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トリアー監督の「ドッグヴィル」は意外といい [映画批評]

ラース・フォン・トリアー監督のドッグヴィルを観る。同監督の作品は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」しか観たことがない。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」はカンヌ国際映画祭のパルムドールに輝いたが、私的には超駄作であり、観た後、時間を返せ、というような代物であった。まあ、多少ビョークが歌い上げるところは面白かったが、ストーリーの荒唐無稽さ、リアリティの欠如、そしてビョークの映像体としての魅力の無さ(ここらへんは、同じ個性的なミュージシャンでも我等が椎名林檎とは全然違うとこである)などから、誰が何と評価しようと、私的には観るに値しない作品であった。ということで、同監督の他の作品もまったく関心を寄せていなかったのだが、私が一目置いている岨手由貴子映画監督が観るといいですよ、と言うのでDVDを購入して観た。

結構、というか相当面白い映画であった。「意外と」とタイトルに書いたのは、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の監督の作品なのに「意外と」面白かったからである。まあ、ドッグヴィルとダンサー・イン・ザ・ダークを比較すると、なぜドッグヴィルが面白いかは明確である。まず、主演のビョークとニコール・キッドマンとでは格が違い過ぎる。ビョークは観ていて何も惹かれないが、ニコール・キッドマンは眉間に皺を寄せたりするだけで、ぐっと引き寄せられる。さらに、ドッグヴィルは劇場のような非常に簡素なセットでつくられている。そのために、その虚構性が、このトリアー監督のリアリティの無さを気にさせないような効果を演出している。特にニコール・キッドマンに鎖がつけられたところなどは、ロケ地などでの撮影では、そのリアリティを出すことは大変だったろうし、映像で表現することも難しかったであろう。このように虚構性を真っ正面から打ち出しているところが、ダンサー・イン・ザ・ダークに比べて、はるかにドッグヴィルの方が観やすく、ストーリーに入りやすい理由である。ダンサー・イン・ザ・ダークは、しょっちゅう突っ込みを入れないと観られない。そして、何よりエンディングが違う。ダンサー・イン・ザ・ダークのエンディングはちょっと忘れたが、後味の悪い、救いようのないものであったことは覚えている。それに比べて、ドッグヴィルは住民全員皆殺し、という非常に分かりやすい、ある意味では単純だがカタルシスのあるエンディングであった。まあ、必殺仕置き人やブラック・エンジェルといったものと同じような内容ではあるが、ドッグヴィルの住民はやはり映画的には死刑に相当する、と思わせられないこともない。勿論、実社会では死刑には相当しないような罪ではあるのだが、逆にその集団の愚かさ、浅薄さは、やはり映画では皆殺しにしないと視聴者は気が済まない内容である。少なくとも、そのような感情移入を観客に持たせるような演出は為されている。とはいえ、皆殺しという結論もある意味では身も蓋もないのであるが、主人公が主体的に対象と向き合い、自分の価値観に基づいて判断したことで、観客ははるかに結末に納得できる。まあ、これがビョークであったら、ちょっとそこまで観客が怒りを共有できたかどうかは分からないが、ニコール・キッドマンはそのような怒りを観客に共有させる圧倒的存在感と美貌がある。ビョークは、薄幸の女性を演じているよりかは、ビッグバードのような着ぐるみをしたりしている方がキャラに合っていると思われる。トリアー監督は、ダンサー・イン・ザ・ダーク一本で、私としては縁がない映画監督であると思っていたのだが、意外とそうではないことが分かった。ドッグヴィルは、エンディングはちょっと単純ではあるが、アメリカの片田舎の偽善性、俗物性をある意味では見事に描いているということは言えると思う。エンドロールでのスティール写真、そしてデビッド・ボウイが歌うヤング・アメリカンズのメロディーは、まるで東南アジアのスラムの人々を撮ったようである。我々がよく知らないアメリカがここにある。というか、トリアー監督はアメリカの偽善性が相当、嫌いなんだろうな、ということが分かる。どちらにしろ、私のようにダンサー・イン・ザ・ダークが駄作だと思った人もドッグヴィルは是非とも観るべきであろう。傑作である。


ドッグヴィル スタンダード・エディション

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  • 出版社/メーカー: ジェネオン エンタテインメント
  • メディア: DVD



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