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マカッサルにて自動車の問題を考察する [都市デザイン]

昨日からインドネシアはスラウェシ島最大の都市マカッサルに来ている。マカッサルは今年で3度目であるが、前回来た5月、9月は乾季であったが、今回は雨季なので、昨日、今日と雨が降り続けている。マカッサルの人口は100万人を越える。しかし、公共交通はペテペテというジプニーのような相乗りタクシーと、ベチャックという自転車の人力車ぐらいしかない。ペテペテはルートは決まってはいるが、乗り降りの場所は自由。従って、ラッシュアワー時など自動車で20分で行けるところが1時間以上もかかるなど、通勤等には使い勝手が悪いことこのうえない。ベチャックはおもに女子学生やおばさまが使っている。風流でマカッサルらしい都市景観の演出に一役買っているが、スピードの問題、そして自動車等他の交通モードと狭い道路を共有しているので危ないことこの上なく、ビジネス等の移動には使いにくい。したがって、人々は自動車が買える金があれば、即自動車を買ってしまう。これはマレーシアのクアラルンプールでも90年代に見られた現象であるし、タイなどの他の東南アジアの国々で見られた現象である。

そして、街中は自動車に覆い尽くされ、早晩、自動車でも身動きできない状況になり、大気汚染の問題が生じる。それを打開させようと、無理矢理道路をつくるため、コストは上がり、そして多くの貴重な都市空間は道路や駐車場などに変貌していき、豊かなコミュニティは道路と自動車によって分断され崩壊していき、都市から人々は郊外へと逃げ出す。郊外は自動車での移動を確保するために、低密度でつくられ、そのために公共サービスのコストが上昇し、移動エネルギーが非効率に多大にかかるため、環境への負荷が極めて大きくなるのは、ケンワージーの研究等で明かにされた。しかし、それでも人々が幸せになれればいいのだが、実際は、コロンバイン高校のような事件を始め、我が国でもサカキバラ事件、金属バット殺人事件、長崎小6の殺人事件等、10代による異常な殺人事件のほとんどの舞台が郊外で起きているという事実は、三浦展の「ファスト風土」に指摘されるまでもなく自明である。

また、今市市の事件、宮崎勤の事件、奈良の小1殺人事件からも理解できるように、自動車が非常にこれらの事件において重要かつ不可欠な役割を果たしている。自動車はコミュニティを物理的に分断するだけでなく、その閉じられた空間からコミュニケーションの機会をも略奪する。したがって、郊外や最近の地方都市のように自動車が支配してしまったような地域において、人々の目から逃れなくては出来ないような、このような誘拐殺人事件が起きるのである。

このように自動車に支配されると都市は必ず、貧しくなるし、それならと都市を脱出して郊外や地方に行っても、それらは都市よりさらに自動車に依存しなくてはならなくなっているので、より不幸になる。このようなマイナスのスパイラルに陥らないためにも、都市部での交通需要が高まった際に、それを自動車という交通モードではないバスや地下鉄、ライトレールなどで解決することを考えなくてはならないのだが、なかなか人々の思考回路をそのような方向性に持って行くのは難しく、忸怩たる思いをする。私は、5月に来た時は大学生と役人相手に、そのような話をし、また9月でもおもに大学生相手に、そのような講演を行ったが、現地の大学生は、「しかし、車がないと女の子にもてません」と言う。鋭い。自動車は移動手段としてはそれほど優れていなく、おそろしく過大評価されていると思うのだが(個人ベースでは優れていても社会ベースでは決して優れていない)、この象徴としての商品としての価値は極めて高いからである。それは「豊かさ」といった社会的ステータスを象徴したり、「センスのよさ」といった価値観を象徴したりするシンボルとしては極めて優れたものなのである。そのために、自動車会社はイメージ広告にお金を大量にかけるのである。

そして、そのような自己顕示欲、他者と差別したがる欲望を満たしたいがために、人々は経済的な無理をしてまでも自動車を購入し、そして都市の道路は窒息し、郊外に人々が逃げ、郊外の非効率な構造ゆえに多大なエネルギーが費やされ、コミュニティも成立しないような不毛たる空間に人々は生活することを余儀なくされるのである。そして、皆が不幸になる。このような過ちを繰り返さないためにも早急にマカッサルでは、しっかりとした公共交通の導入を検討すべきであろう。って、日本語で書いて誰に伝えようとしているのか、私は。

マカッサルの市内を走るペテペテ


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