床を合わせても13000ベッド程度です。これにホテルの部屋を合わせても到底足りませんよね。
そして10万人の30%である3万人の方が感染しているのに陰性と診断を受けて、街を出歩くことになるのです。
日本国民全員がPCR検査を受けるのはかなり大げさな話ではありますが、その100分の1の100万人が検査を受けたとしても1万人が不要な病院のベッドやホテルの部屋が必要となります。全国のベッドが13000に対してかなり大きな割合を占めしまいますね。
このような理由から、保健所は現時点では検査を絞っているのです。」

 ちょっとこの引用元は、武士の情けで上げないでおくが、この議論のおかしさは、PCR検査を実施することのデメリットだけ述べていて、PCR検査を実施しないことのデメリットを考えていないことである。PCR検査を実施することで問題は100%解決できないことは分かる。しかし、実施しないことの弊害の方が遙かに大きいのではないか。PCR検査を実施しないことのデメリットは下記の通りである。
 まず、陰性での誤差(1%)の場合は、これは安全側を考えれば、ホテル待機してもらえばよい。そもそも、まったくの健常者にまで検査をしろとは言っていない。もちろん、そこまでやれればいいが、それはPCR検査の最先端を行っている人口30万人ちょっとのアイスランドでも全国民検査はやっていない。ここで、いきなり1億人という数字を出すのはあまりにも乱暴で、悪意さえ感じる。現状の検査数は人口1000人当たり1.4である。つまり、ちょっと前のデータだがイタリア、ドイツは22.1, 20.9とBBCが指摘するように一桁違っている。日本は、1億人に換算しても14万にしか過ぎない。それをいきなり1億に上げて、そんなことをしたら医療崩壊だと指摘されてもな。問題は発熱をしたり、明らかに症状が出ていたりしていても、このような議論によって、結果、検査もされずにコロナウィルスによって死者が出ている(大阪の元ラガーマン)ような状況をもたらしていることである。もしくは、もう少し早く検査されれば死ななくても済んだのに、重篤化されてから検査をしたので亡くなってしまっりもしている(28際の力士のケースとかはこれだろう)。亡くなった人達は検査をされたり、早くされていれば治療されたかもしれない。これは、亡くなった家族からすれば、裁判に訴えるに相当する判断ミスであると思う。
 このブログでは「100万人に対して全国の病床を合わせても13000ベッド程度です。これにホテルの部屋を合わせても到底足りませんよね」と書いているが、全国のホテルの部屋数は162万室ある。宿泊客の大幅な減少を考えれば、もしかしたらホテルの部屋を提供してもらうことで対応できるかもしれない。また、家族がいなくて一人暮らしであれば、自宅待機という選択肢もあり得るかもしれない。ホテルの数字なんて、簡単に調べられるのに、この病院のブログを書いた人は勝手に、少ないだろうと思ってこのように書いているのだろう。これは、出来ない理由を探す人にありがちなミスで、問題を解決しようと考えたら、こんな無責任なことはとても書けない(しっかりと調べるから)。
 もう一つの「そして10万人の30%である3万人の方が感染しているのに陰性と診断を受けて、街を出歩くことになるのです」ということだが、もしPCR検査の陽性率の70%が低くて気になるのであれば、例えば、症状的にこれは誤りではないかと思う人は再検査をして、その結果が出るまで待機させればいいのである。70%という確率は確かに低いが、二回やって両方とも陰性と出る確率は9%、すなわち信頼度は91%ほどになる。それでも高すぎるというのであれば三回やればいいだろう。そうすると誤差は2.7%(信頼度97%)になる。
 PCR検査をしなくてもいいと主張する人達の背景には、医療崩壊への危惧というのが考えられる。確かに医療崩壊は大変な問題である。しかし、PCR検査なくして、コロナウィルス以前の社会を復活させることは不可能である。電車やバス、飛行機で隣に座った人がコロナウィルスである確率が1%以下(個人的には0.1%以下が望ましい)であろうと信頼できるような状況でなければ、多くの人々は外食にもいかねければ、ライブハウスや野球観戦にも行かないであろう。
 そもそもTransmittable Rateがたかだか1.3のインフルエンザでも、罹患すると会社や学校を休まなくてもいけないような社会規範を有していた国が、TRが2で、しかもワクチンもないコロナウィルスが蔓延している状況下で、それ以前の状態に戻れる訳がないことはよく考えなくても理解できることである。
 医療崩壊を防ぐことは極めて大切なことであるが、社会システムを正常に戻すためには、PCR検査は不可欠であり、欧州だけでなく、アメリカも民主党系はそのように強く主張している。「一にもテスト、二にもテスト、三にもテスト」である。これは、一人の患者が他人と接触しただけで、あっという間にコロナは広がってしまうからであり、この一人の患者が他人との接触をいかに抑えられるか、という点が、復帰には何よりも不可欠である。アメリカでトランプがPCR検査を最近、嫌がっているのは、ロックダウンに抵抗する人達の支持を受けて、今秋の大統領選に臨もうとする選挙戦略である(下記のCNNの記事を参照)。ただし、このトランプの賭けはアメリカ人の生命をチップにした、極めて危険なものである。そのようなトランプの論説を真に受けて、あたかも我が意を得たり(PCR検査は必要ない)というように日本の識者とかマスコミが報道しているのを見ると、本当、呆れ果てる。呆れ果てて、ブログに書く気力も失せたが、今日は土曜日でよく寝たこともあり、頑張って書いた。

https://edition.cnn.com/2020/05/02/opinions/president-trumps-reelection-strategy-is-taking-shape-zelizer/index.html

タグ:日本 PCR検査
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コロナウィルスとインフルエンザの違いをざっと考察してみた [サステイナブルな問題]

麻生副首相は「新型コロナは風邪、はやり病」(https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-05-12/QA73ZUGQITJ401)と1918年のスペイン風邪のケースを例にとり、コロナウィルスについて発言した。まあ、「はやり病」とはいえ、スペイン風邪で日本人は40万人強なくなっている。まだ、コロナでの死者数は700人弱ぐらいなので、「はやり病」で「6月には収束」という考えを述べるのはいいが、それまでに相当数の死者が出るのは勘弁してもらいたい。
 さて、コロナウィスルとスペイン風邪に代表されるインフルエンザとの大きな違いは、その感染率(Transmittable Rate)である。コロナウィルスのそれは2.0でインフルエンザは1.3である。この数字は一人の患者が何人に移すか、というものだ。2と1.3だと一見、それほど違いがないように思えるが、これは恐ろしい違いがある。ざっと計算してみたが、次の通りである。インフルエンザだと20回ほど感染のサイクルがあってもたかだか146人にまでしかならないのだが、コロナウィルスは52万人。25回のサイクルだとインフルエンザは543人なのに、コロナウィルスは日本人口を遙かに超える1億6780万人となる。スペイン風邪はそもそもワクチンもウィルスという正体も知らなかったので、そういう意味では治療手段がないコロナウィルスと似ているが、それでも感染率が通常のインフルエンザと同じぐらいと想定すれば、その脅威はコロナウィルスほどのものではない。それでも、スペイン風邪で全滅した村もあった。あと、現代医療での水準での話ではあるが、山中伸弥氏のブログを参照すると、コロナウィルス、相当の致死率である(https://www.covid19-yamanaka.com/cont1/main.html)。日本は今のところ、この致死率よりもガクッと低いが、油断をすることはできない。

インフルエンザ  コロナウィルス
第一感染者数:    1人       1人
第二感染者数:    1人       2人
第三感染者数:    2人       4人
第四感染者数:    2人       8人
・・・
第十感染者数:    14人      2048人
・・・
第二十感染者数:   146人     520,000人
・・・
第二十五感染者数:  543人    1億6780万人

