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ライネフェルデ訪問記(2) [都市デザイン]

 さて、前回のライネフェルデの取材結果の続きである。

■撤去・減築戦略
 なぜ、旧西ドイツのコンサルタントにしたのか、との問いに対しては、市長がプラッテンバウ団地に対しての先入観がないことが重要だと考えたからだとのこと。ちょっと旧西ドイツ側の人には想像しにくいのかもしれないが、旧東ドイツの社会で育った人たちは、プラッテンバウが好きであったのだ。これはライネフェルデのスッドシュタットの住民も同様で、撤去するなどということはタブーであった。スッドシュタットに住む人のほとんどがライネフェルデの外からやってきた。彼らにとって、プラッテンバウ団地は初めての団地であり、それは憧れの住宅であったのである。そのような価値が1989年から大転換したのである。旧西ドイツの人たちが、それを忌み嫌うことも理解できなかった人もいた。
 そのような状況下でなぜ、プラッテンバウ団地の撤去を行えたのか、という私の問に対しては、「修繕した建物の方がよかったから。新しく修繕した建物の方が、質が断然 よいので、そちらに引っ越した方がいいかと人々が考えるようになった」とのこと。そして、撤去はこの都市コンサルタントのアイデアであった。その背景としては、町の調査結果があった。ライネフェルデから出て行った人のほとんど若い人たちであった。若い人たちは他でも仕事がみつかりやすいからである。1993年から1994年にかけての1年で1000人もの人口が流出した。このペースが続いたら、あっという間にスッドシュタットは人口がゼロになってしまう。ライネフェルデの人口の9割がスッドシュタットに住んでいた。今後、新たに雇用を創出する大企業がやってくる見込みもなかった。調査結果からは、プラッテンバウ団地の50%が空き家になると予測された。
 そういうこともあり、住宅を撤去するということに思い切ったのである。当時は、連邦政府からの補助金もなかったが、ちょうど2000年に近くのハノーバーで万博が開催された。これにライネフェルデも参画することになり、万博のための企画が必要となった。そこで、スッドシュタットの二箇所を敷地とした建築コンペを行ったのである。この建築コンペを実施したことで、多くの人に注目されることになった。そして、その結果、住民達の考えも変わった。これで大きく潮目が変わっていったそうである。
 また、住宅は撤去するだけでなく減築も行った。ライネフェルデでもっとも有名な事例は、アインシュタイン通りの減築事例であろう。ここは200メートルの横の長さのあるプラッテンバウ団地を8つの小さな集合住宅(1棟8戸)へと減築した事例である。巨大なプラッテンバウ団地を分節させて小さな集合住宅にした事例としては、もしかしたら最初の事例かもしれない。ただ、これはもっとも費用的にはかかった事例でもある。完全撤去した方が安上がりだそうである。
 住宅の改善の方針としては、何しろ多様性を増すことを意識した。というのは、ほとんどのプラッテンバウ団地は同じ意匠であったからである。違ったのはサイズだけである。1ルーム、2ルーム、3ルームといった違いだけで、あとはすべて同じで、極めて単調であった。このようなモノトーンなプラッテンバウ団地は、旧東ドイツではロストックなどの例外を除くと、ほとんどどこも同じではあったが、その状況を改善し、多様なタイプの家を提供することにした。
 話がそれるが、実際、スッドシュタットを散歩すると、ほとんど同じファサードの住宅がなくなっていることに気づく。唯一、南のモーツァルト・シュトラッセの周辺がおそらく旧東ドイツ時代と同じ建物が4棟ほど建っているがそれぐらいであった。

