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「全国まちづくりカレッジ」に参画して、ちょっと考える [都市デザイン]

大阪府の摂津市の大阪人間科学大学で開催された「全国まちづくりカレッジ」のサミットにゼミ生達を連れて参画する。北は北海道から南は九州まで、まちづくりに取り組んでいる大学生達が、それぞれの活動を紹介、発表し、交流、懇親する場である。私のゼミ生達も発表会で江東区のNPOと連携した「水彩フェスティバル」のプロジェクトの紹介をした。それはそれで楽しかったのだが、ここで書きたいのは、そういうことではない。

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この「全国まちづくりカレッジ」サミットは9年目を迎える。このサミットで刺激を受け、育てられ、全国の学生達とネットワークを築いて、その後、卒業していった大学生達も数多くいる。それらの学生達が、社会に出た後、組織の歯車になったり、NPOを起ち上げたのはいいが、まちづくりにうまく取り組めなかったりして、卒業後にまちづくりとの関係性が希薄になってしまったこともあり、この「まちカレ」の卒業生達とで同窓会をつくろうということになった。この話を聞き、私は結構、強い違和感を覚えたのである。「まち」というのは、大学生にとって社会の仕組みを知るうえでの素晴らしい教材であると捉えている。また、「まち」には、社会学、経済学、法学、都市計画、などの事例研究の格好のテーマがごろごろと転がっている。私のゼミ生の卒論のほとんどが、フィールド・スタディを手法とするので、必然的に「まち」は教育上、私にとってはなくてはならないものである。そして、また、大学時代にまちと関わることで、貴重な社会人になってからは得難い人的ネットワークを構築することもできる。いいことだらけである。

しかし、そのような経験は大学生だからこそできるのであり、社会人になったら、しっかりと社会のシステムの構成員としてまちづくりに関わるという視点が必要となる。そして、現状の日本では、それはNPOでは難しいと思う。いや、NPOでもやっていけるかもしれないが、そうとう貧しい生活を覚悟しなくてはならないか、他で生計をたてるようにしておかなくてはならない。といって企業に入ってまちづくりをすることに関わるのも難しい。というのは、まちづくりというのは市場経済のシステムが上手く機能しない分野であるからだ。したがって、公共がまちづくりや都市計画などを担っているのである。つまり、大学生で「まちカレ」などでまちづくりにやり甲斐や生き甲斐を感じて、それを仕事にしたかったら、ずばり行政に入るべきなのだ。もしくは、政治家になるべきだ。政治家といっても区議会議員や町会議員のレベルでいい。そこらへんからスタートして、最終的には市長や区長といった首長を目指せばいいし、そういうのが苦手であれば、そういう人を支援するようにしたらいい。また、そういうキャラクターでなければ、大学の教員になって、そのような人材を輩出するような教育に携わればいいのだ。私は、あまり人望がないので選挙に出てもとても勝てそうもないので、大学の教員をやって、そのような人材をいつかは育てられたら、と思っている。そういう考えから「まちカレ」なども支援しているのだが、その卒業生達が、仲良しクラブ的な同窓会をつくろうとしているのは、ちょっとがっかりしてしまうのである。もう、学生ではないのだから、しっかりと社会の基盤部分から、まちを、コミュニティを、そして社会をちゃんとしたものに変えていくように努力すべきなのではないだろうか。

大学生と商店街が協働して「まちづくり」に取り組めるのは、商店街がマージナルであって、有効な資源が投入できないから、生計をたてなくてもいい大学生が入り込む余地が発生するのである。逆に、これらにしっかりとしたプロの社会人が入ってきたら、大学生がシステムに組み込まれてしまい、大学生の独自性、自発性が阻害されてしまう。もちろん、まちカレの卒業生達が連携することは素晴らしいことであると思う。しかし、連携して、また学生のようなマージナルな活動をしようとするのであれば、それは後ろ向きだ。前を見て、しっかりと新しいまちづくりのあり方を創造するような社会的活動を、しっかりと社会的責任のある立場から進めていってもらいたい。そういう人材が輩出されてこそ、「まち」を教材とする大学のカリキュラムも意義があるものと広く認められるのではないか、と考えるのである。
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