SSブログ

ボズ・スキャッグスとトトのコンサートに行く(毒ガス濃度高し。トトのファンは読まない方がいいでしょう) [ロック音楽]

ボズ・スキャッグスのコンサートにゼミ生達と観に行く。東京フォーラムである。ボズ・スキャッグスとその友達と銘打たれたコンサートで、この友達がトトだったので、てっきりボズ・スキャッグスのバックバンドがトトのメンツなのだと思っていたら、全然違った。途中でデイビッド・ペイチがキーボードを弾くために出てきて、最後の最後でスティーブ・ルカサーが出てきたが、基本的にボズ・スキャッグスとトトが休憩時間を隔てて、別々に演奏するという構成であった。ボズ・スキャッグスを観るのは1988年のミドル・マンのコンサート以来であるから20年ぶりぐらいか。ミドル・マンのコンサートは、基本的にミドル・マンのアルバムを中心に構成されており、結構、個人的にはよかった。今回はどうか。

1曲目はローダウン、2曲目はジョジョ。ノリノリの曲をいきなり連ちゃんで弾いてきた。ここらへんまでは結構いい感じであった。しかし、3曲目は何とスローダンサー。こんな古い曲をやるのか。その後の順序はちょっと覚えていないが、シルク・ディグリーズからウィ・アー・オール・アローンとリド・シャッフルはともかくとして、ハーバーライトやジョージアまでやった。一方で、ダウン・トゥー・ゼン・レフトからは1曲もやらなかった。私が好きなハード・タイムスをやらなかったのは相当残念であったが、ベスト盤にしか入っていないミス・サンは披露した。あとデザイアとニューオーリンズ風の曲といって紹介した私が知らない曲を演奏した。ここらへんは、ミドル・マン以降のアルバムに入っている曲か。それにしても、随分とシルク・ディグリーズに偏っている。ハーバーライトとかは、まあそこそこいい曲だが、これはノリはほとんど演歌である。ううむ。ハード・タイムスだけでなくシモーヌとか、もっといい曲もあるだろうに。とはいえ、アンコールにローン・ミー・ア・ダイムを演奏したのだが、これは相当よかった。それにしてもボズ・スキャッグスは今年もう64歳になる筈なのに、相変わらずの渋さで、これは相当のものだ。流石である。

そして、最後の曲は私が最も愛するブレイク・ダウン・デッドアヘッドであり、ルカサーも出てきて、おおおお!と思ったのもつかの間、ルカサーのギターは滅茶苦茶であった。まず、カッティングがうるさすぎで、しかもタイミングがリズム体と合っていない。愕然とする。曲を台無しにしている。一人だけ浮き上がってのりまくっているが、そのノリが全体から外れている。こんなに下手だったのか!と大ショックを受ける。そして、最後のソロ。これはルカサーのソロの中でも代表的なもので、私が20年以上前に買ったルカサーが自ら講師をする教則ビデオでも指導している、素晴らしく格好いいソロなのだが、ルカサーはこの日、超適当に手癖だけで弾いていた。なんだ、そりゃ、金返せ!みたいに憤慨した気分でコンサートは終わった。さて、これでおしまいか、これはないんじゃないか、と思った矢先、これから休憩時間です、というアナウンスが入る。そこで、ボズ・スキャッグスとトトが別々にコンサートをすることに気付く。

30分の休憩の後、トトのコンサートが始まる。とはいえ、オリジナル・メンバーというか、私が知っているトトはデビッド・ペイチとスティーブ・ルカサーとボビー・キンボールぐらいで、ポーカロ兄弟は3人ともいなく(ジェフは亡くなっているので当然だが)、なんとドラムはサイモン・フィリップスであった。サイモン・フィリップスといえば、私的にはジェフ・ベックである。20年以上前から叩いているので、そこそこの年齢だと思われるのだが、結構、舞台の彼は若く、人違いかとも思ったが、やはりそうであった。曲も全然知らないものが多く演奏された。しかも、どうもおそろしくハード・ロックというか、メタルのようなものもあり、加えてメタルだけど格好はメタボなので、メタボ・メタルみたいな感じで格好悪かった。音楽も今ひとつであった。それにしても、スティーブ・ルカサーは若い時は結構、初々しく可愛かったが、今ではただのギターのうまいデブオヤジである。貫禄もまったくない。MCも変にはしゃいでいて、私でさえも大学の講義で、ああは見えたくないよな、というような格好悪さであった。

その昔、軽井沢で三大ギタリスト共演をルカサーとジェフ・ベックとサンタナとでやったのを観にいったことがある。圧倒的な存在感を放ったのはテクが一番ないサンタナで、一番テクのあるルカサーが最もインパクトがなく、私の心に訴えかけるものがなかった。それは20年以上経った今でも、同じであった。というか、さらに酷くなっている。いや、ギターは相変わらず上手い。ボズと共演したブレイク・ダウン・デッドアヘッドでは、酔っぱらっているか薬でもやってるのか、と思わせたが、トトの曲はやはり滅茶苦茶上手く弾く。それでも心に訴えかけてくるものがない。トトは高校時代にクラスの山内君が凄いバンドがデビューした、ともうキング・クリムゾンのファースト・アルバムが出たような凄いことが起きた、みたいなことを言ったので、そうか、そうか、と注目して、新宿の厚生年金でやったコンサートにも足を運んだりしたのだが、なんかなあ、という印象しか受けなかった。山内君の感性を大いに疑ったものだ。ただし、ルカサーのギターは、練習曲として適当だったので、なんか下手なりに練習したりしていたのでちょこちょことは聞いていた。

