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『ル・コルビュジエと日本』鹿島出版会 [書評]

本書は1997年に建築会館ホールで開催された国際シンポジウム「世界の中のル・コルビュジエ – ル・コルビュジエと日本」の全発表を収録した報告書である。私はル・コルビュジエの作品群の素晴らしさが分からない。感性的にはまったくダメだ。ラ・トゥーレットの修道院などは、巨大な墓のような不気味さを感じてしまい、子ども時代にガスタンクを観て怯えた記憶を蘇らせるぐらいだ。内部空間は素晴らしいのかもしれないが(内部に入ったことはない)、外部空間は環境破壊のようにさえ感じられる。私がこのそばに住んでいたら、強力にその建築に反対するであろう。ロンシャン教会も訪れたことがあるが、その意匠は醜悪なカタツムリといった感想を抱いている。また、訪問者の半数が日本人であったことも驚きであったが、同じように曲線的な意匠のガウディとは比べものにならないデザインの今ひとつさ。これは、コルビジェの弟子のオスカー・ニーマイヤーと比べても大きく劣る、というのが私の正直な感想である。ベルリンに今、住んでいて、ベルリンにはブルーノ・タウトなどによる多くのモダニズムの建物があるのだが、それと一緒にル・コルビュジエの集合住宅もある。そして、どうしても私はル・コルビュジエの集合住宅よりブルーノ・タウトなどの集合住宅の方が好きなのだ。どちらに住むかといえば、間違いなく後者である。いや、家賃が2割ぐらいだったらル・コルビュジエのユニテ・ダビダシオンに住むことを検討するかもしれないが。日本で唯一の作品である国立西洋美術館も、まったくいいと思わない。これをみて、恰好いい!と思う人がいるとしたら、本当、変わっているな、と思う。しかし、おそらく、実は私の方が変わっていて、私の方が間違っているのである。そのようなコンプレックスのような意識を私は有している。したがって、その感性を修正するために、理性で抑えようと意識しているところがある(それが、多くのコルビジェの作品を見に行かせたり、このような本を読ませたりする理由だ)。
 本書はル・コルビュジエの日本人の師弟である前川国男、坂倉準三、吉坂隆正を中心として、孫弟子ともいえる丹下健三の建築思想などを、槇文彦、磯崎新、藤森照信など大御所建築家、研究家が語るという内容である。本書には関連する建築の写真がいくつか掲載されているのだが、どうみてもル・コルビュジエの作品より丹下健三、前川国男、坂倉準三、吉坂隆正の作品の方が、出来がいいと思えてしまう。そして、前から思っていたのだが、ル・コルビュジエのスケッチは下手だ。というか、ヘタウマという解釈はできるかもしれないが、これをみて、おお!素晴らしいと先入観なしに思う人とかが果たしているのだろうか。私が、このスケッチを見せて、こんなの考えているんだけど、と誰かに見せたら「お前のスケッチ、下手すぎ」とディスられると思う。
 何人かの報告内容を見て、磯崎新のそれを読んで、少しだけ私が共有できるようなものがあるかな、と感じた。もちろん、政治的な磯崎新であるから、私のようにストレートな批判ではないが、遠回しに、批判をしていることが読み取れる。個人的には、ル・コルビュジエが桂離宮をみた後の感想が「日本人は壁をつくることを知らない」と言ったことや、モダニズムの建築を非常に勉強していたことなど(すなわち、それほどオリジナルな考えではないこと)に興味を引かれた。
 ベルリンにいると、ブルーノ・タウトやグロピウスに比べてル・コルビジェの存在感が恐ろしく低い。これは、おそらく日本が欧州の近代建築を輸入する時、前者のモダニズム的なものも含めて、ル・コルビュジエが代表してしまったことがあるのかな、と考えたりもする。    
 まあ、これを読んだ人は、また物を知らない馬鹿が適当なことを述べている、と思われるかもしれないが、そういう人は、家のそばの丘にラ・トゥーレットができたら、素晴らしい建築作品が出来て嬉しいと思うのだろうか。サグラダ・ファミリア、エルプフィルハーモニー、シドニーのオペラハウスなどの建築の名作と、それとはまったく違うと思うのは、私が無知だからであろうか。いちおう、釈明としては無知だという前提のもと、勉強は続けています。


ル・コルビュジエと日本

ル・コルビュジエと日本

  • 出版社/メーカー: 鹿島出版会
  • 発売日: 1999/03/01
  • メディア: 単行本



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