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語学の天才的人間と出会う [語学に関して]

このブログでもたまに書いているが、外国語の学習はスポーツと同様に才能というか得意、不得意があり、すべての人間に母国語ではなく外国語の一定レベルの習得を基準として設けることは愚行であり時間の無駄であると思う。例えば英語を義務教育として課し、一定レベルの理解能力、会話能力を目標として設定することは、すべての子供が100メートルを16秒以内で走れることを目標とするのに近いような馬鹿らしいことであると思っている。

ときたま語学能力に極めて優れた人間に会う。例えば、ロシアで3年間、ドイツ語を学習して、その後、ドイツで2年間生活しただけで、ドイツ人でさえドイツ生まれだと思うほどの完璧なドイツ語をしゃべるロシア人大学生。チェコ生まれチェコ育ちで、ドイツ語はほとんどのドイツ人が外国人だと思わないほどのレベルで話して書け(勤務先はドイツの大学)、日本語も電子メイルだと日本人が書いているのかと思うぐらいの完璧に近い日本語の文章が書け(日本に留学経験があり奥さんは日本人)、しかし私との会話は英語でする同僚の大学助手。さて、そういう語学能力に傑出した人間に、通っていた語学学校でまた出会った。彼は6ヶ月かかるプログラムを3ヶ月で終えた。飛び級に次ぐ飛び級で、小学校でいえば1年生の次に4年生、6年生と進級するようなスピードで語学学校のプログラムを駆け抜けた(ちなみにこの語学学校は毎日45分単位の講義を5単位実施して、そもそもついていくのも決して簡単ではない厳しさがある。進級できない学生もいる)。私とはこの比喩でいえば最後の6年生に相当するクラスで一緒になったのだが、このクラスでも私より遙かにいい成績を残したのはいうまでもない。私もそれなりに語学はできるとは思うが、しかし、それでも圧倒的な語学的才能の違いを痛感させられる能力である。

この人物に私は大いなる興味を抱いた。彼は34歳のアルメニア系のアメリカ人で、職業はなんとプロのポーカー賭博士であった。すなわち、プロのギャンブラーである。30歳からおもにインターネットのポーカーで年収1000万円以上を稼いでいるそうだ。コロンビア大学で数学を学んでいたのだが、途中で工学部に転部してそこを卒業し、あのインテルでエンジニアをしていたのだが、ポーカーの方が稼げることと、仕事に疑問を感じて辞めたそうである。しかし、どうもその優れた脳が、知的刺激に飢えてきたのか、楽しみのためだけに外国語の学習を思い立ち、デュッセルドルフに9月に来たのである。私の周辺には自称、パチスロの学生などがいたりするが、本当にプロのギャンブラーで生計を立てている人と知り合いになったのは初めてだったのでとても嬉しい。結構、親しくなり、家などにも遊びに来たのだが、次女と遊ぶ姿などをみると非常に好青年なナイスガイで、とてもプロのギャンブラーの面影はない。私の周辺にいる自称パチスロの学生は、絶対娘とデートさせたくないと思わせるのと比べると大違いである。知性もあり、知識も非常に豊かで話していてまったく飽きない。さて、彼の人となりも興味があったのだが、同様に私の好奇心を惹いたのは、その語学習得のスピードの速さである。彼の優秀さは、ドイツ語学校でも結構、注目されたが、何がそんなに速いスピードで語学習得を可能にしたのか。ここに私の分析を披露したい。

