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ライネフェルデ訪問記(1) [都市デザイン]

■はじめに
 「ライネフェルデの奇跡」、「Marvel in Leinefelde」と都市計画的に絶賛されるライネフェルデを訪れる。実はこれで、まだ二度目である。旧東ドイツの縮小都市を研究している割には、もっとも有名なライネフェルデをあまり訪問していないということは意外に思われるかもしれないが、訪れなかった理由はまさに「有名すぎる」ためである。既に日本語でもいろいろと論文やら研究ノートやらが出されている。相当、しっかりとした著書も翻訳されている(よく、この本を出した出版社がいるなと感心はするが)。ということで、何をいまさらいねふぇるで、という気持ちだったのでる。
 しかし、流石に一度も訪れていないのは不味いな、と思ったのでゲッティンゲンに用事があった時、その次いでに足を伸ばした感じだったと思う。その時は重いトランクを持っていて、駅のロッカーに預けようかと考えていたのだが、そのようなロッカーがないことが発覚。預けてもらえるようなところもなく(ほぼ無人駅状態)、仕方がないのでトランクを持ったままコミュニティ・バスで一周して戻ったことを覚えている。したがって、訪れたことはあるが、じっくりも見たことがない。
 さて、しかしドイツの縮小都市を研究しているのに、このライネフェルデをよく知らないのは不味い。例外的な優等生ではあるし、なんせ「奇跡」であるから、これを標準とするのは不味いとは思うが、上限を知っていないことは問題であるし、「ライネフェルデでは・・・」と言われた時に、私が「そうですか」と頷いているのも落ち着かない。
 ということで、取材のセッティングもして訪れた。
 取材に対応してくれたのは市の広報の方で、英語での会話はほぼ完璧であった。ということで非常に有益な取材を行えたのだが、ここでそのポイントを簡単に紹介したい。
 その前に、ライネフェルデを知らない方のために、簡単に解説すると、ライネフェルデは旧東ドイツのチューリンゲン州にある。旧西ドイツにある大学都市ゲッティンゲンからだと、急行列車(Regional Express)でわずか30分の距離にある。
 ライネフェルデは旧東ドイツに所属してしばらく経っても小さな村であったが、1959年に旧東ドイツ政府が策定した計画によって、ライネフェルデに大規模な繊維工業が設置される。それと同時に、村の南部にライネフェルデ団地が建設され、住宅が供給され、新たに13000人の人口が加わった。この団地には町の住居の90%に相当する5600戸が立地した。
 しかし、ドイツ再統一後、ライネフェルデの状況は激変する。再統一後、ライネフェルデの工場は市場経済の中での競争に打ち勝つことはできず、閉鎖されそれに伴い多くの住民が流出した。4000人ほどあった繊維産業関連の雇用は250人まで激減する。ほとんど一夜にして繊維産業関連の仕事はなくなったのである。1990年代前半で町は4分の3の雇用を失った。1994年には失業率は25%にまで上昇し、仕事を求めて多くの人々が町を去っていった。1990年からの5年間では25%以上人口が減少している。

