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ニューヨーク [都市デザイン]

ニューヨークはアメリカにおける突然変異である。アメリカにおいてニューヨークのようなところは二つとない。それは、自動車型の都市ではないアメリカ唯一の例外だからである。その結果、アメリカでもダントツの高密度と充実した公共交通サービスを誇っている。もちろん、高密度というのと関係のある高層ビルという点だけに着目すれば、摩天楼の美しさや高さそのものではシカゴの方が美しいかもしれない。公共交通もロングアイランド鉄道のサービスの悪さや、車内の汚さだけをみれば、サンフランシスコのバートの方がましかもしれない。しかし、高層ビルの数の多さ、公共交通のネットワークの密度の高さといった量的側面を考慮に入れれば、シカゴもサンフランシスコもニューヨークとはとても双肩できない。文化的側面からも、ニューヨークの民族的、文化的多様性、発信する情報量など群を抜いている。アメリカという壮大なる田舎の中でニューヨークだけが、世界と伍することができる偉大なる都市である。逆にいえば、ニューヨークほどアメリカ的でないところもない。それだけ、ニューヨークは都会であり、都市なのである。

それでは、都市としてのニューヨークの特徴はどのようなものであろうか。まず、臭い。そしてごみが散乱していて、さながら「ごみの都市」である。こういうことを指摘すると、昔よりはずっとましになった、と反論する人も出てくると思う。その通りである。昔よりは改善されている。しかし、それでも臭いし、ごみだらけだし、汚い。そして、ニューヨークのごみは遠くオハイオ州にまで運ばれる。捨てるところがない状況なのだ。しかし、そんなことはお構いなしに今日もどんどんとごみは捨てられる。

そして次の特徴は、何しろ人が溢れていることである。もう、ぼうっとしていると身ぐるみはがされてイーストリバーに放り投げられそうな勢いで、人々は押し合いへし合い生きている。自動車でマンハッタンを運転していると、人をしょっちゅう轢きそうになる。「轢けるものなら轢いてみろ」といった挑発を受けているかのごとく、赤信号でも平気で道を横断する。自分の行く道を妨げるものは、何人たりとも、自動車たりとも許さない、といった迫力である。

しかし、ニューヨークの産業はマスコミや広告代理店、観光業など虚業っぽいものが多い。どうも実態が伴っていない。ニューヨークでほっとできるのは中華街である。ここは、ニューヨークの中でも特に汚いところであるが、人が地に足を着けて生活しているような安定感がある。チャイナタウンというアメリカ人ではない人達が過ごしている場所であるにも関わらず、この区域には強烈なローカル・アイデンティティがあり、そのアイデンティティはチャイナタウンという異質な空間であるがゆえに、そもそも異質であるよそ者には逆説的に安心感を与えるのであろうか。ともかく、物価が驚くくらい安いというのが、安定感を感じさせていることは間違いない。

ニューヨーク、それもマンハッタンはそして意外にも自然が多い。セントラル・パークのグラナイトの岩にもそれは感じられるが、ユニオン・スクエアなどで開催されているファーマーズ・マーケットにも、自然との結びつき、土との結びつきを感じることができる。もちろん、これらファーマーズ・マーケットに出されるものはローカルなものであるとしても、マンハッタンは勿論のことニューヨーク市でもつくられていない。しかし、それでも、周辺の農地とマンハッタンが繋がっている、関係性を持っていることを認識させてくれる。これは、東京ではあまり得られないことである。

しかし、ニューヨークは現象としては本当に面白い。マンハッタンだけが、どうしてこのような高密度で、コスモポリタンな大都市になれたのか。ロスアンジェルスが、フィニックスやサンディエゴ、ラスベガス、デンバーなどの亜流を生み出したのとは異なり、ニューヨークはミニ・ニューヨークを生み出すことはなかった。そして、ニューヨークは、極めてアメリカ的でないものであるにも関わらず、アメリカ人はニューヨークに誇りを抱いていると思われる。都市的なものをトマス・ジェファーソンの時代から嫌悪していたにも関わらず、ニューヨークの存在をアメリカ人は極めて好意的に受け止めているように思うのである。


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