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ボヘミアン・ラプソディ [映画批評]

大ヒット映画『ボヘミアン・ラプソディ』を正月休みに観た。フレディ・マーキュリーの映画であるが、相当、事実に忠実に描かれているようで、フレディの実母の写真を観たら、映画で母親と演じているインド人女性にそっくりで驚いた。ホモセクシュアルであることはまあ、一目瞭然であったので知っていたが、ゾロアスター教のインド人であり、18歳までイギリス外で育ったことは初めて知った。生まれたのはイギリスの植民地であったアフリカのどっかで、勝手に外交官の息子かと思ったりしていたので、生まれはイギリスの外でも育ちはイギリスであると勝手に勘違いをしていた。そして、外交官の息子だと思っていたので金持ちのボンボンだとも思っていた。そういう偏見をしっかりと是正してくれるような、良質な映画であるなと思った。
 愉快なのは、カメオで出ているマイク・マイヤー扮するレコード会社の重役が、『ボヘミアン・ラプソディ』のような6分ぐらいの曲をカーステレオで聴く若者がいないと言ったシーンである。フレディ・マーキュリーが亡くなった後、映画『ウェインズ・ワールド』でマイク・マイヤーが友達と『ボヘミアン・ラプソディ』をカーステでがんがんかけながら、車で街中に繰り出しているシーンは、ロック映画史上、最も有名で愛されているシーンであるからだ。そして、このシーンでクィーンの『ボヘミアン・ラプソディ』はアメリカ人によりよく知られるようにもなる。
 バンドのごたごた、そしてライブ・エイドでの復活といったシナリオもよく、クィーン・ファンでない私も十二分に楽しめた。ということで、まあ映画には何も文句はないのだが、ちょっと気になるのは急に、私の周りにクィーン・ファンの50代前後の人が増えてきていることだ。皆、昔からクィーンが大好きだった、と言う。本当かよ。いや、当時も確かにクィーン・ファンはいたことはいたが、クィーンよりも格好よいロック・ミュージシャンもたくさんいた。イギリスのミュージシャンでもデビッド・ボウイや、クラプトン、ツェッペリン、ディープ・パープル、ピンク・フロイド、イエス、ピーター・ガブリエル、ジェネシスといった方がずっと格好良いと当時も思っていたし、今でも思っている。決して悪くはないけど、そんな傑出して特別ではないよな、と当時も思っているし、その気持ちは今でも全然、変わらない。

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マイケル・ムアーの最新作『華氏11/9』を観る [映画批評]

マイケル・ムアーの最新作『華氏11/9』が日本で公開されていることを知ったので、渋谷のアップリンクに観に行く。月曜日で一回しか流されないので、これは座れるかなと不安だったのだが、ナント、10人ぐらいしか観客はいなかった。おそらく2019年1月において、最も重要な映画であるにも関わらず、この無関心さは何なのだろう。自分が入れたのは喜ばしいが、ちょっと『ボヘミアン・ラプソディ』を複数回観た人が周りにいることを考えると、これは本当に不味い状況じゃないかなと思ったりもする。
 さて、映画はトランプが大統領という、悪夢のような現実にどうしてアメリカ社会が陥ってしまったのかということを、トランプという人柄の分析、人々の意識の分析などを通じて、非常に分かりやすく丁寧に解説してくれている。とても説得力があり、トランプ大統領という悪夢に陥った背景が理解でき、ちょっと、そのオバケの正体が分かったような気分である。そして、トランプと似たようなビジネスマンとしてのバックグラウンドを持ち、ミシガン州知事になったリック・シュナイダーの行政を取り上げ、ビジネス・マインドの強い人が政治をするととんでもないことが起き、このままトランプに妥協すると、アメリカはとんでもないことが起きるだろう(既に起きている可能性も高いが)と警鐘を鳴らしている。『ボヘミアン・ラプソディ』は私を観たが、2019年1月時点において観るべき重要度でいえば、この映画の方が遙かに高い映画である。生き延びるためには観るべきである。

