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「個人の栄誉にもならないことを、協力して一生懸命にやることができる」という日本人の美徳は過去のものになりつつある [その他]

機内で『テルマエ・ロマエ』の映画を観る。ほとんど暇つぶしのような内容ではあったが、私の興味を引いたのは、主人公のルシアスが、日本人が協働して戦場にて温泉をつくる光景を見て、「この平たい顔の民族(日本人)は、なぜ個人の栄誉にもならないことを、協力して一生懸命にやることができるんだ」と感心して呟いたところである。このような美徳は、一般的に他国が日本人を賞賛するときに使われる。確かに、震災などの災害時における日本人の行儀のよさは、世界が感心する美徳ではあろう。ただし、私が日々接している大学生は、このチームワークのよさといったものが見られなくなりつつある。例えば、スーツケースを持って皆がエレベーターに乗るような場合、誰か数名だけが乗って、他の学生のスーツケースをエレベーターに乗っけて、残りは階段で移動すれば、エレベーターを上下する回数を減らすことができるが、そのような知恵が回らない。それも何10回とこのような行動をしたにも関わらず、学習ができないのである。また、電車を乗り降りする時も、周りと一緒に行動できないので、乗り遅れたり、降り遅れたりする学生もいる。そして、そのような行為の結果、周りに迷惑をかけても特に悪いとも思わないのである。あと、集団としてのお金の管理ができない。会計係を決めても、予め、皆のお金を集めてやり繰りすればいいのに、何回言っても、これをすることができない。私の言うことを聞かないのも不思議だが、どうも、他の学生のお金を預かることの個人的なリスクを負うことが嫌なようなのだ。その結果、常に、電車に乗るときや食事時に面倒くさい金のやり取りを学生間ですることになる。しかし、何回やっても、会計係が金を事前にある程度、集めることのメリットよりも、個人のリスクを優先させてしまうようなのだ。要するに、ルシアスが感心したチームワークを現代の大学生はもう出来なくなっているのである。
 ということで、ルシアスの感想は、今の私には、まったくもって説得力を持たないし、そんな風な自我意識を持っていたら、かえって危険であると思われる。というのも、日本人の大学生より台湾人の大学生、私の大学に来ているアメリカ人の留学生の方がはるかにチームワークが優れているからだ。しかし、このような学生が多く、産出されているということは、私のような大学で奉職するものにとっても大変な課題ではあるが、このような学生達に報酬を払って働いてもらわなくてはいけない日本企業等にとってはさらなる問題となるであろう。どうして、こんなことになってしまったのかは不明だが、学級崩壊やゆとり教育、そしてそれらの結果によって、塾通いをしたりして、チームワークより個人の成績等を重視する価値感を育んでしまったからではないかとも思われる。もちろん、うちの大学に入学する学生がどんどん劣化しているという個別の問題もあるかもしれないが、それにしても、これは日本の根底を揺るがす大問題だと思う。

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海外にいても、Wifiに繋がるかどうかとを気にしてばかりいる学生達 [その他]

学生を連れてドイツに来ているが、学生達はどこに行ってもWifiに繋がるかどうかということばかりを気にしている。ここ10年間ほど、私は学生を外国に連れて来ているが、ここまで気にしている学生が複数出現したのは、初めての経験であり、ちょっと学生の生態を知る上では興味深い。新しい街を訪れても、目当てはスターバックスである。スタバはコーヒーが目当てではなく、Wifiが目当てなのである。そして、目の前には、ドイツの街並みが広がっているにも関わらず、自由時間にはスタバに駆け込んで、iPhoneの画面を睨んでいる。もちろん、気にしているのは恋人がいる学生なのだが、そんなにも繋がっていたいのか。せっかく外国に来ているのだから、もう少し、勉強というか目を開いてもいいと思うのだが、自分と恋人との殻にこもって、ぬくぬくとした関係性を維持していたいのかもしれない。そんなら外国にわざわざ来なくてもいいのにとも思ったりする。
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山口百恵の出生地は豊島区南長崎であったことを初めて知る [その他]

藤原新也の『東京漂流』を読んでいて、山口百恵の出生地は豊島区南長崎であったことを初めて知る。しかも、南長崎6丁目であった。私が生まれたのは、長崎6丁目のそばであったから、彼女の出生地は駅向こうであった訳だ。彼女は、そこで家賃4000円の木賃アパートで育ったらしいのだが、全然、そんなことは知らなかった。南長崎6丁目であれば、間違いなく最寄り駅は、私と同じ西武池袋線の東長崎であったから、もしかしたら偶然、会ったようなこともあったかもしれない。

いや、そのような個人的な感傷はともかくとして、この彼女の出生地が南長崎であるということは、あまり公にされていないと思う。私もイメージとして、横須賀出身だと思っていた。例えば、彼女に関するWikipediaにも一切、そのようなことは書かれていない。出生地も日本とだけ書かれている。

とはいえ、彼女が住んでいた富士見荘の写真が掲載されているホームページなども存在した。
http://www.geocities.jp/netreal_bookbox/bird_eyes/fujimisou/SlideVewerV/images/slider/000.htm

ううむ、いかにも東長崎らしい木賃住宅であり、その周辺で育った私はノスタルジックな気分になる。しかし、東長崎と関係ある有名人はときわ荘の面々や横山光輝を除けば、せいぜい西原理恵子くらいかと思っていたのだが、山下達郎が店番をしていたCD屋などもあったそうだ。灯台もと暗しとは、このことだ。


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失うことを恐れるほど大したものは、それほどない [その他]

ちょっと個人的なことを記すことをお許し願いたい。

私は2009年に『道路整備事業の大罪』という本を著した。この本自体は、「道路は地方を救えるか」というタイトルにしたかったのに、マーケティング的な能力がない出版社(しかし、自分達がその能力がないことは理解できていない)が、私の反対を無視して強行したものであり、実際はそれほど道路整備事業に反対している訳ではなく、ただ疑問を呈しただけの内容なのだが、まあ、そういうものを出版した。

さて、先日、私は大学の同窓会に出席した。私の出身大学は東京大学工学部土木工学科というところである。つまり、私の同期生の多くは、国土交通省の道路局、すなわち私がこの本で批判する道路整備をせっせとやる人達を輩出する学部なのである。したがって、私を講演に呼ぶ人達が反対するプロジェクトの推進者も、私の同期にはいたりする(こいつがまた、とても気のいい男であったりする)。ちなみに、原発関係者も思いの外、多くてちょっと驚いた。しかし、同窓会では、和気藹々と昔話や馬鹿話で盛り上がる。まあ、道路局の同窓生で完全に私を無視した奴もいたりしたが、まあ、それほど気にならない。そういう人種差別、宗教差別的なことをする偏狭な心の持ち主はどこにでもいるものだ。とはいえ、こういう奴が戦争とかになったりすると、ユダヤ人虐殺のようなことをするので油断は出来ないのだが。

さて、しかし、そこで国土交通省にいる大学時代の時に比較的、近かった奴が「いやあ、お前が失ったものは大きいよね」とにこにこして話しかけてきた。この発言は嫌みでも何でもなく、素直に言ったものであることは表情からも分かったので、私も「そうかな」と笑いながら答えたが、いや、実は失ったものはほとんどないのだ。そもそも、東京大学や京都大学、東京工業大学や、まあ頑張れば早稲田大学くらいで教鞭を執っているなら、原子力村ならぬ道路村のような利権構造に組み入れられて、それなりにいい思いをできるかもしれないが、私のように二流私立(最近では、三流になりつつあるとも指摘される)大学の教員には、そのような道路村のヒエラルキーにおいても下層に位置づけられる。これは、どういうことかというと、一生懸命、道路を整備するといいことありまっせ、とか太鼓持ちをしても、あまり相手をしてくれないのだ。すなわち、魂を売るほど悪魔に魅力はないのだ。