 ちなみに、スペイン風邪がはやり病であり、コロナウィルスも麻生副首相の指摘するようにその面では同じ傾向を見せるかもしれないが、スペイン風邪は三回、流行している。そのように考えると、例え「6月に収束」しても、また猛威を奮うだろう。

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感染研の出勤者8割削減の指示から見えてくること [サステイナブルな問題]

今日(5月6日)の東京新聞では、極めて興味深い記事が二つあった。一つは、「新型コロナウイルスの感染拡大防止に重要な役割を担う国立感染症研究所(感染研)に対して、直轄する厚生労働省が国の方針に沿って、出勤者を8割削減するよう指示していたこと」(https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/202005/CK2020050602000118.html)である。安部さんの強い要望らしいが、今こそ「感染研」の出番であるし、国家がコロナウィルス対策のために組織の全力を発揮してもらいたいのに、なぜ?。っていうか、今、機能しなくていつ機能するの?。国民からすれば、これまでつぎ込んだ税金を回収する(感染研の立場からすれば還元する)、絶好のチャンスじゃないのではないだろうか。
 いや、出勤者の8割削減に拘るなら、病院でコロナウィルスの最前線で命を張っている医者と看護師にも要望を出すべきだろう。
 というような状況であるにも関わらず、一方、茨城県にある東海第二原発の再稼働のための工事は進められているそうだ。従業員を含む周りの中止してくれ、という声に対して、原電は「工事は安全最優先で進めている」と応じず、大井川和彦知事も「工事に着手した人はずっと県内にいる。大きな脅威にはならない」と退けている(https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/202005/CK2020050602000117.html)。
 なんで感染研が出勤者8割削減で、東海大原発の工事は中止にならないんだろう。
 私は基本、日本のテレビはみないのでニュース番組で何が報道されているのかはよく分かっていない。ただ、海外(ほとんどアメリカ)のニュース番組は毎日2時間ぐらい見るので(最近はオンライン講義の準備に追われて1時間ぐらいに削減されているのだが)、コロナウィルス関連のニュースはそちらから入手している。アメリカのコロナウィルス対策もデタラメだが、アメリカのニュース番組はそのデタラメさを他国と比較して指摘しているので、他国の対策にも詳しくなっている。そのような目でみると、日本のコロナ対策はズタボロだなと思っていたのだが、どうしてそうなっているのかが、「感染研」の出勤者8割削減に安倍首相が拘るということで、ちょっと見えてきた。
 それは安倍首相をはじめとした麻生さんとかの自民党の二世・三世国会議員は、国難に対してリーダーシップを発揮してそれを克服しようとか、国民を守ろうとか、そういう意識が皆無であるからだ、ということである。コロナウィルスの蔓延を国民から守ろう、とか、その経済的ダメージを極力なくそうとかいう意識がないのである。問題意識がなければ、しっかりとした対応ができる訳がない。いや、そういう意識を彼らが持っていると思う方が、よほどお人好しなのかもしれないが、そうであっても流石に真面目に日々、仕事などをして暮らしている人が可愛そうだ。出来ないのであれば、せめて地方分権化して、地方に勝手に対処させるようにするべきである。
 というようなことが、今日の東京新聞の二つの記事から透かし見えた。


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コロナウィルスのロックダウン反対の動きと類似したことは150年前のイギリスのコレラ禍でも起きた [サステイナブルな問題]

コロナウィルスのロックダウンに対して反対する動きが、全米の幾つかの都市で起きている。ワシントン州の州都オリンピアでは2500人が反対デモに集った。ロックダウンにはプロとコンがある。プロはコロナウィルスの感染拡大の防止であるが、コンは経済の停滞と失業者の増加である。全米では2200万人が既に失業している。これだけ失業者が増えると、どうにかしてくれよ、という気持ちになるのも分からないでもない。
 このデモの実態は、しかし、どうも切羽詰まった人達の「声」というよりかは、トランプ支持者達の政治的運動であるという解説がBBC(https://www.bbc.com/news/world-us-canada-52359100)などではされており、おそらくその通りであろう。上院多数党院内総務である共和党員のミッチ・マコーネルは、コロナウィルスの感染防止のために連邦政府の支援を仰いでいるニューヨーク州(州知事は民主党)は「破産宣告」すればよい、と発言して顰蹙を買っているが、コロナウィルスを政争に使おうとしている共和党は、流石にアメリカ人の多くも呆れているようだ(トランプ支持者はもちろん呆れていないが)。
 さて、一方で日本でも緊急事態宣言に反対する声も出始めている。なんか、徐々にアメリカだけでなく日本でもきな臭い雰囲気になってきているが、こういうパンデミックが流行ると、なんか頭が理性的でなく働く人が出てくるのは昔もそうだったようである。
イギリスの公衆衛生の父であるエドウィン・チャドウィックが、コレラの蔓延を防止するため、清浄な飲料水と公衆衛生の向上の推進を進めていた1854年、タイムズの論説は次のように批判した。
「我々は、押しつけの健康ではなく、コレラの感染を選ぶ」
 このような意見を掲載したのは、おそらくこのような考えを支持する人々がたくさんいたからであろう。今、この意見を受け入れる人は世界におそらくほとんどいない。99.99%の人が清浄な飲料水と清潔な下水システムを欲するであろう。
 コロナウィルスの反対デモを知るにつけ、この1854年のタイムズの論説意見の的を外した愚かしさを笑えないな、と思う。

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コロナウィルスの感染防止に立ち塞がるのは、住民の危機意識の低さであろう [サステイナブルな問題]

コロナウィルスの感染拡大を阻止するために、外出自粛が小池知事から求められた東京都民。週末に限定しての措置であるのだが、今日(3月29日)の東京新聞が、街を歩いていた人達に取材をした内容の記事を書いている。ちょっと興味深い、というかこの外出自粛を単なる上からの押しつけとして捉えすぎている傾向もうかがえるので、ここで若干突っ込んでおきたい。
「桜は今しか咲いていない。明日は天気が悪いと聞いて用事ついでに立ち寄った」(千葉県市川市から上野公園に来た58歳の男性会社員)。
→(私の突っ込み):桜は来年も咲きます。そもそも感染症対策をしている上野公園でなくても桜は観られます。しかし、致死率が1%程度でもコロナウィルスに感染したり、自分は死ななくても他人に移して死に至らしてしまうかもしれません。上野公園に桜を見にいくというために、そのリスクを取るのは割が悪いでしょう。
「いまさら外出自粛といわれても遅いと感じる。五輪が延期になったタイミングを待ってロックダウンの可能性など厳しいことを言い始めたように思えるので、正直説得力がない」(21歳の女性。下北沢に友達とカラオケにきた)
→まさにご指摘のように、五輪が延期になるまで言えなくても言えなかったのでしょう。つまり説得力はある訳です。対応をしたくても、対応することでオリンピックを開催できなくなるリスクが取れなかったのです。そう考えると、実は相当、不味い状況に東京はある訳です。
「月曜には社会がまた動き出す。週末だけ自粛で意味があるのか。感染拡大を本気で防ぐなら、平日も電車を止めるなど力を入れないと」(渋谷のセンター街に遊びに来た20歳の女子大学生)
→平日まで外出自粛をしたら経済が本当に止まってしまいます。多くの人が経済的活動(消費ではなく生産的な活動)をしなくてはならない平日をどうにか回転させるために、せめて週末は自粛して、コロナウィルスの感染拡大を防止する。政策としては、実は相当妥当かなと思います。
 コロナウィルス感染症の拡大に伴い、個人的にちょっと驚いているのは、行政や政治家よりマスコミが結構、駄目なことである。小池知事の記者会見でも、頓珍漢な質問をしている記者がいて唖然とさせられる。まだ、アメリカのフェイク・ニュースの記者達がトランプに投げかける質問の方が当を得ている。そして、ここで紹介したように、一般市民の意識の低さにも唖然とさせられる。
 平日の経済を回すために、週末の活動を自粛する、というのは相当筋が通っている。というか、平日まで活動自粛にする事態になったら、本当、世界恐慌のような事態になる。そういうことまで想像を巡らさないと。
 東京新聞は私も取っているぐらいなので、マスコミの中では評価をしているが、いかにも市民はこのコロナウィルスへの行政の対応に不満を持っているような印象の記事ばかりを挙げない方がいいだろう。この記事からは、東京都の政策よりも、むしろ住民の危機意識の低さを伺い知るような結果をもたらしていると思われる。