まず、文法の習得に非常に力を入れたことである。彼は私と放課後によく語学学校で勉強したのだが、私をパートナーとして受け入れてくれたのは、私が他のクラスメートと違って文法の重要さを理解しているからだと言っていた。他の学生は、文法を軽視していて何か勘違いをしているとも言っていた。私のクラスにはドイツに2年間住んで仕事もしているエクアドル人や、母親がスイス人で3歳までスイスで育ち、会話とヒアリングにはほとんど問題のないアメリカ人の18歳の学生などもいる。こういう学生は会話もヒアリングも私はもちろん、2ヶ月ちょっとしかドイツ語を勉強していない彼より遙かに優れている。しかし、文法を馬鹿にしているから、その習得の効率は悪いと彼は指摘していた。私は、彼のようには彼らを批判できるレベルにはないが、まあ例えば私が文法を彼らのように蔑ろにしたら、今のドイツ語のレベルにも到達できなかったことは確かであろう。文法は数学に似ていると彼はよく指摘した。私も最初に入学したのは数学科であったので(1年で才能がないことがよく分かり転学したが)、そこらへんの指摘はよく分かる。彼と私はクラスで2人だけドイツ語の資格試験を受験して、一緒に試験勉強をしたのだが、その時の彼の文法の学習方法はいわゆる日本の受験生と類似していたのが印象的であった。すなわち、ひたすら過去問を解いて、そこで分からない問題があると、その理由や文法事項を整理するといった方法である。また、文法の問題集も徹底的に行っていた。こういう学習は、他の学生は退屈と敬遠していたが、文法へのアプローチの違いはあとあと大きく差をつけることになるのではないかと思ったりする。

2点目は、ひたすら勉強していたことである。ドイツ語学校に私も通っていて気づいたことだが、語学は集中的に学習することによって効率が高まる。例えば同じ100時間でも、1週間に2時間の講義を1年間かけて100回するよりも、5時間の講義を20日でやった方が遙かに効率がよいということである。私が彼と通っていたドイツ語学校は一日4時間の講義を17日間1セットで実施するというものだが、彼はさらに個人レッスンも受け、空き時間も語学学校が閉まるまで残って、ひたすらドイツ語の勉強をしていた。まあ、猛烈に勉強をしていたのである。才能もあるが、やはり才能にプラスして努力が必要だというのを改めて理解させる猛烈ぶりであった。

3点目は、勉強最優先という環境を周りも引き込んでつくりあげるということである。我々のクラスメートは彼を中心として私も含んで、勉強クラブのようなものが形成された。まあ、基本的には年寄りというか社会人の寄り合いであったが、あたかも司法試験の勉強をする法科大学院のクラスといった雰囲気を彼はつくりあげた。そこでは、会話はまずドイツ語でし、クラスでも勉強最優先という合意を仲間内で形成して、パーティーに明け暮れる大学生連中に邪魔をされないような環境をつくりあげた。このグループは会話やヒアリングに難のある私にとっては大変有り難く、私は彼と受けたドイツ語資格試験にその後、合格するのだが、彼という大波にうまく乗ることができたためであり、単独で受験したら受かったかどうか極めて怪しい。

4点目は、講義を120%活用したことである。彼は宿題はもちろんのこと、先生がやっておいた方がいいよということを全て実施していた。語学学校に通っていると、語学学校の講義が生活の中心に据えられる。以前のブログにも記したが、何人かの学生は、講義を生活の中心に据えることをあたかも拒むように遅刻をしたり、社交に積極的になったりするが、彼は講義を生活の中心に据えて、スケジュールを設計していた。これによって、講義を120%活用し、ドイツ語の学習効率を最大限まで高めていたと思われる。私もこれは意識していたのだが、彼ほど徹底して行うことはできなかった。

