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シドニーのフランス人観光客の傲慢さに、日本人の植民地根性的卑屈さを思う [グローバルな問題]

シドニーに1週間前いたときの出来事である。ダーリング・ハーバーからフェリーに乗ろうと切符を買うために売場で並んでいた。前の客はフランス人観光客だったのだが、英語でやり取りするのに多少、苦労をした。まあ、どうにか意思疎通ができた後、彼は窓口の女性にこう言い放った。「1年後にはフランス語がしゃべれるようにしときなさい」。まあ、英語ではこう言ったのである。You should learn to speak French within a year. 私は思わず頭に血がのぼったね。「オーストラリアにいるんだから、お前が英語をしゃべれるように努力しろ!」と心の中で激怒しましたよ。とはいえ、私が怒るのも素っ頓狂な話なので、窓口の女性に「日本語しゃべれます?」とフランス人に聞こえるように言うに留めた。その女性は苦笑をしたので、「フランス人の傲慢さには辟易するよね」とまた聞こえるように言ってやった。英語をしゃべれるようにすることが必要ではないが、その観光地に行ったらその国の言葉をしゃべれるようにしておくべきだ。オーストラリアに来ているんだから英語でしゃべろよな、英語で。そもそも、フランスなんてオーストラリアの観光客の中ではランキングは下の下である。日本人観光客の方がはるかに上客なので、フランス語なんかを習う暇があれば日本語をしゃべれるようになった方がフェリーの窓口という仕事上はるかにメリットが多い。私がこのフェリー会社の上司で部下がフランス語を勉強しようとしたら、言うね。「お前、フランス人なんかそもそも数が少ない観光客でしかも金払いが悪い奴らの機嫌を取らずに、ニュージーランド人の次に多い日本人観光客のサービスを向上するために日本語を勉強しろ、日本語を」。参考までに短期のオーストラリアの観光客が多い国順を並べると、ニュージーランド、日本、イギリス、アメリカ、中国、韓国、シンガポール、マレーシア、香港、ドイツとなり、フランスはベスト10にも顔を出さない。日本語が嫌なら、中国語、韓国語をフランス語の前に勉強すべきであるし、漢字がいやならドイツ語を勉強した方がまだましである。

まあ、そういうことで腹が立った思いをしたのだが、ふと思い出したのは、数週間前に東京の私の大学のそばにある喫茶店キャロルでまったくこのフランス人の観光客と違う意味で腹立たしい、というか情けない話を聞いたことである。それは、3人のOLと思しき日本人女性と1人のドイツ人女性との会話であった。この4人グループは同じ外資系の会社で働いているようであった。ドイツ人の女性はどうも幹部らしく、部下の日本人と英語でのコミュニケーションがうまく取れないので悩んでいるらしかった。その理由は、部下の日本人の英語が下手であったからだ。ドイツ人の女性は、比較的シドニーのフランス人観光客よりはまともな国際的感覚を有しているらしく、まあ、日本で仕事をしているのだから私が日本語でしゃべれるようにならなくてはいけないのかもしれないわね、というようなことを英語で言っていた。聞き耳を立てていた私は、「当たり前だろう。そもそも喫茶店キャロルに来るという時点で英語で用が済むと思うなよな」と心の中で思っていると、周りの3人の日本人女性が「とんでもない、あなたがそんな努力する必要はないのよ。部下の彼が英語ができないのがいけないのよ。あなたには何も悪いところはないわ」と、ノーノーノーという感じでこの至極真っ当な意見を否定したのである。私は、とてつもなく呆れたね。これが日本人でなくて、中国人、イタリア人といった外国人であったら、「日本を舐めるんじゃない!」と激怒するところであろう。この感情は読者とも共有できることだと思われる。しかし、これが同朋の日本人から出てくるというところは、非常に不可思議な現象である。