■減築・撤去のプロセス
 さて、次には今回、是非とも聞きたかった減築・撤去のプロセスであったが、それはマスタープランで作成された赤い回廊に沿ったものを保全し、それから離れたものを撤去もしくは減築するというものであった。これはKernstrategieと命名された。
 マスタープランを計画した時に、将来の人口を予測した。その結果、8000人から10000人しか住まないと予測した。これだと、建物も半分はいらなくなる。そして、空室率をみた。スッドシュタットは最初に北、そして徐々に南へと拡大していった。北に住んでいる人は今でもそこに住んでいる。住民の高齢化が進んでいる。若い人たちは南に住んだ。そして、若い人たちは、どんどんライネフェルデから出て行った。そういうこともあり、南の方の建物は空室率が高かった。そして、周縁部を撤去していくと、都市の重心は都心部に近づいていくことになる。上下水道、地域暖房といった供給コストも安くなる。
 そのような考えから、コア・エリアの建物だけを残す方針を立てた。そして、周縁部には一切の投資をせずに、コア・エリアに集中させることにしたのである。そして、このコア・エリアは駅からの回廊状として設定し、その回廊をレッド・ラインと称した。策定されたのは、レッド・ラインに投資を集中させ、その周縁部は撤回するという戦略である。基本的には、何を残すか、ということが非常に重視され、徹底した「選択と集中(無集中)」が行われた。
 マスタープランで色塗りされたゾーニングは3つ。保全地区、撤去地区、そして「状況に応じて」地区である。それ以外にも撤去地区と「状況に応じて」地区のオーバーレイのような色塗りをされていたところがあり、その意味を聞いたのが、それはよく分からないとのことであった。凡例にも記されていなかった。
 まあ、それはともかく「撤去地区」は一切、投資をしない、ちょっとした修繕もしない、ということを徹底することにした。これに関しては、市長自身もリスクが大きいのではないかと躊躇したそうだが、ここで徹底しないとマスタープランで描いた目標が達成できない、という都市コンサルタントの意見を尊重したそうである。これは、赤字を抱えていた住宅会社にとっては、極めて重要な判断でもあった。ちなみに、ライネフェルデには市の住宅会社と、組合の住宅会社の二つしかなく、これが撤去政策をするうえでは極めて有利に働いたとのことである。
 ライネフェルデの減築・撤去であるが、常に、再建することを意識している。他の自治体はある地区を指定すると、全面撤去をしたりする。ライネフェルデは90%の住宅がプラッテンバウテンなので、これらを全面撤去させることは、町が無くなってしまうことを意味している。何を残すか、ということが何を取り除くか、ということより遙かに重要な意味を有していた。
 再建には時間がかかるが20年を目途とした。実際は、当初は50%の建物を撤去・減築しなくてはならないと想定したが、40%ぐらいで済んだ。これは、メゾネットを導入するなどして、2戸を1戸にしたりしたためである。この結果、住宅会社の赤字をも減らした。2004年か2005年にまで黒字へと転換した。 
 ドイツが再統一した後、中央政府は住宅会社は赤字を解消するためにも、フラットを売却することを勧めた。その結果、一部、住んでいた人が購入したものがある。また、旧西ドイツの不動産会社が購入して、それを改修した後、販売しようとした。そのような自体は、市役所として管理できなくなる。これは市長は悪い例として紹介している。その後、この不動産会社は赤字になって破産した。その結果、住民が購入することになった。このように所有者が増えると、問題の解決が難しくなる。現在では、住宅会社はフラットを売却しないようにしている。

■成果
 現在は、撤去・減築事業はもう終了している。最後に撤去した建物は2008年のものである。現在では、普通の町のような将来計画を策定している。
 経済的な状況も悪くない。ライネフェルデはチューリンゲン州の失業率よりも低い。チューリンゲン州自体も悪くないので、旧DDRに比べるとはるかにいい状況にある。今は職場と住宅のバランスがよい。大規模ではないが、新しい中規模の企業が立地している。これらは建設会社や食品会社、ダンボール会社などである。旧西ドイツと旧東ドイツの両方の企業が立地している。撤去や減築によって地元の建設会社は技術を修得した。これらは、誰もノウハウをもっていなかったので、他の地域での撤去や減築業務の仕事を受注することにつながっている。
 ライネフェルデでビジネスを展開する優位性としては下記のものが挙げられる。
1)コスト・・・ドイツの中心。交通は便利である。オートバーンも工業団地のそばにある。
2)フラット・・・従業員がライネフェルダに引っ越した時の住居。生活環境。インドア・スイミング・プール。ショッピング。休日のレジャー。
3)ライネフェルデはちょっと有名。これもビジネスには有利である。
 これまで、ライネフェルデはカッセルやゲッティンゲンに通うというメリットを得ていたが、現在では流入と流出とで同じくらいの人数がいる。
 インフラや生活環境は改善されたというが、具体的にはどこらへんが改善されたのか。地域暖房に関しては、新しいパワー・ステーションを整備した。これは新しい技術を用いているので効率は上がっている。ただし、これを新しくしたのは住宅というよりかは、繊維工場を閉鎖したりしたことで、パイプラインを再編成しなくてはいけないことの方が理由としては大きい。また、上水道に関してはタンクを小さくした。
 道路も新しいものを整備した。スッドシュタットのアクセスは南北からのものに限定されていた。その結果、道路が混雑したので、東西を結ぶ道路をつくった。また、ライネフェルデ周辺にバイパスがつくられたので、通過交通が町中を通ることがなくなった。
 そういう風に考えると、ライネフェルデはまったく生まれ変わったと言えるかもしれない、と広報担当者は嬉しそうに述べていた。

 縮小という危機を真っ正面から直視し、冷徹な分析力と類い希なるリーダーシップ、そして創造力溢れる未来の構想力が、それを克服し「普通の町」へと復帰させることに成功させたことがよく分かった。それを「奇跡」というと、同じことが起きないようで嫌だが、奇跡的であるとは言えるかもしれません。

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(ライネフェルデでも最もパブリティサイズされた減築団地)

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