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武蔵野大学の長谷川秀夫教授の無責任発言について、多少考える [その他]

武蔵野大学の長谷川秀夫教授がインターネットサイトのニュースサイトに「残業100時間で過労死は情けない」と投稿したことで、ネット上で炎上、大学がその処分を検討するような事態になってしまった。電通の女子社員の過労自殺ニュースが配信された時間帯に投稿したことで、彼女のことに言及してはいないが、亡くなった人への配慮がなく無神経な発言であったことの誹りは免れないであろう。

ただ、「残業100時間で過労死は情けない」という発言を擁護する気は毛頭ないが、私のように50代を越えた人間からすると、特にバブル期においては、残業100時間は珍しくはなかった。流石に4月に自殺された原子力規制委員会の審査対応をしていた関西電力の課長職の四十代男性の残業200時間は、当時でも異常な数字ではあったが、100時間というのは私もよくクリアしていた数字である。「過労死は情けない」という発言は情があまりにも無いと思うが、残業100時間というのを「たいしたことないじゃないか」と思うのは、1990年前後にサラリーマンをしていた人たち、特に私のような法人サービス産業、に従事していた人が共有する感覚なのではないか、と思う。

これは、しかし、おそらく若い人たちからすると論外であることだろうし、なかなか共感することは難しいであろう。私も、結果的にやってはいたが、徹夜明けのオフィスで貧血になって倒れたりしたり、基本、プライベートな生活はほとんどなかったりで、仕事はやり遂げたかもしれないが、ほとんど何もプラスにはなっていない。したがって、100時間残業をやってはいたが、それが大したことがないと感じてしまうのは、私の問題でもあろう。

ただ、私が残業していたのは、会社や上司のせいではなく、コンサルタントという業務の特性からであった。顧客が納得できなかったら、残業をしてでも完成度をあげなくてはならない。それは理不尽なところもあるし、私はちょっと直情的なところがあるので、顧客に文句を言ったりもしたが、それでも情報や知恵で、お金をいただくというのはとても大変なことなのである。そして、電通も業態的には私が働いていたシンクタンクと似たようなところがある。私はよく後輩に、「なんで顧客が君のアウトプットにこれだけのお金を払うと思うの。その価値をつくるための工夫や努力をしないと」と言っていた。それは、私が自分自身を自戒するために自問していたことでもある。さらにいえば、顧客がアウトプットに満足してくれた時には、私は大いに嬉しい気分と達成感が得られた。まあ、それが高残業のインセンティブに当時はなっていたのは確かであり、おそらく今では許されないアプローチなのかもしれないが、プロとしての自覚がそのようにさせていたというのはあったと思う。そのことを私は個人的には、それほど肯定したくはないが、組織全体ではそういう厳しさを共有して乗り越えようといった体育会的な雰囲気があり、それはある意味では居心地が悪くはなかった。もちろん、そのような雰囲気が苦手(特に女性)な人たちがいたことをあまり配慮していない、という排他的な雰囲気も合わせて有しており、決して褒められたものではないが、そういうのに肯定的な日本の組織文化のようなものを有している企業は、当時は少なくなかったと思われる。

その物言いは情がなさ過ぎるのは確かであるし、おそらく長谷川教授は後悔もしていると思うのだが、ちょっとバブル期にサラリーマンをしていた私は、彼がそう迂闊にも口走ってしまった背景は理解できるのだ。そして、そのような経験がない大学一筋で過ごされた学長に処分を検討されてしまうのは、正直、同情を禁じ得ない。いや、発言に対して責められることには同情の余地はないが、処分されることには同情をするということです。

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