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大阪の喫茶店 [都市デザイン]

大阪の中津に泊まる。朝食を取りに、ホテルの外をぶらつく。と、目につくのは古びた喫茶店である。この喫茶店が、1ブロックに2〜4軒くらいはある。幾つか覗き込んで、人がたくさん入っている店に入る。12席くらいとカウンターからなる店だが、4人ほど客が入っていた。いかにも安さを売りにした飲食業を営んでいる風情のおばさんと、初老に入ったおじさんが3名くらいであった。結構、客の出入りがあり、皆、挨拶をする。どうやら、私以外の客は皆、常連のようだ。モーニングのセットが3つあり、サンドイッチとゆで卵が350円、トーストとゆで卵が350円、ハムエッグが450円であった。サンドイッチとゆで卵を注文する。サンドイッチもゆで卵も、まあごく普通のものだったのが、コーヒーが滅茶苦茶美味くて驚いた。ちょっと、もうスターバックスはもちろん、ドトールともまったく比較できない美味しいコーヒーであった。これで350円は安い。これだから、大阪はなめられない。

さて、コーヒーを堪能したのでホテルの部屋に戻ると、まだ掃除をしている。約束した時間にはまだ早いので、また喫茶店に向かう。今度は、違う喫茶店に入る。ここは、ほとんどのテーブルがデレビゲームの台であったが、テレビゲームとしては長らく使われていないことはバーがもげていることからも明らかであった。そういえば、テレビゲームをするために喫茶店に入ってコーヒーを飲むということを昔はやっていたのだ、ということを思い出した。このようなニーズは、任天堂がファミコンを出して消えていってしまったのであろうが、この喫茶店はおそらくお金がないのか、やる気がないのか。そのまま、誰もやらずに、そして、今では誰もやれずになったテレビゲームの台をテーブルとして使っているのである。しかし、このような喫茶店が存在するおかげで、我々は記憶から風化してしまいそうな一昔前の風俗を思い出すのである。そういう意味で、こういう喫茶店はタイムカプセルである。まあ、しかし、全般的に小汚い店なので、さっきの店ほどは期待できないだろうとトーストとゆで卵のモーニングを注文すると、まあ、最初の店ほどではないが、及第点のコーヒーであった。そして、値段は360円。いいじゃないか、大阪の喫茶店。しかし、この喫茶店は最初の店のようなコミュニティのハブとしての機能はそれほど担っていないようである。まあ、テレビゲームが机代わりの店だからね。

最近、つくづく思うのはコミュニティにおける喫茶店の重要さである。都市住民は自分が帰属するコミュニティとしての喫茶店やバーを持つべきであると思うのである。それは、その人を社会化する装置でもあるのだ。私の場合は、大学のそばの喫茶店キャロルがそうである。高輪の住民ではないが、高輪で働くものとして、キャロルを使わせてもらうことで、多少なりともコミュニティへの帰属意識と責任感のようなものが生じる。大学時代は、駒場のどらであった。今でもたまにどらに行くと、ママさんは温かく私を迎えてくれる。有難いことである。会社時代は喫茶店に行くような時間がなかったが、定食屋の共栄堂やおでんの尾張屋には常連だったので、神田という街と私を結節する役割を多少なりとも担ってくれたような気がする。これらの店がなくなったら、私は喪失感を覚えるであろう。バーは、そこまでの帰属意識は醸成させないが、それでも社会と自分をつなぐ結節点としての役割を担う。胃を悪くしてからあまり行っていないが、青山のツインズ・バーはまさにそのような結節点である。それらの店では、匿名性の高い都市住民である私が、社会の構成員としてどうにかやっていける程度のアイデンティティを獲得することができている。この匿名性の喪失によって、私は社会化するのである。それは、消費によっての社会化ではあるのだが、イオンやスターバックス、マクドナルドで消費をしても得られない効果であるのだ。

これは、レルネル氏が「都市の鍼治療」で書いているバー、マネコが果たしている役割と同等のものである。先月、中村ひとしさんと一緒に学生達を連れてマネコに行ったのだが、学生達は大いに楽しんでいた。多くの客が、彼らや私に話しかけてきた。中村さんは常連なので、もう多くの人につかまって大変であった。そこは、まったくの広場ではないが、都市で生活していることをお互いが祝福しあうような空間なのである。



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