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「ゆとり教育」の世代は成人した後、「ゆとり」をなくす [その他]

いきなり私ごとで申し訳ないが、私は若い時にしっかりと勉強しなかったので、今、苦労している。大学受験の勉強をあまりしなかったということもあるが、大学に入った後に勉強をしなかったというのが、何より痛かった。結果、社会人になって、「これじゃまずい」と思って勉強することになるのだが、多少、後の祭りとなっている。私立大学の教員というポジションを得られたので、それでも研究と教育をするという生活環境を確保できたが、能力が伸びる若い時期にさぼったので、結構、二流としての人生が決まってしまっている。思えば、勿体ないことをしたものである。

私自身の経験からも、若い時にしっかりとやっておかないと、将来そのツケが回ってくる。鉄は熱いうちに打て、という通り、若い時にしっかりと勉学でも楽器の練習でもスポーツでもやることが重要である。このように考えると、若い時に、まだ大きく能力が伸びるかもしれない、という時にゆとりを与える、というのは本当に残酷な考え方だと思う。まさに子供を駄目にする甘やかしである。英語で、甘やかすことはスポイル(spoil)という。このスポイルは、「台無しにする」という意味もある。ゆとり教育で、勉強をする量を減らして、子供達は一体、何を得るのであろうか。ゆとり教育を受けた若者は、小学生、中学生と手を抜いた(もちろん彼らの責任ではなく、彼らは被害者である)ことによって、将来大きなハンデを負うことになる。小学生、中学生の時こそ頑張ると、将来、成人した後、ゆとりを得られることになる。私の長女は、それほど頭はよくないと思われるが、小学校では勉強があまり「量」として出来ないので、塾に行かせてくれ、と小学校5年生の時に要求してきた。彼女にとって、勉強することは楽しむことであったのだ。その後、なぜか中高一貫の勉強ばかりさせてくれる中学に入ったら、勉強への関心が薄れたようだが、子供達は勉強が苦であるという前提自体、間違っていると思う。

ゆとり教育を導入した諸悪の根源である元文部官僚の寺脇研は、厳しい教育をしてくれた父親への私怨からこの制度を導入したのであろう、というのが私の極めて穿った見方であるが、結局、その彼が大学の教員などをしていることを考えると、世の中間違っていると思う。彼は映画が趣味であるが、特に日活ロマンポルノに造詣が深いらしい。小学校、中学校と「ゆとり」で不十分な教育を受けて、京都造形大学に入り、大学の講義で彼の「日活ロマンポルノ」の蘊蓄を聞いて卒業して、果たして社会で通用するのだろうか。ポルノ映画の製作などの仕事には携われるかもしれないが、こんな人間に、教育政策を任せてしまった国民は本当に不幸であると思う。寺脇研は、中学二年の時に成績が悪いことで父親に随分と怒られ、将棋盤や書籍を海に捨てられ、父親を恨んだそうだが、私に言わせれば、寺脇研のように子供の好きな勉強の量を削り、映画といった消費的な趣味に時間を割くような父親の方が恨めしい。椎名林檎も東京事変でこう歌っている「もっと、教育してくれ」。もちろん、ピンク・フロイドの「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」のように、「教育なんていらない」という意見もあるが、ちゃんとした教育こそ子供が求めているものである。私が考えるちゃんとした教育とは、むしろ詰め込み的教育であり、映画の蘊蓄や映画の楽しみ方などではない。詰め込み教育によって脳が活性化され、知識のネットワーク化ができれば、それなりに考える力はつくのである。

私は、勝手に「ゆとり」教育を自分でやってそれで、成人した後、今でも苦しんでいる。私の場合は自分に責任があるが、制度によって「ゆとり」を強要させられた学生達は本当に可哀想である。このような意見を言う背景には、学生達の学力低下、そして学力低下に伴う「生きる力」の弱さを日々、実感していることが挙げられる。寺脇研は、基礎的な能力が習得できていない学生達を目の前にしても、それでも「ゆとり」は大切だと思っているのだろうか。

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