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トランプの政府閉鎖の本当の意図は壁をつくる予算を得るためではなく、FBI潰しだ [トランプのアメリカ]

トランプの政府閉鎖は30日間に突入した。歴史上、最も長い政府閉鎖である。政府閉鎖はこれまで大統領が主導したことは一度もなく、そういった意味でもとんでもないことをしでかしたなと固唾を呑んで、アメリカのケーブルテレビをチェックしている日々をここ1ヶ月ほど送ってきている。これは、日本の政治評論家で、現状のトランプを私が納得するような説明をできる人が不遜な言い方になるが、一人もいないからだ。例えば、アメリカの政府封鎖を、トランプの民主党支持者の分断作戦だ、という妄想を書いていているブログを見つけたりしたが、この人は一体全体、どんなフェイクニュースを読んでいるのだろうという印象だ。(http://agora-web.jp/archives/2036830.html)。こんな状況下であるので、どうしても現地での情報を多方面から収集し、自ら判断をしなくてはならない。もちろん、その自分の判断も正しいかどうか自分でも自信はないが、適切な情報量が多くなると推察の精度も上がる。
 さて、私が信頼しているソースの一つは、レイチェル・マドー・ショーであるが、1月21日の彼女のこれが政府閉鎖の真の理由かもしれない、という内容の解説は非常に説得力があった(https://www.youtube.com/watch?v=-V5El-Bf1ek)。それはFBI潰しだというのである。ご存知の通り、ムラー捜査官だけでなくFBIもトランプとロシアの関係を国防的観点から調査しているとのは、先週のニューヨーク・タイムズ紙が報じたことだが、政府閉鎖をしているとFBIの捜査官の給料も未払いが続くからだそうだ。FBI捜査官は、採用される時に、賄賂されないように持ち金が少なくても生活できることなどが採用条件に含まれるそうだが、そうはいっても給料未払いのような状況が続くと、組織がまともに機能しなくなる。ムラー調査もほぼ終盤に差し掛かっているというのが大方の見方だ。この調査結果によってはトランプが弾劾される可能性は高い。当然、その結果がどういうものになるかをアメリカで最もよく分かっているのはトランプ本人そのものであろう。そして、それを避けるためになりふり構わない行動を取っている、すなわち、ムラー調査だけでなく、FBIという組織を崩壊させることがトランプの意図としてあるのかもしれない、とのレイチェルの説明は合点がいく。
 トランプの政府閉鎖は、随分と子供じみた馬鹿なことをするな、とトランプを揶揄する人も多く、私も何、不合理なことをしているのか、と思ったりしていたのだが、壁の予算を通せ、と民主党に駄々をこねているというのは表向きのピエロ面で、裏では相当したたかに自分のために動いていることが見えてきた。そして、FBI潰しというのは、まさにロシアのクレムリンが願っていることであろう。思ったよりトランプは馬鹿ではない。気をつけないと、何回でもやられるぞ。

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小泉武栄『山の自然学』 [書評]