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地域通貨「さるぼぼコイン」 [サステイナブルな問題]

地域通貨がバブルの後に流行ったことがある。なぜか、エコマネーという変な日本語がつけられていた。なにがエコなのか、よく分からなかったが確か経産省(当時は通産省)の役人が命名者だ。それはともかくとして、各地でエコマネーがつくられた。早稲田大学そばの商店街でつくられたアトム通貨、滋賀県の「オウミ」、千葉県のピーナッツなどである。
 私もその先進事例であるオーストラリアのマレーニのレッツ・システムの創始者、ジル・ジョーダンに取材をするなど、その仕組みなどを調査したことがある。その後、日本ではあまり地域通貨という言葉を聞かなくなる。地域通貨のポイントは幾つかあるが、レッツ・システムなどは貨幣の流通などはなく、単にやり取りの記録(台帳)で管理されるのに対して、日本の多くの地域通貨は子供銀行のように紙幣を発行した。紙幣を発行すると、それによって流通量が制限されるし、その場に紙幣がないとやり取りができない。レッツ・システムなどに比べていると地域通貨というシステムを分かってないんじゃないか、と思わせられたりしたが、案の定、その後、あまり進展することはなかった。
 私は、大学はレッツ・システムのような地域通貨を流通させるコミュニティとしては適当だなということと、携帯アプリの普及は、そのやり取りの記録管理に使えることに気づき、前任校では学長に学内での地域通貨の導入に関する企画書を提案したが、なんか学長は「ううむ、面白いアイデアだね」と頷くだけで実行に移されることはなかった。まあ、前任校はアイデアを潰すというのがほとんど組織文化に近いから今更愚痴を言っても仕方ないが、その後、会津大学が導入したというのを聞いた時は悔しく思ったりはした。
 さらに、この会津大学だけでなく、最近、再び地域通貨が注目されるようになっている。それは、地域における人口減少によってコミュニティが弱体化していることと、前述したようなインターネットや携帯の普及が地域通貨のインフラとして極めて使い勝手がよくなっていることである。そのようなネオ地域通貨でも特に注目されているのが飛騨高山の「さるぼぼ」である。ということで、「さるぼぼ」の生みの親でもある飛騨信用組合の古里さんに取材をしに行った。
 「さるぼぼ」は2017年3月にリリースされるのだが、その二年ぐらい前からプロジェクト・チームがつくられ検討がされていた。なぜ地域通貨にしたかというと、域内でお金を回したかったらだ。高山も人口がすごい勢いで減っている。そして地域の商店などがビジネスを畳むと、そこに域外資本がどんどん入ってきて、さらにお金が外に流れてしまい、地域にお金が残らない。地域で循環するような経済をつくりたい、というのが大きな目的であった。一方で、高山は観光地としても人気がある。年間470万人の観光客が来るが、これは人口単位でみると、全国でも2位ぐらいの観光地である。そこで、いかに歩留まり高く、お金を落としてもらうか、ということが課題となるが高山市の観光地としての課題は「買い物しづらい」こと。これは、多くの店舗でクレジットマネーも電子マネーも使えないからだ。「さるぼぼ」コインは、そのような問題の解決策の一つとしても位置づけられた。これは決済のインフラをつくるということで、地域通貨というよりかは電子マネーという取り組みになるが、そのようなインフラをつくるミッションが地方信用組合にはあると考えたそうだ。
「さるぼぼ」をつくるうえでの背景として、組合をちょっと改革しようという流れがあった。そこで2012年の9月に「さるぼぼ倶楽部」というものをつくった。これは、組合の事業所で構成される会員組織であり、組合員の中でお金をやりとりしましょうというのが趣旨であった。例えば、飲食店だと倶楽部のメンバー内ではビール一杯が無料になるなど、販売促進の特典付けをしたのだ。
 そして、しばらくして、加盟店で使える割引券を配ろう、という話になる。これもよく回り、お客さんにも喜ばれるようにした。決算賞与も現金だけでなく、さるぼぼ割引券を配るようにした。組合の中での経済循環ができるようになった。そのような素地があったので、CSV(Creating Shared Value)の考え方も加わって、組合員に閉じていたものをさらに地域にまで広げていこうという、そういう素案ができたのである。
一方で電子通貨を発行するためのコストが低くなっていき、QRコードの決済ができるようにする。QRコードのアイデアは、なぜ、これだけの観光客が来るのにクレジットカードで決済ができないのか、というプレッシャーから必要に迫られて出てきた。加盟店にコストをかけないようにするにはQRコードしかない。信用組合はユーザーからの発想ではなくて、加盟店からの発想でシステム構築などを考えるのだ。
この導入に関しては自治体や他の企業関係者さんも、うまくいかないと指摘した。ただ、実際やってみたらそれほど問題もなかった。
地域通貨の仕組み自体は加盟店には理解しやすい。域外資本で買い物をするより、自分のところで使ってくる。加盟店は右肩上がりで伸びている。ただし、かなり高齢の事業所さんがやられているところはアレルギー反応がある。電子マネーとかは本当に辞めてくれ、と言ってくるそうだ。
一方で苦労しているのはユーザーの方。加盟店の実利とは違う世界。よさが分かってもらえない。加盟店で「さるぼぼコイン」をいい仕組みだと応援している方も、自分が決済する時には「さるぼぼコイン」ではなく、ペイペイを使う。これは還元率がペイペイの方がいいため。
 また、「さるぼぼコイン」が使えない域外と指定されたお店との対応も課題の一つであるそうだ。そのようなお店は地元の商工会議所に入っていたりする場合もあり、組合としては入ってもらいたいところがあるが、そうすると域内の競合する加盟店からの反発が大きい。
 あとユーザーサイドにいかにチャージをしてもらうかも大きな課題であるのだが、2020年4月からセブンイレブンでチャージができるようになり、またチャージ機も設置される計画である。ここらへんが利用の促進に繋がるのではないかと期待されている。
 「さるぼぼ」を導入することのメリットは幾つかあるが、そのうちの一つとして一物二価が挙げられる。「さるぼぼ」で購入した場合は割引価格で購入できるというものだ。キューバなどでは行われているが、観光地であればこそ、その導入は有効であろう。一物二価というと、そんな公平性に欠けることをしていいのか、と思われるかもしれないが、この出張で宿泊したホテル。同僚の先生が海外のウェブサイトであるBooking.comで予約をしてくれたのだが、この価格は国内のウェブサイトであるじゃらん・ネットより随分と割高であった。もう既に一物二価の制度は実質的には一般化しているのだ。
 地域通貨「さるぼぼコイン」がこれからどのように展開していくのか。それには人々のこの地域通貨への信頼が極めて重要な役割を担うことになるであろう。加盟店の立場だと応援しても、利用者の立場だと使わない。また、我々も駅前の酒屋さんで「さるぼぼコイン、使えます」と質問したら、加盟していないとのこと。加盟するメリットが分からない、と言い放ったお店の人は、でも我々に対して「さるぼぼコインって便利なの?」と尋ねたりもしてきた。加盟しないお店も、それほど確信をもって駄目だと思っているわけではない状況が透けて見えたような印象も受ける。
 よく考えれば、我々だって日々、日本銀行が発行する紙っぺらに1万円という価値を見いだしているのだが、それは信頼だけをベースにした極めて不安定なものである。地域通貨はコミュニティ力を強化する力を持っているが、逆にコミュニティ力が地域通貨を機能させる極めて重要な条件であるともいえる。飛騨高山にそのコミュニティ力があるのか。非常に興味深い、地域通貨の最新事例である。

