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『ノー・カントリー』は傑作かもしれないが、見た後に虚無感に襲われる [映画批評]

コーエン兄弟の『ノー・カントリー』を観る。画面から目が離せない迫力ある殺人者シガー。その圧倒的な迫力にただただ呑まれっぱなしである。

舞台となるテキサス州のデル・リオという街には行ったことがある。リオグランデ川沿いのどこにでもあるような街であった。三浦展が指摘するファスト風土そのもののような土地利用が展開しており、国境の町としてのメキシコ的な風情があまり感じられないところであった。映画で描かれるデル・リオも、ファスト風土的であった。一方、テキサス州南部の荒涼なる風景は非常に美しく描かれている。この風景美の美しさも、画面に惹きつけられる要因の一つである。

さて、映画は観た後、胃にもたれるような重さを感じると同時に、虚無感を覚える。シガーは死の寓意か。コインが裏になるか表になるかという、我々が生きていることは、ある偶然性の連続であるということをシガーは我々に気づかせている。もちろん、コインが裏になるか表になるか、というとフィフティー・フィフティーで、実際は明日、死ぬという蓋然性は極めて低く、日本の若者であれば0.1%以下であろうが、0%ではない。そういう事実をこの映画は突きつける。そして、確率は低いとはいえアメリカのテキサスのような暴力的な土地柄では、日本なんかよりはるかに死ぬ確率は高くなる。それも、天災などではなく、犯罪という暴力においてである。そして、その犯罪にもロジックがなくなりつつあり、理不尽なものが多くなりつつある。シガーに出会うということは、死に神に出会うようなことである。しかし、その死に神もある程度のルールはあるが、その生死をコイントスのような偶然に委ねることもある。シガーはそういう意味で、善良なる人々に死をもたらす蓋然性を有するアメリカの暴力の象徴とも捉えることができるかもしれない。ただし、その人の生死を思いのままに扱えるかのようなシガーも神ではなく、この死という蓋然性を受け入れるか弱き存在であることを、最後の場面での出会い頭は示唆している。

コーエン兄弟の映画は、『バーバー』にしろ『ファーゴ』にしろ、突き放し系が多いが、そのような以前の作品に比べても、この『ノー・カントリー』の突き放しは強烈である。トミー・リー・ジョーンズ演じる保安官も、シガーのあまりにも圧倒的な暴力と自らの無力から引退をするのだが、それは死の蓋然性が、狂気によって高まっているアメリカという国に対する諦観からである。『ノー・カントリー(フォア・オールドメン)』というタイトルも凄い。年寄りが安住できる国ではない、この国には年寄りには居場所はない、とでも訳せばいいのだろうか。ここで、年寄りとは、性善説というか未だ人間を信用できるような伝統的な価値観を有している人、という意味であろう。

アメリカはどこに行くのであろうか。ぼやけた、しかし拭いようのないような不安を覚えさせる映画である。と書きつつ、日本においても秋葉原の通り魔殺人事件のような理不尽な殺人事件が起きていることに気づく。対岸の火事として傍観者然としていることはもはやできなくなっているのかもしれない。この映画は虚無感にも近い絶望的な気持ちを伴わせるが、そのような気持ちを抱かせるという点で、この映画は傑作であろう。殺人のシーンが少ないことが、これを安易な暴力映画として括られることを回避しており、その演出の仕方も流石である。あとアントン・シガーを演じるハビエル・バルデムの圧倒的な演義は凄い。アカデミー助演男優賞を受賞したのも当然といえよう。


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