その後、ロザーナとアフリカがヒットしたりして、また大学のサークル仲間がチケットが余っているというので、懲りずにコンサートに行ったが、これもどうも今ひとつの印象しか受けなかった。個人的にはそうはいいつつ2枚目のハイドラは結構、気に入っていたかもしれない。とはいえ、4枚目以降は、全然聴かなくなったし、おそらくそれまでのアルバムも買ったことはなく、すべてレンタル・レコードで借りていたような関心しかなかったと思う。

そして、ボズ・スキャッグスに釣られて、思わず人生3回目のトトを観ることになってしまったのである。てっきりボズ・スキャッグスのバックバンドをやって、数曲だけトト曲を披露みたいなボブ・ディランとザ・バンド、ボブ・ディランとトム・ペティ・エンド・ザ・ハートブレーカーズのような位置づけかと思ったので、大きな誤解であった(ちなみに私はボブ・ディランよりザ・バンドやトム・ペティの方が全然好きであるので、トム・ペティ目当てでボブ・ディランのコンサートに行くので、ボブ・ディランが歌っている時は白けている)。まあ、そういう感じで観たためかもしれないが、相変わらずトトは面白くないな、と痛切に感じたのであった。トトを観ていると、ロックにテクは大して必要ないことを認識させてくれる。どんなにテクがあっても、楽曲やスピリッツがないと人は感動させられない。トトよりかは、はるかにテクがないゴーイング・アンダーグランドのトワイライトや胸いっぱいの方が、ずっと心を揺さぶり、ロックの大事なものを有している。くるりの方が、トトより遙かに人の心を救うであろう。

こういうことを書いていると多少、自分に違和感を覚える。というのは、私はジェネシスのような、大したスピリッツもなく、テクだけに卓越したバンドの曲を超絶、愛しているからである。ジェネシスとトトの違いは何なのか。それは、おそらく文化的教養というか、曲を技術者のようにつくるトトと、もう少し天才的楽曲家の創造性にゆだねたつくりかたをするジェネシスとの違いかもしれない。私はアバカブ以降はともかく、それ以前は、トニー・バンクスの楽曲能力と編曲能力や、フィル・コリンズのドラムの凄まじさなどに心底惚れていたのであろう。そういう惚れるようなものをトトは有していない。なんか、アメリカのチェインのメキシコ料理屋、イタリア料理屋のような、どこでも感、個性の無さを感じてしまうのである。まあ、そういう意味では万人受けもするのだろうが。

それじゃ、ボズ・スキャッグスもそうじゃないか、と言われると、まあ確かにそうなのだろうが、ボズ・スキャッグスはボズ・スキャッグスという個性ですべての曲を消化している。ボズの曲に対する解釈が優れているので、良質な音楽、良質なバンドのアンサンブルを聴くことができるのである。トトは、どうもそこらへんでバンド・メンバーの個性がうまくまとまっていないのではないか、と思われる(これは一般的な解釈とまったく逆のことを書いていることは認識している)。ずばり、ルカサーが出しゃばり過ぎである。そして、やはりトトはあまりにも軽すぎる。ユー・サプライ・ザ・ラブは10代向けの商業ロックというレベルの低さで、こういうレベルの低い音楽はボズにはない。この曲は唯一、曲の終わりにスティーブ・ポーカロの超絶キーボード・ソロがあり、それで多少は救われるのだが、今回のコンサートではここは省いて誤魔化されていたので、なおさら安っぽく聞こえた。ホールド・ザ・ラインとかも、ちょっと、やはりこの年で聴くには幼稚すぎる。全般的に、まあいいかな、というか金を払う価値があるかな、と思ったのはアフリカ、そしてロザーナ、ジョージー・ポージーのシンセ・ソロ、チャイルド・アンサム、ハイドラ当たりか。そうそう、最後にボズ・スキャッグスも出てきて演奏したジョー・コッカー・バージョンのウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンドは相当よかった。これがコンサートの間違いなくハイライトであった。

まあ、今日のコンサートをもってトトの活動は無期限停止になるようで、こんなクールな観客がいること自体はトトにも、トトのファンにも失礼だったし、学生を連れてきてしまった責任もあるのだが(チケットは高かったので)、トトは私がイメージしていたよりも、さらにロック的な意味合いでは必要性が極めて希薄なバンドであることを理解した。そして、それはボズ・スキャッグスのようなAOR的なニーズにもしっかりと対応できていないし、ジェネシスのような知的興奮をも満足させないし、さらに同じアメリカン商業ロックのボストンなどのような次代に残るようなメロディーも紡ぎ出していないし、くるりでさえ放っているロックとしての生き様のようなオーラも出していない。同じメタボ系でも、ローウェル・ジョージのような味もない。なんかなあ、テクだけはあっても人間駄目なんだなあ、ということを痛切に感じ取ったコンサートであった。


nice!(0) 

nice! 0