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中国の農村を走っているゴルフ・カートのような電動の乗り物に日本の地方におけるモビリティ改善の可能性を覚える [サステイナブルな問題]

崇德村を歩いていると、自動車、自転車、オートバイ(電動オートバイ)に混じって、軽トラをさらに小さくしたようなゴルフ・カートのような電動の乗り物が走っている。農家にもあり、自動車に比べてずっと安いようだ。さらに、学生達のヒアリングから、この乗り物はどうも免許もいらないそうだということを知った。崇德村の集落によっては買い物をするのに20分ほど歩かなくてはいけないところもあり、そういう意味で、この自動車未満、自転車以上の乗り物で移動できることは高齢者にとっては有り難いことであろう。
 さて、最近、日本では高級車に乗った高齢者が人をひき殺す事件が頻繁に起きている。これらの加害者は、エリート人生を歩んできた人もいたりして、被害者の人はもちろんだが加害者も一瞬で、それまで積み上げてきたものが木っ端微塵になってしまい、人生が滅茶苦茶になっている。
 このような悲惨な事故がなぜ、生じているのか、というと自動車に乗っているからである。上記のような事故は、東京都港区、東京都豊島区などでも起きているので、これらの加害者は自動車を運転する能力が高齢によって失われてしまったのに、それを自分の都合で手放せなかったという点であまり同情する余地はないが、日本の地方であれば、高齢になっても自動車を手放したら生活していくことが極めて困難になるような人もいるだろう。これは、自動車依存を高めるような道路整備事業に邁進してきた日本の役所の瑕疵であると思うが、そのような責任を追及することより、現実的に自動車依存の生活を余儀なくされている人達には、この崇徳村のゴルフ・カートのような乗り物で移動するようなシステムに転換するといいのではないかと考えた。
 これは速度は出ないが、歩くよりはずっと楽だ。そして、仮に人に当たったとしても、怪我はするだろうが、事故による死亡率は大きく減るのではないだろうか。道路を走行する際に、自動車とこの乗り物との速度差は危険であるが、まあ、そこらへんは自動車運転者のモラル向上でフォローすることはできると思われる。
 また、このような自動車の代替案を提示することで、免許を返上したくても返上できない人達へのインセンティブになるかもしれない。自治体によったら、ある程度の年齢に達していないのに免許を返上してくれた住民には、このゴルフ・カートのような乗り物を購入する際の3割ぐらいを補填するというような措置を採ってもいいかもしれない。
 高齢化時代における新しい乗り物の可能性のようなものを感じた次第である。

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オランダの認知症ケア施設「ワルム・タイス」を訪問する [サステイナブルな問題]

オランダの認知症ケア施設「ワルム・タイス」を訪れる。ワルム・タイスは2箇所あるのだが、我々はDe Hulstというアムステルダムの北、バスで45分ほどいったアルクマールのそばにある施設に行った。これは10年ほど前、高齢者医療の専門家を中心につくられた認知症ケア施設である。
 所長のハンズ・アムステルスさんに話を聞く。
 最初に認知症の説明を聞く。認知症になると、コップやお土産などの物が認識できなくなる。季節や今、何時なのか、さらには記憶が随分となくなってくる。自分の中でも何が起きているかが分からなくなる。そういう中、ここでは規則的な生活をすることをさせるようにしているそうだ。そうすると、それが安心感や自分が守られているという気持ちになる。
 ワルム・タイスは4つのコンセプトがある。そのうちの一つは「自由」である。例えば、認知症の方が散歩好きで、この施設の周辺を散歩したかったら、ここでは散歩をさせることを優先して考える。また、ポイントとしては、ここで働いている人は責任をもって仕事をしていることである。ワルム・タイスの組織において、そのボスは、ここに来ている認知症の患者の人達であると捉えている。あと、「すべてのことが可能である」という考え方をしている。顧客のニーズがあったら、それにできるだけ対応するように考えている。
 また、この施設は農家を使っているのだが、その理由としては、土地があることや、動物がいることでそれらと遊ぶことができる、豊かな自然の中で生活できる、などのメリットがあるからだそうだ。
ここでの利用料は年間で86000ユーロ。これは一日当たりだと235ユーロ(3万円)ぐらいとなる。ワルム・タイスの年間の収入は490万ユーロ。従業員は132人である。ただ、ほぼ全員がフルタイムでありパートタイムである。従業員は1週間(36時間)であり、年間の人件費は55000ユーロだそうだ。オランダでも、やはりこのような施設で働きたいと思う人が問題になっている。ここの間接経費は9%であるが、これはオランダ平均の16.4%よりも随分と低い。
 このような施設を運営していく時、もっとも難しい課題は、良質な職員を確保することである。このような仕事にそもそも就きたいというオランダ人が少なくなっている。
 社会が複雑になって、認知症の人が生きていけないようになっている。そういう人達に生きていけるような環境を提供したいと考えている。この施設はオランダでも人気があり、ウェイティング・リストには150名ほど名が連なっているそうだ。
 ちなみに写真撮影はクライアント以外は許可されたが、学校やこのような施設の写真をネットでアップすることはオランダの法律で禁じられているそうなので、ここでもアップはしない。ただ、ワルム・タイスの紹介動画があるのでどのような場所であるかを知りたい方はそちらを参照してもらえればと思う(https://www.youtube.com/watch?v=5UjyWg6klKI)。

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スウェーデンの物価は高いが鉄道運賃は安い [サステイナブルな問題]

スウェーデンのイエテボリに来ている。学会発表のためだ。学会は火曜日から土曜日までなのだが、私の発表は金曜日であることが分かった。火曜日の夕方に着き、初日のレセプションには間に合わなかったが、水曜日の朝一番で参加登録を済ました後、ちょっと時間ができたので、せっかくなのでストックホルムまで行くことにした。イエテボリとストックホルムはちょうど日本でいうと東京と大阪といった距離で、スウェーデンの新幹線を使えば3時間30分ぐらいで着くことができる。ストックホルムからイエテボリの最終列車がなんと18時13分とかで恐ろしく早いが、それでも5時間ぐらいはストックホルムに滞在できる。ストックホルムには以前いた大学の卒業生もいるので、彼女と彼女の一歳の子供に会うということも魅力であった。

さて、それはともかくとして、この新幹線代が往復で1100クローネぐらいであることに驚いた。これは日本円では14000円ぐらいということで、日本よりかはずっと安い。ほぼ半額ぐらいである。全体的に日本の2倍近くの物価であることを考えると、この安さはなかなかのものかと思われる。これはスウェーデンより物価が安いドイツなどよりも安い。もちろん、その料金で黒字経営が出来る訳がないので、相当の補助金が投入されていると思われるのだが、公共交通を利用することで環境問題を含めて社会的な負担を軽減させているという認識がスウェーデンにはしっかりとあるのではないかと思われる。

日本は東京などは超満員電車に人を乗せることで民間企業が利益を出していて、人々もそれに甘んじているのでいいかもしれないが、地方都市に関しては、もっと公共交通の利便性を高めることで、都市の社会的負荷を軽減させ、より豊かな生活ができるようにすべきであると、ここスウェーデンの新幹線代の安さを知るにつけ改めて思う。自動車でしか移動できないような都市はまったく豊かではなく、都市の豊かさは公共交通を含むコレクティブなものが生み出す豊かさであることをもっと自覚した方がいいと、スウェーデンの新幹線に乗りながら思った。

