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三田ニュータウンを訪れ、隈研吾先生がいう都市は発酵させなくちゃ駄目だ、という言葉はまさに正鵠を得ているなと思う [都市デザイン]

 兵庫県の三田ニュータウンを訪れる。ここは本当に清潔で漂白されたかのような街で、訪れるたびにちょっと陰鬱な気分になってしまう。計画された都市の、こう隙間というか無駄のない空間に息苦しくなってしまうのである。ちょっと訪れただけでそう思うのであるから、住んでいたらたまらない気分になるだろう。精神がちょっとおかしくなるかもしれない。
 こういうことを書いている自分は不思議だ。というのは、私は若い頃から都市計画の研究をしてきたからである。コルビジェの「明日への都市」を美しいとか思うことはなかったが、ラドバーンやシーサイドなどのミクロな敷地計画を美しいと思うことは多々あった。それらも極めて計画された空間である。そして、多少の息苦しさを覚えたりもするが、一方で何か、爽やかで心地よい気分にさせられる。この違いは何かと考えると、自然の要素をうまく空間に組み入れているからなのではないかと思う。自然はある程度、計画はできるが、完全には管理できない。その我々に管理できないルーズな空間、そして公共的な空間、すなわち私有地でないような空間が多少の安堵感を覚えさせるのではないかと思う。また、ラドバーンにしろ、シーサイドにしろ、商業施設が大規模ではない。店舗レベルのものが、ラドバーンは開発時期が早かったために、またシーサイドは敢えて計画的に小さく、またそのオーナーも大企業ではない。
 ケビン・リンチのグッド・シティ・フォームの5つの条件のうちの一つに「コントロール」がある。コントロールとは自分がそのおかれた環境を管理できるということである。このコントロールのシステムがニュータウンにはない。ちなみにラドバーンやシーサイドにもない。しかし、誰にもコントロールができない空間がラドバーンやシーサイドには緑地といった自然においてある。三田ニュータウンにも自然はあるが、あまりにも管理されているし、それはまるで箱庭のようだ。このような場所で育った中学生がサカキバラになってしまったのは、ちょっと乱暴かもしれないが納得できる自分がいる。そして、消費者としてもニュータウンは完璧に近く、コントロールされている。ラドバーンやシーサイドは供給側がそれほどコントロールできていない。いや、実際はコントロールされているかもしれないが、少なくともラドバーンは、それほどコントロール力がなさそうなローカルな店舗も立地していたりする。こういう隙が、そこに住んでいる人をホッとさせるのではないかと思ったりする。つまり、不味い定食屋がつぶれないでいられるような余裕のようなものだ。
 三田ニュータウンを支配しているのは経済効率のような印象を受ける。弱者を受け入れない、ここのニュータウンの住宅を購入できない弱者を受け入れない、優等生として振る舞えない子供や若者を受け入れない、そういう冷たさ、非人間的なものを感じてしまうのだ。いや、大袈裟かもしれない。しかし、少なくとも三田ニュータウンをつくった住宅都市整備公団や、そこで住宅を供給したゼネコンのサラリーマンのようなエリートではない人達も、ニュータウンには多く居住する。選別をしたつもりでも、やはりレールをちょっと外れてしまう人間は出てくる。それらを受け入れるような器の広さを、企業や組織はともかく街は持たなくてはいけないと思う。そういう余裕が、少なくとも漂白されたかのような清潔な街並みを持つ三田ニュータウンにはないような印象を受ける。三田ニュータウンには、その「街」を発酵させるような酵母のようなものが必要である。発酵には時間がかかるかもしれないが、まず酵母を植え付けないといけない。それがシェアハウスなのか、コミュニティ・カフェなのか、バンドなのかは分からないが、何かが必要であることは確かだ。
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