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ジェイン・ジェイコブスの映画『Citizen Jane』の試写会を観に行く [映画批評]

 ジェイン・ジェイコブスの映画『Citizen Jane』の試写会を観に渋谷に行く。Citizen Janeというとジェーン・フォンダの伝記を思い出す人もいるかもしれないが、この映画はジャーナリストで作家であるジェイン・ジェイコブスがニューヨークの街並みを道路開発や都市再開発事業から守った話である。
 ロバート・モーゼスが完全なヒール役として描かれている。巨大な都市計画の悪、それを仕切るロバート・モーゼスという悪人に、ジェイン・ジェイコブスは知恵と庶民を味方につけてやっつけるという勧善懲悪的なストーリーである。それは、それで面白かったが、この映画のコピーである「もしもジェイコブスがいなかったら、世界で一番エキサイティングな都市・ニューヨークは、きっとずっと退屈だった」という文章は、ジェイコブスの代わりにモーゼスを置き換えてもいえなくもない。いや、エキサイティングかどうかは分からないが、ニューヨークというアメリカ合衆国において極めて特異で、唯一都市らしい都市(強いていえばサンフランシスコとシアトルは入れられるかもしれない。ポートランドも入れたい気はするが、ちょっと厳しいかも)の骨格をつくったのはまさにモーゼスである。モーゼスがトライボロー橋を架けた。国連のヘッドクォーターをマンハッタンに招致するのに成功させたのもモーゼスである。映画では酷評されていたが、クロス・ブロンクス・エクスプレスウェイをはじめとした高速道路、リンカーンセンターやメッツの本拠地であるシェア・スタジアムもそれらをつくるうえで彼は多大なる貢献した。つまり、何が言いたいかというと、ジェイン・ジェイコブスはニューヨークの魅力が壊されるのを守りはしたが、新しい都市の基盤をつくるようなことはしなかった。確かにモーゼスはやり過ぎの感はあったし、モーゼスのやり方を続けていたら、ニューヨークはより退屈な都市になったかもしれないが、私は両方が必要であったように思われるのだ。ジェイコブスというカウンターがいたことの効果は過小評価できないが、モーゼスがいなければハードとしての都市であるニューヨークは、現在のようにある程度、公共交通が充実し、飛行場へのアクセスもそれほど悪くないような機能的な都市にはならなかったような気がする。ジャカルタのような状況になってしまった可能性もあるかもしれない。いや、それはそれで面白い、と言われてしまえばそれだけの話なのだが。
 モーゼスがあまりにも悪く描かれていたので、私は、しかし、その当時の時代背景としては、こういう方向に皆が向いていたのにな、と不満を感じたところ、しっかりと、このような都市自体をスクラップ・アンド・ビルドすることを唱道した張本人ル・コルビュジエが出てきて、相当、批判的に描かれていたのでしっかりとコンテクストを抑えているな、と安心した。そもそも、日本ではジェイコブスを称賛するのと同時にル・コルビュジエも称賛するという、巨人ファンであると同時に阪神ファンでもあると主張する変な輩があまりにも多いが(特に建築関係者や都市計画関係者)、この2人の「都市論」は到底、共存することはできない。まあ、ジェイコブスの場合は、反モーゼスであったルイス・マンフォードでさえ批判的であったので、相当、難しい。というか、ジェイコブスの側に立つということは、土木的な都市計画を真っ向から否定するということにあることを、にわかジェイコブス支持者は自覚をした方がいいと思う。
 この映画は、多少、モーゼスに比べてル・コルビュジエには甘い見方をしている印象は受けたが、そもそもモーゼスのようなタイプの人間を生んだ大きな背景にはル・コルビュジエと彼のタブラ・ラサを理想とするような都市像があったことは間違いない。タブラ・ラサにするには、クリアランスをするしかないからね。しかし、そのことを映画を観た後、映画館内で知り合いに会ったのでその話で盛り上がっていると、関係者が「いや、でもコルビジェを誤解した、と映画では解説しましたよね」と言ってきた。確かに高層ビルがオフィスであって、住宅ではなかったという言い訳はできるかもしれないが、あのような距離を置いて高層ビルを林立させ、間に広幅員の道路をつくるというル・コルビュジエの都市のコンセプトはまったく誤解していない。プルイット・イーゴーなんてコルビジェの「輝く都市」そのものではないか。それにフランスでも、パリのラ・デファンスはコルビジェの延長線上にあるのは明らかでしょう。
 ちなみに、私はモダニズムはそれほど好きではないが、いいところもたくさんあると思っている。ブラジリアに行くと、コルビジェ的なモダニズムの理論のもとに丁寧につくった住宅街の方が、勝手に不法占拠でつくられたファヴェラ街よりもはるかにいいと思うし、前川国男の世田谷区役所を壊すのは反対である。とはいえ、日本の東京に住んでいて、まさに東京のグリニッチ・ヴィレッジとニューヨーク・タイムスのライターが形容する下北沢にとんでもない26メートル道路が、区民が必死になって反対しても結局つくられてしまうことや、他にも明大前、小平、調布などで住民が反対しても道路がつくられてしまいそうな状況や、立石のような個性的な街区が再開発によって無個性化しそうなことをみるにつけ、どうして、これだけ成熟化して、さらにアーバンな魅力を放ちつつある東京を道路や再開発で壊してしまおうと今でもするのか。まったくもって分からない。そして、二子玉川や湾岸に立つまさにプルイット・アイゴーのような高層マンションに多くの人が高いお金を払って住みたがるのかも全然、分からない。
 ニューヨークはモーゼスというフェデラル・ブルドーザーのようなキャラが立っている人物がいたおかげで反対運動も展開しやすかったが、東京は誰が進めているかが本当、分かりにくい。というか、三宅都議員は高い確率でそうだが、彼がそのような東京を破壊する張本人の1人であると理解したり、報道したりする人は少ない。そして、ジェイン・ジェイコブスを気取った人が出てきたりもするが、協調性のないプライドの高い人で、ジェイコブスが示したカリスマ性や戦略性などを見ることはできない。まあ、私もそういう点では人より劣っているので、あまりそういう指摘をするのは気が引けるが。
 とはいえ、ジェイコブスの都市論の骨格である「人が都市をつくる」というのはまさにその通りであり、人が豊かになるために都市はあるのであって、都市が豊かになるために人が犠牲になるのはおかしいし、そもそも都市が豊って何?(土地が金を生み出すということでしょうが)ということである。ただ、この映画をみると勇気づけられるし、インフラがある程度整備された後は、ハードではなく、このような保全とか人の行動をベースにしたソフトな都市空間づくりが求められることになるのであろう。
 ちょっと宣伝になってしまうが、私は「都市の魅力を構成する要素は何か?」というテーマで内外の有識者(ヤン・ゲールやらジャイメ・レルネルやらトーマス・ジーバーツやら隈研吾さんやら陣内秀信さんやら)に取材をしたのだが、彼らはほぼ異口同音に「人」と答えていた。もし、宜しかったら、下記から見ることができるので見てみて下さい。

http://www.hilife.or.jp/wmca/?p=7

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