しかも、そもそも私は某財閥系のコンサルタント会社で以前、働いていたが、そこで、ノルマを達成するためには3つの悪魔(原子力、道路、戦争)のどれかに魂を売らなくてはならないことに気づき、それが嫌で大学に転職したのに、なんでまた、売らなくてはいけないのだ。確かに、道路に反対する講演会で講師をすると、謝礼が取れたてのネギだったりするし、私はお金には常に困っているかもしれないが、精神的には遙かに楽だ。というか、そこまで言ってくるのであれば、「失ったものが大きい」ことをしっかりと役人は発信しなくては駄目だし、ああ、しまったと思わせるくらいのいい目に遭わせるよう努力するべきであっただろう。私の中央官庁との15年間のつきあいを踏まえても、道路に魂を売るのを止めることで失うことが大きいことは、一度も理解させてもらえなかった。理解させなかったくせに、もったいないことしたな、というのはちょっとだけ思い上がっているのではないだろうか。原子力村とかもそうだが、所詮、税金を使っての権力である。それは、とどのつまり、金の話であるし、しかも自分たちの金ではない。すなわち、自分たちが持っている権力とは、その税金という金を差配する力を有しているだけである。そこで、「もしかしたらお前にも差配してやったかもしれないけど、もうやらないからね」みたいなことを言われても、全然、悔しくも何ともない。経済成長が縮減していく中、金が豊かさであるといった価値感は崩壊しつつある。すなわち、そのうち原子力村とか道路村的なものも、それほど魂を売るだけの価値がなくなりつつあることに気づくべきだ。少なくとも、私は気づいた。ネズミ講もそうだが、上の方にいなければいい思いはできない。ヒエラルキーの真ん中から下は、さっさとそのような村から脱却すべきだと自分の経験に照らし合わせてみても、そう思う。失うことを恐れるほど大したものは、それほどないのである。
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「まんだら屋の良太」の作者の畑中純が亡くなられた [その他]

「まんだら屋の良太」の作者の畑中純が5月13日に亡くなられた。私は偶然にも、12日から13日にかけて同氏の『月子まんだら』を読んでいた。本当は「まんだら屋の良太」が読みたかったのだが、新品は手に入らず、古本だとべらぼうに高かったので、しかたなくその代わりとして『月子まんだら』を購入して読んでいたのだ。別にファンという訳ではないのだが、日本の土着的な性や自然、死生観的なものを考えるうえで参考になるかもしれないと思って購入したのであった。本当、彼のマンガを読んだのは25年ぶりくらいだった。エロを描いているのだが、そのエロを通じて、日本的というかアジア的な死生観が浮かび上がってくるような味わい深いマンガだと思う。作者のあとがきなどを感慨深く読んでいた時に、その作者がこの世を去ったというのは偶然とはいえ、衝撃的である。ご冥福をお祈りする。


月子まんだら 愛蔵版

月子まんだら 愛蔵版

  • 作者: 畑中 純
  • 出版社/メーカー: 青林堂
  • 発売日: 2011/01/12
  • メディア: 単行本



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博物館はその人の知識の深さを測るリトマス試験紙のようなものだったのだな、ということを知る [その他]

台北の故宮博物館に行く。私を案内してくれた人が、私が知る限り、最も頭がよいと思われている人であったこともあり、故宮博物館を介して、彼女にいろいろと世界史、芸術に関して教わるという大変、贅沢であり、かつ密度の濃い時間を過ごすことができた。そうか、博物館にはこういう使い方があるのか、と理解する。一方、私のような博学でない人間が、人(私の場合、大抵外国人だが)を博物館に連れて行くと、自分の知識の無さに気づかされる。そうか、博物館はその人の知識の深さを測るリトマス試験紙のようなものだったのだな、ということを知る。私は、博物館を通じて、今日、知人(台湾人)の凄まじいほどの知力を再確認させられた。まあ、彼女は化け物のような人ではあるが、本当、一緒にいるだけで、賢くなるような気にさせられる。もう70歳近いのだが、彼女のような人が、真の教師であるのだな、と思う。

私の知人には、大学の先生を含めて、一緒にいると馬鹿になるような人がいたりするが、そういうのとは偉い違いである。
タグ:故宮博物館
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光市母子殺人事件の被告が、以前、友人に送った手紙を転載する [その他]

光市母子殺人事件で、犯人の大月孝行被告の死刑が確定した。このことに関しては、いろいろと考えさせられるが、被告が、求刑死刑、判決無期懲役の後に友人に送った手紙の内容は、非常に不快である。私の備忘録的な意味合いもあるが、ここに転載させてもらう。

『オイラは、一人の弁ちゃんで、最後まで罪が重くて「死」が近くても「信じる」心をもって、行く。そして、勝って修行、出て頭を下げる。そして晴れて「人間」さ。オレの野望は小説家。へへ』

『誰が許し、誰が私を裁くのか・・・。そんな人物はこの世にはいないのだ。神に成り代わりし、法廷の守護者達・・・裁判官、サツ、弁護士、検事達・・・。私を裁ける物は、この世にはおらず・・・。二人は帰ってこないのだから・・・。法廷に出てきてほしいものだ・・・何が神だろう・・・サタン!ミカエル!ベリアル!ガブリエル!ただの馬鹿の集まりよ!』

『知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。だが、もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君』

『犬がある日かわいい犬と出合った。・・・そのまま「やっちゃった」、・・・これは罪でしょうか』

『五年+仮で8年は行くよ。どっちにしてもオレ自身、刑務所のげんじょーにきょうみあるし、速く出たくもない。キタナイ外へ出る時は、完全究極体で出たい。じゃないと二度目のぎせい者が出るかも』

『選ばれし人間は人類のため社会道徳を踏み外し、悪さをする権利がある』←『罪と罰』の引用らしいですがね

(死刑判決を免れて)『勝ったと言うべきか負けたと言うべきか?何か心に残るこのモヤ付き・・・。イヤね、つい相手のことを考えてしまってね・・・昔から傷をつけては逃げ勝っている・・・。まあ兎に角だ。二週間後に検事のほうが控訴しなければ終わるよ。長かったな・・・友と別れ、また出会い、またわかれ・・・(中略)心はブルー、外見はハッピー、しかも今はロン毛もハゲチャビン!マジよ!』

(被害者の夫、本村氏について週刊誌の実名報道を踏まえて)『ま、しゃーないですね今更。被害者さんのことですやろ?知ってます。ありゃー調子付いてると僕もね、思うとりました。・・・でも記事にして、ちーとでも、気分が晴れてくれるんなら好きにしてやりたいし』
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演劇集団「Nの2乗」の「風に乗れ!私の想い・・」を観劇する [その他]

知人が出ているので、中野スタジオあくとれに演劇を観に行く。演劇集団「Nの2乗」の「風に乗れ!私の想い・・」である。

さて、土曜日の夜ということで劇場は立ち見が出るほどの盛況であった。私はなんと最前列で観ることができた。さて、話の背景は、東日本大震災での被災地の母親が、東京に出た息子の家に行く。そこで、家族の絆とは何かを再考する、といったようなものだ。東日本大震災というレンズを通じて、家族、日本を考え直させるような内容であるが、説教臭いところはまったくなく、人々に問いかけるといった演出がなされていて、好感が持てた。まだ明日というか22日もあるので、興味がある方は観られるといいのではないだろうか。

