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おせち料理を人々は食べなくなった? [グローバルな問題]

おそらく生まれて初めてリゾートホテルで正月を迎えた。正月の朝食はバイキング料理である。宿泊料金も特別料金となっている。さぞかし、豪勢なおせち料理が並んでいるかと思って入ると、普段と同じポテトサラダやポテトフライ、鯖の塩焼きなどが置かれている。一瞬驚いたが、よく見るとおせち料理のコーナーもあまり目立たないように置かれていた。おせち料理は、豪勢からはほど遠かったが、栗きんとん、ごまめ、黒豆、伊達巻き、かまぼこ、なますなど5〜6点ほどはあった。お雑煮も用意されていた。数の子やらエビ、鯛といった高級そうなおせち料理は置かれていなかった。ちょっとがっかりしたが、まあ正月気分がそこそこ味わえない訳ではない。

さて、そこでちょっと周囲を見回すと、多くの客がおせち料理ではなく、いつもの朝食バイキングのメニューである納豆やごはん、お味噌汁を食べていた。いや、和食ではなくクロワッサンやヨーグルトなども食べていた。これには大いにカルチャーショックを受けた。私の妻はそれほど文化的でもなく、料理も大して好きではない凡庸な人であるが、それでもこの状況には大いに驚いていた。正月はやはりおせち料理だろう。これは、私的には常識だと思っていたので、多くの人がおせち料理をしかとしている状況には愕然とすると同時に、非常に危ないものを感じ取った。ちなみに、ここのおせち料理が不味いということもあるだろうと思われる方もいるかもしれないが、他の料理も不味い。特に、クロワッサンなどの洋食はファミレス以下である。納豆なども東京のスーパーで売っているようなものから一段とレベルが低い。おせち料理を犠牲にしてまで食べるようなものでもないし、毎日出ている。

このような状況を分析するには、『下流社会』や『ファスト風土』という三浦展のキーワードが有効かと思われるが、前者はちょっと安易に使用しにくいところがある。というのは、このリゾートホテルは結構、私的には高くて、ここに宿泊したことで鼻血ぶー的な出費を強いられている。すなわち、ここの宿泊客は決して、貧しくはなく、どちらかというと裕福な階層、少なくとも私よりかは経済的には裕福であると思われるからである。三浦氏であれば、「下流」と一刀両断するだろうが、私はそれによって説明することに躊躇がある。とすると、やはり「ファスト風土」化が人々のライフスタイルの基盤でも進展しているということであろう。ここで不思議なのは、おせち料理を元旦につくらない、ということではなく、食べないということである。この日本の伝統的料理文化を敢えて拒否することで得られること、そして失うことは何なのだろうか。得られることは、個人的には何も思い浮かばない。まあ、おせち料理より美味しい物を食べたいというようなニーズがあるかとは思うが、このリゾート・ホテルに関してはおせち料理以外に提供された料理は決して美味しいものではないし、価格的により高級な食材を利用したものもない。というか、食べなくてもよければ食べない方がよいようなものである。ということで、このニーズはこの場合には該当しないと思う。すなわち、おせち料理を食べないことで得られることはほとんどないと思うのである。

一方で、失うものは何か。まずは、おせち料理という正月でしか、しかも日本でしか食べられない料理を食べないという機会を逸することは勿体ないことである。人生70年としても、70回程度しか食べる機会はない訳である。それを一回、逸することは勿体ない。あと、「一年の計は元旦にあり」という言葉がある通り、この元旦を意識するということは、新たに一年を送るうえでいろいろと気持ちを新たにさせてくれるきっかけを与えてくれる。その演出におせち料理は重要なアイテムになり、これなしでは、人生における元旦という貴重な節目があまり自覚できないのではないか、と他人事ながら心配してしまう。また、おせち料理を食べるということは、日本人としてのアイデンティティを確認することにも繋がる。グローバル化社会が進展していく中、そのような確認作業は、尖閣諸島を領土として保全するより重要なことだと思うのである。まあ、スターバックスが一番、美味しいコーヒーであると思う人が多くいる国だからなあ。しかし、そういう国は滅びると思うのである。アメリカ・インディアンはどんどんとアメリカ化してしまい、そのアイデンティティを失い、最近では保護する理由が希薄化しているが、おせち料理を食べない人がどの程度、日本人であるかというのも個人的には疑問である。こういう人達だからこそ、一生懸命、一生まともにしゃべるようになりもしない英語の勉強に貴重な時間とお金を投資するんだろうなあ、と納得する。

日本人として生まれて得をすることはそれほどないと思うが、日本語という非常に難解な言語を母国語とすることで、繊細なる言語感覚を習得することができることや、また、おそらく世界でも最も洗練された食文化を日常的に堪能できることは、すごく得だと思う。前者はともかくとして、後者ぐらい、思いっきり味わうべきであろう。そういう、大切というか有り難いものを平気で蔑ろにしていった人々の行き先を考えると非常に暗澹たるものを感じる。イオンが平気で幅を効かせられている、というのはこういう一般大衆の自国の文化に対する認識の浅さがあるのだろう。私は大学教員という仕事をさせてもらっているので、ここらへんは機会あるごとに、学生には警鐘を鳴らしたいと思う。

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