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アメリカ人ジャーナリストの紹介の仕方に日本の閉鎖的な国際意識を垣間見る [グローバルな問題]

ロクサナ・サベリというアメリカ人のジャーナリストがイランで拘束され、釈放されたニュースを日本のウェブサイトで知った。そのニュースを伝えるウェブサイトでは、彼女の写真も掲載されており、その美貌に驚いたので、ちょっとググってみた。すると、彼女はなんと元ミス・ノースダコタでミス・アメリカの大会にも出場したことが判明した。そして父親がイラン人であり、イラン国籍であることも判明した。さて、日本のニュースでは、母親が日本人であることから日系人であることを強調しているが、アメリカのニュースではそのようなことはほとんど触れられていなかった。その代わり、元ミス・ノースダコタという肩書きは随分と紹介されていた。まあ、当たり前である。また、父親がイラン人で、そのために父親が止めるのを振り切ってイランに行ったんだというコメントが紹介されていた。彼女の(私にとって)聞き慣れない名字はイランのものであったのだ。

さて、彼女にとって母親が日系であり、彼女に日本人の血が流れていることなど些少なことであろう。名字もイラン系だし、名前も日本的なものではまったくない。国籍もイランとアメリカの二重国籍である。私の大学院時代の知り合いで母親が日本人で父親がアイルランド人の女性がいる。何かの会話で、「しかし、君も日本人みたいなものでしょう」と言ったら、普段は温厚な彼女が、「私はまったく日本人じゃないわよ、アメリカ人よ」と返答したことを強烈に記憶している。両親の血は誇りに思っているかもしれないが、個人としてのアイデンティティは圧倒的にアメリカ人であるんだな、と自分の浅はかな考えを反省しつつ混血のアメリカ人の自己アイデンティティの捉え方への理解が深まった。タイガー・ウッズは母親がタイ人であるが、タイ人がタイガー・ウッズを強烈に意識しているのとは裏腹に、タイガー・ウッズが「俺はアメリカ人だし、何を騒いでいるんだ」とタイに行ったときにコメントしたことも覚えている。日本人の血が流れていると、日本のマスコミなどは日系人と喜んで紹介するが、移民国家のアメリカではそんなことをいちいち指摘したりはしない。なんせ、オーストリア人がカリフォルニア州知事になるような国だ。しかも、このニュースのコンテクストで重要なのはイラン系移民であり、イラン国籍であることで、日系移民であることはまったくといっていいほど関係ない。ニュース・バリューは元ミス・ノースダコタであることで、むしろ日本人の血が半分流れている女性がノースダコタという全米でも最も人口が少ない州の一つではあれ、ミスとして選ばれていたことの方が遙かに、私にとってはニュースであった。確かに日本人である私は(アラスカ州の準ミスであった)サラ・ペイリンより彼女のことを美しいとは思うが、アメリカ人もこのようなタイプの美貌の人を美しいと思うのかというのは驚きであった。まあ、女性版ダルビッシュみたいな美貌であり、ダルビッシュも大リーグに行ったら多くの女性ファンができるかもしれないなとも思わせられた。

現在、通っているドイツ語学校の学友のブラジル人女性は、祖父が日系人で祖母がイタリア人、父親系がレバノン人で、旦那がドイツ系ブラジル人でフィンランドに住んでいる。日本人であるからか、私にも親しくしてくれるという奇特な女性だが、日系人というアイデンティティの自覚はないだろう。100%ブラジル人という意識を有していると察せられる。見た目も日本人の血がどこに流れているのか、と思わせるような風貌をしている。そういう人と接しているせいか、日本人の血が流れているから見出しで日系人と紹介するというのも、ちょっと島国的というか閉鎖的過ぎる印象を受ける。そんな紹介ではなく元ミス・ノースダコタのイラン系日系アメリカ人ジャーナリストとしっかりと客観的に紹介してくれた方が、よほどジャーナリズム的には誠実だし、より説得力を持つ。センセーショナルなとらえ方を無理にしようとすればするほどメディアとしての信頼を失っていくことに気づくべきだと思う。

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