東京学芸大学名誉教授の小泉先生が1998年に著された岩波新書の『山の自然学』を読む。礼文島から屋久島まで、日本列島を連なる個性的であり、多様な山々の植生、地質、地形などを分かりやすく解説してくれている。私はへたれであるが登山をするので、この本に書いていることはとても興味深い。山を登ると、たまに驚くことがある。例えば、鳥取県の大山ではそのブナ林の明るさに心を打たれたことがある。その明るさの背景などをこの本は科学的に推察し、解説してくれる。自然の仕組みの複雑さと蓋然性に、驚くと同時に、生態系をしっかりと学ぶことの重要性を思い知らされる。
 本を読むと、これまでの山での体験が違う視点で捉え直すことができ、とても興味深いし、まだ行ったことのない山は是非とも近いうちにチャレンジしたいという気持ちにさせる。登山体験の幅を広げるような内容に溢れた本である。
 また、山の自然学の解説以外にも本書は重要な知見をもたらしてくれる。一つ目は、政府の無知による自然破壊の酷さである。引用させてもらう。
「上高地の自然をめぐっては、現状を維持しようとする環境庁と、洪水防止のために川を床固めし、堤防をつくりたいとする建設省のあいだで、長年にわたって“つばぜりあい”がおこなわれてきたが、結局、工事は行われることになってしまった。わたしの友人の岩田修二は『山とつきあう』のなかで、床固め工事に反対を表明し、ケショウヤナギなどの森林にとっては土木工事は害をなすばかりだとして、洪水に対してはホテルなどの嵩上げで対処すべきだと主張しているが、まったく同感である。」(p.167)
 二つ目は、日本において自然史についてのカリキュラムがまったく抜け落ちているとの指摘である。私事で恐縮だが、私は小学校4年生から中学校1年生までアメリカの現地校で教育を受けたので、いわゆる算数などの授業はとてもレベルが低い内容のものを教わっていたが、自然史というかエコロジーの授業は小学校高学年で受けていた。そういうこともあって、著書の考えがしっくりと入ってくるというのはあるかもしれない。
 二つの点は、今後、日本が改善しなくてはならない大きな政策的課題であろう。


山の自然学 (岩波新書)

山の自然学 (岩波新書)

  • 作者: 小泉 武栄
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1998/01/20
  • メディア: 新書



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京都市の人口減少解決策に異議 [都市デザイン]

1月17日の日本経済新聞に拙文が掲載されました。京都市の都市政策に関して疑義を呈した内容なのですが、ちょっと編集サイドで手が入り、それはそれで読者を想定すると有り難い修正なのですが、私の本音も皆様に伝えられたらと思いますので、オリジナルの原稿を下記、掲載します。

京都市が景観政策見直しを検討している。その理由は、京都に住んで働く人が減少することへの危機感であるそうだ。京都に住む人が減少している理由は、京都市によれば住宅価格が高騰しているからだという。人口が増加して住宅価格が高騰しているなら分かるが、人口が減少しているのにそれが高騰しているのは随分と奇妙な話である。しかし、京都市はそれは住宅供給が不足しているからだと判断し、住宅供給の弊害となっている建築物の高さ規制を緩和させようと考えている。
果たして、住宅供給を増やせば、人口減少は解消されるのであろうか。そもそも、京都市の住宅価格の高騰をもたらしているのは、最近の京都の凄まじい観光需要の増加を起因とした民泊需要の増加であると筆者は分析している。実際、観光客に人気の高い東山地区などの空き家の取引状況をみると、そのうちの大半が外国人による投資か、それを仲介する不動産業者であったりする。それらは外国人がそこで住むために投資しているのではなく、民泊として活用するために購入しているのである。したがって、住宅価格の高騰を抑えたいのであれば、それを押し上げている民泊を規制すべきである。住宅価格の高騰を緩和するために住宅供給を増やして効果があるのは、実際の住宅需要が不足している場合であって、不足しているのは住宅という名を隠れ蓑にした民泊という宿泊施設の場合は、規制緩和をしても、住宅需要は民泊需要にすべて喰われてしまうであろう。
 百歩譲って、宿泊施設を増やすということで都市計画規制を緩和するということで議論をするならまだ分かるが、人口減少を解消するためにそれを緩和することは、インフルエンザに外科手術を施すようなもので、効果がないどころかマイナスの影響を及ぼすであろう。そのような規制緩和は住宅ではなく、民泊を増やすことに繋がり、それはさらなる観光客を増やすことになる。現時点でもバスなどの公共交通が、増加した観光需要を捌ききれずパンクし、四条などの中心部では歩道から人が溢れるような状況下であるのに、さらに観光客を受け入れることは、京都市に大きな弊害をもたらすであろう。
そして、何よりそのような高さ規制や建築政策の見直しは、世界でも希有な「先年の都」という歴史を有する古都の根源的なアイデンティティを破壊する。いや、そのアイデンティティを破壊すれば確かに観光客も来なくなるかもしれないが、それによって京都という都市の魅力が失われ、より人口の減少を促進させるのではないだろうか。京都はそのユニークな歴史から、日本人だけでなく人類の宝となっている。それは、世界的にはプラハやフィレンツェ、ベネチアなどのような都市であり、そのアイデンティティをしっかりと次代に継承させていくのは日本人の人類への責務である。日本全体が人口減少というトレンドにある中、人口のいたずらな奪い合いへ参戦することは、長期にわたる禍根を京都に残すことになるだろう。千年とは言わないが、百年ぐらいの長期の物差しで京都のアイデンティティを守るという意識をもって都市政策を考えてもらうことを切に望みたい。