まあ、いろいろと語学を能率良く習得する方法論を、彼を観察することで考察できた訳であるが、日本での語学学習も、小学校からチンタラチンタラやり続けるのではなく、例えば義務教育ではない高校一年生の時に、希望者だけに徹底して半年か1年くらい集中してやればいいのではないかと思う(まあ、その手始めに高校1年生の夏休みを活用することもできるし、私立の中高一貫であれば中学の夏休みとかを活用したり、中学3年頃の半年を活用したりするということも考えられる)。そして、この集中した勉強の後に、希望者は継続して、ある程度英語の学習を受け続けられるようにするといいのではないだろうか。私の大学はそれほど学生の質が相対的には悪くないとは思うが、それでも英語のレベルをみると上位5%を除けば、まったく出来が悪く、この彼の学習期間3ヶ月に満たないドイツ語のレベルに遠く及ばない。ちなみに、彼はそれ以前にはまったくドイツ語に触れたこともなかったそうだ。まあ、46歳の私の1年にも学習が満たないドイツ語のレベルと比べても、90%ぐらいの明学の学生の英語レベルは劣っているであろう。これは、彼はともかく私が優れている訳では決してなく、方法論が違うからである。文法重視、集中学習、会話に関してもパターンの暗記重視、そして語彙力のひたすらアップ。これこそが語学学習の王道であると思う。ここまで読んで気づいてくれた人もいるかもしれないが、これはいわゆる日本の英語会話学校が主張していることとおそらく正反対である。ノアとかガバとかがビジネス・モデルとして優れているのは(ノバは倒産したが)、いつまで通っても英語が上達しないで、ひたすら通い続けることになるからである。まあ、ビジネス・モデルとしてはキャバクラや銀座のクラブに似ているのではないだろうか(いつまで通っても適当にはぐらかされて付き合ってもらえない。ちなみに私はよく知らないので想像で書いていますが)。ということで、もし本気で語学向上を考えるのであれば、英会話などは放っておくことが重要である。間違っても、日本人の仲間内で英会話の出来不出来を比較するなどということを考えたりするのは放棄すべきである。なぜなら、どんなに仲間内でうまく話せていたりしても、実際現地で話せば、とんでもなく変な訛りのある英語をしゃべっているからである。私の中学や高校の英語の先生の発音なんて、よく考えればアメリカで話せば、とてもまともに通じないレベルの酷さであった。すなわち、日本で住んでいて英会話が習得できるのは、ごく一握りの天才的能力の持ち主だけであって、そんなことに力を入れるのは愚の骨頂である。語学は会話ではなく、何より読解力、そしてヒアリング力、ライティング能力を考え、スピーキングはそれらについてくるぐらいに位置づければいいと思う。現地で生活したら、それなりに出来るようになるし、生活しなければ習得しても無駄だし、生活しなければ習得するのにも無理があると思う。ちなみに、8歳の次女はドイツ語学校の現地校に通っているが、もう半年通っているが相変わらずスピーキングが駄目だ。ヒアリングはほとんど出来るようになっていることを考えると改めて、スピーキングというのが大変なことが分かる。発音が出来ないのではなくて、文章が構築できない、すなわち日本語からドイツ語への翻訳ができず、しかもドイツ語脳が未熟なためにヒアリングは出来てもスピーキングはなかなか出来ないからである。現地で生活していてもそうなのだから、日本で生活して文法等もしっかり理解しないで英語がペラペラと出てくるのを期待していたら、大変な時間がかかる。英会話学校にいくらぼったくられるか分かったものではない。

いろいろと書いたが、多少、学生等を含めて参考になると幸いである。こういうことを書くのは、学生に直接言っても、相変わらず私のアドバイスを無視して英会話学校に通う学生が後を絶たないからである。英会話ではなくて、英語を勉強するべきなのに、なんかまあ、英語ではなくて英語ぺらぺらを目指しているから、いつまでたっても上達しないのだ。ここらへんは英会話を重視するカリキュラムをつくろうとする大学関係者もちょっと考え直すべきだと思う。まあ、語学をしっかりと勉強しなかった人や、語学ができない人ほど、この会話を重要視したがる傾向が強いように思われる。自分が出来ないから、その難しさや、効率の悪さを理解できないからであろうか。どっちにしても、関心ややる気がある学生が語学を習得することは素晴らしいとは思うが、そうではない学生が強制的にやることの非効率と無駄を考えるべきだと思う。人口が減少していく中、人的資源もしっかりと効率的に活用することが求められると思われる。

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