グローバル化というのは、経済だけではなく文化的対立をも引き起こしている。アメリカ、イギリスが「英語」という資源で国際化を図り、様々な点で自分たちが有利な状況をもたらそうとしていることは明かである。私は1997年にマレーシアに一年近く滞在していたが、その時、自国の文化が外国の文化に蹂躙されることが、いかに悲惨な状況に置かれるものなのか、自国の言語が弱いということがアイデンティティの形成をいかに育てることを困難にさせるのか、を痛切にみてとった。日本人は1億2千万という人口に日本語をはじめとした相当、しっかりとした独自の文化を持っている。とはいえ、こんなに日本語を大切にしないで、英語があたかも日本語よりも上位にあるような感覚を持つ国民が増えてきたら、まずい状況になるな、と思う。どこの言葉がより優れているか、ということは言語学者でない私がいい加減には言えないことであるが、漢字という極めて優れた表語文字を活用しつつ、カタカナ、ひらがなまで駆使して表現する日本語のコミュニケーション能力は極めて高いものがある。それだけでなく、敬語の表現力なども日本語は英語に比べてはるかに豊かである。少なくとも、日本の文学、芸術、歴史を語るうえで日本語に勝る言語はないであろう。そういう日本語を、日本で生活して仕事をしている外国人は、むしろ学び、可能であれば話せるようにアドバイスした方がはるかに親切である。英語だけでは、理解できないことも多くあるし、日本語を学ぶことでその人の視野も広がる。私はスペイン語を勉強した時、教科書を通じて、スペインやラテンアメリカの歴史、国情、風習なども知ることができた。ゴヤやサルバドール・ダリがどうしてスペインで英雄的な芸術家として位置づけられているのか、トレドの町の美しさなどを知ることができた。それは、私の幅を広げることになったと思われる。だから、日本語を覚える必要ないのよ、と言った日本人女性はドイツ人の上司にとって、親切なようで不適切なアドバイスをしていたと思われる。あと、もう一つは、この日本人3人はさすが外資系で勤めているだけあって、まあまあ流暢な英語をしゃべってはいたが、所詮、外国人の英語である。日本人の中では、うまいかもしれないが、ネイティブの中では、変な訛りの英語をしゃべる外国人でしか位置づけられない。所詮、一流にはなれないのだ。せいぜい、英語世界では二流人としてしか生活することしかできない。日本という枠組みの中でしか、自分の優位性が確保できていないということをもっと痛切に自覚した方がいいだろう。

私はこの原稿をカリフォルニアのセントラル・バレーで書いている。カリフォルニアには3500万人の人口がいて、そのうち1700万人は英語が母国語ではない。カリフォルニアでは、英語しかしゃべれないこと、他国の文化への意識、気配りがないことは教養の無いことだと思われている。アメリカから外に出て、英語だけで通そうということが、いかに教養のなく、文化的に無思慮なことであるか、ということは少なくともカリフォルニアの教養人からすれば当然のことである。カリフォルニアの詩人ゲーリー・シュナイダーは多くの知恵を日本語の言葉(漢字である場合が多いが)を理解することから学んでいる。アメリカ人はむしろ日本語を学ぶべきだと思う。少なくとも日本で仕事をしているなら、日本語を勉強した方が本人にとって非常に役に立つと思うのである。まあ、日本人の3人女性は、ドイツ人女性にとっても損になることを言っているのと同時に、自分たちの文化も辱めたのである。そして、唯一、持ち上げた英語も、自分たちが否定している日本という枠組みがなくなったら、立ち位置も失ってしまうのである。そういうことを自覚しないことは、心底、恥ずかしいことではないだろうか。

フランス人の観光客も、この喫茶店での日本人女性3人もどちらも恥ずかしい。しかし、どちらがより恥ずかしいか、というと自国の言語を拡張させようとしたフランス人観光客の傲慢さの方が、自国の言語を学ばなくてもいいわよ、と外国人に言う日本人の卑屈さ(この場合、日本語には卑屈な意識を抱いているが、自分たちは優越意識を持っているというところが極めて複雑ではあるが)よりかはましなのではないか、と思った次第である。フランス人のせいで、嫌なことを思い出させられて、二重に不愉快な思いを味わってしまった。


タグ:無駄な英語
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