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子どもたちのサード・プレイスはおじいちゃん、おばあちゃんである [都市デザイン]

 以前、某広告代理店から新しく開発される住宅のパンフレットに有識者としてード・プレイスのことについてのコメントを依頼された。パンフレットにも出演もしてもらいたいので取材・撮影もさせてくれとのことであった。まあ、新開発の住宅地なんて肯定的にコメントするのは難しいかなと思ったが、別に開発物件を褒めなくてもよければ、ということで引き受けることにした。サード・プレイスの考えを述べるのは悪い話ではないと思ったからだ。
 さて、しかし、その担当者と事前の打ち合わせをしていたら、「先生はご著書に子供のサード・プレイスのことを書かれていますよね」と言われたので、「いや、中学生や高校生のサード・プレイスのことしか書いていませんよ」と回答した。担当者は困ったな、という顔をして、その打ち合わせ後、メイルにて「小学生のサード・プレイスの重要性を述べて欲しい」と言われたので、「小学生のサード・プレイスを計画に考えた住宅開発などない」と言って断った。
 小学生に果たしてサード・プレイスが必要なのか。パッと浮かぶのは、小学生の男の子達が女性のヌード写真が載っているエロ本の類を仲間達と見るような場である。そういうサード・プレイスは大人の目から隠れられることが何しろ重要な要件であって、住宅地計画においてサード・プレイスが割り当てられた時点でそこはもはやサード・プレイスではない。
 まあ、拡大解釈をして塾が一部、サード・プレイスとして利用されているケースもままある。しかし、これもあくまでも主目的ではなく、いやいや塾に行かされた子どもたちが、どうにか楽しむ時間をつくるために、そこにサード・プレイス的要素を入れ込んでしまっているだけのことである。コピー機で顔を複写して遊んだり、塾でアルバイトをしている講師の大学生とちょっと遊んでもらったりするようなことだ。
 要するに、親や教員の目を盗んで何かをするということがサード・プレイスの醍醐味であり、塾の大学生の講師は、学校の先生ではあり得ない共犯者として遊んでくれたりするから楽しいのである。私も小学生ではなくて、中学生であったが、塾の大学生の講師のアパートに行かせてもらって、イーグルスのテイク・イット・イージーやアメリカのヴェンチュラ・ハイウェイのギターの弾き語りを聞かせてもらった。今でも私がギターに嵌っているのは彼のおかげである。
 まあ、このように親や教員の目を結ぶ場所こそがサード・プレイスであり、そんなものを計画論に入れ込んだ時点でそこはもうサード・プレイスではない。本当、今さらながら断ってよかったわ。取材料も5万円と大したことなかったし。
 さて、そういう考えを持っている私であるが、私が敬愛する先輩から「子供にもサード・プレイスは必要だ」と言われて、ちょっと困っていた。確かに、子供にもサード・プレイスは必要かもしれないが、計画的につくる訳にもいかないし、どこがサード・プレイスなのか。自分はどこをサード・プレイスとしているのか。と考え、それはおじいちゃん、おばあちゃんであることに気がついた。
 親がいやな時、親から離れたい時、または幼稚園に行きたくない時、そこがサード・プレイスとなる。小学生の低学年では、そうそう街中にサード・プレイスを見つけることはできない。まあ、全然、ない訳ではないが、それは昔であれば駄菓子屋であったり、建材が置いてある空き地であったりした。私の場合は裏山がそうであった。しかし、駄菓子屋はともかく、空き地や裏山(その後、住宅開発された)のようなトランジエントな場所以外に、子供が逃げられる場所。そこがおじいちゃん、おばあちゃんなのだ。
 逆にいえば、おじいちゃん、おばあちゃんがサード・プレイスで子どもたちの心の安らぎの場を提供できない時、子供はしっかりとした社会性を持てないで育ってしまうのかもしれない。頑張れ、おじいちゃん、おばあちゃん。しっかりと子供を甘やかすべきであろう。

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