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トリアー監督のアメリカ3部作の2作目「マンダレイ」を観る [映画批評]

ラース・フォン・トリアー監督のドッグヴィルを観たら、とても面白かったので、続編のマンダレイを観る。同監督のアメリカ3部作の2作目である。ドッグヴィルがアメリカの片田舎的な偏狭性、欲深い俗物性を表現したものであるとしたら、マンダレイはアメリカが自分の価値観を他人に押しつけたがるが、まったくの余計なお世話である場合がほとんどであることを人種問題と絡めて表現している。結構、説得力があり、ストーリーの展開も面白い。ドッグヴィルと同様に、簡易な敷地計画図のようなセットの中だけでの撮影で、これが同監督のリアリティの無さをあまり気にさせないようにすることに寄与している。観客の想像力が必要ではあるが、そのせいでより映画に引き込まれる。 
 とはいえ、ドッグヴィルと比べると、ドッグヴィルの方が優れていると思う。これは、ひとえにニコール・キッドマンとブライス・ハワードという主演女優の差である。ドッグヴィルにおけるニコール・キッドマンの演技がそれほどうまいとは思えない。しかし、このような簡易なセットの中で、その俳優達の存在感が問われる映画では、ニコール・キッドマンは圧倒的なオーラを放っている。それに比べて、ブライス・ハワードは残念ながら、そのようなオーラを放っていない。私はニコール・キッドマンのファンでは全然ないのだが、やはりその強烈な存在感は感じざるおえない。マンダレイも引き続き、ニコール・キッドマンが演じたら、より強烈なインパクトが残ったであろう。
 それにしても、このトリアー監督、相当、アメリカに対して批判的であることが分かる。このようなヨーロッパの知識人がアメリカを批判することはアメリカにとっても有難いことである。イラクを侵略したが、それがイラク人のためであると考えているアメリカ人は我々、日本人が思っているより遙かに多い。また、アメリカで生活したりしたことのあるアメリカかぶれの日本人でもそう思っている人間が結構いる。
 そういうことを、アメリカの爆撃や銃撃戦の流れ弾で死んだ子供達の親の前で言えよな。自由や民主主義の伝道師のごとき振る舞うが、アメリカ人の多くは、日本人なんかより自由ではない。金や権力、法律が支配しているシステムで、個人の自由など吹き飛んでしまうからだ。自由のようでいて金や法律に支配されて、まったく自由でない、というか自分で自由に時間を使えることがまったくないような状況に追いやられている。そもそも、自由ってそんなに素晴らしい価値観なのか。少なくとも人間という存在自体、極めて自由ではない。食欲からも自由になれないし、睡眠からも自由になれない。身体が衰弱することからも自由ではない。そう考えると、自由、自由という言葉を金科玉条のごとく連発するアメリカという国の傲慢さ、無知蒙昧さに辟易とする。
 それに、アメリカも都市計画では、日本より規制が強く、自由でない自治体が多い。拙著の「衰退を克服したアメリカ中小都市のまちづくり」で取り上げた5つの自治体は、極めて開発規制が強く、自由ではない。したがって、アメリカが自由であるというのは幻想である。
 というようなことを、マンダレイを観ると思わせられた。ドッグヴィルと同じようなスティール写真にデビッド・ボウイのアメリカン・ガールが流れるエンド・ロールの写真からして、監督は人種差別に関しての問題を強く意識しているとは思われるのだが、私は、この映画からしてアメリカの独善的な押しつけ体質の嫌らしさを感じ取ったのである。まあ、アメリカのことを考えるうえでは必見の作品であろう。


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