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「サツキとメイの家 」が人気を博すという皮肉 [都市デザイン]

愛知地球万博会場跡地に「サツキとメイの家」がある。これは、愛知地球万博開催時に最も人気を博した施設であり、万博が終わった後でも、予約をしないとなかなか入れない人気施設である。私は、環境博を掲げた万博で、昭和30年代頃の家を再現したものが、一番の集客施設であることに、依然からとてつもない違和感を覚えており、これを見なくてはと思っていたのだが、これまで見ることができずにいた。今回、名古屋に行く用事が出来たので、思い切って足を伸ばした。

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さて、予め電話をしたら、予約をしなくてもおそらく入れるでしょう、と言われたので予約をせずにサツキとメイの家に行く。晴れていたこともあり、多くの人が訪れていたが、幸い、次のツアーに潜りこむことができた。サツキとメイルの家は、なかなか忠実に再現されており、その拘りなどは多いに楽しむことができた。しかし、それは昭和30年代に東京にある普通の住宅である。そのモデルは、宮崎駿がその昔、住んでいた杉並区永福の家だそうだが、いわゆる杉並や練馬、世田谷といった武蔵野の趣のある戸建て住宅はこんな感じであった。私の祖母が住んでいた家もまさにそのような風情であり、そういう風情が分からない祖母の娘であり、私の母親がそれを壊し、無粋な四角い建物にしたことは今思って、もったいないことをしたと思っているし、祖母にも悪いことをしたなと思っている。

それはともかくとして、このいわゆる昭和30年代頃の家が懐かしいと多くの人が思うこの感覚は何なのだろう。アメリカでいえば1960年代の住宅が懐かしいと思われるような事態はないのではなかろうか。サンフランシスコだとヴィクトリアン・ハウス、特に今では使われることがないレッドウッドでつくられた家などは懐かしがられたりするが、それは100年くらい前の建物である。確かにアメリカにおいても、昨今、つくられるプレハブ的な戸建て住宅はまったくもって魅力はないが、それをもってして1960年頃の住宅はいいなあという話は出てこないと思うのである。

さて、このようなノスタルジーに我々の多くが浸りたがるのは、ずばり、現在の都市住環境が全然、よくないからではないだろうか。例えば、私が育った池袋の近郊にある東長崎の住宅街も確実に、年が経つにつれて悪くなっている(最近は多少、小学校のコンクリート塀が壊され、植木に変わるなど一部、環境は改善されている)。自動車が入ってこなかったペデストリアン・プレシンクトの住環境は年々、道路整備と自動車の普及によって悪化していく一方である。これは、昔の田園調布、藤沢鵠沼などを見ると歴然としている。もちろん、後者の高級住宅地は、土地が相続されるたびに土地が分割化されてしまったという経緯もあるのだが、どちらにしろ、日本の都市は高級住宅地を維持することに失敗しただけでなく、郊外において人がうらやむような住宅地を創造することにも失敗した。サンフランシスコの郊外のダンヴィルやウォールナット・クリーク、ワシントンDCの郊外のコロンビア、ケントランド、レストンなどをつくることが出来なかったのである。

しかも住宅地だけでなく、肝心の家も全然、よくなっていない。これは、私が中古住宅を探すたびに感じることである。私は今、都立大学の築40年の中古戸建て住宅を借りているのだが、その理由の一つは、もちろん安いこともあるが、最近つくられた戸建て住宅で賃貸市場に出ている家のクオリティが劣悪であることが挙げられる。その結果、明らかに古い住宅の方がコスト・パフォーマンスがよいのだ。よくないのは、風呂などの水回りくらいだ。

なんか進歩をしたつもりになっても、いくら経済的に豊かになったような気分になっていても、まったく豊かになっていない。サツキとメイの家の人気の裏にはこのような皮肉があるのではないか、と私は思うのである。

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