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地域を将来にまで維持するのに最も重要なのは第一次産業ではないだろうか? [サステイナブルな問題]

東大の縮小都市の講演を聴いたのだが、中国の先生が、中国の縮小都市の実態を報告したものが興味深かった。事例としてはハルピン周辺の北東地区を多く挙げていたのだが、その縮小する都市の特徴として、計画経済でトップダウンで、ある産業に特化した都市(モノタウンと講演者は説明していた)ほど、縮小が激しいということを指摘していた。特に林業拠点として位置づけたYichun地区の事例は、林業という主要産業が衰退したことで、人々が農業を始めるということが私の興味を惹いた。この地区では、この20年間ぐらいで第一次産業の従業者が増えているのだ。
2年ほど前にキューバに行ったことがあるが、その時、医者やエンジニアが食べていくことに困って農業を始めた人々に話を聞いたことがある。キューバも中国も基本的には計画経済であり、市場経済のように柔軟にマクロ環境の変化に対応することが難しい。少なくとも、キューバのような食料輸入みたいな点で問題が生じるような事態が生じると、食料の価格が高騰化して、結局、自分でつくった方がいいような事態になってしまうのだ。詳しい事情は分からないが、中国とかだと簡単に引越とかができないのではないのだろうか。そうであれば、生き抜くために人々は農業に戻る、というのは分からなくもない(キューバの人達は出国は不可能に近い)。
そして、これは日本の縮小地域の一つの処方箋にもなるのではないかと思うのである。日本の縮小都市の代表例は夕張市である。一時期、11万人を越えていた夕張市の人口も現在では9000人を切るぐらいにまで減っている。これは、主要産業であった石炭産業が消失したからだが、夕張メロンをつくっている農家の人達は全然、経済的にも豊かでしっかりとやっている。農業をしていれば、縮小も怖くないのではないだろうか。もちろん、TPPなどによって海外の安い農作物が入ってきたりするとダメージも大きいかもしれないが、少なくとも飢えて死ぬことはない。改めて農業のポテンシャルを考えさせてくれた講演内容であった。

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「働き方改革」よりも必要なのは「中央集権改革」である [サステイナブルな問題]

政府は「働き方改革」を進めている。厚生労働省のホームページでは、働き方改革の背景として、「「少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少」「育児や介護との両立など、働く方のニーズの多様化」に直面しているので、投資やイノベーションによる生産性向上とともに、就業機会の拡大や意欲・能力を存分に発揮できる環境を作ることが重要な課題」が挙げられ、そのために「働く方の置かれた個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現し、働く方一人ひとりがより良い将来の展望を持てるようにすることを目指しています」ということだそうだ。
 多様な働き方を選択できる社会の実現・・目標は素晴らしい。しかし、そのための政策はこの目標を実現させるためにどれほど有効なのだろうか。個人レベルで考えると、「多様な働き方」も重要かもしれないが、その仕事をすることで、その道のプロフェッショナルになれるような働き方が望ましいと思う。働いている方の多くの不満は、自分が雇用されている立場にあることだろうと私は捉えている。実際、社会人になった卒業生の不満のほとんどが「雇用されている立場」にあることに起因している。また、個人で仕事をもらっている場合は、報酬の交渉ができないほど仕事の質がプロフェッショナルではないことが、長時間労働や低報酬の大きな要因となっている場合が多い。これは自分にもあてはまることなので書いていてちょっと辛いが、例えば、私がよく仕事をお願いしていたビデオカメラマンに、2年振りに仕事の見積もりをお願いしたら、それまでの3倍以上の見積もり額を出されて戸惑ったことがある。これは、その2年間で、彼はNHKの仕事なども来るようになり売れっ子になってしまい、市場の需要価値が高まったためである。私は多少、値切りをお願いしたが、これまでの2倍程度の金額で彼にお願いをした。それは、彼の価値はそれだけの金額に相当すると思うからである。
 要するに、多くの働いている人の不満は「雇用されていること」にある(いや、雇用されていてハッピーな人もたくさんいると思うが、彼らは逆に働き方改革は必要ない)ので、「雇用されない」働き方を模索することも必要であると思う。そもそも、「雇用される」ということはそんなに望ましい状態にはなれない。なぜなら、お金をもらっているからであり、お金というのは相当、正直だからである。それでは「雇用されない」働き方、すなわち独立すればハッピーになるかと言うと、そうでもなく、そのような状態で仕事を回していくためには、プロフェッショナルとしての市場価値を有していなくてはならない。美味しい料理を出すレストランであれば高い値段をつけても商売はできるが、美味しくない料理しか出せないレストランであれば安さで勝負するしかなく、また安くてもファストフードやチェーン店には負けてしまうかもしれない。前者は給料も高くなるだろうから、働く時間も自分でコントロールできるし、やり甲斐も感じられるだろうが、後者は生き延びるのに必死だろうし、「雇用されている」方がまだましと思うかもしれない。
 このように考えると、自分が「美味しい料理」をつくれるようになることが何しろ肝要となる。
 私は民間会社から大学、さらに大学でもより自分の能力が発揮でき、給料も高くなる大学に最近移ったので二度転職したことになる。民間会社から最初の大学に移る時は、大学教員のハードルというのが大変高くて、大学教員になろうと思ってから3年以上はかかった。当時は博士号がないというのが、極めて不利に働いたのである。その3年間で大学教員になるために私がやったことは、目の前の仕事に没頭して、しっかりとやるということであった。これは、民間会社とはいえ、私の働いていたところは研究所であったので、その点は普通の民間会社に比べると大学教員の転職という点では有利であったかもしれないが、とにかく会社の仕事のアウトプットの質を高めることに注力した。そのため、会社でも家でもほとんど仕事漬けの日々を送った。これが、結果的に研究者としての私の価値を高めて、首尾良く大学に移ることができた。振り返ると、ここで、会社の仕事は最低限にして、大学に入るためのアリバイづくりの研究などにうつつを抜かしていたら、おそらく転職することはできなかったであろう。
 そして、再び今の大学から「誘い」があって、転職することになるのだが、それを知り合いの教員に報告すると「徳を積んできたからね」と言っていただいた。自分では「徳を積む」というような意識はなかったのだが、プロフェッショナルとしての市場価値を少しでも高めようとしていたことが、このような縁を生んだのかなとは思ったりする。仕事人として「徳」を積む、そのために精一杯仕事に勤しむ。そのような環境をつくることが重要であり、そうすると長時間労働も場合によってはプラスになったりもする。私が会社時代で理不尽を感じたのは、労働時間の長さではなく、年間ノルマの受注額(私のいた会社は研究所であったが受注ノルマがあった)をクリアしたのに、さらに受注しろと言われた時である。私はその時、クライアントにこの額を出してくれたら他の仕事を受注せずに、これに専心できます、といってその額をもらったにも関わらず、上司は平気で私がクライアントに嘘をつくようなことをさせようとしたのである。
 私のプロフェッショナルとしての市場価値は大したものではまだまだないが、そのように日々精進できるような働き場を確保できることは重要なことだと思うし、プロフェッショナルとしての市場価値があれば自分が職場に不満を持っていたら辞めることができる。このいつでも辞めることができる、という状態に自分を持って行くようにすること、しかして、そのように持って行けるような環境を社会にてつくることが重要である。
 しかし、そのような社会をつくろうとしている肝心の厚労省の人達が、プロフェッショナルとしての市場価値を自ら、問うこともなく、国家公務員という高給の体系に守られているというのは皮肉だなと思う。20代での試験の結果によって、その安泰とした職業に就くことができた人が、厳しい市場の中で自分の市場価値を磨こうとしている人達に余計なアドバイスをするな、と私は生意気にも思ったりもする。また、大学こそ、自らの市場価値を高めるための人間の幅を大きく広げるチャンスであるにも関わらず、文科省の指導はまったく逆に、既存のフレームワークでの勉強を強いるような、創造性がまったく感じられないシステムを大学側に押しつけている(特に、アクティブ・ラーニングの指導要綱などは冗談以外の何ものでもない)。
「働き方改革」とかを考える前に、財務省をはじめとして「中央官庁改革」を誰かが考えるべきではないだろうか。経済が成熟し、また人口も縮小していくような状況下で、これだけの大国であるにも関わらず、あまりにも中央集権である。「働き方改革」などは、国が旗を振ってやるようなものではなく、地方ごとに考えるべきことであろう。いや、本当、連邦制の道州制を導入することを真剣に検討すべきではないだろうか。それこそが、一億総活躍社会が必要とする基礎的インフラストラクチャーであると考える。