■縮小対策
 しかし、その後、ハインハルト市長のもと、縮小対策を果敢に実践していく。最初に旧東ドイツのプラッテンバウ団地を撤去(Abriss)した自治体である。この需要のない建物を撤去するというのは、2002年以降は連邦政府のシュタットウンバウ・オスト・プログラムが補助をするようになったので、もう各地というか500弱ぐらいの地区で展開されることになるが、最初に行ったライネフェルデは凄い。なまこを最初に食べた人のように偉いと思う。
 この撤去という発想がどうして浮かんだのか。それと、ライネフェルデは住民参加を通じて、この撤去計画を練っていったと言われている。私がこれまで調べたところは、旧東ドイツでは撤去計画を策定するにあたり、あまり住民参加を行っていない。市役所ではなくて住宅公社の人の話なので、あまり信用できないかもしれないが、同じ縮小都市のホイヤスヴェルダでは、撤去する建物の選定過程で住民の意見を聞くと、反対運動が起きるので決定してから教えるということを聞いた。アイゼンヒュッテンシュタットでも、少なくともシュタットウンバウ・オスト・プログラムが開始された直後は、トップダウンで撤去計画は行われていた(唯一の例外は、すべての建物を地区ごとに撤去した第7地区のみだと思われる)。
 市民参加をしっかりしないのは、ちょっと後ろめたいので、私のような取材調査からはなかなかと実情は把握しにくい。それでも、相当、実施されていなかったのではないかという私の推測がある。
 そういう中、どうもライネフェルデは違うらしい。どうして違うのか。この二つが今回の取材のポイントであった。
 さて、待ち合わせ場所と指定されたところは、Info-Centerであった。てっきり市役所かと思ったのだが、ライネフェルデはしっかりと情報を市民に提供するための情報センターを設置していたのである。こういうところは、アイゼンヒュッテンシュタットでもデッサウでもないと思う。ライプチッヒにはあるかもしれないが、そこで取材を受けてもらったことはない。とても情報が公開されているという印象を受ける。こういうことは、ベルリンのポツダム広場の再開発や、ドルトムントのフェニックス・ゼーなどの大規模プロジェクトがあると設置されるが、人口1万6千人ぐらいの町で大したものだ、とそれだけで感心する。
 このような情報センターは珍しいのではないでしょうか、という私の質問に対して、「これはクォーター・マネジメント(地区管理)の一貫として行っている。都市計画以外の相談なども受けつけている。クォーター・マネジメントを行っているところは、他も設置していると思うけど」との回答。本当なのだろうか。また、確認しないといけないが、調べれば調べるほど、ドイツの都市計画を分かっていないことを思い知らされる。
 この情報センターを含めて、市民参加に積極的な背景を教えて下さい、と尋ねると、「1995年のマスタープラン作成時に、このような情報ポイント(Information Point)を設置することが、担当の都市計画コンサルタントから重要であると指摘をうけた」とのこと。このコンサルタントはダルムシュタット出身の旧西ドイツの人であったので、旧西ドイツ的なまちづくり(この場合は、「まちこわし」と言った方が適当かもしれないが)を志向したとのこと。そして、リストシュトラッセとケラーシュトラッセの角において、町というかプラッテンバウ団地のスッドシュタットの将来計画を伝え、また住民達の意見などを集める情報ポイントが設置されたのである。そこでは、住民がスッドシュタットの将来をイメージできるようにしたのである。これがつくられたのは1997年であった。
 さらにニュースレターも作成した。これは住民には無料で配布されたもので月に一回、発行された。多くの人が新聞を読まなくなっていたので、このニュースレターの役割は大きかった。これを読んで、さらに情報が欲しくなったら、情報センターに来る、という流れをつくりだしたのである。 
 そして、町は多くの説明会を開催した。さらに、住宅公社も説明会を開催した。そこで、都市コンサルタント、建築家などが集まり、デザインのことや新しいアイデアのことについて住民達に説明をした。また、住民が出した要望を計画に採り入れることもあった。
 ただし、これは幾つかの不利な点もあることが判明した。例えば、ある団地では4階建てでバルコニーがなかった。住宅会社はバルコニーをつけたかったが、住民が拒否をした。しかし、その後、その拒否をした住民が引っ越した後、その団地はバルコニーがなかったためになかなか新しい借り手をみつけられなかった。これは住宅会社にとっては問題となったそうだ。

■撤去と住民
 最初の撤去を実践した時には、人々は随分とショックを受けたし、それを受け入れることも難しかった。しかし、空き家率が高いプラッテンバウ団地を撤去することの成果もみえてきた。より多い緑、より多い駐車場スペース、より多い遊び場。これらは自分達が生活をしてきたプラッテンバウ団地への郷愁を過去のものにさせることに貢献した。
 撤去に対して当初抱いていた懐疑は、将来への好奇心へと置き変わった。これがライネフェルデの成功の大きな要素であると思われる。すなわち、人々の意識の変化こそが、ライネフェルデの成功に繋がっていったのである。そして、それを後押ししたのが万博での注目である。市長がいい町というよりも、外国人に言われる方が嬉しい。そして、ニュースレターなどを通じて、賞をもらったことなどをしっかりと伝えた。住民とコミュニケーションが取れていることが重要であると思う。今では、多くの町民が、この町の成果に対して誇りを抱くようになっている。
 住民参加において重要なことは、将来像を示すことであった。情報スポットの前に小さな広場があった。都市コンサルタントがパイロット・プロジェクトを1つか2つ実践すべきだと言ったので、そこに木を植えた。それはなかなか美しい空間をつくりだすことに成功した。それまでは、ただの駐車場だったのである。
 町の再建には長期の時間がかかる。だんだんよくなっていくように変化しているということを理解してもらうことが必要である。
 ただ、撤去することが決定されたビルに住んでいる人は、今後どうすればいいのだろうと不安になる。ということで問いかけると、「もちろんショックを受ける」とのこと。実際の撤去までは時間がかかるけど、多くの人がもう明日には引っ越さなくてはいけないような気分になる。これが難しいそうだ。
 幸いなことに、ただ多くの人が新しく改修された団地に引っ越しをしたがった。ちょっと賃貸は高くなるが、断熱がしっかりしているので光熱費はぐっと安いので、結局とんとんになるそうだ。また、旧東ドイツ時代は、家をつくることが極めて難しかった。これは建材の生産が限定されていたからだが、ドイツ統一後、ライネフェルデは旧市街地内にも多くの戸建て住宅をつくった。これは、ライネフェルデ市から他へと移動するのを回避したかったからだが、スッドシュタットから多くの人が引っ越した。
 高齢者は問題であった。というのも引っ越し先で生活ができるか、もしくは引っ越し先を見つけられるかが不安であったからである。これらについては、住宅会社が相談に乗った。高齢者の人たちは引っ越しをしたがらなかったが、空き家率が高い団地に住むのは厳しい。周りの人が住んでいないと、光熱費も高くなってしまう。そのような状況下で住み続ける人は、ライネフェルデではいなかった。

 ということで、これまでのライネフェルデの奇跡、というか、なんでライネフェルデはここまでうまく出来たの?という私の疑問は相当、氷塊した。取材はまだまだ続くが、あまりにも長いので二回に分けます。

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(今回、取材をした情報センターとその手前にある池)
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