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小室圭と眞子様の結婚反対の行進デモを考える [その他]

小室さんと眞子様の結婚反対の行進デモが行われている。そして、それに対して「呪わずに祝おうよ」とか「眞子様可愛そうだよ。もう祝ってあげようよ」などと、本当、この異常事態(異常事態というのはデモのことではなく、眞子様の結婚のことである)に対して無自覚で呑気な声がSNSなどであげられているようだ。この結婚の異常事態を考えれば行進デモの一つでもしたくなるのは、日本という国家のことを多少でも考え、天皇制のことを将来的にも維持したいと意識する人達であれば当然のことであるし、愛国的な行為であるとさえ思われる。
 現行の天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である。象徴天皇は世界でも類がない制度であり、それを具体化させるうえで昭和天皇、平成天皇は大変な努力をなされてきた。天皇制度は第二次世界大戦で消滅される危機にあった。それを国民を統べる象徴として残すという選択をGHQはしたのである。そして、象徴を意味あるものにするのは、それが象徴であると信じる国民があって初めて成立するものである。戦後のお二人の天皇、そして現在の令和天皇も、その象徴という具象なき観念をいかに国民に共有させるかで立派にその役割を果たしてきた。
 そして、その象徴性は「神」であった天皇家という日本の歴史をある程度、現代にも継承させることによって、それが纏っていた神格性、カリスマで強化してきたといってもよい。それに加えて、昭和天皇、平成天皇の献身的な姿勢、国民への慈愛(個人的には特に平成天皇と美智子妃殿下)の深さが、国民の天皇家への親愛を育んできたといえよう。国際法では「戦争責任」があるとされる天皇が、象徴として日本人の心を統べるようになるには相当の年月と説得が必要であった。ちなみに、そのために美智子妃殿下が果たした役割は相当大きなものがあったと考えられる。
 このように象徴天皇というのは、常にそのシンボル性を維持させていかなくてはならない難しい制度である。そして、そのシンボル性は、個を超越した国家、そして国民への献身との引き換えに得られるものであり、その信頼ゆえに我々国民は天皇という象徴に敬意と思慕の情を持つのである。それは、「一個人の感情」などを超越したところで初めて成立し得るものであるのだ。いや、個人の感情は人間だから持つのは当然だとしても、その感情よりも「国」という観念への献身というものを優先させることで、象徴としての天皇制は維持される。
 そうはいっても、「結婚すれば一般国民になるのであるから自由にさせてもいいのでは」という意見を持つかもしれないが、それは国民が受容できる範疇である相手でなければ、天皇制の信頼は失墜する。失礼ながら、小室家に嫁ぐというのは、一般的な家庭の親であっても相当悩むであろう。横浜中華街の老舗中華料理店の令嬢は、小室圭との結婚を許されなかったそうだが、それは一般的なごく常識的な家庭の判断であると思われる。父親と父親方の両親が自殺をしていること、父親の友人から多額のお金を借りていて返却していないこと(を先方から訴えられていること)、母親がアルバイト先の学芸大学のマッターホルンというケーキ屋を捻挫をしただけで訴えていること、など、ちょっとあげただけでも嫁がせたくないなと思う理由は数多とでてくる。姪っ子の結婚相手であったら多くの人が反対するであろう。
 そして、この件に対しての国民の落胆は、天皇制の象徴性を瓦解させているのだ。私も眞子様が誰と結婚しようとどうでもいいのだが、抵抗するのは、これまで昭和天皇、平成天皇が努力に努力を重ねて築き上げてきた天皇制の象徴がズタズタにされているからである。それは、眞子様の問題ではなく、象徴天皇という制度への信頼度を失墜させていることへの問題なのである。
 眞子様の結婚問題は、象徴天皇制という制度の崩壊、少なくとも大きく弱体化させることにつながり、私はそういう意味で、もう小室圭は日本史に名を残した(200年後の日本史の入試勉強では暗記しなくてはいけない人物となっていると確信している)といえるし、現代のラスプーチンであることは間違いない。
 したがって、結婚反対でデモしている人達は、眞子様の結婚を反対しているだけでなく、この結婚がもたらす天皇制への存亡の危機、そして国家という共同幻想にまで及ぶかもしれない危機を自覚していなくても有していると思われるのである。
 また、本当に驚くのは宮内庁のダメさ加減ぶりである。そもそも、こういう事態にさせないために宮内庁は存在しているのに、まったく仕事をしないどころか、眞子様を擁護するような対応さえしている。眞子様こそが、象徴天皇制をぶっつぶそうとしてる急先鋒で、実は宮内庁の最大の敵が眞子様であることさえ理解できていないのはダメすぎだ。天皇制がなくなれば宮内庁もいらなくなるということが分からないのか。国民に代わって、この天皇という象徴性を維持するために奮闘努力しなくてはいけないのに、まったく自分の仕事の役割をも分かっていない。というか、紀宮様の時にはしっかりと事前に銀行から都庁へと転職させたりして、紀宮様だけでなく黒田様もお守りしていたのに、今の宮内庁は目を覆う悲惨さだ。というか、本当、税金返してくれ。
 眞子様には自由に結婚させてあげるべきだ、という意見があるが、象徴としての天皇家の眞子様は国民の多くが祝福して、納得してもらうような結婚相手を選ぶ責任が生まれた時からある。それは、その「象徴性」を強化しなくても、貶めない相手を選ぶべきで、おそらく、それが唯一、我々の税金を使って暮らしてきたことへの恩返しに近い(それに比べれば他の公務などはまったく取るに足らない雑用だ)。いや、国民は相当、寛容であると思う。その国民がデモをしてまで反対する相手を選んだというのは、天皇家としてはまさに失格であり、そのような状況に眞子様を追い込んだ宮内庁は、一昔前だったら切腹ものの失態だなと思ったりもする。
 ある弁護士が、ネットニュースで「自分の意思で選んだ人と結婚することは、極めて重要な人権である。結婚・恋愛は、人生の幸せに直結する、最も重要な選択だ。それを否定しようという社会の空気は、まるで時計の針を封建時代に戻したかのようである」と記していたが、天皇家を一般人と同じ土俵に上げて論じている、ある意味、大変天皇家に対して失礼な考えを持っているかなと思うが、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である天皇家は一般人とはまったく異なる重要性を有している。このような意見を主張すると、実は天皇家の存在意義が問われてくる。もちろん、天皇家でなければ、眞子様が誰と結婚しても世間がとやかく言う必要はない。しかし、それは国民の象徴である天皇家の結婚である。国民が納得しない結婚を強行するのは、国民への裏切り行為であるし、それに反対運動する気持ちはよく分かる。「封建時代」云々ではなく、天皇制を象徴としても掲げているというのはそういうことなのだ。つまり、「封建時代」以前からも存在している天皇という象徴を現代でも引き継いできているのであり、そりゃ「封建時代どころか封建時代以前からあるお家の話ですよ」と捉えるべきものなのだ。何も分かっていないのはこの弁護士だ。
 とはいえ、私は別に天皇制がなくなっても、ちょっと残念だけど受け入れられる。ただ、平成天皇、美智子妃殿下の日本という国への強い思いを考えると、それは少し悔しい。私のような一国民でさえ、このような気持ちを天皇制に抱いているのに、そのかけらさえ眞子様は持っていないように振る舞っている現状は、天皇という象徴に大きな汚点を残している。その汚点がこれ以上、広がらないようにしっかりと事後処理をしないと、本当、天皇家は滅びるかもしれない。

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