演劇集団「Nの2乗」のウェブサイトは下記。
http://n-2jo.com/

それにしても、演劇というのは観る方も緊張させられる。まあ、この緊張感が演じる方も観る方も刺激的なのであろうが。



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ドミニク・ウィルキンス選手の鋭いアドバイスに感心する [その他]

9歳の早熟なバスケットボール選手をCNNが取材している。下記のユーチューブで見ることができる。

http://www.youtube.com/watch?v=O0j2OAkc77k&feature=related

なかなか上手で驚くが、ここで印象的なのは、スラムダンク・コンテストの常連であったドミニク・ウィルキンス選手が、この少年にアドバイスをしているのだが、そこで「君の成長を止められるのは君だけだ」と言っているところだ。

私も学生などを見ていたり、長女を見ていたりして、つくづく思うのは「自らの可能性を止めているのは自分である」ということだ。そういう自分も、そうであったと思う。ドミニク・ウィルキンス選手は、スター選手ではあるが、どうもカリスマ性がなく、チームもここぞという時に負けて今ひとつだよなあ、と思っていたが、この発言で私は見直した。
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若い時はもっと勉強すればよかったのだ [その他]

久しぶりに高校時代の友人に会う。彼はサラリーマンをしている。高校時代や大学時代での思い出話に花を咲かせていたのだが、彼が「麻雀なんかせずに、あの時、もっと勉強すればよかったよなあ」と言ったのが印象的であった。私もまさにそう思うからである。まあ、私の場合は、大学教員という職業柄、もうそこらへんの勉強のストックが今の出来に大きく関係するために、本当、学生時代の勉強不足で苦労している。しかし、大学教員だけでなくサラリーマンをしていてもそう思うのだ。別に勉強とは学校で教わることだけではない。楽器の演奏でも、スポーツでも、何でもいいからもっとしっかりと修行をしておくべきだったのである。大学を卒業すると勉強するという機会を得るのさえ大変になる。お金も相当、かかるようになる。結婚したりすると、もう自分に投資をすることが難しくなる。そういうことを若い時に早く自覚していればよかったのだが、出来ずに無為に日々を過ごしてしまったこと。これを私も、高校時代の友人も悔いるのである。そして、私は教育する機会を得ているのに、なんか空振りをしている。学生の怠惰な気持ちは相当、強敵である。そういう二点からちょっと複雑な気分になったりするのである。
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いい加減な進路指導をする高校教員 [その他]

私の長女は高一である。進路を決めなくてはいけないので悩んでいるのだが、高校の数学の先生に相談をしたら「君の数学の出来では理系は到底、無理だ」と言われたらしい。長女はえらく落ち込んだのだが、文系で大学の教員をしている私は、ちょっと憤慨した。

というのは、長女は理系も駄目かもしれないが、文系はもっと適性がないからだ。理系が駄目というが、文系のどの学科に行け、というのであろうか。そもそも文系に行って、将来、長女は何をすればいいと、この先生は考えているのであろうか。大学進学が無理だ、というアドバイスならまだ分かるが、数学が出来ないから文系に行かせる、という考えは、学生の本質的な適性を無視した暴論である。長女は、確かに理系科目は出来ないかもしれないが、機械にはまあまあ強い。あと、数少ない長所として色のセンスがよかったりもする。建築系のCADをマスターしたり、ウェブ・デザイナーとかだったらやっていけるかもしれない。一方で、コミュニケーションがあまり上手ではなく、愛想もない。営業とかだと、相当苦労するであろう。また雑な性格なので、経理とかも無理だ。気が利かないので総務にも不適当だ(気が利かない総務の人もいますけど)。私が日々、接する学生に比べても、長女は会社で入ったら相当、使い物にならないであろう。会社などでの事務仕事の才能がないことは、高校数学が多少、出来ないことより遙かに問題なのではないだろうか。それに、高校数学だったらちょっと丁寧に教えれば理解できる程度のものであろう。この数学の先生の責任も多少はあるのではないだろうか。

ということで、私は父親として長女にこう伝えたのである。「あのねえ、理系の大学だって偏差値が40ぐらいのところだってあるんだよ」。そうである。この数学の先生は偏差値が低い大学を大学として捉えていないのだ。こういう考えが偏差値教育を助長するのであろう。偏差値が55ぐらいの文系の大学に行くよりかは、偏差値が45ぐらいの理系の大学に行った方がずっとその学生のためになる場合はあるのだ。私も高校時代、大学時代、そういうことが理解できなかったが、社会人になってさらに大学教員になって、いかに偏差値とかで大学を選ぶことが馬鹿らしいかを理解することができた。そもそも偏差値は多少、無理をすれば(例えば早稲田大学のようにAO入試での合格者数を増やす)上げることができる。そんなものや、入試科目で将来を決めるという愚行を、学生本人ではなく、高校教員がしていることに本当、呆れかえるよ。ちなみに、長女が通っているのは後進の進学校で、東大合格者数も20名前後であったりする。長女はまあ、こういうグループにはまったく入っていないが、東大合格者数を出すということも重要かもしれないが、学生が大学に入って、その後、どういう道を進むのか、ということまで考えて、責任もった進路指導をするか、少なくとも無責任な進路指導しかできないのであれば、最初からするべきでないであろう。数学の点数が悪いからって、理系が駄目で文系に行け、って世の中、舐めているのか。

私も学生に何で経済学科に来たの?と尋ねたら、「何がやりたいか分からない、って高校の先生に行ったら、じゃあ経済学科に行きなさいって言われたから」と回答されたことがある。悪いけど、別に経済学科に来たって、将来は見つからないから。本人が真剣に考えて、勉強しなければ、将来への橋は架かりません。

そうそう、私の高校の同級生に歯医者志望で、東京医科歯科大学の歯学科を受験しようとしていたのだが、直前になって東京大学の理科二類を受験して、そちらに行ったのがいる。今、何をしているのか不明だが、卒業後はどっかの一流企業に行ったと思う。皆、サラリーマンは誰でも出来ると考えていると思う節があるが、サラリーマンにも才能は必要である。そしてサラリーマンに求められる資質は、東大に入れる能力とはほとんど相関関係はない。私は彼なんかはよほど歯医者になった方がよかったと思ったりする。東大に入ることは、一時の幸せだが、しっかりとした自分の適性に合った大学に入ることは一生の幸せに繋がる。もっと、そこらへんを学生だけでなく教員や親も真剣に考えるといいと思う。

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ソフトバンクに携帯電話の契約をしに行き、やっぱり辞める [その他]

ソフトバンクに携帯電話の契約をしに行った。iPhoneの新しい製品が出たし、私はもう5年も同じ携帯電話を使っているので、がたが来ているし、そろそろ替え時であると思っていたからだ。ボーナスも出たし、タイミングもよかった。そして、何より、あの犬のお父さんのホットカーペットに惹かれたのであった。さて、そこで家のそばのソフトバンクの店頭に行き、いろいろと説明を聞き、よく分からないが、意外に高いな、と思いつつも、あの犬のお父さんのホットカーペットが欲しいので、契約しようとしたのだが、今使用している電話番号と同じものにするためには、ドコモに行って、ドコモとの契約を解除しなければいけないということを言われる。そうか、面倒臭いなあ。しかも私が欲しいiPhoneの型は在庫がないようだ。さらに予約をするためにも、私の身分証明書が必要なのだが、家に忘れてきてしまった。ということで、お父さんのホットカーペットが欲しいために契約を無理矢理しようと思っていたのだが、予約もできずに家に帰る羽目になった。

