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久しぶりに訪れた新大久保は、東京という都市のたくましさを感じさせてくれる街へと変貌していた [都市デザイン]

久しぶりに新大久保を訪れる。すると、本当にマチは激変していた。高校時代に陸上部の先輩が新大久保の駅からそばの大久保通り沿いに住んでいた。この先輩はコーチをしてくれていたので、よく訪れた。初めて、酒を飲んで吐いたのも、この先輩の家であったような記憶がする。さらに、私は早稲田大学の理工学部に一年間だけ通っていたことがある。自転車で自宅から通学していたこともあり、新大久保の周辺は時たま、帰宅前に寄っていたりもした。特に何をするということもなく、街歩き的な寄り道であったが、基本的には地元住民のための商店街という感じであった。職安通りに行けば状況は違っていたであろうが、大久保通りには韓国色はなかった。いや、韓国色どころかアジア色や一時期の南米色もなかったかと思う。ただし、大久保通りから職安通りにかけては、すでにラブホテル街であり、ちょっとそちらに行くのは気が引けた印象を持っている。もう30年以上の前のことである。

それから、新大久保に訪れることはほとんどなかったが、会社員時代にはたまに飲みに行った。新大久保の西側にある屋台村に行き、そこの店長である中国人が川口の超高層マンションのペントハウスに住んでいたことを知り、感動を覚えたことがある。というのは、誰が川口の超高層マンションなんかを買うのだろう、どこにマーケットがあるのか、とちょうど疑問を抱いていたところだったので、そうか金持ちの中国人が買うのか、ととても納得したことがあるからだ。当時、クアラルンプールの新都市開発の仕事をしており、そこの住宅地のマーケティングで悩んでいたのだが、地元の人達は香港かシンガポールの金持ちが買うのだ、と主張していて、どうも納得ができなかったこともあったので、妙にこの屋台村の店長が川口という東京外れ(というか東京ではない)の超高層マンションを投機目的で買うことに合点がいったのである。

また、バブルが崩壊した後か、その前後では新大久保はおもにラテン系の外人売春婦がたむろしていたと思う。私はタクシーで大久保通りを通った時に、見かけたことがあり、噂通りだなとの印象を受けたことを覚えている。そして、それからまた10年間ぐらい経ったのであろうか。大久保通りは、その多くが韓国系のレストランか物販を販売する小売店へと変貌していた。稲葉佳子氏が「オオクボ都市の力」という本を上梓したのが2008年。私はこの本を大変、興味深く読んだのだが、さらにそれから5年経ち、その間の韓流ブームもあって、大久保通りは、もう韓国街のようになっている。しかし、その変化と人通りの多さに驚く私に、ここで店を経営している人達は、2011年3月の大震災と原発事故、さらには最近のヘイト・スピーチで人は随分と減ったと言う。いやはや、驚く。

稲葉氏の著書によれば、大久保地域には1970年代末から外国人が住み始めるようになったそうだ。これらの外国人の多くは歌舞伎町で働いていた。さらに1980年代末からは大久保地域に日本語学校や専門学校、特にコンピュータ関係の専門学校が多かったため留学生や就学生が増えてまちなかに外国人が急増したという。私が比較的、よく大久保に行っていた時期の後だ。そして、1990年代初頭には大久保地域に住む同国人のみを対象とした店舗が出来はじめたという。これらの店舗はレストランや食材店、ビデオ店など、日常的に利用する店舗が中心であった。そして、1990年代中頃からは、大久保が中国やマレーシア、タイなど東南アジア人たちが多く住むまちとして雑誌等で紹介されるようになり、同国人だけでなく日本人客を取り込んでいこうとしはじめた。このようになって1990年代後半には大久保が対外的に「エスニックタウン」として認識されるようになった。私が屋台村に訪れたり、職安通りにある韓国レストラン「松屋」を訪れたりしたのは、この頃である。そして、このエスニックタウンの時期に前述したラテンアメリカを中心とした外人売春婦がここを活動拠点としていたのであろう。さらに、このエスニックタウンのエスニックの中でも韓国色が占める割合が2000年以降、大きくなってくる。2002年のワールドカップ以降、日本の社会に非常に大きな反響を巻き起こした韓流ブームが始まると大久保地域は「韓流の聖地」として認識されるに至るのである。

このようにして、新大久保は、外人売春婦の営業先のラブホテル街といったマイナーな街から、韓国テーマパークのような広い層を引きつける観光地へと変貌していったのである。まるでニューヨークのタイムズスクエア周辺が、いかがわしい街からディズニーが企画したエンターテイメント街へと変貌したかのようだ。そして、エスニックタウンの中でも韓流の色彩が強烈に強くなっており、大久保のエスニックタウンを象徴していたかのような屋台村は2011年に閉店してしまったそうだ。代わりに新大久保の顔として台頭しているのが、大久保竹下通り、通称、イケメン通りである。

このイケメン通りは、新大久保の東の地域を南北に通る道で、大久保通りと職安通りとを結ぶ。前述した稲葉氏の著書では、この道のフィールドスタディの結果を記している。1998年には、この道にはラブホテルが10軒、韓国系店舗は9軒あった。それが2003年ではホテルは7軒に減って、韓国系店舗が31軒も増加している。わずか5年という短い期間にである。さらに、現在は、私のゼミ生の李ソヨンの調査では、ホテルは2軒しか営業しておらず、韓国系店舗は72軒にまで増えていた。わずか15年間で街が様変わりしたことが分かる。

新大久保というのは、どこか暗い裏通り的なイメージを私は幼い頃から抱いていた。山手線の駅は小学校低学年ですべて暗記していた私であったが、その中でも子供心に鶯谷と新大久保、大崎、田町という駅は嫌いであった。なんか、とてもつまらなそうなイメージがあったのである。そして、実際、大人になってからの新大久保も、どこかやくざとか売春婦、といった裏の世界と通じているイメージがつきまとっていて好きになれなかった。それが、今や女子高校生が遊びに行くような韓国風原宿のような風情になっている。計画をして街を変貌させた訳ではまったくないのだが、結果として、街のイメージを肯定的に刷新して、一大集客装置へと変貌させてしまったのである。久しぶりに訪れた新大久保は、東京という都市のたくましさを感じさせてくれる街へとなっており、個人的にとても肯定的な印象を受けた。

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(大久保通りの歩道は多くの人で溢れていた)

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(ほとんどが韓国系の店舗になってしまった大久保通りのマンションの1階の商業テナント)

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(このマンションもペットホテル以外はすべて韓国関係のお店であった)

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(イケメン通りを大久保通りからちょっと入ったところ)

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(イケメン通りの賑わい)

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(ここは昔何だったのか。何となく、ラブホテルであったような気がする)

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(ラブホテル街の大久保がこんな明るくて健康的な若い女性が来る街になるとは)

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(イケメン通りと職安通りの交差点のそばに建つドンキホーテ。ハングル語の看板が印象的)

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(職安通りそばのイケメン通り)
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