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九州大学の学生の父親刺殺事件を考える [その他]

九州大学の学生の父親刺殺事件の裁判での判決がおりた。懲役24年。事件が起きたのは今年(2023年)の9月である。被告人は小学校の時から、成績が悪いと暴力を受けていた。そして、暴力を受けながらも勉強を重ね、高校は県でトップの公立高校、そして大学は九州大学に合格した。暴力をこれだけ長期間、受けていたにもかかわらず超一流大学に合格した。さぞかし、父親も息子の合格を喜んだであろう。ところが、父親の暴力は九州大学に合格した後も続いたのである。被告人は公判で「心が、もうどうしょうもない状態で壊れそうになった」と述べたが、そりゃそうだろう。九州大学に合格するための暴力かと思えばある程度耐えられるが、合格した後も暴力を振るわれるというのは耐えがたい。これは、父親は息子の成長のために暴力を振るっていたのではなく、もう暴力をとりあえず振るいたいから振るっていたということだろうか。息子は建築士になりたいと思っていたのだが、「なれるわけないだろう」と否定していたそうだ。いやいや、九州大学に入ったなら、普通、建築士ぐらいなれます。この息子への否定は一体全体、何なのだろう。
 父親はスマホの待ち受け写真は息子のものにしていたらしいので、愛情がないという訳ではない。しかし、その愛情が極めて歪んだものとして表出されていた。父親は高卒で、自身の学歴を「九大を退学した」などと周囲に偽るほど劣等感を抱いていたそうだ。そのような劣等感を息子に持たせたくないということで暴力を通じての躾(?)をしていたのだが、逆に息子が九大に合格したので、今度は息子への劣等感が九大の合格後に暴力という形で爆発したのかもしれない。建築士に「なれるわけないだろう」との発言は、息子への劣等感が背景にあると考えると理解できる。
 基本、人を「学齢や名声、高い社会的地位」などの尺度で評価する価値観に父親はずっと囚われてしまっていたのであろう。父親はその尺度では負け組であった。その負け組に息子はさせないと思い、躾(?)をし、無事、勝ち組側に行けた息子の成長に喜ぶのかと思ったら、今度は、息子に強烈な劣等感を覚えてしまったのだろうか。
 私が通っていた高校は進学校であり、そのような価値観を持っている同窓生が多かった。というか、還暦を過ぎてもそういう価値観から逃れられなかったりする。同窓生が最近、亡くなったのだが、彼の葬列者数を自分達の知り合いの葬儀と比較して、その優劣(?)をSNSで話して盛り上がっている様子をみて、私は心底、ゾッとした。人生はそんな葬列者の数とか、学歴とか、社会的地位で良し悪しを決められるほど単純ではない。もっと奥が深い。だから、音楽とか小説とか映画などの芸術が必要なのだ(ちなみに、前述した高校の同窓生はその音楽もショパン・コンクールの順位とかで解釈したがる)。というか、この世に生まれ落ちた奇跡を、限られた時間の中で、思う存分、満喫するようにして生きればいいのだ。この父親も、自分は経済的な条件等から厳しかったのかもしれないが、子供たちにそのような機会を与えることはできた。しかし、九州大学に合格した後も暴力を振るうというのは、一体全体、この父親は息子にどうなって欲しかったのか。おそらく、九州大学に合格した時点で彼自身も子育ての目標を失ってしまったのかもしれない。建築士はいい仕事だと思う。その機会を提供することができれば、親としては立派な仕事をしたと言えるだろう。そもそも、子に恵まれてない人も多くいる。子供に恵まれただけでも、この父親は自分の人生を肯定できなかったのであろうか。あと、そもそも暴力はよくない。暴力で人をコントロールしようとする、という時点で「学齢や名声、高い社会的地位」以前に親としては失格である、ということは、この悲惨な事件から改めて社会としても共有できることができればな、と考える。

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