さて、家に戻り、冷静に契約内容を考えてみると、どうも高い。そもそもなぜ、iPhoneが欲しいかさえ分からなくなってきた。私はいつもマックブックを肌身離さず携帯している。特にiPhoneで楽しむような必要性はない。電話が欲しいのであれば、新しい携帯電話を買えばいいだけの話である。それにソフトバンクの契約内容は怪しげである。解約すると9万円(だったと思う)の違約金というのは、ちょっと手前勝手過ぎるのではないか。なぜ、こんな怪しげな契約を自分がしようとしていたのか、ふと我に返ると不思議な気分になる。これは、どうも、あの犬のお父さんの魅力に惑わされてしまっていただけのような気がする。ということで、身分証明書を忘れたのは、何かの力が私を守ってくれたのではないか、という気さえしてきた。それにしても、恐ろしいのはあのカイ君演じる犬のお父さんである。あやうく変な契約をしそうになってしまった。広告の力の凄さを再確認した次第だ。といいつつも、あのホットカーペットは欲しいなあ。

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『世界が賞賛した日本の町の秘密』が発売されました [その他]

私ごとで恐縮であるが、アメリカのカルチュラル・ランドスケープの大家であるチェスター・リーブス先生が書き下ろして、私が翻訳した『世界が賞賛した日本の町の秘密』が本日、洋泉社から出版された。この本は、日本人がきづいていない日本の価値を述べたもので、目から鱗の内容に溢れている。特に、世界のトレンドに逆行する施策を続けていらっしゃる役人の方々には是非とも読んでもらいたい。新書で価格もお手頃ですので、是非とも宜しくお願いします。


世界が賞賛した日本の町の秘密 (新書y)

世界が賞賛した日本の町の秘密 (新書y)

  • 作者: チェスター・リーブス
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2011/12/06
  • メディア: 新書



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トイレバイクがつくられた! [その他]

TOTOが「トイレバイク ネオ」を開発した。バイクの座席が洋式便器になっている。

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めちゃくちゃ変だけど、そもそも座り心地が悪そう。

さて、私がその昔、サラリーマンをしていた時、なんか新しい商品開発の企画を研修でした時がある。そのとき、トイレバイクを提案した人がいた。私は、そのあまりのバカらしさに、この人は何を考えているのだろうと呆れ果てたことがあるのだが、実際、つくられるとは驚きだ。まあ、このトイレバイクは実際、用を足すことはできないようで、燃料がバイオガスということだけだそうだが、ううむ、それにしても何故、便器。こういうトイレとかが好きな人は世の中に私が思うより、はるかに多いということをちょっと知る。
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ゼミ生の卒業生の結婚式に出席する [その他]

ゼミ生の卒業生の結婚式に出席する。いきなり、スピーチが振られるなどのアクシデントもあったが、とりあえず対処する。全般的に心温まる非常によい結婚式で私も参加させてもらって嬉しかったのだが、一点だけ気になることがあった。式も終わりの方で、私のゼミの卒業生である新婦がご両親への感謝の言葉を述べたのだが、それは「大学では授業そっちのけで、サークル、アルバイト、ゼミに熱中してしまい・・・」というものであった。流石にその場では突っ込めなかったが、「ゼミ」は一応「授業」ですから。私も一応、学生の授業料でゼミを運営できているのですが・・・。とはいえ、このような若者と時間を共有することができ、またその良き日に立ち会えるというのは大学教員という仕事の素晴らしいところである。卒業生やそのご両親に感謝の言葉をいただいたりするが、本当は私の方が感謝したいぐらいである。

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世界の鼻つまみ者である日本人のくせに、アメリカにケチをつける [その他]

経産省と東京電力のせいで、世界の鼻つまみものとなってしまった日本人。昨日の朝日新聞では、原発の行く末を「世界が見守っている」などと書いていたが、全然、見守ってなんかいないよ。地震や津波からいかに復興するかという点では見守っているだろうが、原発はもう見守っていないと思われる。この袋小路的な状況に陥っている原発の事後処理については、相当苛立っている筈だ。ドイツの気象庁の放射能汚染の予測では、韓国でも結構の放射能汚染物質が落下した時もある(ごめんなさい)。本当、国際的にはとんでもない国に陥ってしまっている。これまで築き上げてきた日本のブランド的価値、信頼が吹っ飛んでいる。これも経産省、東京電力、そして旧来の自民党政治のせいだ。ちくしょう!

さて、そのような世界の癌ともいえる日本人であるくせに、アメリカのことをちょっとケチつけたいと思う。それは、アメリカのシャワーについてである。アメリカのシャワーは、どんな金持ちの家のものでも、固定されている。これは、ヨーロッパのシャワーが取っ手から外せて自由に動かせるのとは大違いである。日本のシャワーも自由に動かせるものがほとんどである。それに比べると、本当にこのアメリカのシャワーは使い勝手が悪くて、お粗末である。これに関しては、ドイツ人の知人も「本当に馬鹿げている」と指摘していたが、私もまさにそう思う。なんで、こんな不便なものを使っているのだろうか。これだと、身体の洗いたいところに水が届かないのだ。髪の毛を洗うのにはそれほど不便ではないが、それにしても馬鹿げている。

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(アメリカのバカ・シャワー)

原発を地震国のくせにどかどかとつくって、被災を受け、しかも、その事後処理もしっかりと出来ない国民が、こんなことを指摘するのは申し訳ないが、まあ、自分のことは棚に上げて指摘させてもらう。しかし、これから一生、日本人であることで卑屈に思わなくてはならないかと思うと、本当、経産省、東京電力、自民党は許せん。ちなみに同僚の先生は、フランスの学会に行くのだが、フランスでは中国人のふりをしようとか言っていた。私も生まれて初めてぐらい、日本人であることが恥ずかしいような気分になっている。本当、悔しい。

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卒業式が中止になったので、ここで卒業生に言葉を贈る [その他]

前日までなかなか決定しなかったが、明日の卒業式は中止になった。私は4年生で卒論を担当した学生が一人しかいなかったので、例年に比べると、卒業式を迎えても感慨深いものがほとんど湧いてこない。しかし、それでも多少の縁のあった学生、特にフィールドスタディでカリフォルニア、そしてオーストラリアのパーマカルチャーを訪れた学生達、そして唯一のゼミ生に対して、余計に生きているという理由だけで、ちょこっとだけ話をさせてもらう。

君たちの多くは社会人になる。社会に飛び立つ、といえば聞こえはいいが、今までの温々としたモラトリアムの終焉とも言える。これまでは、君たちの多くは、社会から多くのものを与えられてきた。それは金銭的な授受を伴うものだったかもしれないが、社会と真正面に対峙しなくても済んでこられた訳である。しかし、これからは違う。生活をしていくために、お金をもらうために、働かなくてはならない。自ら与えられるのを待つのではなく、取りに行かなくてはならない。しかも、社会はもう簡単には与えてくれない。なぜなら、君たちは「お金」を他人から得なくてはならなくなっているからである。すなわち、これまでは消費者であったのが、これからは生産者にならなくてはいけないのである。そして、君たちの多くはサービスを生産しなくてはならない職業に就いている筈だ。特に経済学部などはそうであろう。このサービスというのは厄介である。というのは、(公務員や大学教授!?などを除けば)サービスというのは、相手に評価されて初めて価値を生み出すからである。それでは、どうすれば相手に評価されるようになるのであろうか。そのためには、自分の立ち位置をしっかりと把握することが必要となるであろう。自分が評価される価値とは何なのか。それを突き詰めることが求められる。本当は、そういうことは学生のうちにすべきである。私もなるべく口を酸っぱくして機会があるごとに学生に言っているが、ゼミ生を除けば、ほとんど馬耳東風である(最近ではゼミ生でも、聞き流す学生がいる。そろそろ私も潮時か)。それでも学生時代を過ごすうえでは何も問題がない。しかし、社会においてはそうはいかない。なぜなら、社会的に価値を評価されないと、誰もお金をくれなくなるからだ。こういう風にいうと、随分と厭世的だな、と思われるかもしれない。しかし、私がこういう風に思うのは、私も極めて適当な気分で社会に出て、酷い目に合ったからである。そして、そのような酷い目に合ったのは、ほとんど自分の責任であった。しっかりと学生時代に培うべきものを培わずに、社会に出てしまったので本当に苦労をした。特に勉強をしなかったことは大きなハンディとなった。

