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「旅行嫌い」の人たちに反論してみる [地球探訪記]

朝日新聞の11月2日に興味深い記事が掲載された。「そんなにどこかに行きたいか?」という挑発的な見出しで、「旅行嫌い」の作家の町田康のコメントが載せられたのだ。町田氏の論点は、1.旅行の準備が面倒、2.生産するのが好きなので消費する行為事態があまり好きでない、にまとめられると思う。
 興味深い指摘ではあるし、町田氏のような作家であれば、そういう考えもあるかな、と思ったりする。自分の生活がめちゃくちゃ刺激的で、もう日々の生活で消化できないぐらいの情報量が入ってきて、それへの対応で楽しくてしょうがない、というような人にとっては何でわざわざ旅行に行かなくてはいけないのだろう、と思うのは想像することができる。
 ただ、この記事を書いた朝日新聞の記者までも「納得」と記事をまとめていたり、コメントプラスでサンキューたつおが「鋭い指摘」とか書いていたりするのには、おいおいおい、と思わずにはいられない。そこで私の考えを披露してみたい。
 まず、一点目の「旅行の準備が面倒」という点であるが、ネットがこれだけ発展した今、そんな準備は全然、面倒じゃあない。これが面倒であれば、ちょっとした事務の仕事もすることができないのじゃないか。朝日新聞の記者とかもサラリーマンなので、こんなことでも面倒であれば、ちょっと余計なお世話だが本当に心配だ。私ならまず絶対、採用しないだろう。なぜなら、旅行の準備ではなく、その後の清算事務の方がよほど面倒であるからだ。ホテルや飛行機、列車の予約は簡単だ。その後の清算事務や出張報告書を書くことは本当、面倒だ。私はそういうのが苦手なので苦痛である。したがって、清算事務が面倒なので出張旅行に行きたくないというのなら、まだ分かるが、旅行の準備が面倒?というのは、社会人として致命的に問題があると思う。しかも新聞記者である。情報が取れそうであれば、どこにでも出かけていくのがほぼ本能のようでないと不味いのじゃあないか。
 私は大きく括ればジャーナリストであるかな、とも思うが、そのためには情報収集のためにあちらこちらに行きまくるようにしている。現場で得られる情報が何しろ、一番、情報の質が高かったりするからだ。それでも、新聞記者のような貪欲さがないな、と反省したりすることがあるのだが、旅行の準備が面倒?これは新聞記者に向いてないということじゃないのか。
 あと、旅行が記号消費化しているという側面は確かにあるが、それが嫌であれば、別に旅行に行っても記号消費しなくてもよいだけの話だ。というか、旅行を記号消費として捉えている時点で、もうそういう「旅」素人と議論をする必要もないかな、と思ったりもするのだが、私の場合は、旅行が「仕入作業」に近いので、それは生産する素材のインプットであったりする。もちろん、旅行はそれが与えてくれる刺激や環境変化によって自分自身をも変えさせてくれる。それは自分の器を大きくさせてくれるような変化である。すなわち、自分が生産するために、自分の器を広げて、そこに材料を仕入れるといったような作業が旅行なのだ。確かに先日、高校時代の友人がベルリンに来て、一緒にベルリン歩きをしたが、まあまあ記号消費的な観光をした。国会議事堂、ブランデンブルク門、ホロコースト記念碑、ポツダム広場、アレキサンダー広場、ベルリンの壁、ハッケシェ・ヘーフェ、チェックポイント・チャーリー、ユダヤ博物館を回ったのである。これらランドマークを巡って、そこで写真を撮影して、ただスタンプ・ラリーのように観光記号を消費しただけじゃないか、という批判はあるかもしれないが、この友人は「ベルリンは思ったより大都市じゃないんだ。ベルリンには高い建物が少ないんだ。ウンテル・デン・リンデンは森鴎外の「舞姫」に出てきたあの通りか。ユダヤ人をベルリンは随分と受け入れてきた過去があったから、それの反動のナチの台頭か。」など、いろいろと気付きもあったようだ。そういう気付きは必ずしも、ただの消費とは言えないのではないか、と思うのである。
 私も、今、この記事を、ポーランドを一人旅している最中に列車内で書いているのだが、ワルシャワの王宮の復元を目の当たりにして、ポーランド人の自らのアイデンティティへの執念の凄さにもう驚いたり、ワルシャワ博物館では、第二次世界大戦で破壊された旧市街地の状況をみて愕然としたり、マリア・キュリー博物館では、彼女の家族がほぼ全員、とびきり優秀であったことを知ったり、彼女のロマンスを知ったりと、はたまたワルシャワ蜂起で支援するといったロシアが裏切ることで、蜂起が失敗して皆殺しにされて、やはりロシア人は信じられないな、と思えば、ポーランド分割を正当化する論文を最近、ロシア人が書いているのを知って、やはりロシアという国は人類的に問題だな、という考えをもったりして、ポーランドを旅する前の自分よりずっと賢く、幅も広くなっていると思うのだ。
 まあ、私は町田氏に比べると、日々の生活に大した刺激もないので、そういう旅行に行って補っているというところがあるかもしれないが、それをドライブさせているのは間違いなく知的好奇心である。世の中のことを知りたい、という気持ちが旅行に行かせているのである。
一条ゆかりの『有閑倶楽部』の面々は、しょっちゅう旅行に行く。まあ、作家にとってネタがつくりやすいというのもあるが、彼ら・彼女らは旅行が与えてくれる刺激が人生を楽しませてくれるということを分かっているからじゃあないのか。確かに、旅行に行かないと日々の人生がつまらないのに問題があるんじゃないの、という指摘は一理あるかなとは思うが、それは町田康のような破天荒な人生を歩んでいる人だからこそ、その発言に重みがあるのであって、新聞記者が主張するのは違うかなと思う。中田英寿のように「人生は旅だ」という意見は違うとは思うが、非日常の刺激を得て、自分の視野を広げ、より多くの知識を知るためにも旅というのは極めて重要かなと思うのだ。
もちろん、人によって考え方が違うのはあるかなと思う。私は例えばカレーのルーは使わないし、電子レンジも使わなければ、冷凍食品も食べない。これは、料理が面倒な人には理解できないことかなとも思う。私はどうせなら美味しい料理が食べたいし、美味しい料理を知りたいし、そのために時間をかけたりすることが面倒だとは思わないからだ。むしろ、不味い料理を食べた方が、貴重な時間を損したと思う。同じことが旅行にも言えると思う。私はいろいろなところに行って、刺激を受けて、自分の脳味噌を拡張させていき、より多面的に物事を捉え、考えられる人になりたいとこの年になっても思っている。そのためには、旅行に出かけることはとても有効なのだ。そういう意味で、「人生は旅だ」とは言わないが、旅は人生を豊かにしてくれる、とは言いたいとは思う。もちろん、豊かな人生を送るのが面倒な人はそういうように生きられればいいし、そういう人にとやかく言う資格はないかなと思う。余計なお世話的な意見を言っているかもしれない。 

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