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ドイツ人の友人の元キャバレー嬢のおばさんを侮蔑した発言に気色ばむ [都市デザイン]

ドイツ人の友人と金沢を訪れ、食事をした後、ちょっと飲み足りないのと日本的なディープな世界を体験したいというリクエストがあったので、香林坊のそばの新世界の飲み屋街に行く。この飲み屋街はぼったくりも多いという噂を聞いたので、どこに入るか迷っていたのだが、公衆便所にたまたま一緒に入ったおじさんが人がよさそうであったので、どこに入るべきか教えて下さいと尋ねたら、「絶対外さない店があるよ」と言って、自分が入っていた店に連れて行ってくれた。さて、その店はおじさん一人がお客さんで、50歳代半ばくらいの威勢のいいおばさんが仕切っている店であった。店は3畳くらいの狭さで7人が座れば満席のようなところであり、震度4で壊れそうなぼろい建物の店であった。会社員をしていた頃は、神田のガード下の崩れ落ちそうな飲み屋に通ったようなことはあったが、最近ではこのような店はとんとご無沙汰しており、おそらく15年ぶりで入ったようなタイプの店であった。おばさんは結構、酔っぱらっていた。愛想がいいという感じではないが、接客はしゃべることと心得ているらしく、あまりろれつが回らない感じではあったが、自分は北海道の根室の漁師の娘で、実家からいろいろと魚を送ってくれていることや、18歳の時に金沢にキャバレー嬢としてやってきたことなどを話してくれた。娘と孫娘もいて、携帯の待ち受けの写真も見せて貰った。娘さんは美人であった。そして、お客のおじさんはどうも25歳くらいの時にこのおばさんとキャバレー店で知り合い、初めて指名した女性がこのおばさんだったそうだ。今はそんな面影はまったくないけど、昔は本当に綺麗で可愛かった、というおじさんは彼女というよりかは自分の若さを懐かしがっているようにみえた。おじさんは既に孫が4人もいるということであった。この二人は、男女の関係はなかったそうだが、一ヶ月に1回くらいおじさんが店を訪れるような間柄だそうだ。私は興味深く、話を聞いて、ポイントごとにドイツ人の友人に通訳をしていた。

さて、しばらく呑んで、二人で5000円も払わないで店を出た。私はいい話を聞いたなと結構、喜んでいたのだが、ドイツ人の友人はそれほど感心をしなかったようで、「彼女は人生の敗者だ(LOSER)」と言い放った。私は、大抵のことはスルーするが、この意見はスルーできずに、どこが敗者なのだ、と気色ばんでしまった。彼の意見としては、「1.あんな汚い建物で50歳代半ばで飲み屋で働いていること、2.仕事をしているのに酔っぱらっていること、3.キャバレー嬢であったこと、4.子供がいるが結婚しているかどうかも怪しい」などから敗者と判断したようである。確かに飲み屋で仕事をしているのは辛いことかもしれない。客も少なそうだ。しかし、決して恥ずかしい仕事ではないと思うし、我々だって彼女のサービスの恩恵を受けたではないか。飲んでいたのは問題かもしれないが、皆、酔っぱらっているのは逆に楽しい雰囲気を演出しているとも取れなくもない。キャバレー嬢であっても、それはそのような需要があるから成立する商売であって、確かに若さや純真のようなものは搾取される職業かもしれないが、敗者と蔑まされるほどのものではない。私はキャバレー嬢やキャバクラ嬢の知り合いがいないし、そういうところに通ったことはゼロではないが数少ないので、その実態は不明ではあるが、働いている人はそれなりに生活しようと頑張っていると思うのである。とても敗者などと断定することはできない。

私は都市計画家を目指していたが、途中で仕事がないので、都市計画研究家になってしまった。しかし、自分は人に対しての優しさが欠如してしまっているので、その点は都市計画を研究テーマとするには弱みだなとも自覚していた。私のドイツ人の友人は、都市計画研究家としては若手のホープである。しかし、彼の他人を「敗者」であると言い放つ冷たさは、才能豊かな彼の弱みではないかと勝手に推察した。ドイツは売春を合法化している。その結果、アムステルダムのような飾り窓の売春地区がハンブルクやドルトムントなどにある。ドルトムントはこのドイツ人の友人に連れられていったことがあるのだが、コンクリートに囲まれた渇いた空間に売春婦がずらっと並んで媚態を曝している道の色気の無さにショックを受けたことがある。都市デザインにおいては優れているドイツにおいて、この冷血な空間はなんなのかと感じたのである。その空間は、日本における永井荷風や谷崎潤一郎的な文学がドイツにおいては存在しないのであろうか、と思わせるほどの酷さであり、その方面の文化のなさを露呈していると思われた。このような空間を平気でつくりあげる背景には、売春婦や飲み屋のおばさんなどを「敗者」で括る見方が都市計画家の中にあるのかなとちょっと彼の発言で思ったりしてしまった。

もちろん日本人でもそういうタイプはいるだろう。勝間和代などはまさにその典型だと思われる。彼女は最近では35歳で結婚しないと駄目、などと言っているらしいが、まあ彼女に何を言われてもスルーしていればいいのだが、中には彼女に感化されてそう思う人が出てくるのが問題だ。ただ、つくづく年を取ったからかもしれないが思うのは、人生に勝ち負けなどないということである。どうせそのうち死ぬのであるから、他人に比べて勝ち負けを意識する、ましてや自分が他人の人生の価値を判断できると思う傲慢さはその人の人生からも豊かさを奪うと思うのである。とはいえ、こういうことをブログで敢えて書いているというのは、自分自身も若い時は、そういう人の見方や人生の見方を持っていたからだと思われる。要するに、ドイツ人の友人の発言をスルーできなかったことは、昔の嫌な自分を彷彿させたからに他ならない。私は、他人を「敗者である」と断定できるようなエリートの勝ち組とはまったく縁遠い人生を歩んでしまったので(そのくせ履歴書的にはエリートにみえるように歩んでいる)、エリート街道を邁進している彼と違う見方をしているに過ぎないのかもしれない。まあ、スルーできないのは、私も「敗者」とみられるかもしれないと思われる不安もあるからかもしれない。確かに、私の人生をある切り口でみれば、間違いなく敗者であると断定されるような、下らない人生を私は歩んでいる。しかし、それでも人は日々、生きていくのである。キャバレー嬢だろうと、崩れそうな建物の飲み屋のおばちゃんだろうと、何が専門かも不明となりつつある大学教員であろうと、社会の中で居場所をみつけて生きていくのである。それでも、自分で稼いでいない不労所得のお金をただ散在して浪費して暮らしている人に比べれば随分と立派ではないだろうか。

私はこのドイツ人の友人がエリートであり、優秀であることで随分と恩恵を受けている。したがって、彼がエリートであることは感謝しなくてはいけない立場にある。とはいえ、こういうエリート的価値観には抵抗を覚えるのを自覚すると同時に、自分は随分と非エリート的になってしまっていることに気づかされた。そして、それはそれで素直に幸せなことだと思う。あと、こういうことをブログで書くのは、彼が日本語を読めないからであり、その点は申し訳ないなと思う。

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