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内藤廣氏の新国立競技場の意匠に関する発言にすこぶる納得する [都市デザイン]

 現代建築家を代表するザハ・ハディドが設計した新国立競技場に関して、槇文彦氏が強い疑義を呈している。「巨大過ぎる」ことや、景観、安全性やコストの面から問題があると指摘をしている。
 一方で、このコンペの審査委員を務めた内藤廣氏は、この指摘に反論し、「これを機会に、東京を次の半世紀に向けて強くする。新しい国立競技場は奇異な形に見えるかもしれないが、これを呑みこんでこそ、次のステップが見えてくるのではないか」と提起している。
 そして、槇氏の意見表明には「全く違和感はありません」と理解を示す一方で、署名運動が組織的に広げられたことには「違和感は増すばかり」だとした。さらに、団体名で提出された署名に対しては「その団体はこのプロジェクトに対して本気で水を差す覚悟があるのでしょうか。建築家の良識とは、その範囲のものだったのでしょうか」と疑問を投げ掛けている。
 私は過大なる道路整備事業を批判したり、下北沢の空間のDNAを破壊させる道路計画を批判したり、豊洲の再開発を批判したり、ブラジリアをはじめ、基本的に近代都市計画を批判し続けてきた。『道路整備事業の大罪』なる下品なタイトルの本を上梓したり、下北沢の補助54号線の計画には反対の声を張り上げ続けたりしている。
 そのようなことをしていることもあり、都市デザイナーからは、「何でも開発反対とか言っていて、何ならつくってもいいのよ」などとの非難を受けたりもしてきた。そして、このような私を非難している団体が、今回、ザハの新国立競技場へ反対表明している。
 そういうことを考えると、私は当然、新国立競技場の設計に反対していると推察されていると思われるのだが、実は私は賛成しているのだ。このザハの提案を採用したことに対して、審査委員の見識の高さを評価しているくらいである。
 もちろん、槇さんが、問題なのはデザインではなく場所だということはよく分かる。私も、出来るのであれば、代々木ではなく、臨海副都心かどこかにつくられた方がベターであると思う。しかし、一方で、ザハの極めて秀でた意匠は、臨海副都心のがらくた建築の中では、がらくたの一つとして捉えられてしまう恐れもある。代々木というそれなりの東京の中でも落ち着いた都市景観を有している地区であるからこそ、ザハの意匠も映えるのではないかと思う私もいる。
 それでは、なぜ「何でも開発反対派」とまるで共産党の市議会議員のように非難をされる私が、この建築案を推すのか。それは、ザハ・ハディッドは、現代建築家の中で新たな都市のオーセンティシティを創造することのできる希有な建築家であること、そして、おそらくこの新国立競技場は、この天才建築家の生涯の傑作となり得ること。さらには、東京は、この天才建築家の代表作がつくられる都市としての格を有していることなどからである。
 それは、東京という都市のグローバル的位置づけをさらに浮揚させることを可能とする。そういう点では、スカイツリーとはまったく位置づけが異なる。そもそも、あんな醜悪な建築物を平気で建たせておいて、ザハの最高傑作ともいえるこの作品に反対するのは、個人レベルでの意見であればともかく、組織で行うことには、猛烈な違和感を覚える。この点では、まさに内藤氏と私は同意見である。
 内藤氏が指摘するように、「建築とは何か、建築表現とは何か、建築には何が可能なのか、というより根源的な議論が巻き起こってしかるべきなのに、語られているのは『分かりやすい正義』ばかり」の状況に私も困惑する。私はどちらかというと、建築の暴力ということに対して強い関心を抱く方であるが、スカイツリーという暴力一辺倒の建築に対して、このザハの作品は東京という都市の国際競争力を飛躍的に高める可能性を有している。
 内藤氏は、「どうせやるのなら、この建物に合わせて東京を都市改造する、くらいの臨み方がよいと思っている」と発言している。そのようなインパクトをもたらすような建築はほとんどの人が設計できないし、ほとんどの都市がつくれない。ザハがドイツのヴォルフスブルクでつくった科学博物館は素晴らしい作品であると思うが、ヴォルフスブルクという都市のポテンシャルの低さが、その建築的価値を最大限に顕在化させることを制約している。東京という世界に冠たる都市であるからこそ、この巨大なるザハの作品も存在意義を見出すことができるであろう。
 そもそも、この地区では、丹下健三の国立代々木競技場などが、その後の東京という都市の性格を規定するうえで多大なる影響を肯定的に与えたことを思い出すべきであろう。明治神宮も極めて、歴史の浅いランドマークであることを考えると、この建築を新設することで、東京という都市の新たな1頁が付け加えられることになるであろう。私は、東京オリンピックには反対であるが、このような明日を向いた建築が東京につくられることで、それなりに東京という都市が未來へ向かっていく推進力にもなると思うのである。正しい建築を正しい場所、正しい時につくることで、それはとてつもないエネルギーを都市に与える。バルセロナのサグラダ・ファミリアをはじめとしたガウディの建築群、ビルバオのグッゲンハイム博物館、マンハッタンのクライスラー・ビル、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジ、パリの凱旋門やエッフェル塔、ベルリンのシンケルによる博物館群、などがすぐ思い浮かぶ。
 このような近代・現代建築を日本の都市はどれほど有してるというのか。大阪はフンドレットヴァッサーの舞州工場と原広司の梅田ビルくらいかもしれない。東京は丹下さんの作品が幾つかあり、それらがランドマークとして東京という都市のキャラクターを形づくってはいるが、汐留や六本木ヒルズのビル群も東京に存在する必然性は強く感じさせない。
 確かに神宮外苑は東京の風致地区第1号に指定された場所である。槇さんのように、代官山ヒルサイドテラスのような素晴らしき街を計画的に時間をかけてつくりあげることに成功した建築家にとっては、巨大な国立競技場がどんと、この神宮外苑につくられ、その街のコンテクストを大きく変更してしまうことに強い抵抗を覚えるのはよく分かる。しかし、一方で、内藤さんのように、この傑出した建築作品が、その他凡庸なる建築と違い、都市のポテンシャルを浮揚させ、都市の将来への道筋を切り開くほどの力を有していることを理解し、それに期待をする気持ちはさらに分かる。そして、私は、「なんでも反対男」と私を批判している都市デザイン組織が、槇さんの尻馬に乗って、この建築に組織として反対していることに強い違和感を覚えるのと同時に、内藤さんが言うように「ザハ生涯の傑作をなんとしても造らせる、というのが座敷に客を呼んだ主人の礼儀であり、国税を使う建物としても最善の策だと思う」という姿勢を強く支持したいと思うのである。

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