さて、祝いの門出ともいうべき卒業式に何、不吉なことを言っているのだと思われるかもしれない。今更、勉強しろ、と言われても遅いわ(というか前から言っていたのだけどね)と君たちは思うであろう。私もゼミ生を除けば(すなわち一人の学生)、ほとんどの学生とは、もうほとんど会わなくなるであろうし、何、こんなめでたくもないことを言っているのだと自分でも突っ込みたくなる。

しかし、学生という貴重な時間はもどってこないかもしれないが、これからも人生は続いていく。学生の時に勉強が不足していても、まだまだ君たちの人生は長い。これからでも随分と勉強をしたりすることができる。大学ほどそのための環境には恵まれていないかもしれないが、しかし、勉強ができない訳でもないであろう。もちろん、勉強だけが人生ではない。恋愛やらいろいろと有意義に時間を過ごしてもらいたい。

人生は長いようで短い。私のように既に折り返し地点に到達したものは、より短く感じられる。特に社会に出てしまった後はあっという間である。6日前に起きた東北沖大地震では1万人を越える方々が亡くなった。君たちは、その一人一人が尊い命なのである。その命の管理者として、命がある限り、有意義に悔いのない人生を送ってもらいたいと思っている。今回の震災は、筆舌に尽くしがたい惨劇であった。多くの人達が無念の思いを抱きつつ、亡くなられたであろう。しかし、君たちは生きている。社会に出て、本当に貴重な人生、かけがえのない人生を送ってもらえたらと強く願っている。私も、2005年に同僚を事故で失った。私は既に彼の享年に達した。私は彼をさほど尊敬していた訳ではないが、それでも彼の命を多少とも、自分の命で引き継いでいきたいと考えてきた。命というものは、そういうものではないかと思うのである。だから、君たちもこの悲惨な事故を踏み越えて、未来を切り拓いてもらいたいと思うのである。この閉塞感に溢れた時代を切り拓くのも君たちの仕事だ。しっかりと、ぶれずに充実した残りの人生を送ってもらえたらと思っている。卒業おめでとう。
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石原都知事の「やっぱり天罰」発言に仰天する [その他]

石原都知事は3月14日、東日本大震災に対して「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と述べたそうだ。これは、津波で「積年たまった日本人の心のあかを」一気に押し流す必要がある、ということらしい。一応、「被災者の方々はかわいそうですよ」とは述べたらしいが、流石に開いた口がふさがらない。私のゼミの卒業生でも実家が跡形もなく津波で流されたものがいる。幸い、家族は見つかったそうだが、まだその家族は避難所暮らしで、予断は許さない。津波で我欲を荒い流すのであれば、全国民がそのような目に合うべきであろう。なぜ、日本人が我欲を洗い落とすために、あたかも生け贄のように東日本の太平洋岸の人達が犠牲にならなくてはならないのだ。なぜ、彼らだけが天罰を受けなくてはならないのだ。しかも、彼らの多くが失ったものは命である。命をなくしたら、そりゃ我欲も糞もないが、こういうことが平気で言える人の神経はまったく分からない。「かわいそう」ではない。亡くなっているのである。それも1万人というオーダーで亡くなっているのである。亡くなった人達に「かわいそう」と言うのは、小説家の言葉とはとても思えない。私のように繊細さに欠く人間が言うくらいであるから、その無神経さは神の領域に達しているであろう。こんな人が東京という日本最大の都市のトップに座していることの異常さ。そういう異常さを改めて知らしめた、ということは津波のせめてものプラス面か。とはいえ、被災者がそのために犠牲になる必然性は皆無である。こういうことを他の都民は平気で聞き流せるのであろうか。私だけが例外なのであろうか。なぜ、このような人に都政のトップを任せられると思えるのであろうか。私は今、猛烈に絶望を抱いている。しかし、震災が私を絶望させているのではない。私を絶望させているのは東京電力、そして石原都知事、そして石原都知事を支持する都民の人達である。

マレーシアでの漫画が被災者に対して、配慮に欠けていると非難されたが、この石原都知事の発言に比べれば、全然、かわいいものだ。反省もしているそうだし。

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京都大学携帯カンニングでの産経新聞の誤報 [その他]

京都大学携帯カンニングで犯人が捕まった。確かに大学入試制度を脅かす事件ではあるが、その稚拙な手口など、ここまで大きく取り上げる必要があるのか。択捉島にロシアがミサイルを配置する計画を立てていることの方がよほど日本人にとって重大なことなのではないか、と思ったりしていたのだが、なんと、この大したことのない事件で、誤報までした馬鹿な新聞があったので驚いてしまった。まあ、大したことのない事件なので誤報も大した影響はないのだが、新聞を出すものが有すべき社会責任をも果たしていないことを露見したという点では大事件である。その新聞会社とは、強気を助け弱きを挫くのが大好きな産経新聞である。こんな適当な記事を平気で出せる新聞を果たして我々は必要とするのか?大いに考えさせられると同時に、私の好意的な書評は産経新聞は書くことはないだろうな、とも思ったりする小市民な自分である。

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タグ:産経新聞
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ドイツの大学の先生を東京案内して自己嫌悪に陥る [その他]

ドイツの大学の先生を連れて、上野界隈に行く。適当に事前勉強をしていなかったこともあり、自分がしっかりとした建築作品の知識がないことに気づかされた。その後、国立美術館に連れて行くのだが、日本の美術に関しても恐ろしく知識がないことに気づかされた。とても大学で教鞭を執っているとは思えない教養の無さに自らショックを受ける。適当に誤魔化そうとしたが、その無知さ加減は明らかである。結構、勉強とかをしているつもりでも、体系的にやってこなかったことや、若い時にしっかりとやっていなかったことなどのツケがたまっているということであろうか。つくづく嫌になる。ブラジルのクリチバに詳しかったり、アメリカのボルダーに詳しかったり、ドイツのデュッセルドルフに詳しくなったりしても、肝心の自らが立つべき東京の建築作品や、自らの根幹的アイデンティティである日本美術に関しても大した知識がないということは本当に恥ずべきことである。まあ、とはいえ今より若い時はないので勉強をし直すしかないであろう。本当、人間老い易く学成り難しである。

先日、消費者意識丸出しの学生がいたので、こんこんとその姿勢が誤っていること、努力をすることの大切さを説いたのだが、なんてことはない。そう言っている自分も努力が不足しているのである。自分が今ひとつな要因を世の理不尽さや大学のせい、大学の教員のせいにしたりしているが、その要因のほとんどは自分が努力をしていなかったり、努力の方向性が間違っているかである。そして、それは私にも当てはまる。

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京都大学の携帯カンニングの犯人の特定は簡単な筈である [その他]

