SSブログ

今市市の事件がもたらすインパクトを考察する [都市デザイン]

今市市の小学一年生誘拐殺人事件は、戦慄が走るおぞましい事件である。私も二人の娘の親であるので、このような事件は他人事ではない。周りの小学生の子供をもつ親達も随分と不安になっているようだ。このような事件が起きると、アメリカとかで生活をしていた人達が知ったかぶりして「アメリカなんかだと子供が歩いている姿なんか見かけないわよ」と言う。エッセイストの酒井順子もそういうことを言われたと最近、書いていた。いや、アメリカでも子供は30年前には学校に歩いていっていた。1973年〜1976年の間、私はずっと20分から30分くらいかけて小学校、中学校に歩いていっていた。ロスアンジェルスの郊外での話だ。それが、1980年中頃から、危なくて歩いて行かせられないようになったのである。いや、正確にいえば、歩いて行かせると危ないと人々が不安を共有するようになってしまったのである。そして、どういう事態が生じたかというと、皆、車で送り迎えするようになったのである。公立の小学校で、そうなのである。もちろん、自動車が所有できないようなスラムに住む子供たちは歩いていっているだろうが、ほとんどの郊外住宅地では子供たちは学校まで自動車で送り迎えされるようになったのである。

多くの場合、犯罪者は自動車とともにやってくる(広島のペルー人による殺人事件は違ったが)。自動車に対抗するためには、自動車で守るのが一番であるという思考に陥るのは分からないでもない。実際、今市市の周辺の小学校では自動車で児童を迎えるようになるという現象がみられ始めているそうだ。この現象は全国的に普及するであろう、というのが私の推測である。しかし、この自動車で子供を学校まで送り迎えすることが一般化すると、また問題が生じる。それは、そうでなくても歩く人が少ない街中からさらに歩く人が減ってしまうことである。歩く人が減れば減るほど、住宅地や街路、道路の危険性は増える。これは、交通事故とかでも言える点であるが、防犯上もまさにそうである。人が多く歩いていれば、それが例え小学生でも、その空間の危険性は低下する。逆に、歩行者が減れば減るほど、犯罪に会う確率は高くなる。したがって、自動車による児童の送り迎えは、防犯の観点からすると、短絡的には効果があっても、街中の防犯力をさらに低下させることになると思われるのである。

それにしても、人々が抱いている不安や恐怖は尋常のものではない。昔から、そこらへんには露出狂のオヤジや痴漢がいたはずである(私は直接被害にあったことはないが)。これらのただの変態っぽい人が、ちょっと近所に出現したという情報が広がっただけで、小学校の担任が長女を家まで送ってきてくれた。急に変態おやじ達は、殺人鬼のような恐ろしい存在になってしまったのである。大げさである。集団下校を林や子供たちが遊ぶような空き地もない都内で実施するのは、ほとんどナンセンスである。今市市とでは、歩いている人の数が比較にならないほど多いし、犯罪をするような空間もほとんどないではないか。もちろん、確率は0%とはいわない。しかし、防犯にかけるコストを考えると、それはあまりにも非効率であると思われるのである。それに、問題の本質は登下校の安全、ということではなく、そのような反社会的な犯罪者が頻繁に出てくるようになった、社会経済環境にあると思われる。

これに関してはまったくの門外漢であるのだが、私はおそらくロリコンという輩は先天的なものではなく、後天的なものなのではないかと思う。奈良の小学生殺人犯である小林薫などは、ロリコンのポルノ漫画を見てロリコンに覚醒したと言っていたそうだ。どうも、全般的に社会にそのようなロリコンのマーケットとかを拡大してビジネスチャンスを広めようという動きがあるような気がしてしょうがない。まあ、ローマ帝国時代のローマもそうだが、社会が成熟して豊かになると、人間の欲望は行き場を求めて、とんでもない方向に向かうのだろうが、犯罪や反社会的な行動を醸成するような商品、消費が溢れているこの社会の状況をどうにかすることこそが、重要なのではないだろうか。ロリコンとかは、サステイナブルという観点からもきわめて私は嫌悪するのであるが、そのようなことを言ったら、ある女性の大学教授に、しかし芸術を育むうえでは重要な要素であると言われた。しかし、私はそんなもので育まれるような芸術は不要であると、彼女には言わなかったが、思ったのである。通学路の安全を気にしすぎて、事件の背後にある大きな背景に対して人々の問題意識が浅いような気がしてならないのである。


nice!(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0