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正月におせち料理をつくり、食べる意義 [グローバルな問題]

明けましておめでとうございます。最近、掲載頻度が少なくなっていますが、今年もこのブログを宜しくお願い致します。

さて、極めて私事ではありますがおせち料理を最近、つくっています。これは、日本人とは何だろうとこの数年、考えているからでもあります。日本人ってどうやって定義できるのでしょうか。日本は島国なので、移民がなかなか来にくい国です。ということもあり、なんか日本で生まれ育って、親もそのように暮らしてきて、さらに親の親もそのようであったりすると、もう日本人だと勝手に思ってしまうかもしれませんが、本当にそれで日本人といえるのでしょうか?例えば、そのような考えをアメリカ合衆国に適用すると、そのような人達はアメリカ・インディアンだけに絞られてしまい、トランプ大統領のように母親が20歳頃スコットランドから渡米してきて、さらに父親方も祖父の代にドイツから渡米してきたような人なんて、まったくアメリカ人と言えなくなってしまいますよね。
 おそらく世界的には、日本人は日本語をしっかりと駆使できて、日本文化をしっかりと理解して、それらを次世代に継承するだけの教養・技能・情熱を有している人なのではないかなと思うのです。そのように考えると、ドナルド・キーンなどは私なんかよりも遙かに日本人である訳です。これは、例えばどこかの国が日本人なんて絶滅してもいいんだと主張した時(いや、このような話は真面目に第二次世界大戦中はされていたと思います。そうでなければ原爆は落とされない)、いやいやいや、日本人は人類において日本語を含む貴重な文化を継承していくという重要な役割を担っているので、絶滅させない方が日本人以外にとってもいいでしょう、と主張するのが、一番、絶滅させない理由として適当であると私は思ったりするからです。ここで人道的などという言葉を放っても、ほとんど効果がないことは人類の歴史が証明しています。
 さて、前口上が長くなってしまいましたが、そのような日本にしかない貴重な人類の文化資源として、私はおせち料理というものがあるのではないかと思っています。朝日新聞の元記者であった本田勝一も世界で一番美味しい料理は日本料理と言っていますが、私も50ヶ国以上訪れた経験から本当にそう思います。そして、その和食のエッセンスはおせち料理に詰められていると思います。ということで、おせち料理の調理に精進することで、日本料理の哲学のようなものにもちょっと触れられるかなと思うのと同時に、殺されそうになった時、ちょっと美味しい料理を振る舞って命乞いができるかもしれないと思ったりもする訳です。
 ということで今年もおせち料理をつくりました。ポイントとなるのは食材をどこで買うかということですが、野菜系はすべて尾山台にある八百屋ジャズで仕入れました。値段は高いですが、モノはいいです。この値段の高さには、しっかりとした商品を提供してくれる信頼の値段も含まれているかと思います。ローストビーフのお肉は都立大学の原田畜産で入手しました。原田畜産はとても人気なのですが、家内が大晦日の日に開店前に並んでくれたので無事、手に入れることができました。ちなみに予約をすればいいじゃないか?と思われるかもしれませんが、八百屋ジャズでは大根の予約ができますが、原田畜産は相当の量でないと予約は受け付けてくれません。個人消費の量ではとても予約できないのです。
さて、問題となるのは魚介類です。というのは、これまでは築地市場で入手していたのですが、築地市場が移転した後、場外はただの小売店の場となっている筈です。豊洲市場のサイトをチェックすると、どうも場内でも購入できるようだということが判明したので、とりあえず豊洲市場に向かいました。何しろ、必要なのは有頭海老、そして数の子、蛸、鰹節です。また出来れば真鯛。初めて行った豊洲市場はとても清潔で、しっかりと来場者も管理していて、とてもよく計画されているなと思いました。正直、築地市場よりも遙かにましになっています。部外者がいろいろと反対していましたが、当事者からするとなんで反対するんだ、という気分だったでしょう。
 場内に入るのはわざと入りにくくされているようでしたが、いそいそと入っていき、海老専門店に行きましたが既に12時を回っていたこともあり閉まっていました。他の店もあまりいい海老が置いていない、というか売り切れている。ということで、豊洲市場にあるショッピング・コート的な場所で鰹節や数の子、昆布巻き、蒲鉾、伊達巻、田作などを買いました。ちなみに、結果論ですが、ここで買ったものは鰹節こそ相当よかったですし、蒲鉾、伊達巻、田作は文句を言うようなものではなかったですが数の子、昆布巻きは今一つでした。ちょっと安かったですが、安物買いの銭失いという言葉を痛感させられました。
 肝心の海老が入手できなかったので、豊洲のお店の人に相談すると、築地の場外に行くのであればアメ横の吉池でしょう、といわれたので初めてですがそそくさと吉池に向かいました。吉池の混み具合は、まさにラッシュアワーの田園都市線という感じでしたが、どうにか海老、鯛、蛸を入手することができました。ただ、これも結果論ですが、鯛、蛸はよかったのですが海老は残り物を購入したせいもあるけど、頭が調理途中でもげたりして散々でした。
 さて、そんな感じで仕入れた食材でつくったおせち料理は次のようなものになりました。