タグ:働き方改革
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緑の美しさを考察する [サステイナブルな問題]

仕事場が京都なので、毎週、京都を訪れる。というか、通勤している。さて、新緑のシーズンなので京都の山々は目に優しく、心洗われる。というか、新幹線からの車窓の緑も美しい。日本の自然は本当に美しいと思わせられる。新緑は、春紅葉とも言われたりするが、その美しさというのは緑のグラデーションにあるかとも思われる。それは、また生物多様性の美しさでもある。
 一方で、林野庁が杉植林を一生懸命やったところは、単調な緑で全然、美しくない。それは、愚かなる公共事業の醜さを表している。ただ、このような単調な針葉樹の緑の森でも美しいと思う人がいる。こういう人がなぜ、それらを美しいというのかはちょっと不思議だ。例えば、新緑の森の絵を描け、という課題をもらったら、単調な緑の森を描く人は絵心がない人か、よほどのひねくれ者に限られると思われる。もしかしたら、単調な緑を美しいと思う人は、美しい緑や森をあまり見たことがないのではないか、と思ったりもする。そして、そのような人は京都にはほとんどいないと思われるのである。もっと緑を見ることが、東京の人などは必要ではないか、と自分を含めて思ったりする。
 

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「玉川上水と生物多様性」の講演に、あまりに多くの人が聞きに行ったので驚く。 [サステイナブルな問題]

「玉川上水と生物多様性」の講演を武蔵小金井に聞きに行く。「小金井玉川上水の自然を守る会」が主催での講演である。私はちょっと遅れて訪れたのだが、驚いたのは、その参加者数の多さである。250人以上は入っているだろう。生物多様性について、一般市民の強い関心が伺える。ほぼ高齢者であるが、なかには若者もいる。
 講演者は3名。最初は東京学芸大学名誉教授の小泉武栄先生の話である。玉川上水の生態系についての講演であったが、小平駅を南北に通り、玉川上水を分断する道路について、強い懸念を示していることを話して、私は目が覚める。私はこの道路に関しては、むしろコミュニティ分断といった点、生活アメニティの悪化という点から懸念を抱いていたが、生態系的にも大変深刻なダメージを与えることを専門家は考えていることが分かった。
 また、小泉先生が話されたことで、私が興味を抱いたのは、東京都には自然史博物館がなくて、恥ずかしいという指摘であった。科学博物館はあるが、それは国のものだけで東京のものは展示していない。伊豆諸島や奥多摩だけではなく。武蔵野台地にも都心にも調べれば面白いものがあるのだが、そういうものがない。先生はオリンピックの記念事業でそのようなものをつくるべきだと述べていたが、私は、それこそ築地市場跡地につくるべきものではないかと思ったりした。現在は、食のテーマパークをつくるような計画を考えており、隣接する市場外の民間企業が強く反発していたりする。和食博物館、みたいなものや料理学校のようなものであればまだしも、テーマパークという発想が本当、センスがない。そもそも、築地市場のようなオーセンティックな施設のあとに、偽のテーマパークを公共用地の跡地につくるという発想を、そこらへんの素人が出すならともかく、東京都庁が出すというのは根源的に行政の役割を分かっていないのではないか。都庁の職員達はエリート集団である。どうして、こんな発想が出てくるのかが不思議だ。
 閑話休題。話が横にそれたが、そんなテーマパークをつくるよりかは、この浜離宮に隣接し、東京湾という素晴らしい自然に隣接する、この築地市場跡地に自然史博物園をつくるのは、なかなかいいアイデアなのではないだろうか。
 次は明治神宮の自然に詳しい新里達也先生の講演である。明治神宮の豊かな自然がよく分かる講演が為されていたが、このような話も前述の自然史博物館で展示されたりすると、国民だけではなく、インバウンドの観光客が日本の理解を深めるうえでも役に立つであろう。
 三番目は、国連生物多様性の 10 年市民ネットワーク代表である坂田昌子氏である。琵琶湖の生態系がどんどんと貧相になっている、という話をされた。生物多様性とは、命の循環がうまく回っている状態、であると言う。また、生物多様性と人との関わりとが重要であると言う。さらには、地域絶滅という概念の話も私の興味を惹いた。ツキノワグマは九州では絶滅、四国でもほぼ絶滅したそうである。そうすると、ツキノワグマの遺伝子の多様性は随分と脆弱になっているようだ。その種が例え、絶滅していなくても、九州ツキノワグマは本州ツキノワグマと同じようで全く同じという訳ではないようなのだ。そういうことは、私は勉強不足でもあり、知らなかった。
 なかなか勉強になった。資料代ということで300円支払ったが、もっとお金を取ってもいいのじゃないか、という有意義さである。というか、立ち見も出たので、それはちょっとだけ運営側としては問題であったかもしれない。これを料金を取ることで調整できるのであれば、特に私のように地元以外での人からはとってもよかったかとも思う。
 それにしても、こんなに人々は生物多様性とかに関心を持っていたのだな。これは驚きと同時に、民主主義的なパワーも感じる。というのも、行政が自然や生態系を維持できない時、それらを守ろうと動き始めるのは市民であるからだ。それはイギリスでもアメリカでもそうである。

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大雪によるドイツ鉄道のダイヤの乱れの日に、東京の交通システムの脆弱性について考察した [サステイナブルな問題]

 3月中旬のドイツは大雪に見舞われた。この日はライプツィヒからマンハイムまで移動しなくてはならない。ライプツィヒの中央駅に行くと、案の定、大混乱状態であった。指定席を取っていないので、列車が遅れても特に問題はない。ライプツィヒからマンハイムまでは乗り換え無しで行くICEが2時間に1本の割合で走っているのだが、もう、とりあえずマンハイム方面に行った方がいいだろうということで、中央駅に着いたフランクフルト中央駅に向かうICEに乗り込む。列車は定時から2時間遅れで出発したが、私が列車に乗り込んでから出発するまでに待っていた時間は1時間ぐらいであった。列車が出発したら、座席から拍手が起きた。ところどころ止まりつつ、列車は走行していったが、17時20分にはフランクフルト中央駅に着いた。ダイヤ的には3時間ぐらいの遅れかもしれないが、実際の走行時間的には30分ぐらいの遅れにしか過ぎない。
 しかし、そこからマンハイムへ行く列車がない。ICEは皆、150分遅れとか、訳の分からない数字を電光掲示板に示している。ということで、急いで各停のローカル列車を調べて、そちらに乗ることにした。ちょうど上手い具合にマンハイム行きの列車が18:06に出るのでそれに乗り込む。これは、6分遅れの18:12に出発した。ライプツィヒのあたりは一面、白い世界であったが、フランクフルトは雪が降った形跡もない。ローカル列車がそんなに遅れる理由はあまりない筈である。ICEはドイツ全国土にネットワークを拡張しているので、雪が降った地域を走っている列車は悉く遅れている。そして、その遅れがドミノ倒しのように、他の列車にも波及していっているのである。混乱が混乱を招くというような状況だ。そもそも正常な状況でも、ドイツ鉄道はICEを定刻で走らせることが困難である。雪がこれだけ降ったら、ほとんど麻痺状況になるのも致し方ない。
 東京も雪が降ると、結構、交通が麻痺してしまう。大学の同僚の先生が、これはどうにかならないのか、と聞いてきたことがあるのだが、ある程度、雪が降ってもまともに交通が機能するようにするのには、とてつもない経費がかかるであろう。というか、そもそも、山手線の駅周辺にどんどん商業ビルを建設して交通需要を集中させるような都市開発を促進させたり、東横線が西武池袋線や東武東上線と接続して運行し、リスクマネジメントができないほどシステムを拡張させたりしていることこそが問題をより深刻化させているのである。
 つまり、東急東横線でいえば、ダイヤの乱れを収束させることを可能にした渋谷駅というターミナルを喪失し、より脆弱なシステムへと移行させてしまった。しかも、そうでなくてもキャパオーバーの渋谷駅にさらに商業ビルの床面積を増やすような開発をして、リスクをさらに高めている。それが降雪とかに対して東京の交通システムをより脆弱化させている大きな要因であり、そのようなことを放置して、降雪に対してレジリエンスを高めるようなことをしようとしても、放火犯を放置しておいて、消火活動を強化しようとしているようなものであり、無駄であると思われる。
 などということを、ドイツのダイヤの大乱れの日に考えた。

