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高知のよさこい祭りを観て、祭りとコミュニティのことを考える [都市デザイン]

高知のよさこい祭りに参加する。といっても、参加をしたのは私のゼミ生であり、私はカメラマンとしての参加である。学生達は5月頃からサマー・ジッパーズという東京のよさこい参加グループに参加して土日に修練を積み重ねてきたのだ。その練習の集大成を、11日に本場の高知で披露することになった。サマー・ジッパーズは、非常に結束力も高く、観るものに感動を与える演技を披露していた。私は当然、大いに感動を覚えた1人である。学生達は、多少、おみそ的なところもあったが、しかし、サマー・ジッパーズのメンバーとしてもそれなりの居場所を確保し、存在感も発揮できていたような印象を受ける。

祭りの持つ力というものは非常に大きなものがあると思う。祭りは「ハレ」の時空間を指す。この「ハレ」の時空間があるからこそ「ケ」の時空間が成立するのである。いつまでも「ケ」だと人間はおかしくなってしまう。私は以前、猛烈に残業する仕事をしていた。月に120時間は残業していた。これくらい働くと、残業代だけで給料が2倍になる。まあ、それくらいしていたのである。これだけ働いていると気がおかしくなる。特に官公庁の仕事が多いので年度末の3月の忙しさ、そして3月に終わらない仕事の後片付けで4月も発狂するほど忙しい。そのような状況が一段落した時、私は部下に叫んだことがある。「カーニバルをセッティングしてくれ!」。これは、具体的にはちょっとした飲み会、まあ屋形船程度の飲み会をセッティングしろという指示だったのだが、ここで言いたいことは、思わず「カーニバル」という言葉が出たということである。私は無意識のうちに、仕事ばかりして発狂することを回避するためには「カーニバル」、すなわちハレの体験をすることが有効であるということを理解したのである。したがって、「ハレ」を求めるのは、人間の本能であると私は考えているのである。

さて、最近、地方都市で祭りが存続の危機を迎えている場合が多い。例えば、筆者が知っているある自治体では、誰も運営主体になりたくなくて、最終的には市役所がやらざるおえないかもしれないような状況にある。まあ、市役所という超事なかれ主義の人達が主催するようなお祭りに「ハレ」的要素がどの程度、盛り込まれられるのか、というか税金を使うしか、お祭りをする術がないコミュニティにお祭りが必要であるのか、などいろいろと考えさせられるが、お祭りの死は、そのコミュニティの死に近いものがあると捉えている。なぜなら、お祭りが必要ないということは、「ケ」としてのコミュニティの機能がもはや成り立っていないことの裏返しであるからである。日常的な生活がコミュニティでは展開されていないのである。商店街はもはや買い物をする場ではなく、郊外のショッピングセンターがそのような場になっている。ショッピングセンターは年末セールなどの消費のお祭りを勝手にやっているし、ウォルマートは毎日がロープライスのバーゲンである。ウォルマートが進出したコミュニティは、そのコミュニティの「ハレ」を日常化することでも、コミュニティを崩壊へと導くのである。

我が国の地方都市でお祭りが衰退の一途を辿っているかというと、そうではない。むしろ、一部の地域ではお祭りが復活している。これは、お祭りを復活させることがコミュニティのアイデンティティを強化することに繋がることに人々が気付き始めたからである。お祭りはある意味では、コミュニティの生命線である。なぜなら、人は生活していくうえで、お祭りのような「ハレ」が必要不可欠だからである。これがなくなるというのは、生きていく意味さえ失われるということである。

しかし、それと同時に、「ケ」も必要である。「ハレ」ばかりの生活をしている人としては、例えば、トム・クルーズ(そして奥さんのケーティー・ホームズ)が挙げられる。彼らの私生活をしっている訳ではまったくないが、ケーティー・ホームズはトム・クルーズから買い物禁止令を出されたくらいだから、もうひたすら消費しまくっているのであろう。トム・クルーズはアメリカを代表する大金持ちであるはずだから、ちょっとやそっとの消費でも大丈夫だ。その大金持ちが買い物を禁止するぐらいであるから、消費欲はまさに無限である。したがって、この欲望を制する倫理を我々は必要としている。でないと地球が幾つあっても足りない。ケーティー・ホームズが100人いれば地球は消費尽くせるのではないだろうか。一般的に宗教は、この欲望を抑制させる仕組みが組み込まれているが、宗教はもう人々の行動規定をする力を有していない。ちなみに、トム・クルーズはサイエントロジーという極めて怪しげな宗教団体の所属しており、まあ「ハレ」だらけの生活をしていると、「ケ」の代替品として宗教に走るというロジックは非常に分かりやすい。ちなみにケーティーはカトリックの家で生まれ育っているので、カトリックは欲望の抑制を教義に掲げていても、あまり効果がないのではということも推察される。

随分とよさこいから話が飛んでしまったが、人生もコミュニティも「ハレ」が必要であるが、「ハレ」だけだと人間、おかしくなる。毎日、ディズニーランドで生活することが楽しいと思う人も少なくないかもしれないが、実際、やってみたらそれほど楽しくはないであろう。私は苦痛を感じる。というか、消費だけが人生というのは、どうにもつまらないものなのではないか。


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