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ワルシャワ [地球探訪記]

ワルシャワに初めて来ている。ということで、ワルシャワのことを整理してみた。ワルシャワはポーランドの首都であり、同国最大の人口を擁する大都市。人口は186万人であるが、大都市圏だと310万人である。市域は517キロ平方メートル。東京都区部から足立区と江戸川区を除いたぐらいの面積である。18の地区から構成されている。ヴィスワ川が市内を流れる。
 ポーランドは国として長い歴史を有していることもあり、ポツナン、クラカウ、ブロツワフ、ダンツィヒなど歴史ある都市が多い。ワルシャワはそういう都市と比べると、遥かに歴史が浅い。そもそもは小さな漁村であり、その名前が文献に初めて載るのは1313年である。そして、大聖堂が建つなど徐々に都市としての様相を整えつつあったが、大きな転機となったのは16世紀にジグムント3世がポーランドの首都をクラカウからワルシャワに移転することを決めてからである。この移転はクラクフの王が居住していた城で大火災が起きたことが契機であり、当時、スウェーデン王も狙っていたジグムントはクラクフに比べて、よりスウェーデンに近く、また居住するのに適切な城郭のあったワルシャワに目を付けたのである。
 18世紀のワルシャワは、ポーランドの繁栄の恩恵を被り、「北のパリ」と呼ばれるほど文化・経済が発展していく。しかし、1795年にポーランドの土地はプロシア、ロシア、オーストリアに分割され、クラクフはオーストリア、ワルシャワやダンツィヒはプロシアに属することになる。ちなみに、今のベラルーシのミンスクなども分割前はポーランドの領土であった。その後、ナポレオンによってプロシア、ロシア、オーストリアが蹴散らされ、ワルシャワ公国の首都となる。しかし、1815年にナポレオンが敗走し、ワルシャワはロシア帝国の支配下に陥る。ただし、19世紀後半にはロシア人の市長ソクラテス・スターリンキヴィッツのもとに上水道・下水道が整備され、トラムの近代化、街灯の整備などが遂行され、ワルシャワは発展していく。その結果、1850年から1882年の期間にワルシャワの人口は134%も増加し、38万3000人の人口を擁することになる。この人口は1897年には62万6000人にまで膨れ上がる。これは、ロシアの中ではセイント・ピータースバーグ、モスクワに次ぐ多さであった。そして、第一次世界大戦終戦で、ドイツとオーストリアが敗戦国となったため、ポーランドは独立し、ワルシャワが再びポーランドの首都となる。
 ただし、1939年に再びドイツの侵攻を受け、ドイツの占領下に入る。そして、終戦も間近になってヒットラーはワルシャワの総破壊を命じ、その結果、ワルシャワの85%は破壊され、歴史地区や王宮もその犠牲となった。
 第二次世界大戦、ワルシャワはまさに廃墟から復活の道を歩み始める。住宅不足のためにプレハブ式の集合団地が多くつくられ、数少ない19世紀から戦災を回避できた建物群も社会主義の考えのもとに撤去された。石畳の道はアスファルト舗装され、道幅は大幅に広幅員となった。歴史ある通りもこの社会主義時代に再開発で随分と失われた。一方で、王宮や歴史地区は元の姿に限りなく戻すために、作り直していく。ここらへんの考え方は、社会主義的でなく、なぜそのように取り組んだのかは興味深い。
 ワルシャワの最初の地下鉄が通ったのは1995年と随分、最近である。その後、二本目が2015年に開業している。公共交通をどんどん発展させているのが、今のヨーロッパの都市である。日本は逆行している。この点は本当、面白い。
 ポーランドは2004年に欧州連合に加盟するが、それ以来、ワルシャワは経済発展を謳歌している。人口も1990年の166万人から2022年には186万人まで増えている。もちろん、この増加には、ロシア・ウクライナ戦争によるウクライナ難民の増加が寄与している。
 

タグ:ワルシャワ
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