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ポニョの舞台である鞆の浦を、無意味な道路整備から守ろう [都市デザイン]

広島県の鞆の浦を訪れる。鞆の浦は、てっきり尾道市かと思っていたら福山市であった。全然、福山市にあるというイメージがない。世界遺産に指定される可能性もある地域であるが、鞆の浦というブランドばかりが知られて、それがある福山市の名前は全然、出てこない。尾道か、隣の町村にあるようなイメージをもっていたので、福山市というのはちょっと驚きだ。

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さて、宮崎駿がポニョの構想を練ったのは鞆の浦であると言われている。彼が鞆の浦に2005年2月から二月ほど一軒家を借りて滞在していたことに加え、作品にTOMOというスーパーマーケットが出てきたり、船の幟に地元の神社の名前が書かれていたりすることから、ポニョの舞台はまず鞆の浦であると思われる。確かに、鞆の浦を彷彿させる場面が多い。というか、私の場合は映画の場面を彷彿させる街並みや景観が多かった。鞆の浦周辺は、1934年に瀬戸内海国立公園が制定された時、最初に指定された地区であるようだ。確かに、鞆の浦から望む瀬戸内海の景観はなかなか素晴らしい。しかし、鞆の魅力はプレ・モータリゼーションの時代に形成されたヒューマン・スケールの街並みにある。まるでタイム・スリップをしたかのような緩やかな時間が流れる街並みは、広島県で宮島、原爆ドームに次ぐ世界遺産候補であるというのもあながち過大評価されたものではない。

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さて、この鞆の浦には現在、港の一部を埋め立て、橋を架ける計画がある。この橋がかかってしまうと、鞆の浦の景観は台無しになる。その景観は、鞆のアイデンティティそのものだ。このアイデンティティを破壊してまで、この橋を架ける意味があるのだろうか、随分と滅茶苦茶な計画がつくられたものだな、と呆れるが、その目的は、渋滞緩和、鞆の地域発展、過疎解決だそうだ。これは結構、興味深い指摘である。というのは、この橋をつくっても渋滞緩和にはならないと思われる。私もレンタカーで鞆の細い道を通ったが、そんなに自動車の量は多くなかった。確かに譲り合わなくてはいけなかったりするが、世田谷の下北沢周辺もこんなもんである。下北沢に比べれば自動車の量は多くなく、渋滞緩和するにも、渋滞が存在しないのではないか、と推察される。次の地域発展は、鞆の浦という極めて魅力的な観光地の景観を破壊するような橋をつくったら、観光地としての発展はまったく望めない。これは、観光地としての鞆のポテンシャルを一挙に潰してしまう愚行だ、というか戦略なのではないかとさえ思えてしまう。誰か鞆に恨みを持っている人がいて、鞆に復讐をしようとしているのではないかとさえ勘繰ってしまう。前述したが、鞆の浦から展望する瀬戸内海の景観と、このタイム・スリップさせられたかのように錯覚するヒューマン・スケールの街並みは世界遺産級である。この観光資産を両方とも一挙両損的に破壊できるのが、この橋の計画である。まあ、素直に破壊といえばいいのに、地域発展というところはちょっと卑劣すぎるのではないか。もし、広幅員の道路がなければ地域発展とは言えないと思いこんでいるとしたら、それはあまりにも浅はかである。鞆の浦は広幅員の道路がないからこそ観光地としての価値があるし、世界遺産としての価値があるのだ。広幅員の道路、美しい港を横断するような橋を整備したら、ただの港町へと堕してしまう。保全することにこそ発展の道が開けるのに、保全しないで破壊することが発展につながると考えているのだとしたら、相当間抜けである。それで町の人達は本当にいいと思っているのだろうか。三点目の過疎解決、というのは誤解である。道路が整備されると過疎は解決するどころか、むしろ促進されるというのは群馬県の南牧村でも人々から聞いた話であるが、ここ瀬戸内海でも不思議と道路や橋で本土と結ばれると不思議とその島から人がいなくなっていくそうだ。道路ができたら過疎が解決するのではなく、むしろとどめの一突きとなるのである。これは、まだ因果関係は私も不明だが、症例からは明らかである。ある薬を服用すると、病状が改善するのではなく悪化しているのである。しかし、これを無視して、また患者である地域に薬を投与し続けるのは、この薬を買うための膨大な財源を消化しないと、役所は権力を維持できなくなるからである。