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(雪景色のライプツィヒ中央駅)
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イギリス最南端のリザード岬を訪れ、イギリス政府の野蛮さと政府を信頼しないイギリスの底力を知る [サステイナブルな問題]

 イギリスの西南端にあるコーンウォール地方に来ている。「コンパクトシティ」という著書を編集したマイク・ジェンクス氏の家がこちらにあり、そこに日本版『コンパクトシティ』を執筆した海道先生と訪れ、二泊ほどさせていただいているからだ。中日にジェンクス氏が運転する車で、イギリス最南端のリザード岬に連れて行ってもらった。リザード岬はなかなか急峻な崖の上にあり、風光明媚な場所であった。昨年の夏に訪れたウェールズのアングルシー島の西端であるサウス・スタックに比べると、ちょっとスケールは小さいが、それでもなかなか見事な光景に心、奪われる。
 この日はまさに晴天で、海は美しいコバルト・ブルーに輝いていた。ここは岩が多く、多くの船が座礁したようだ。そのために、民間の救援隊が昔、組織されたのだが、これはヴォランティアだそうである。なんで、こういう大切な公共的な仕事に税金が使われないのか不思議であるが、それはサッチャー政権以前から民間がやってきたそうである。その組織の運営費は、救助された人の家族から払われたりするそうだが、結構、国として野蛮な印象を受ける。
 野蛮な印象といえば、このリザード岬への歩道は、すべてナショナル・トラストが整備、管理しているようである。ナショナル・トラストが存在しなければ、このような風光明媚な自然観光資源に歩道で行くことはできない。イギリスはライト・オブ・ウェイという概念があり、そのような公共的な権利に関しての考え方はしっかりしていると思われるが、車道だけで歩道がなければ、実質的には危なくて安心して歩けないし、自動車がいつ現れるかと思うと歩いていても楽しくない。そういうことで、イギリスにおいて自然や歴史遺産などをしっかりと鑑賞し、アプリシエイトするうえでナショナル・トラストの存在というのは大きいな、ということを認識したのだが、その運営にあたっては、会費に因っているそうだ。会員になると、例えば歴史建築物の入場料が無料になるとかの特典があるそうなのだが、それを支持して、結構、高い会費を払う人々が存在しないと成り立たない。民度が問われる、ということだ。
 日本でもナショナル・トラストと似たような組織があるが、あまり活動していることを寡聞ながら知らない。どうしてイギリスではナショナル・トラストがしっかりと機能していて、日本では今一つなのか。ちょっと興味が湧く。その一つの理由として、日本人はイギリス人に比べて、国家を盲目的に信用し過ぎているのではないだろうか。自分のことは自分でやる。国がやらなければ、自分達でやる。そういう動きが求められているような気がする。もちろん、日本でもそのような動きをしているNPOが多く存在したりするが、現状の日本政府や地方政府の駄目さ加減を考えると、これらNPOがより活発に活動していくことが今後、さらに求められるのではないか、というようなことをイギリスの最南端で考えた。

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(ナショナル・トラストによって歩道が整備されている)

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(コバルト・ブルーの美しい海)

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(昔、ヴォランティアの救助隊の基地であった建物の廃墟)

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(多くの船がここで座礁した)

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(イギリスの南端は風光明媚な絶壁であった)

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(周辺は羊の放牧地)
タグ:リザード岬
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豊島区の行政サービスに不満を抱く [サステイナブルな問題]

 私の本籍地は豊島区である。ということで、戸籍謄本とかが必要な時には、わざわざ豊島区に行かなくてはならない。さて、隈研吾設計の豊島区新庁舎はなかなかお洒落である。なんせ、23区で唯一、若い女性が住みたくないので「消滅」すると元岩手県知事に言われたこともあって、豊島区はもう見境なく、若い女性に振り向いてもらおうと必死な印象を受ける。なんか、婚活で駄目出しを喰らったことで、頑張っている不細工なアラフォーの医者のようなイメージなのである、私的には。ちょっと、南池袋公園で挽回しているが、それも私には、奮発してランボルギーニを買っちゃったんだ、というように映る(そして、英語メニューで接客するような変なレストランを出したりしている。これは、ランボルギーニに乗るんだから、それなりの素養を持っていてよねと主張するような格好悪さだと思う)。
 それはともかく、この豊島区。書類申請の仕事をしている人は、ほとんどが外部委託業者であった。これに私はなんか、とても納得しなかった。というのは、もしこのような窓口業務を外部委託するのであれば、セブンイレブン等で戸籍謄本等の証明書類を発行できるようにすべきであると思われるからだ。実際、港区などでは、そのような対応をしている。おそらく、そのようなシステムを導入した方が長期的にはずっと安上がりになるだろう。逆に、このようなシステムのデメリットは、区民とのフェイス・トゥ・フェイスのコンタクトが出来なくなるという点だ。区民と接することで、区民の姿や日々、抱えている問題などが見えてくる。しかし、それを外注化するのであれば、機械で発行できるようにしても失うものはないだろう。私は、この豊島区がシステムに対応しないことで、機会費用として2時間、そして電車賃490円も損をしたのである。
 相変わらず、豊島区は駄目だな、という思いをまた認識した。もてない医者にまた駄目出しをしてしまった気分だ。

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大雪だからって、人々を一斉に帰宅させようとするのは東京のような大都市だと逆に無理があるのではないか [サステイナブルな問題]

