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現代において田園調布や成城学園ができない背景 [都市デザイン]

山口廣編集の『郊外住宅地の系譜』を読了し、いろいろと思うところがあった。この本は東京の代表的な郊外住宅地の成り立ちを整理したものであるのだが、それらの多くが、極めて理想主義に基づいてつくられていたことが分かった。田園調布然り、成城学園然り、玉川学園然り、向山然り、渡辺町然りである。すなわち、理想を優先して、経営的な観点を後回しにしている。経営的な観点をある程度意識していたのは堤康次郎が開発した目白文化村ぐらいか。その堤が手がけた国立大学都市でさえ、ある程度、理想を重視しているところもある。彼はただ、損失リスクを地主に狡猾にも押しつけることに成功したから理想主義を貫徹できたとも言えるかもしれないが。

さて、ここで私が何を言いたいかというと、現在の東京において、いわゆる高級住宅地となり得たものは、みな経営的な観点を度外視したことで成り立ったということである。逆にいえば、そのような視点なくして高級住宅地、というか人々が憧れるような住宅地は出来ないのである。東京で最初の郊外住宅地開発は現在の三井グループが手がけた桜新町であるが、桜新町は理想的な別荘地というコンセプトで開発はされたが、それはイメージとしての理想であり、実際はビジネス的な観点が強くあった。これが、田園調布と桜新町の現在の差に繋がっているのではないかと思われる。もちろん、田園調布も民間企業によって開発されたが、これは引退した渋沢栄一がどうにか、自分の理想とする住宅地をつくりたいという思いが強かったので、ある程度の損失を出しても理念を優先したおかげで、現在の良好な住宅地が形成されたのである。

田園調布は計画当初は、富裕層をターゲットにした訳では決してなかった。しかし、結果、渋沢栄一の理想が具体化したことで、市場が極めて高く評価することになって、現在のような高級住宅地として位置づけられることになったのである。また、ついでにいうと、この渋沢栄一が抱いていたような理想的住宅地をつくるという考えは、本質面では五島慶太そして東急グループには引き継がれていないと思われる。

このように考えると、民間企業が郊外住宅地を錬金術のように建てていても、現代の田園調布や成城学園がつくれる訳がないのだ。金儲けの手段としての郊外開発は、結局、掘っ立て郊外住宅地をつくることになってしまう。なぜなら、それが一番儲かるからだ。本当に人々が高いお金を出してでも住みたいと思わせるような住宅地は、採算度外視での覚悟をするぐらいでないと出来ないのであるな、ということが歴史を調べると理解できた。そして、これは、おそらく諸外国でも同様のことが言えるのではないか、と思ったりする。

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