京都大学、同志社大学、早稲田大学、立教大学で試験中にネットに問題の解答を依頼した事件が起きた。マスコミも大騒ぎをしているが、この犯人の特定はそれほど難しいことではないであろう。なぜなら、和文英訳の問題の解答で「ベストアンサー」に選ばれたものは明らかな誤答であり、これと同様の解答をした学生を特定すればいいだけだからだ。もちろん、この答えを依頼した学生が、この解答はおかしいと捉えて書き直せば分からないが、そのような学生であれば、そもそも解答をネット上で尋ねたりしないであろう。朝日新聞にコメントをした人が関東と関西の大学で受験していたので、複数犯ではないか、と述べていたが、関東と関西の両方の大学を受験するなんて、地方の高校生であればまったくマイノリティではないし、関東に住んでいても京都大学を受けるものなんて全然、珍しくない訳だし、そのような理解しかない人がコメントを載せる朝日新聞もちょっと心配だ。複数犯の可能性がないとはいえないが、入試前に同じIDで「仙台市の病院でいいところはないでしょうか?」とヤフー知恵袋で尋ねたりしているので、ヤフー知恵袋の解答と同じか極めて類似した解答をしたものを洗い出し、その学生が仙台周辺の高校出身者であれば間違いないだろうし、そうでなくても解答の照合でほぼ犯人は分かる筈である。この際、それに該当するものが複数いたとしたら複数犯の可能性を初めて検討すればいいのであるが、同じIDで上記のようなプライベートな質問を含め、恋愛関係の質問に回答していることから、単独犯の可能性の方がはるかに高いと思われる。
 それより、今回の事件が示唆することは、試験でカンニング防止のための監視員が結構、仕事をしていないという事実である。大学側は、監視員がいるので携帯を打つのは難しいと取材に回答したりしているが、実態はおそらく、そのようなことが出来る状態であったということであろう。これは大学としては留意しなくてはいけない課題である。
 しかし、より大きな課題としては、京都大学などは違うであろうが、多くの私立大学は入試をバイパスして入る学生が6割近くいるということである。カンニングは問題ではあるが、このような自分を鍛え、その能力を試す入試という貴重な機会をバイパスしている学生が多いという状況の方が、より深刻な社会問題であると個人的には思ってしまうのである。

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クエンティン・タランティーノがなぜかソフトバンクのCMに出ていて大受けする [その他]

いきなり私ごとで恐縮だが、私はテレビを観ない。ということで、テレビで何が起きているのかを知らない。昔、働いていた会社の後輩から、マーケティングの仕事をするうえでは問題であると指摘されたこともある。まあ、そうかもしれない。しかし、テレビを観ないことで代わりに時間が得られるし、マスコミにあまり洗脳されないということもあるかもしれないし、特にそれで何か失ったとは思っていない。しかし!たまに番組もそうだが、素晴らしき広告を見損ねてしまうこともある。最近、発見したのはクエンティン・タランティーノがなぜか、出演しているソフトバンクのCM。「タラちゃんです」の発言が面白すぎる。タランティーノ、さざえさんも観ているのかしら。こんな面白いCMを製作されたら、ソフトバンクに移りたくなっちゃうねえ。

http://www.youtube.com/watch?v=GaJNQCiGw58&feature=related
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「自分を客観視する能力」の重要性 [その他]

朝日新聞の記事(2011年1月18日)で、西村欣也編集委員がコラムで興味深いことを記していた。彼は、何人もの超一流のアスリートを取材してきたわけだが、そこに共通する必要条件を見いだしたのである。その条件とは「自分を客観視する能力」だそうだ。イチローや松井秀樹は「コントロールできるものとできないものがある。コントロールできないものには関心をもたない」という。これは、何もアスリートだけでなく、ある道で一流になる人に共通しているのではないかとも思う。

就活にもコントロールできることと、できないことがある。コントロールできることは、自分が仕事をする能力を高めること。これが重要であり、大学時代に取り組むべきことであるにも関わらず、これまでの受験テクニック重視の教育に慣れてきたせいか、相変わらず、就活でも面接テクニックとかを修得することに熱心である。大学は入った後は適当かもしれないが、就職は入った後からが大変であり、自分の身の丈にあったところに就職することが重要なのだが、そうは思えない学生が多い。思えば、私もそうだったので、偉そうに語ることにちょっと抵抗があるのだが、自分の能力を高めることは自分でコントロールできることだ。やみくもに就職活動をすることより、こちらに力を入れることで結果的に、どこにでも就職できるようになると思う。なにしろ、一生懸命就職活動をしている学生で、私がアルバイトをお願いしたくなるような学生がほとんどいないことが問題だ。私でさえアルバイトにも雇いたくないような能力しかなくて、どうして大企業が採用をするのだろうか、この不景気に。その点は努力をすれば変えられると思う。自分を変えること、自分の状況を客観視することが就職活動においても求められると思う。まあ、私も自分を客観視するとみじめになるので、あえて避けてきてしまったが、それが一流からほど遠い立ち位置にいる要因でもあろう。

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コブクロはサイモン・アンド・ガーファンクルとちょっと似ている [その他]

コブクロをテレビで観る。何気に観ていたのだが、スタイルがサイモン・アンド・ガーファンクルにちょっと似ていることに気づいた。ちびとのっぽの二人コンビであるというだけでなく、ちびが作詞・作曲を手がけ、のっぽは歌い上げる系の美声の持ち主である。いや別にそれ以上のことはないのだが、ちょっと気づいたのでブログに書かせていただく。下らないことですいません。

タグ:コブクロ
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新年のご挨拶 [その他]

あけましておめでとうございます。今年もこのブログを宜しくお願いします。私事ですが、今年は年男です。本当に随分と年を取ったものです。さて、年を取るといろいろと物の見方や人生観は変化すると思われます。私の場合は、「死」が近くになってきたなと思うようになりました。私は小学校の低学年の頃から死ぬのが怖くて、自分が死ぬことを考えると、家の周りをその恐ろしさから走り出したくなるほどの恐怖感を覚えていたのですが、その対処法として、まあ当分死ぬことはないから考えても無駄だ、と自分に言い聞かせることにしてその恐怖から遠ざかるようにしていました。それから40年近く経ち、その対処法もあまり有効でなくなってきており、結構、そろそろ覚悟をしなくてはと考えるようになったりしています。

こういうことを書くのは今日が正月だからです。正確には覚えていないのですが、正月は冥土の道の一里塚、みたいな一休和尚の句があったと思います。私は子供の頃、偉人伝シリーズの児童書を読むのが好きだったのですが、そのなかに一休さんのものもあり、一休さんは臨終の床でも「死ぬのはやだやだ」と言って亡くなったと書かれており、上記の句とともに、なんか彼の死生観は当時の自分にすんなりと入ってきたことがあります。ということで、正月はちょっと死について考察する日にもなったりしています。冒頭で、年を取ると物の見方が変わると書きましたが、どこが変わったかというと、死から自分の残りの日々を逆算して将来設計を立てようと考えるようになりました。若い頃、というか私の場合は、恥ずかしながらちょっと最近までもそうでしたが、自分の可能性を試す、ということに賭けていたと思われます。その割には、それほど努力もしなかったのは情けない限りですが、とにかく、なんか自分には出来ることがまだあるんじゃあないか、という自分探しにも似たようなアプローチを採っていたかと思われます。しかしながら、死から逆算するというアプローチは、自分がやれることを取りあえずこなすということを自ら強いることになります。つまり、やれることをやっておく、やるべきことをやっておく、ということが自分探しより重要になります。自分探しの途中で死んでしまうのは惨めすぎるからです。私にとってそれは、それまで調査をしてきたことを、しっかりと論文もしくは書籍にしてまとめるとかそういうことです。まあ、死ぬときに、ああ、あれをやり残した、と後悔することをちょっとでも少なくさせようというアプローチであるとも思います。

