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湯川利和氏の『マイカー亡国論』を読み、ショックのような衝撃を受ける [書評]

 湯川利和氏が34歳という若さで、1968年に著した『マイカー亡国論』を読む。アメリカが「豊かさ」を追求して実現した自動車型社会が、逆に「豊かさ」を奪ったという鋭すぎる洞察力に、まさに我が意を得たり、と思うと同時に、その分析を1968年にしていた、というその先見性に驚くばかりである。このような怪書が、この世に出ていたこと、しかも我が同胞である日本人が書き記したことに衝撃を受ける。
 同書は「世界で最初の体系的かつ衝撃的なマイカーモータリゼーション批判として高く評価され、各国の学者が引用した」(建築ジャーナル、1999.1)そうだが、それも当然のような素晴らしき名著である。今でこそ、ニューアーバニズム関係者を中心としてアメリカでも多くの批判に晒されている同国の自動車優先型の郊外開発であるが、その問題を既に1968年に指摘していた。しかも、それを都市計画的な分析のもとにしているのである。自分の不勉強を恥じればいいのか、このような著作が入手不可能に近い状況にあることを責めればいいのか、読んだ後に戸惑いさえも覚えてしまう。
 「パーソナル・モータリゼーションの道をまっさきにと進んだ国アメリカは、その道程においてすでに、その地獄の罠に完全に落ち込んでしまったのであり、今若干のものが、それが地獄のようであるらしいとウスボンヤリと気がついて、同胞に注意を喚起しているということだ。」
 このような洞察力をもって、先進国において進展したモータリゼーションがもたらす行く末を冷徹に見据え、しかも論理的にその問題点を論述する氏の力量に甚だ感服というか、畏れ多い気持ちにさえさせられる。
「いわば、現代アメリカでのマイカーとは、早く来すぎた前世紀的遺物なのだ。まだ貧しい経済段階に、時代遅れの技術水準の乗り物が、こともあろうに個人所有車として普及したということに、すべての災厄は起因することになるのだ。」
 そして、日本は「この過去の亡霊を現代に呼び出し、現代を豊かな未来と勘違いする」という二重の時代錯誤に陥っていると指摘する。この書が著された1968年時においては、その後のアメリカの自動車社会の行き詰まりはまだ見えていなかった。その40年後、アメリカの都市が大きく方向変換を模索しようとしていることを鑑みると、湯川氏の慧眼に感服すると同時に、この警鐘を無視してアメリカに盲追した我が国の不運は残念というしかない。
 特に、至極名言だな、と思わされたのは以下の文章である。
「マイカーを利用するという「贅沢」が、その生活空間をして、マイカーを利用せざるを得ない「貧しい」砂漠と化してしまったことも再度強調しておきたい。移動性を求めて移動の容易さを打ち毀すことは、田園を求めて田園を遠くに押しやることと手をたずさえて進んだ。それが「繁栄だ」としたならば、「繁栄」とは、「人間の幸福」とはなんの関係もないことである。」
 まさにジェイン・ジェイコブスの『アメリカの偉大なる都市の生と死』に勝るとも劣らない名著である。
 湯川利和氏は1998年に急逝される。生前に一度、お会いしたかった。とはいえ、生前には彼のことは知らなかったので会える筈もなかったのだが、勿体ないことをした。世の中には、この湯川利和氏のように私が無知で寡聞にして知らない多くの偉人がいるのだろう。与えられた時間に比して、やっておかなくてはいけないことが多い。人生の半分を優に過ぎた私にとっては重い課題である。


マイカー亡国論 (1968年) (三一新書)

マイカー亡国論 (1968年) (三一新書)

  • 作者: 湯川 利和
  • 出版社/メーカー: 三一書房
  • 発売日: 1968
  • メディア: 新書



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