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まず、、写真中央の鯛の塩焼き。これは、なんと内臓処理をお願いし忘れたので、自分で初めて捌きました。そのため、ちょっと見た目は悪かったですが、吉池で購入した金額が確か700円前後。近くのスーパーで調理済みの鯛が3000円ぐらいで売っていたので、見た目の悪さはどうってことない気分になります。そして、時計回りに左から行くと、左は栗きんとんです。そして、次の重は黒豆、数の子、膾+干し柿、菊花蕪、田作(カシューナッツ和え)、蛸と大根の煮物、その隣の重は蒲鉾(市販品)、海老の日本酒煮、ローストビーフ、昆布巻き、伊達巻、そして一番、右側は筑前煮です。
 ほとんどのレシピがクックパッドで検索したもので、本当、クックパッドのおかげでどれだけの家庭料理が向上されたか分かりません。そして、その家庭料理にはおせち料理も含まれる訳です。ということで、私の家に代々伝わるおせち料理という訳ではないですが、クックパッドのおかげで、日本人らしい正月を迎えることができるようになっています。前文に戻りますが、日本人の定義って難しいですが、宇宙人的にみると「日本語をしゃべっている」、「裸になってよくお湯に浸かる」、「家に入る時、靴を脱ぐ」と同じぐらい、「正月におせち料理を食べる」というのもその条件になるような気がします。そういう意味で、正月におせち料理を食べて、自分が日本人であると自覚すること、さらには、その極めて日本的な料理を次代に継承できるようにしておくことは、結構、重要なことかなと思ったりします。
 最近、記事を書く頻度が開いてしまって申し訳ないですが、本年も何とぞ、よろしくお願い申し上げます。

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