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日本語に訳すと記号と化す英語 [語学に関して]

日本語に訳すとき、非常に難しくなってしまう言葉が幾つかある。これは個人的なものかもしれないが、英語ではすっきりと頭に入りやすいのに、日本語というか熟語になると急にその言葉が伝えることが単なる記号のようになってしまう言葉である。例えば「帰無仮説」。これは「帰無」という言葉がしっかり理解されていないためかもしれないが、「帰無」などという単語は日常生活で使われているのを聞いたことなど一度もない。不真面目な学生だった私は、これをしばらく「キム仮説」と思い、韓国の学者のキムさんの仮説だと思っていたくらいである。英語だとこれはnull hypothesisになる。帰無と違って「無」のイメージが強く分かりやすい。統計学はこのような難しい日本語が氾濫しているが、経済学用語でも少なくない。例えば、限界費用。英語のmarginal costとかだと、現状より増減させる臨界点としてのmaginalという言葉がよく分かりやすいのだが、限界だと分からなくなる。これは個人的なことかもしれないが、とっつきにくい言葉だと思う。境界費用とか、臨界費用と訳してくれたらさぞかし分かりやすかったのにと思う。とはいえ、今さら限界費用という訳語を変えるのは不可能であろう。

こういうのは何なんだろう、と考えていた時、「異界性」という訳語に出くわした。これはliminalityの訳であり、公的なものと私的なもの、文化と経済、場所と市場が鋭く交錯しながら、前者が後者に置き換わっていくような状態を表している、と「異界性」と訳した人が解説している(吉田直樹、「都市の階層分化」『都市の個性と市民生活』,p.157)。Liminalityという英語はイメージが湧く。二つの異なる性質のものがその結節面において交錯しているというイメージが描かれる。ところが、「異界性」だと、能動的なイメージが消失してしまう。加えて、「異界」という言葉に「魔界」のように、我々のいる世界とは違う世界を指す「彼岸」のようなイメージを私には与えてしまう。この訳を考えた人の日本語の文章は非常に論理明晰で分かりやすいのだが、この「異界性」という言葉が読んでいて非常にひっかかってしまうのである。もったいないことである。ドイツ語の文章を英語に訳したものと照合すると、結構、意訳が多いことに気づく。まあ、これはたまたまなのかもしれないが、無理矢理外国語を日本語化するよりかは、一度その言葉の意味を咀嚼して、分かりやすい日本語で説明してもらえると有り難い。とはいえ、Liminarityのいい訳は恥ずかしながらなかなか出てこないのだが。
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