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失うことを恐れるほど大したものは、それほどない [その他]

ちょっと個人的なことを記すことをお許し願いたい。

私は2009年に『道路整備事業の大罪』という本を著した。この本自体は、「道路は地方を救えるか」というタイトルにしたかったのに、マーケティング的な能力がない出版社(しかし、自分達がその能力がないことは理解できていない)が、私の反対を無視して強行したものであり、実際はそれほど道路整備事業に反対している訳ではなく、ただ疑問を呈しただけの内容なのだが、まあ、そういうものを出版した。

さて、先日、私は大学の同窓会に出席した。私の出身大学は東京大学工学部土木工学科というところである。つまり、私の同期生の多くは、国土交通省の道路局、すなわち私がこの本で批判する道路整備をせっせとやる人達を輩出する学部なのである。したがって、私を講演に呼ぶ人達が反対するプロジェクトの推進者も、私の同期にはいたりする(こいつがまた、とても気のいい男であったりする)。ちなみに、原発関係者も思いの外、多くてちょっと驚いた。しかし、同窓会では、和気藹々と昔話や馬鹿話で盛り上がる。まあ、道路局の同窓生で完全に私を無視した奴もいたりしたが、まあ、それほど気にならない。そういう人種差別、宗教差別的なことをする偏狭な心の持ち主はどこにでもいるものだ。とはいえ、こういう奴が戦争とかになったりすると、ユダヤ人虐殺のようなことをするので油断は出来ないのだが。

さて、しかし、そこで国土交通省にいる大学時代の時に比較的、近かった奴が「いやあ、お前が失ったものは大きいよね」とにこにこして話しかけてきた。この発言は嫌みでも何でもなく、素直に言ったものであることは表情からも分かったので、私も「そうかな」と笑いながら答えたが、いや、実は失ったものはほとんどないのだ。そもそも、東京大学や京都大学、東京工業大学や、まあ頑張れば早稲田大学くらいで教鞭を執っているなら、原子力村ならぬ道路村のような利権構造に組み入れられて、それなりにいい思いをできるかもしれないが、私のように二流私立(最近では、三流になりつつあるとも指摘される)大学の教員には、そのような道路村のヒエラルキーにおいても下層に位置づけられる。これは、どういうことかというと、一生懸命、道路を整備するといいことありまっせ、とか太鼓持ちをしても、あまり相手をしてくれないのだ。すなわち、魂を売るほど悪魔に魅力はないのだ。

しかも、そもそも私は某財閥系のコンサルタント会社で以前、働いていたが、そこで、ノルマを達成するためには3つの悪魔(原子力、道路、戦争)のどれかに魂を売らなくてはならないことに気づき、それが嫌で大学に転職したのに、なんでまた、売らなくてはいけないのだ。確かに、道路に反対する講演会で講師をすると、謝礼が取れたてのネギだったりするし、私はお金には常に困っているかもしれないが、精神的には遙かに楽だ。というか、そこまで言ってくるのであれば、「失ったものが大きい」ことをしっかりと役人は発信しなくては駄目だし、ああ、しまったと思わせるくらいのいい目に遭わせるよう努力するべきであっただろう。私の中央官庁との15年間のつきあいを踏まえても、道路に魂を売るのを止めることで失うことが大きいことは、一度も理解させてもらえなかった。理解させなかったくせに、もったいないことしたな、というのはちょっとだけ思い上がっているのではないだろうか。原子力村とかもそうだが、所詮、税金を使っての権力である。それは、とどのつまり、金の話であるし、しかも自分たちの金ではない。すなわち、自分たちが持っている権力とは、その税金という金を差配する力を有しているだけである。そこで、「もしかしたらお前にも差配してやったかもしれないけど、もうやらないからね」みたいなことを言われても、全然、悔しくも何ともない。経済成長が縮減していく中、金が豊かさであるといった価値感は崩壊しつつある。すなわち、そのうち原子力村とか道路村的なものも、それほど魂を売るだけの価値がなくなりつつあることに気づくべきだ。少なくとも、私は気づいた。ネズミ講もそうだが、上の方にいなければいい思いはできない。ヒエラルキーの真ん中から下は、さっさとそのような村から脱却すべきだと自分の経験に照らし合わせてみても、そう思う。失うことを恐れるほど大したものは、それほどないのである。
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