ということで、今年は3月にグランドキャニオンにバックパックに行きます。アメリカ人の友人から誘いがあったからで、許可証も取得しました。この機会を逃したら、もう二度と行けないと思うので、ちょっとびびりますが、挑戦しようかと思います。昨日、体重計に乗ったら、体重が3キロもいつの間にか増えており、不安は増大しますが、人生は一度きりなので、やり残しを早速、一つ減らそうと思います。

若いということは素晴らしいことだと、もうあまり若くない私は痛切に感じます。そこには無限のような可能性があるからです。しかし、可能性があるということは、ある意味で何をしたらいいか分からなくもさせます。その可能性が花開くものであるかどうかは不明だからです。しかし、そこでその可能性を花開かせようと努力をしなければ結局、それがどうなるかは分からない。それにも関わらず、花開かないかもしれないという不安から、努力も放棄します。私は中学から高校にかけては、とてもチャレンジングでしたが、高校時代に挫折したこともあり、その後、チャレンジを放棄しました。今、思えば、高校時代の挫折などそれほど大きくもなかったのですが、当時の幼稚な私には重くのしかかったのでしょう。それで、一つのちっぽけな挫折で他の貴重な可能性をまでも放棄してしまいました。放棄は大学時代にも続き、結果、随分とつまらない人間になってしまったと思います。イオンのくそくだらない恫喝を平気で喰らうような人間になってしまった訳です。まあ、私も今日、明日死ぬわけではないので、残りの貴重な与えられた日々で、それなりに自分に落とし前をつけるよう頑張りたいと思いますが、つくづく、若い時のちょっとした失敗による自暴自棄のようなものは高くついたな、と思わされます。もうちょっと自分の可能性を信じてあげればよかったのにとも思います。

だから、本当に表面を繕っただけのような就活をしないように学生には伝えたいのです。確かに就職できないと思うと不安になるのは分かりますが、自分が何をしたいのか、何が出来るのか。それよりも何が出来なくて、何がしたくないのか。しっかりと考えて、有意義な将来を展望できるように、その礎となるような貴重な大学生活を送ってもらえればと思います。私は就職をしてから、自分がいかに大学時代を無為に過ごしてきたかを痛切に自覚させられました。その後、プライベートの時間がないほど勉強と仕事をしましたが、その結果、身体を壊したりもしました。学生時代の怠慢を取り戻すのは大変です。私の場合は、それでも、このように大学で教える仕事に就くという幸運に恵まれましたが、誰もがそのように運がいいとは限りません。一生、その怠慢に呪われる可能性も否定できず、私もそのようなシミュレーションをしたりしてゾッとすることがあります。

人はいつか絶対死にます。頑張っても、頑張らなくても死ぬ訳ですが、せっかく授かった人生ですので、私の学生にはしっかりと悔いのないように充実した日々を過ごしてもらえればと思います。悔いばかりの半生を過ごした私からのメッセージが説教臭く聞こえなければと思います。ということで、今年は悔いをつくらずに、むしろポジティブな気持ちになれるような一年をお互い過ごせたらと思います。宜しくお願いします。

また、奇特なこのブログの読者の皆様も、昨年は有り難うございました。こんな適当な覚え書きのようなブログで恐縮ですが、昨年は瞬間風速的にアクセス数「1位」となったことは驚きとともに有り難いことだと大変感謝しております。今年は、イオンとの攻防?、そして英語教育についてもいろいろとご報告させてもらいたいと考えております。今年も引き続き、宜しくお願い申し上げます。
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「ドブスを守る会」の件を考察する [その他]

私はテレビをみないのであまり関心を持っていなかったのだが、今年の夏頃、首都大学の学生が「ドブスを守る会」というものを結成し、女性を路上で目的を伝えず動画撮影し、その後、ドブスを保全するために撮影している意図を説明するという、まあ非常に破廉恥な行為をし、しかもその動画をユーチューブにアップロードしていた。その結果、同会の学生二人が退学処分になったのだが、私の関心を今さら引いたのは、その学生二人のゼミ教員で、この件で責任をとらされて諭旨免職になったのが、私の元いた会社の後輩であったからである。この会の行動を応援していた教員がいたらしいが、その先生は楠見清准教授であって、私の後輩ではなかった。ちなみに彼はこの件では免職にはなっていないようだ。

さて、詳しいことは知らないので不適切なことを語るのは軽率の誹りを免れないであろうが、この後輩は問題の動画をみて「動画はやめておけ。写真集だけにしろ」と指示をしたらしい。大学側が後輩に責任を取らせたのは、そもそもこのテーマで卒業制作をしていることを強制して止めさせなかったことにあると推察されるのだが、これはそうそう出来ることではないと思う。個人的に問題があると思っても、学生がやりたいことを、教員が強制的に中止させれば、今度はアカハラの問題が生じる。特に芸術系の学科であればなおさらだ。教員は何にプライオリティをおくかというと、学生のモチベーションを高めることである。この問題学生は確かに人間的に多少、歪んだものがあるかなとは思われるが、そういう人格的なところに大学教員が立ち入ることは相当リスキーである。できれば学生が、自分の行為などを自省してもらい、自ら軌道修正してもらえればいいのだが、大学教員はせいぜい遠隔操作を試みるぐらいのことしかできないと思うのである。そういう風に考えると「動画はやめておけ」というメッセージは適切だと思う。私も以前、ある学生が「差別にはいい側面もあるんです。そういうテーマで卒論を書きたいんですけど」と言ってきたことがある。私は、その学生に危ないものを感じたが、「そう思うのなら徹底的に論じてみろ」と言ったことがある。論理化しようとする過程で、彼女自身が自分の考えの過ちに気づくことが必要であると思ったからであるが、彼女がこの差別のテーマに「ブス」を選んだら、そして、それを写真で分析をしてブログとかで中間報告をしたら、私にも道義的責任が生じたかもしれないと思ったりするからである。

後輩のことはそれほど知っている訳ではないが、仕事で多少関わったことがある。寡黙なタイプではあるが、ユーモア・センスもあるし、見た目は派手だが私より常識的な人間であったと思う。そして煩わしことが嫌いな、ちょっと気弱なタイプでもあったと思う。そう思うと、この問題学生が彼のゼミに入ってしまったことは、まさに彼にとっては不幸そのもので、この問題学生が楠見清ゼミナールに入らなかったことが悔やまれる。

今日、私の講義で学生発表をさせたのだが、ほとんどこれまで出席していなかった学生が発表をシレッとしたので、その人をバカにした対応に怒ってしまった。大学の講義そのものを馬鹿にしているからであるが、まあ、そういうのもサラッと流すのがほとんどの先生のリアクションだと思うのである。怒った私が馬鹿である。午後にはゼミ生が私の指導を受けに来たが、私がハードルを越えて、敢えて厳しい指摘をしていたことを、本当に不愉快そうな顔で聞いていた。こういうリアクションをされると辛いところがある。とはいえ、言わない訳にもいかないし、言われたくなければ努力をすればいいのだが、そこはしない。そのうち、私もアカハラで訴えられるかもしれない。ただ、じゃあサラッと流そうとしても、私の後輩が落ちてしまったような落とし穴も待っている。この後輩の問題は大学教員としては他人事ではないし、結構、難しい問題である。私の関知していない問題があるのかもしれないが、現段階の少ない情報からだけだと、彼がセカンド・チャンスをもらえることを切に願う。そこまでゼミ生の愚行の責任を取らなくてはならないのかと思うと同情を禁じ得ない。

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「非常勤ブルース」で知られる佐藤壮広先生にゲストで講義してもらう [その他]

