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ナージャの村 [映画批評]

 大いなる期待をもって観た映画。しかし、映画の3分後に私を大いに失望させるシーンが出てくる。立ち入り禁止のドゥヂチ村。この立ち入り禁止であることを示すために、踏切のようなゲートがドゥヂチ村に入る道路に設置されてあるシーンが出てくる。しかし、その踏切には英語で「STOP」と記されている。ベラルーシで一般大衆に情報を伝達するべくサインが「STOP」と書かれる筈がないだろう。日本人は英語が国際語だという誤解がされているが、そもそもローマ字表記も使っていないベラルーシ人の立ち入り禁止のために「STOP」と書くわけがない。それじゃあ、なぜ、このようなゲートが映されたのか。それは、この映画のために敢えてつくったからだ。このような映画はリアリティがすべてなのに、いきなり、この嘘っぽいシーン。このようなことをしたのは監督があまりにも無知なのか、視聴者を馬鹿にしているかのどちらかだ。さて、そのようなシーンを最初に見せられてしまったこともあり、他の話もすべて、眉唾を付けて観てしまう。
 ナージャに「さよなら私の村の学校」と言わせるのも嘘くさい。役人とナージャの親が口論しているのも、出来レースというかただの演出にしか見えなくなってしまう。80歳代の老婆の名前を「チャイコ・バーバ」と表記したりしているが、バーバが本名なのかこの映画用につけた名前かも分からない。このような曖昧な表記は、本作のようなドキュメンタリーには違和感を覚える。映画というのはドキュメンタリーであってもフィクションである。しかし、出来うる限り、真実に近づこうと努力するフィクションであると思われる。そのために、ドキュメンタリーは、リアリティに近づくために細心の注意を払わなくてはならないと思う。その努力、誠意といったものが不十分であることが分かると、その作品の説得力が急速になくなる。私自身が、ノンフィクション的な著作を出しているので、他山の石としなくてはと思わされる。
 一方で、ドゥヂチ村の映像そのものは凄まじい迫力である。そして100%が真実ではないかもしれないが、その多くは真実に近い。村民のニコライの「パンの代わりに放射能さ」と言うのも、シナリオではなく、この村民の本音なのではないかと思わせる迫力がある。そして、放射能汚染を恐れずドゥヂチ村で生きていく村民達の大らかさと逞しさ。
 この映画は福島原発事故以前につくられたが、日本はベラルーシ、ウクライナと同様に「ナージャの村」を作りだしてしまった。住民達の大らかさと逞しさは、勇気づけられる側面があるが、いろいろな状況を理解すると悲惨、というか痛い。特にキノコを皆が食べるところなどは、私からしても自殺行為としか思えない。チェルノブイリの事故が起きた後、1500キロメートル離れているバイエルンでも、事故後30年経ってもキノコは販売禁止である。放射能残留濃度が高すぎるからだ。
 内容的にはとても興味深いと思われるが、残念ながら、ルポルタージュの作品としては今ひとつと言わざるを得ない。せっかく、素晴らしいテーマであるにも関わらず、上記で指摘したようないい加減な姿勢が、本作を台無しにしてしまっている。

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