東京は大雪である。私が奉職する明治学院大学の白金校舎は、雪が降るとことさら歴史建築物が美しく映える。特に、屋根が雪化粧すると、ちょっとヨーロッパのような雰囲気である。ヨーロッパがよいという訳ではないが、まあ、そういう佇まいがして、私は心が洗われる。さて、しかし、大学は18時で事務はすべて閉鎖、ということで、研究室で仕事をし続けるのも何か迷惑をかけているような気になり、18時30分頃に帰路に着く。さて、いつもは目黒駅まで2キロほど歩いてそこからバスなのだが、ちょっとその道のりは降雪時には辛いな、と思えたので一番最寄りの高輪台駅から地下鉄に乗って中延駅まで行き、そこから大井町線で自由が丘まで出ようと考えた。さて、高輪台駅に着いた西馬込駅の地下鉄をみて驚いた。超ギュウギュウなのである。地下鉄浅草線は、高輪台から終点西馬込駅までわずか5駅しかない。なんでこんなに乗客が多いのだ。と思いつつも、しょうがないので満車の浅草線に乗車する。次の五反田で乗客は降りるだろう、と思っていたら、なんと五反田駅にはホームから溢れるほど人がいた。そして、降りる人よりはるかに多くの人が列車に乗ろうとしてきた。何なんだ、この現象は。これは、京浜東北線が不通になったとか、大井町線が大井町駅と中延駅の間で不通になったとか、何かとんでもない事態が生じたのではないかと考える。中延駅は、もはや駅から出口に出る階段で長蛇の列。カタツムリのようにのろのろと人は上がっていく。そして、大井町線の中延駅にも多くの人がホームに溢れていた。そこにやってきた大井町線も大量の人でとても乗れるような状況にはない。私はここで合点した。
 つまり、ニュースとかで人々に早く帰宅しろ、と促したことで、通常は17時から24時に分散されていた帰宅需要が一挙に19時前に集中したのである。東京は世界一の人口を有しており、その公共交通の処理量も世界一である。それがゆえに、これだけの人口を有していながら、何とか機能させることができている。しかし、なぜ、そういうことが出来ているのかというと、恐ろしく高頻度・高容量のサービスが提供できていることに加え、殺人的で非人間的なラッシュアワーを老若男女が黙って耐え、さらには交通需要が集中しないように、良心あるおじさんが家庭の平和を犠牲にしても赤提灯で時間を潰してから帰宅するようなことをしてくれているからだ。
 そういう極めて微妙なバランスで成立している東京の都市交通事情を、雪で大変だ!とパニックするような報道をして、結局、非常に悲惨な混雑状況に人々を押しやっているのが行政の杓子定規的な考え方である。私は、中延駅の状況があまりにも腹立たしくなったので、家内に電話して、お茶でもしてから帰るわ、と中延駅を降りてそばのドトールで時間を潰して、ついでのこのブログのこの原稿を書いているのである。ちなみに、東急の駅のおじさんに、あんな列車に乗ったら骨折しちゃうよ(私は骨が細いのである)と言ったら、ちゃんと初乗り分、パスもからチャージされた分は返金してもらった。

その後・・・


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縮小自治体に求められるのは役場の「本気度」という話 [サステイナブルな問題]

 地域活性学会のパネル・ディスカッションを拝聴する。島根県の海士町、雲南市、浜田市、邑南町の発表を聞いたのが、傾聴に値するのは海士町と邑南町だけのような印象を受けた。この二つの自治体は、問題の深刻さが違うからかもしれないが、本質的な問題解消のためのアプローチを採っているという印象を受けたが、浜田市と雲南市はどちらかというと机上の空論的な印象、地に足が着いていないような印象を今でも受ける。浜田市はシングルパレンツの取り組みで興味深いことをしているが、その主張が400万円も補助金をつけているということだった。それって、市民が一人当たり80円を補助するということだ。80円というとそれほど大きくはないかもしれないが、それだけのメリットが本当にあるのか。国の補助金を使うにしても、その補助金の多さで、その事業の大きさを伝えようとする取り組みに私は懐疑的な眼差しをもってみてしまっていた。ちょっと、このような備忘録だけで書いてしまうのは、無責任かもしれないが、海士町と邑南町は、その問題を自らのものとして意識し、自ら問題解消に取り組んでいる。それに比して、浜田市や雲南市は、補助金を当てにしたり、ふるさと納税を当てにしたり、内発的に発展するようなシステムをつくろうとしていない印象を受ける。外部依存をしている限りは、地方の衰退というトレンドを反転させることは難しいのではないだろうか。これは、徳島県の神山町や、広島県の尾道市、長野県の小布施町、などでも感じたことである。
 このパネル・ディスカッションの最後の方で、海士町のパネリストが、「何しろ重要なのは役場の本気度」と述べられたが、それは私からすると雲南市や浜田市の人への皮肉のようにも聞こえた。いや、それは私が聞こえただけで、実際はそのようなことを意図してはいなかったかと思うが、まあ、この「本気」ということが何しろ地域が問われていることではないかと思われる。邑南町の町長もまさに、この「本気度」が重要であるかを最後の発言で問うた。彼は島根県立大学の本気度の弱さを、早稲田大学の本気度と比較して指摘していた。「島根県には公務員と銀行しかありませんと言っていたら、島根県は潰れてしまいます」とまで言った。これは、これまで相当のフラストレーションと理不尽を体験した人だからこそ出てきてしまった本音であろう。興味深いパネルディスカッションであった。

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C.A.T(センター・フォア・オルタナティブ・テクノロジ)再訪 [サステイナブルな問題]

 ウェールズに来ているので、20年ぶりぐらいにC.A.Tに行くことにした。その時は、ランドスケープ・アーキテクトのPeter Harperさんに取材をして「環境自治体」に記事を書いたりしたが、今は、そういう気負いがなくなっている。また、現在、ウェールズではC.A.Tを最初に日本に紹介した長島孝一さんの奥様の実家に滞在させてもらっているのだが、長島さんが現在のC.A.Tにほとんど関心を持っていないことも多少、影響を与えたのかもしれない。
 長島さんの奥様の実家は北ウェールズのアングルシー島にあるので、そこからレンタカーを飛ばして行ったのだが、往路も復路も最短距離ではなく、スノーデン国立公園の中を抜けるルートを採った。これは、対向車と行き違うのも難しいぐらい道が非常に狭く、またワインディング・ロードであったので時間は大変かかったのだが、その苦労に見合うほどの美しいランドスケープを楽しむことができた。というか、絶景である。イギリスでこんな絶景に出会えるとは意外であったこともあり、嬉しい驚きだ(以前、スコットランドをレンタカーで走った時も、その美しさというか絶景に驚きましたが、ウェールズもこんなに美しいとは思ってはいなかった)。
 思わず、あちらこちらで車を停めて写真を撮っていたら、到着が予定より1時間は遅れた。それまで天気はよくはなかったが、それなりに雨にはならなかったのだが、C.A.Tに着く直前から酷く降り出した。
 C.A.Tはセンター・フォア・オルタナティブ・テクノロジーの略であり、風力発電、太陽光発電、さらにはごみの循環・リサイクルなど環境負荷の低いシステムを展示している、ちょっとしたエコ・テーマパークのようなところである。巨大な石切場の跡地にヒッピーのような若者達によって1970年頃につくられた。
 駐車場からは、水の重さで動くケーブルカーで上の施設群まで登っていく。このケーブルカーは単純だが、とても賢いつくりになっている。上にあるケーブルカーに水を入れて、そのうち水の重さで、上のケーブルカーが下に降りていく。その時、下にあるケーブルカーも引っ張られるようで上に登っていく。そして、ケーブルカーは下に着くと、水を全部放出して軽くなる。これの繰り返しなのだが、本当に電気いらずのケーブルカーなのだ。なぜ、これをもっと他でも普及していないのかが不思議になるほど、単純でいいシステムであると思う。そして、これがC.A.Tの入り口にあることはとても有効である。訪問者に強烈なイニシエーションというか印象を与えることができるからだ。
 C.A.Tは20年前に比べると、研修施設なども充実させていた。展示もそれなりに充実しているような気もするし、20年前からそれほど進歩していないようにも見える。とはいえ、その方向性は20年前よりもさらにゆるぎなく重要なものになっているし、実際、C.A.Tはよりメジャーになっていると思う。私もちょっと初心に戻るような気分にさせられた。

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(C.A.T.の入り口。ケーブルカー乗り場でもある)

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(ケーブルカーは水の重さで上下しているのだ)

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(エネルギーの展示。これは子供にもエネルギーのことが分かりやすいような楽しい展示である)

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(食料に関する展示も多い)

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