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コロンバイン高校 [都市デザイン]

コロンバイン高校を三浦展さんと一緒に訪れた。二年ぶりである。三浦さんは、このコロンバイン高校のあるリトルトンは「泉ニュータウン」に似ているんじゃないか、と言っていたが、確かに類似点は多い。まず、デンバーと仙台というのは、国における位置づけが似ている。どちらも地方の中核都市であり、地方の経済的・文化的拠点として位置づけられている。リトルトンも泉ニュータウンもそれぞれ、この地方中核都市の郊外住宅地である。そして、どちらも良好な住宅地である。コロンバイン高校の周辺の住宅地は、一般的な郊外住宅地が批判されているコミュニティ性の欠落、同質性、地域アイデンティティの欠如といった問題点をほとんど有していない。すこぶる良好な住宅地なのである。昨日までいたアルバカーキーの郊外の住宅地に比べると、ほとんど比較にならないほど優れているのである。そういう点でも泉ニュータウンと似ている。強いて違う点を挙げれば、コロンバインのそばには兵器産業の工場があるということだ。

コロンバイン高校の隣の公園では、二年前もそうであったが、楽しそうに人々がピクニックをやっていた。駐車場でたむろしている女子学生達も青春を謳歌しているように見えた。我々二人のカメラを肩からおろした中年の日本男性をいぶかしくチェックはしていたが。この決して高級住宅地ではないが、よく住宅地としても考えられた良好な環境の中で、あのような13名もの人が殺された事件が起きたと考えると、本当にやるせないものがある。これは、サカキバラ事件でも言えることだが、あの友が丘ニュータウンも決して郊外住宅地としては出来が悪いものではない。しかし、当時は林真理子などが画一的で気持ち悪いニュータウンだと週刊誌などで書いていたが、これは大いに外している。ニュータウンや郊外といったエンクローズドされた環境にはおそらく事件のトリガーとなる要素が隠されているとは思うが、画一的とかといった単純なものではない。というか、コロンバイン高校の周辺の住宅地は郊外としては既に成熟しており、他と比較しても相当画一的ではなく多様である。ただし、スポーツが得意であるとか、勉強が出来るといった選択肢の少ない評価指標から外れてしまうと、高校生にとっては相当息が詰まるような状況になることは推測できる。しかし、あの巨大な憎悪をこの郊外住宅地がいかようにして育むことができたのか。私には、なかなか理解ができない。現地を知れば知るほど、むしろ彼らへの理解が遠のくような気がする。都市計画や住宅計画で変えられるような単純なものではないのではないか、と思わさせられる。


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