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(この港を横断するように橋が計画されている)

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(この美しい港の景観が橋と自動車によって遮断されることのダメージがなぜ想像できないのかは不思議でならない)

鞆の浦はヒューマン・スケールの街並みを維持してきたためなのか、実際の生活も車なしで行えるそうである。確かに、多くの地方では既に消滅したような商店が多く、まだこの町には存在している。しかも、バスも15分に1本くらいのペースで走っているそうだ。自動車に依存しないので、公共交通のサービスが維持できている。町中にも多くの高齢者や子供が歩いているのをみかけた。自動車へ魂を売っていないコミュニティにだけ、みられるような町の光景がこの鞆の浦ではみられる。このかけがえのない空間を自動車に明け渡す必然性がまったく見られない。鞆の浦は自動車が幅を効かせている他の地方に比べて、遅れているのではなく、逆に進んでいるのである。というか、自動車が幅を効かせている他の地方の多くはあと50年もしないで衰亡すると私は推察している。そうでなくても、地方の縮減は激しい。自動車に空間を譲って、高齢化も進んでいく中、あと50年もコミュニティが維持できるとはとても思えない。地方が衰退を防ぎ、しっかりと次代にまでそのコミュニティを維持していくためには、鞆の浦のような自動車依存ではないヒューマン・スケールのコミュニティが必要なのである。東京だけではなく、仙台や広島といった地方中核都市でも自動車依存の郊外から、自動車依存しなくてもいい都心部へ多くの人々は移住している。地方が自動車依存を進めていくのは、人口縮減、そして高齢化が進む現在においてはまさに自殺行為であると思われるのである。そういう中で、鞆の浦のようなしっかりとした自動車依存しなくてもいいコミュニティ、これこそいわゆるサステイナブル・コミュニティであるが、それをなぜ壊すような橋をつくらなくてはいけないのであろうか。本当に不思議である。

現在の福山市長は、どうもこの橋を絶対につくりたいと思っているそうで、なんとポニョの舞台が鞆の浦であるということまでも否定している。これは、どうも全国の関心がこの鞆の浦の価値を破壊する橋の整備問題に及ぶと不味いと思っているからのようだが、随分と肝っ玉の小さい男が首長をやっているものだ。そんなPRをしなくても、鞆の浦の問題はそのうち広く知られるであろう。彼は、鞆の浦が世界遺産の価値があるというなら、橋をつくった後にでも申請したらいいだろう、と鞆の浦のNPOの代表に言ったことがあるそうだが、橋ができたら世界遺産にはならないでしょう。宮島神社の隣に、本土と結ぶ橋ができたら宮島が世界遺産に指定されない、というのと同じことだ。というか、宮島神社の隣に道路が整備されたら、その価値が大きく減衰するということも、もしかしたらこの福山市長は理解できないかもしれない。まあ、もしこの橋ができたら、この福山市長の名前は世界的に有名になれるかもしれない。世界遺産を潰した馬鹿な男として。こういう男をもっとマスコミは弾劾すべきである。週刊新潮や週刊現代とかも、道路問題の一環として、この事件を大きく取り上げるべきである。ポニョで注目もされているのであるからニュース・バリューはあるだろう。私が、こんな閲覧者が少ないブログでほざいていても効果は少なすぎる。

ちなみに、ポニョでは鞆の浦と思われる舞台は水没したままで映画は終わる。この橋を整備したら、本当に水没ではないが、橋とともに鞆の浦の命運も沈んでしまうと思われる。橋で沈む、というのはシニカルである。まあ、ポニョが人間の子供になる、ということで将来には希望は持てるかもしれないが、鞆の浦を沈める不必要な道路の整備は、全国各地で行われており、まさに道路によって財政も国土も沈んでいっている。道路の整備は、決して地方を豊かにする訳ではない。この点をしっかりと検証することが今、求められている。鞆の浦から我々日本人が学ぶべきことはあまりにも多い。ポニョに感動したら、ついでにその舞台の鞆の浦の危機についても関心をもってもらいたい。

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