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商店街は必要か? [都市デザイン]

慶應義塾大学の佐藤ゼミとインゼミを行う。佐藤ゼミとはもう4年間、インゼミをやらせてもらっている。春学期は私のゼミがホスト。秋学期は佐藤ゼミがホストをしている。私のゼミは春学期は街歩きというフィールドスタディを実施する。今日は、したがって、佐藤ゼミと一緒に戸越銀座へと街歩きに行く。そこで、戸越銀座の銀六商店街振興組合の副理事長の亀井さんからお話を聞く。亀井さんは、「商店街は必要ないんです」と主張する。しかし、その主張は、学生達への挑発、本当に必要ないと言っていいのか、という挑発が言外から滲み出ている。大変ためになるいい話である。亀井さんの話が終わって、両大学の学生に「商店街は必要あるのか、ないのか。亀井さんの話を踏まえて、自分たちの意見を考えろ」と言って、その後、戸越銀座をフィールドワークさせてからの飲み会で一人一人、学生に発表させる。

私のゼミ生は一人を除いて、皆必要だ、という。そりゃ、そうだよね。社会資本としての商店街とか、商店街の社会的価値、などといったことを言っている本や論文を常日頃、読ませているし、私もそういうことばかり書いたり言ったりしているから。佐藤ゼミの学生達は、結構、そこらへんの前知識があまりないためか、結構、必要ない、と言ったりしていて興味深かった。そして、彼らの意見を聞いているうちに、私もこの問いをいろいろ考察して、まあ、考えが多少、整理された。

その結果、商店街は必要か、と言われたら必ずしも必要ないという考えに至った。別に、商店街がなくても、自動車という移動手段を持っている多くの人にとっては、生活がとりたてて不便にはならないであろう。ただし、商店街が生活環境の中にある人はそれだけ豊かになるだろう。いわば、必需品ではなくて贅沢品である。私は実家から出てから、ずっと賃貸住宅暮らしである。そして、物件を探すときには最寄り駅の商店街の充実度で判断する。そこで、ポイントとなるのは豆腐屋、そして八百屋、肉屋である。できれば、魚屋やおでんの種屋と言いたいところだが、魚屋は生鮮三品の中でも最も早く潰れているし、おでんの種屋も結構少ないので、これらは相当の贅沢品ともはやなっている。豆腐屋で売っている豆腐は絶対、スーパーで売っているものよりも美味しい。肉屋も八百屋も然りだ。肉屋の揚げたてのコロッケの美味さに匹敵する味のコロッケはスーパーでは売っていない。だから、うまい豆腐やコロッケ、魚、新鮮な果物や野菜、などを購入する機会を多く確保したいのであれば、しっかりとした商店街がある街に住むべきなのである。例えば、充実した商店街があることで有名な下高井戸に住む人は、そのような商店街が充実していない明大前に住む人より、ずっと豊かな生活品の消費生活を送ることができるのである。私はたまに下高井戸の商店街まで自転車で買い物に行ったりするが、これが徒歩圏だったらどんなによかっただろう、と思うのである。

なくても別に死ぬわけではない。しかし、生活レベルでの消費生活を遙かに豊かにしてくれるのが、商店街である。商品知識なども商店街の商店主との会話から得たりする場合が多い。スーパーもコンビニもほとんどがアルバイトで、商品知識などない。商店主はそういう意味でプロなので、消費者としては有難い。さらに、商店街は起業のチャンスを常に提供してくれる。そして、それらの起業行動が、あらたなる価値を生み出していく。その最たるものが裏原宿であるが、私の実家のある東長崎なども、オディールのように驚異的に美味しいケーキ屋を世に送り出したし、西原理恵子が神田のやぶそばより美味しいと『恨みしゅらん』で紹介したそば七という蕎麦屋も世に送り出した。まあ、そういう効果はスーパーマーケットにはないよね。まあ、街の生活に潤いを与えてくれるのが商店街であり、そういう意味では社会ストックである。なくても生きていけるし、なくてもいいという人はなくてもいいのだろうが、私は欲しいね、商店街。音楽がなくても生きているだろうが、音楽がある人生の方が楽しいように、商店街がある街の方がずっとない街よりは楽しい。だから、商店街は経済的な敗者であり、もう社会に必要ない、とか言って早く、衰退して舞台が出ていけ、とか主張するのは本当に暴論だと思うのである。なくてもいいけど、あった方がずっと街の生活が豊かになるもの。それが商店街である。これは、アメリカのように市場経済が大手を振っていて、多くの商店街を衰亡に追い込んだ国でもそうである。筆者の近著『衰亡を克服したアメリカ中小都市のまちづくり』において紹介している5つの中小都市は、皆、中心市街地に商店街を擁している。そして、それらが街の魅力を放出している空間として機能しているのだ。

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下高井戸の商店街


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