「非常勤ブルース」で知られる佐藤壮広先生に私が担当する留学生用の講義にゲストで来てもらい、日本の童謡をギターで弾き語りしていただいた。シャボン玉とんだ、赤とんぼ、ゆき、こいのぼり、などをギターの弾き語りで披露していただいた。留学生には相当、受けていて、私も楽しい時間を過ごすことができた。佐藤先生は途中で、どうしてもブルース調になってしまうのだが、そこがまた受けていた。一通り、佐藤先生が用意してくれた童謡を弾いた後、時間が余っていたので、リクエストで沖縄の歌と佐藤先生のオリジナルである「非常勤ブルース」を弾いていただいた。「アルプス一万尺、俺の給料三万円」・・・。いやあ、憂歌団を彷彿させるようなブルースである。
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海老蔵事件でメチャクチャ適当な邪推をする(ごめんなさい) [その他]

 市川海老蔵が西麻布で顔を殴られて負傷した。どのような経緯でそういう事態になったか不明だが、「海老蔵が酔いつぶれた男性に因縁をつけたためトラブルになった可能性があることが27日、目撃者らの証言で分かった。」(スポニチアネックス)との報道もある。さらに、次のように記事は続く。「目撃した人の話によれば、飲みつぶれて倒れていた男性に海老蔵が「男だったら倒れてんじゃねえよ!」などと言い、髪の毛を引っ張ったり小突くなどした。それを見た男性の仲間たちが激怒し、顔面を殴ったという。」
 海老蔵はトラブルの端緒を団十郎らに「具合が悪くなった人を介抱していたら、そばにいた人に殴られた」と言っており、介抱したつもりが“因縁をつけた”と誤解された可能性はある。」
 事実は不明で適当なことを論じるのは軽率の誹りは免れない。しかし、私は海老蔵が一方的にやられたとは思えないのである。というのは、一度だけだが、ある歌舞伎役者の結婚式の二次会のパーティで海老蔵が隣のテーブルに座っていたことがあって、彼の行儀の悪さを目撃したことがあるからだ。海老蔵は中村獅童などと一緒であったのだが、そのテーブルで圧倒的に目立っていたのが海老蔵であった。酒癖が悪いのかもしれないが、役者だと知らなければやくざのような下品さ。会話の内容もちょっと聞くに堪えないようなもので、その言動よりも、それほど内輪でもないパーティでよくこんな粗暴な振る舞いができるなということで驚きを覚えたことがある。隣の中村獅童が紳士のようにみえたものである。中村獅童が女性にもてるのはどうしてかよく分からなかったのだが、こういう野獣のような歌舞伎役者の中ではまともにみえるからだろうかと当時は勝手に納得したりしたものである。私は有名人の隣のテーブルにいるわくわく感よりも、間違えて海老蔵に話しかけられたり、「因縁をつけられたり」したらイヤだなという気持ちが勝っていたと思う。はっきりいって強い嫌悪感を覚えた。
 もちろん、今回の事件に関しては、私はその場にいた訳でもないし、とても適当なことを言っていて本当に軽率だが、私は海老蔵の振る舞いを目撃した昔、これは将来なんか問題を起こすだろうなと思っていたので、海老蔵は被害者で可愛そう、と世間の同情を集めようとするマスコミというか海老蔵側の戦略には簡単に乗ってはいけないなと思うし、そういう戦略にすぐ乗っからないように警鐘を鳴らしたいとは思ったりするのである。
 もちろん暴力行為は言語道断であるが、しっかりと事実を報道してもらいたい。海老蔵のイメージを守りたいという動機は、歌舞伎界だけでなく広告代理店なども強いのだろうが、メッキでつくられたイメージは所詮、いつか剥がれる。加害者もしっかりとした事実に基づいて、裁かれるべきだと思うのである。

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母校に行き、高校の先生と話し、いまどきの大学生は好奇心の無さが問題であることに気づく [その他]

10年ぶりくらいに母校の高校を訪れる。ここの社会科の先生に生徒のイメージ・マップ調査を依頼したのを受け取りに行くためである。さて、母校の校舎は私がいた頃とほとんど変わらなかった。エレベーターがつけられたぐらいで、当時もそこそこに古かったので、今はもうぼろ校舎という感じであった。さて、せっかくの機会なので社会科の先生といろいろとお話をさせてもらう。彼は某女子大学で非常勤講師もしているので、現在の大学生の問題点などもお話しする。そこで興味深い指摘を受ける。彼が言うには、高校一年生の方が大学の学生より理解力があるとのこと。別に不真面目では決してないのだが、人が言うことの理解力に高校生とは差があるという。ううむ、そうか。私も最近、私が言うことがうまく学生に伝わらず、これは一体全体何なんだろうと思っていたのだが、人の言っていることや状況の理解力が以前に比べて大学生が不足しているというのは確かだと思う。KYどころではない。空気だけではなく、人の発言も読めないのである。皮肉などで誉めたりすると、逆に、この先生は好意的だと学生に思われるような状況である。

母校の高校生は相対的に理解力が高いのかなとも考えられる。しかし、一般的にこういう理解力は知識や経験によって向上すると思われるから、大学生より高校生の方が理解力があるというのは矛盾している。というと、やはり好奇心か。好奇心とか、他人や世のなかへの関心の有無が、大学生と高校生の理解力に差を生じさせているのかもしれない。私は母校がいい学校だとは思わないが、確かに、好奇心を刺激するような環境ではあったかと思う。ただ、私が理解力がないなと嘆く学生にはオタクもいたりする。というと好奇心が全般的にない場合と、関心がないものは無視という二タイプがあるのかとも思ったりする。後者は、いわば東大バカのようなタイプも含まれるから学力とも違うのかもしれない。とはいえ、東大バカは鋏と同様、使い用だから、好奇心がないよりはまだ対策が立てられそうでもある。
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学園祭でドイツ直輸入のソーセージを屋台で販売する [その他]

11月1日から3日まで奉職する明治学院大学では学園祭があった。私が担当するゼミでは恒例のドイツのハライコ社のソーセージを屋台で販売した。ハライコ社は4年前、学生達とハンブルグのハライコ社に仕入れ交渉に行ってからの縁である。このハライコのソーセージは手前勝手ではなくて、本当に美味しい。日本だと紀伊国屋と明治屋には卸しているのと、最近では自社でソーセージ・レストランも開店しているのでそれほど得るのが難しい訳ではないが、しかし、それでも普段、日本人が口にしているソーセージに比べると格段に美味しい。ということで、結構、これは不味い食事が氾濫している学園祭ではキラー・コンテンツなのである。とはいっても、それが他の屋台に比べて高品質で美味しいということを学園祭を訪れている潜在顧客に伝えるのは難しい。これをいかに宣伝で潜在顧客に伝えるかがゼミ生の知恵の出しどころであるのだが無為無策でやけになっている。ということで2日目の後に反省会を私は出席して3時間ほどする。こういう時に頭を使うことの方が、試験勉強よりはるかに身になりためになる。3日目は、それまでは距離を置こうと思っていたのだが、仕方なく自ら屋台に入る。顧客(たいていが大人)がドイツのソーセージについて聞いてくるいろいろな質問に丁寧に答える。途中、私が教員であることを知って驚いたりする。「先生が自ら立つんですかぁ」と感心しているのか、呆れているのかが分からない反応をしたりする。まあ、どう思われてもいい。肝心なことは学生が学ぶことであり、このゼミでのソーセージの仕入れ、マーケティング戦略の策定、販売などは結構、実践的でいい演習だと思っている。
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(店舗の立地は悪かったのですが、結構、売れ行きはあって一安心です)

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(ドイツ人留学生のマイケルも応援してくれました)


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